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5 恐山古道

釜臥山山懸けルート

釜臥山(かまふせやま/かまぶせやま)は約90万年~70万年前に活動し、ガメラレーダーのある頂上付近は溶岩ドームです。
山頂からの眺望は素晴らしく魅力的なコースです。
「山懸け(やまかけ)」は釜臥山嶽大明神に登拝する行事で、陸奥湾岸の兵主(ひょうす)神社から観音堂、不動岩、胎内潜り(たいないくぐり)、薬師天、大黒天などの大岩を経て頂上を目指します。
前代には正津川河口付近にある光主神社からの登拝もあったようです。

古道を歩く

写真は、浜奥内(はまおくない)漁港(むつ市)から見た釜臥山(恐山奥の院)で、山頂には巨大なガメラレーダーが設置されています。
斜面の灰色の部分はスキー場で、ここからも登れます。

釜臥山への「山懸け」と呼ばれるお山参詣は、少なくとも江戸時代のころから夏に行われていたようです。
明治以前の山域は神聖な領域とされ、この山の別当(神主)である大覚院の先達(案内)がなければ、立ち入りができなかったといいます。
山懸けの出発点となった兵主(ひょうす)神社(むつ市大湊上町28-1)は海岸沿いにあり、大湊駅から徒歩15分(1.2㎞)のところです。
オリジナルな山懸けのルート(観音堂コース)は、兵主神社から水源池公園の辺りを通り、さらに大湊中学校付近の沢沿いを上がっていき、観音堂にお参りをしてから鳥居をくぐり神域に入りました。
現在の一般的な釜臥山登山ルートは、水源池公園北駐車場を利用し、七面山(しちめんざん)(535m)を経て頂上に向かうコースです。

これから紹介するコースは、山懸けコースを含めて釜臥山山行を楽しむコースで、水源池公園北駐車場から出発します。
駐車場から直線距離にして約2㎞のところに観音堂(標高355m)があります。
その近くにある第一鳥居を潜ると山懸け道の始まりです。
山懸けの参加者たちは、ここで山懸け唱文「サンゲ(懺悔)、サンゲ六根サンゲ、オ山(御山)ニ八大金剛童子(はちだいこんごうどうじ)、イチイチ(一々)礼拝南無帰命頂来」を唱え出発しました。童子とは大日如来(密教の本尊)の化身とされる不動明王の眷属のことです。抱山別(だきやまわかれ)(標高500m)を経て約40分で仁王岩(標高610m。仁王とは仏教護持の神)です。

この辺りからミズナラが増え始めます。
仁王岩から約30分で不動岩(標高710m)に着きます。
山懸けでは、この巨岩の周囲をサイギサイギを唱えながら、三度回っていたようです。
岩の周辺で貨幣「寛永通宝」を見かけることがあります。
この辺りから低木域となり視界が開けてきます。
岩場を登っていくと、上のほうに大日天が見えてきます。

不動岩から約20分で標高760mの行者岩(テーブル岩)に着き、さらに急登を登っていくと「胎内潜り」です。

「胎内潜り」は下の方の穴で、出るときに「オギャーオギャー」と産声をあげると無垢な人間に戻れるそうです(山懸けの際は、下山の時に通過したようです)。

この「胎内潜り」の辺りが大日天です。
第1ガレ場(展望所)に出ると、薬師天の大岩が見えてきます。
第1ガレ場を横断すると薬師天で、大岩の根元には古銭がたくさん残っています。
ここからは陸奥湾の「芦崎の砂嘴」と砂嘴内に停泊している海上自衛隊大湊基地の護衛艦が大きく見えます。
この砂嘴は、釜臥山から流された土砂が陸奥湾の沿岸流に運ばれてできたものです。
テーブル岩<行者岩>から薬師天まで約30分です。

薬師天からの急登を約10分登ると大黒天で、そこから約15分で巨大なガメラレーダーが設置されている山頂(879m)に着きます。
山頂では、釜臥山嶽大明神と釈迦如来が迎えてくれます。

山懸けの際は、釜臥山嶽大明神のお堂の周囲を一行で「南無阿弥陀仏」を唱えながら三度回っていたそうです(『青森県史 民俗編 資料下北』)。
こうしたことから、山麓の観音堂、山頂付近の薬師天、そして山頂での称名(南無阿弥陀仏)に、熊野三所権現(くまのさんじょごんげん)の本地仏(千手観音菩薩、薬師如来、阿弥陀如来)が認められるといわれています。釜臥山は、熊野と同じように浄土とみなされていた時代があったのかもしれません。
人々は現世と来世の安穏、極楽浄土を祈願して山懸けを行ったものと思われます。
頂上からは、「下北ジオパーク」エリアの一部(田名部平野、尻屋(しりや)崎、大湊・芦崎の砂嘴)が俯瞰できるとともに、鯛島(むつ市脇野沢)の奥に津軽半島の大倉岳や袴腰岳、小川原湖、宇曽利山湖、北海道など360度のパノラマを楽しむことができます。
宇曾利山湖から釜臥山を見ると、その山容が極楽浄土へ迎えに来た「山越阿弥陀(やまごえあみだ)」のように見えます。
写真は山頂から見た田名部平野(むつ市)とその夜景です。
この夜景(愛称は「光のアゲハチョウ」)は、世界夜景遺産(国内初)に認定されました。
また、山頂には山懸けの際に登拝者たちが持ち帰ったトウキ(当帰)が自生しています。

帰りは、スキー場コースや水源池コースを利用することもできます。
約1時間で七面山に着きます。
七面山から少し引き返すとトラバースルート入口(観音堂コースまで1㎞)があり、約50分で観音堂です。
この他に七面山から水源池公園へのコースもあります。
紹介したルートは、むつ山岳会の方々のご尽力により整備されています。
岩場の多いコースですが、中腹にはシラネアオイの群落があります。
また、むつ市内の飲食店(限定)では、海上自衛隊大湊基地の「大湊海自カレー」を提供しています。
「護衛艦ちくまカレー」など、各部隊の個性的な味が楽しめます。

古道を知る

下北半島の形成

20万年前の下北半島は二つの島(恐山山地と下北丘陵)に分かれていて、その間を西からやってきた海流が縦横に流れていました。恐山山地の西側は強い海流に浸食されて、仏ヶ浦のような切り立った断崖が続く直線状の海岸になりました。断崖を作る地質は、1500万年前に堆積したグリーンタフ(緑色凝灰岩)です。
その後、13万年前の海面の高い時期に、二つの海峡(恐山山地と下北丘陵、下北丘陵と野辺地)を埋めるように砂洲が延びました。それによって田名部平野は陸地となり、下北丘陵も野辺地から延びてきた砂洲とつながって、マサカリの柄ができました。
(『日本の自然風景ワンダーランド』小泉武栄)

釜臥山の地質

恐山山塊で最初の噴火は朝比奈岳(約145万~118万年前)で、100万年前に大尽山と円山が活動し、釜臥山と障子山は90万年~70万年前(特に80万年前が活動の中心)に活動しました。
ガメラレーダーが乗っかっている頂上付近は溶岩ドームです。
山頂付近まで上がってきたマグマが流れ出ることなく、ゆっくりと冷えていったので薬師天や大黒天、大日天のような大きな岩体が残ったものと考えられています。

山懸け

(1)江戸時代からの山懸け
釜臥山山頂(恐山奥の院)に釜臥山嶽大明神が祀られたのは、明暦3年(1657)と伝えられています。
「山懸け」とは、この釜臥山山頂の嶽大明神の小祠に参詣する行事(目的は五穀豊穣や豊漁、村内安全、心身鍛錬などの現世利益)のことで、江戸時代のころから行われていたようです。
江戸時代末期、円通寺と密接な関係にあった大覚院が釜臥山に勢力を伸ばすと、先達(案内人)のいない登山は認められず、登拝習俗も女人禁制、別火、垢離など修験色の強いものになっていったようです。

(2)山懸けの変遷
「山懸け」は、戦前には山麓部の村々をはじめ、川内町・大畑町・東通村の村落も参加していました。
観音堂から入るのが一般的なルートでしたが、大畑町方面の人々は正津川河口にある優婆寺(光主神社)より恐山に登り、さらに屏風山・北国山を経由して釜臥山に登っていました。
やがて昭和40年代になると「山懸け」は廃れはじめ、3集落のみとなりました(昭和51年時点)。

(3)山懸けの様子
以下は「山懸け(昭和~平成)」の様子です。
参加者は、一週間前から兵主神社に泊まり込み、別火精進することが一般的でした。やがて中学生が多くなったため、神社に寝泊まりしますが食事は各家でとるようになりました(朝夕二回、食前に海に入って垢離をとる)。
前日の夜に稲荷神社(産土神)に集合し、浜で垢離行をした後に稲荷神社に戻って仮眠をとりました。
翌午前0時頃に大湊上町の兵主神社にお参り(大覚院熊野神社の別当の祭祀)し仮眠。午前4時頃に山懸けの出発点である大湊の兵主神社(頂上に祀られている釜臥山嶽大明神と対になる釜臥山下居(おりい)兵主大明神を祀る)を出発し、観音堂にお参りしました。
観音堂のすぐ近く(上の方)にある第一鳥居から先が神域となります。
先達の音頭で山懸け唱文「サンゲ(懺悔)、サンゲ六根サンゲ、オ山(御山)ニ八大金剛童子(不動明王の8人の使者)、イチイチ(一々)礼拝南無帰命頂来」を唱えてから山懸け道を登り始めました。
小祠が祀られている不動岩では、その周りを三度廻り、懸け念仏を唱えました。さらに進むと薬師が祀られている小祠ですが、そこでも懸け念仏を唱え、持参した幣帛(へいはく)のうち小さい方を奉納しました。
薬師の懸け所から道は左右二手に分かれ、一般には左手の「籠山」の道を登ったようです。
登頂すると、まずお堂の周りを三度巡って懸け念仏を唱え、灯明をつけて幣帛・オサゴ(散米:邪気を払うため、また神饌として神前にまき散らす米)・お神酒を供え、ご来光を拝み下山となりました。途中、ひと一人がやっと通れるような「胎内潜り」の懸け所を潜りました。
下山の際、登拝した人々はトウキ(当帰)を持ち帰りお世話になった方々に配っていたようです。
釜臥山に自生するこの植物(セリ科の薬草)は、陰干しにして薬や防虫剤として用いられていました。

深掘りスポット

恐山火山

恐山火山は、青麻-恐火山列(青麻山-七ツ森山-七時雨山-恐山-恵山)という東北日本弧火山フロント(海溝に一番近い火山)を代表する火山と考えられています。
恐山山塊で一番最初の噴火は朝比奈岳(約145万~118万年前)で、約100万年前に大尽山と円山が活動し、釜臥山と障子山は約90万年~70万年前(特に80万年前が活動の中心)に活動しました。
約50万年前から20万年前にかけて宇曽利カルデラを中心とした恐山火山の活動があり、この時に宇曽利カルデラを形成する大噴火(約27-8万年前)があったとされています。
その後恐山は、約10万年前の活動を境に溶岩を出す活動はなく、約2万年前に鬼石のところで水蒸気爆発がありました。
なお、約120万年~100万年前および約70万年~50万年前の恐山火山休止期に北側の陸奥燧岳が活動しており、それらは交互に活動していたようです。
現在の恐山は、宇曽利山湖の周辺に背丈を凌ぐ奇岩・奇石があり、至る所に熱湯が湧きでています。
また、水面には湖底から噴出する蒸気が幾重にも小さな波紋を作り、湖水(強酸性)にはウグイが棲みついています。

恐山と下北ジオパーク

恐山山塊を始めとするマサカリ形の下北は、「日本ジオパーク」に認定されました(2021年2月)。
この地域には、寒立馬で知られる尻屋崎(2億年ほど前に堆積した下北最古の大地)や、恐山山塊が島だった時代に強い海流に浸食されてできた仏ヶ浦の奇勝など、注目を集めているスポットがいくつもあります。
下北ジオパークは、全18エリア(芦崎の砂嘴、田名部平野、尻屋崎など)に様々なジオサイトがあり、貴重な景色や文化に触れることができます。以下の①〜⑱がそのエリアで、釜臥山山頂からは①〜④が確認できます。
①恐山
②大湊・芦崎:砂嘴は、恐山山塊から流れ下った土砂が、海岸に沿うように流れる海流(沿岸流)によって運ばれ形成されました。
③田名部平野
④尻屋崎:1億5千万年ほど前に付加した古い地層と寒気と粗食に耐える寒立馬(かんだちめ)を見ることができます。寒立馬(青森県の天然記念物)は、南部馬の系統で足が短く胴が長くて、ずんぐりしています。1995年(平成7)には9頭まで激減しましたが、保護政策により回復してきています。
⑤薬研
⑥ちぢり浜
⑦風間浦
⑧大間崎
⑨津鼻崎
⑩佐井
⑪仏ヶ浦
⑫焼山崎
⑬脇野沢・鯛島
⑭野平
⑮川内
⑯北部海岸
⑰猿ヶ森砂丘
⑱中野沢

まつわる話

【恐山古道共通】

霊場恐山の由来

《『恐山と下北(ほっつき歩記)』(森本守)より》
名僧慈覚大師(円仁)が唐の五台山で修行のある夜、夢の中に一人の聖僧が現れ、日本の都の東方に地獄のさまを呈し、しかも万病に効く温泉が湧いている霊山がある。
帰国後は此の地を訪れ、地蔵尊一体を刻して、お堂を建て仏事に励むようにと告げて消え去った。
目を醒ました大師が辺りを見廻すと、室内に香気が立ち込め、不思議なことに机上には一巻の地蔵経が置かれていたという。
帰国後、教えに従って東北地方に霊場を尋ねた大師は、山野を歩いて、ついに本州最北の地に到った。
ある日、道に迷っていると、一羽の鵜が魚をくわえて飛びゆくのが見えた。
必ずや水があると思って奥へと進むと満々と水をたたえた宇曽利山湖を発見したのであった。
附近の荒涼たる様子は、さながら地獄を見るようであり、また豊かに湧く温泉は、これこそ捜し求めた霊山であったのだった。
大師はお告げに従い、その中に地蔵尊一体を刻し、その中に持ち帰った地蔵経を納めて一宇を建立して祀り、今日の地蔵堂の基を開いたのであった。
時に貞観四年(862)のことであったという。
(むつ市役所資料より引用)

優婆寺の伝承

《優婆寺案内板にある「正津川橋と優婆寺」より》
昔(今から約1200年前)恐山「三途の川」の橋のたもとに天台宗の名僧慈覚大師円仁作と伝えられる優婆夷像がお堂に安置されてあった。その優婆様のお堂が、湖の大洪水により正津川の橋まで流されて着くことが3度もあった。
そのつど恐山に返しましたが、またも若木の松の木と一緒に流されて来たので、村人は優婆様を拾い上げてお寺に安置し、若木の松は「うばの松」として近くの民家の畑に植えられました。

ルート

(水源池公園北駐車場→観音堂→山頂→七面山→観音堂→水源池公園北駐車場)
水源池公園北駐車場
↓(40分)
観音堂
↓(40分)
仁王岩
↓(30分)
不動岩
↓(20分)
行者岩
↓(15分)
胎内潜り
↓(15分)
薬師天
↓(10分)
大黒天
↓(15分)
釜臥山山頂
↓(60分)
七面山
↓(50分)
観音堂
↓(40分)
水源池公園北駐車場
【約5時間40分】

参考資料

【恐山古道共通】
『青森県史(民俗編 資料下北)』2005年
『青森県史(資料編 近世4)』2003年
『むつ市史(民俗編)』昭和61年
『むつ市史(近世編)』昭和63年
『大畑町史』1992年
『川内町史(民俗編・自然Ⅰ)』1999年
『川内町史(近・現代、林野、教育)』2001年
『脇野沢村史(民俗編)』昭和58年
『東通村史(民俗・民俗芸能編)』平成9年
森嘉兵衛『岩手県の歴史』山川出版社、1972年
とよだ時『日本百霊山』山と渓谷社、2016年
宮本袈裟雄・高松敬吉『山と信仰 恐山』佼成出版社、平成7年
月光善弘編『東北霊山と修験道』名著出版、昭和52年
速水侑『観音・地蔵・不動』講談社、1996年
西海賢二・時枝務・久野俊彦『日本の霊山読み解き事典』柏書房、2014年
青森県高等学校PTA連合会下北文化誌編集委員会『下北文化誌』青森県高等学校PTA連合会下北文化誌編集委員会、1990年
九学会連合下北調査委員会『下北-自然・文化・社会-』平凡社、1970年
楠正弘『庶民信仰の世界-恐山信仰とオシラサン信仰-』未來社、1984年
小松和彦『鬼と日本人』角川文庫、平成30年
飯倉義之『鬼と異形の民俗学』ウェッジ、2021年
森本守『恐山と下北(ほっつき歩記)』昭和63年
森本守『下北半島(四季のうつろい)』平成2年
東奥日報社『あおもり県の鳥とけものウォッチング』平成2年
速水侑『地蔵信仰』塙書房、1975年
「大正三年測圖」(内務省)
松田広子『最後のイタコ』扶桑社、2013年
内田武志・宮本常一編訳『菅江真澄遊覧記3』平凡社ライブラリー、1968年
東通村教育委員会『奥州南部小郡田名部目名村不動院』東通村教育委員会発行
下北の歴史と文化を語る会編『下北半島の歴史と民俗』伝統と現代社、1978年
柴田純『日本幼児史』吉川弘文館、2013年
森山茂樹、中江和恵『日本子ども史』平凡社、2002年
富岡一郎『下北地方史話』青森コロニー印刷、1981年
支倉清、伊藤時彦『お稲荷様って、神様?仏様?』築地書館、2010年
多賀康晴『立山における地蔵信仰』富山県[立山博物館]研究紀要第23号
安田喜憲『山岳信仰と日本人』NTT出版、2006年
小泉武栄『日本の自然風景ワンダーランド』ベレ出版、2022年
下北ジオパーク推進協議会『みんなの下北ジオパーク』下北ジオパーク推進協議会、2022年
宮家準『霊山と日本人』講談社、2016年
合田一道『松浦武四郎 北の大地に立つ』北海道出版企画センター、2017年
中村博男『松浦武四郎と江戸の百名山』平凡社新書、2006年
松浦武四郎『東奥沿海日誌』時事通信社、昭和44年
田口昌樹『菅江真澄読本3』無明舎出版、1999年
石井正巳『菅江真澄が見た日本』三弥井書店、平成30年
司馬遼太郎『菜の花の沖(4)』文藝春秋、2000年(新装版)
圭室諦成『葬式仏教』大法輪閣、1963年
『恐山史料の再発見(宇曽利山由緒)』青森県立郷土館研究紀要<第46号>、2021年
梅原猛『地獄の思想』中公新書、昭和42年
清水邦彦『お地蔵さんと日本人』法藏館、2023年
村上義千代『あおもり110山』東奥日報社、1999年
縄田康光『立法と調査 No260「歴史的に見た日本の人口と家族」』2006年
畑中徹『恐山の石仏』名著出版、1977年
笹澤魯羊『下北半島町村誌(上巻<復刻>)』名著出版、1980年
下泉全暁『密教の仏がわかる本』大法輪閣、2019年
藤沢周平『春秋山伏記』新潮社、昭和59年
『うそりの風(第9号)』(うそりの風の会 会長 祐川清人)
宮本袈裟雄『天狗と修験者』法蔵館、2023年
平岡聡『禅と念仏』角川新書、2024年

協力・担当者

【恐山古道共通】
《協力・担当者》
【原稿作成】
遠藤智久
【ルート図作成】
鈴木幹二
【協力者】
田中武男/下北ジオパーク推進協議会副会長(調査当時)
むつ山岳会/会長 前田惠三
酒井嘉政/郷土史研究家
佐藤衞/むつ市教育委員会川内公民館
若松通/むつ市立図書館大畑分館
鈴木久人/泉龍寺住職
新井田定雄
熊谷慎吉/東奥日報社
工藤文一/デーリー東北新聞社
(敬称略)

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