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5 恐山古道

正津川口ルート

このルートは、優婆(うば)寺(浄土宗)を起点に正津川に沿って進むルートです。
優婆寺の境内には多くの地蔵尊が並び、墓地には『菜の花の沖』(司馬遼太郎)に登場する川口寅吉(択捉島で漁業に従事)が眠っています。
また、江戸後期の旅行家菅江真澄もここを訪れました。
優婆寺から関根橋までは右岸に沿って進み、以後は宇曾利山湖まで左岸を進みます。下小川までは小さな石仏が迎えてくれます。そこから先は現在通行止め(車)となっています(歩行は可能)。

古道を歩く

正津川は宇曾利山湖から流れ出る唯一の川で、ウグイ(淡水棲で強酸性でも生息可能)が中流域まで生息しているようです。
正津川口のルートは、正津川の河口にある優婆(うば)寺が起点となります。
優婆寺(浄土宗)本堂には、阿弥陀三尊仏と慈覚大師作と伝えられる恐山信仰仏の「優婆夷像(奪衣婆)」があります。
320年以上も昔から霊場恐山と関わり、信者は恐山に入る前に、必ず立ち寄ってきたという寺院です。
境内には、大本山増上寺千躰地蔵尊分院の地蔵尊が並んでいます。


ここには、菅江真澄も立ち寄っていて、1797年(寛政5)の紀行文『牧の冬枯』)には、「お堂には優婆夷像(奪衣婆)が安置されている。恐山三途の川より流れてきた慈覚大師がたましいをこめて作った尊い仏様である」と書かれているそうです。
また墓地には、川口寅吉(大畑町出身)の墓があります。
彼は、約200年前に択捉島を主とする漁場を開拓し、近藤重蔵、間宮林蔵、高田屋嘉兵衛らと活躍した人物です。
『菜の花の沖(第四-択捉十五万石-)』(司馬遼太郎)には、幕末の下北の様子(修験の活動など)とともに紹介されています。
優婆寺からは正津川の右岸に沿って生活道路(途中では古道も確認できる)を進み、関根橋を渡って間もなくすると関根橋集落に着きます(徒歩で約90分)。
集落の外れに、7体の地蔵菩薩像と「外山道・恐山道」と刻まれた追分石があります。
これらは、バイパスから関根橋集落への新道が開削(昭和40年代)されたときに、旧道から現在地に移されたようです。
当時、この新道の北側に大畑方面から外山長根付近を通って関根橋集落の北側を経由し参詣道に合流する旧道があったともいわれています。
また、関根橋集落付近では、「北限のニホンザル」をよく見かけます。
このサルの特徴は、体がひとまわり大きい。体毛が長く、発生密度もきわめて濃い。赤血球が大変多いという、温帯性動物でありながら寒帯にも適応できる体になっていることです。

関根橋集落から左岸を約500m進むと林道入口です。
そこから2.3㎞進むと下小川に架かる橋と案内板があります。
この橋から先は、豪雨による土砂崩れのために通行止め(車)になっています(2022年10月現在)。
また、案内板の手前に「六体地蔵」があります。
下小川から正津川(左岸)沿いに宇曾利山湖を目指します。
上小川では3体の地蔵尊が迎えてくれます。

古地図を見ると、この付近に水力発電所があり、また旧恐山道(尾根道)への道があります。
上小川から約50分で八滝に着き、正津川の美しい急流(小滝群)を楽しむことができます。

そこから約80分で県道4号と合流し「恐山橋」を渡ります。
その後は正津川周辺の荒涼とした風景を眺めながら進んでいくと、地蔵尊が迎えてくれます。
この地蔵尊は、亜硫酸ガス(二酸化硫黄)の影響なのか石像が変色し、貨幣が腐食しています。

間もなく田名部道と合流し太鼓橋に出ます。
関根橋集落から徒歩で約3時間、河口からは約5時間のルートです。
また、『山と信仰 恐山』(宮本袈裟雄・高松敬吉)によると、大畑方面の人々は、恐山菩提寺だけではなく、さらに屏風山・北国山を経由して釜臥山にも登頂していたようです。
優婆寺の近くに光主(こうしゅ)神社がありますが、案内板(『光主神社の由来(むつ市教育委員会)』)に「天和三年(1683)に釜臥山嶽大明神を勧請し、大湊の兵主(ひょうす)神社とともに釜臥山下居(おりい)大明神とも言われて、ともに釜臥山の登山口であった。明治の神仏分離令により光主神社と改められた。」とあります。
釜臥山は、大尽山(おおづくしやま)とともに優婆寺(むつ市大畑町)付近からもよく見えます(写真D⑮1398)。
釜臥山への登拝が許されている期間(6~7月)には、兵主神社(むつ市大湊)とともに釜臥山登山口であった光主神社に参詣者が集まり、「禊」を行って山頂を目指したそうです。

古地図には、宇曽利山湖南岸にある湖畔第一休憩点(一ノ渡と小尽川の間)付近から南東方向にある646m峰(屏風山と荒川岳の中間)付近(「かまふせパノラマライン」)に出て釜臥山に向かうルートがあります。
そして、頂上付近で西へトラバースして兵主神社からのコースと合流し山頂に向かっています。
この道は、大畑方面(太平洋)から恐山菩提寺を経て奥の院(釜臥山)に至る主要な道であったかも知れません。現在は、荒れているため歩行が困難です。
写真は心光寺(むつ市大畑町)にある三十三体の観音像です。
もとは大畑方面からの登山口にあったと伝えられています。

この古道を歩くにあたって

下小川の橋から先は、豪雨による土砂崩れのために通行止め(車)になっています(2022年10月現在)。

古道を知る

『山と信仰 恐山』(宮本袈裟雄・高松敬吉。佼成出版社)によると、正津川口は、優婆寺で先祖供養をすませた後に、恐山へ登拝するルートとして利用されていました。
正津川河口から川に沿って車道を関根橋集落まで歩いてゆくと、一部旧道が確認できます。
大畑地区の参詣者は、イカツケ(烏賊釣り)漁など漁業に従事する人が多かったので、他の地区とは異なり、大漁祈願をかねた男性の登拝が多くみられたといわれます。
大間町方面からの恐山参詣者も、かつてはこのルートを通りました。

一方、かつては大畑口が恐山参詣のメインルートであったという伝承もあるそうです。
『山と信仰 恐山』には、大畑から歩いて17分ぐらいで外山流(そとやまながれ)(現在の「外山長根」と思われる)に着き、かつてそこに三十三体の観音像が祀られていたとあります。おそらく北前船による海産物やヒバ材などの交易で財をなした船問屋らが寄進したものと推測されています。
その後この観音像は、たびたびの道路改修のために心光寺(むつ市大畑町)の境内に移されたようです。心光寺の案内板には、三十三観音(豊漁、海上安全、商売繁盛にご利益がある)は、もとは大畑登山口にあったと伝えられ、恐山参詣の人々は必ずこの観音様を拝んでから登ったようだとあります。

古地図(大正三年測圖)を見ると、正津川沿いの八滝の北(標高約300m)に「旧恐山道」(地図に記載)とあり、三本の古道が合流しています。一つは、大畑市街と関根橋集落の中間付近から標高142m、標高229m付近を通っています。二本目は、関根橋集落から「正津川発電所」(上小川下流付近)を経由し、正津川に沿って尾根伝いに登っていくルートです。そして、小名目沢を登って合流するルートです。合流した後西進し、湿原の北側を通って「三途の川」付近に出ています。また、大畑川に沿って、薬研温泉から釜沢の谷合いを通る道もあったようです。

1939(昭和14)年に開業した大畑線が2001年(平成13)に廃止となり、バスが普及するようになると古道は廃れていきました。
現在は、関根橋集落から正津川沿いに林道を進むコースが利用されています。

ミニ知識

択捉島の川口寅吉

司馬遼太郎氏の『菜の花の沖(四)』は、江戸時代の廻船商人である高田屋嘉兵衛(1769~1827)を主人公とした歴史小説です。
高田屋嘉兵衛は淡路島の出身で、択捉島・国後島間の航路を開拓し蝦夷地の開発と函館の発展に貢献した人物として知られています。
後にゴローニン事件(1811)でカムチャツカに連行されますが、日露交渉の間に立って事件解決へと導きました。
この小説に、下北半島出身の川口寅吉が登場します。
彼は、冥土への入り口とされていた優婆(うば)寺(恐山参詣道「正津川口」の起点)のある正津川河口(むつ市大畑町)に生まれ育った漁師で、次男・三男の出稼ぎ地であった蝦夷地の魚や昆布とりなどにも詳しい人物でした。
若いころに蝦夷地の山々で修行したという故郷の修験者のお陰で、読み書きや勘定もできました。
その修験者は絶えず、蝦夷人はうそをつかないこと、友諠を重んずることなどを語り、「蝦夷人は人として和人より上等だ」と話していたといいます。
後年、寅吉は択捉島の現場を取りしきる幕府の足軽になり、川口という苗字を名乗りました。
寅吉は優婆寺(浄土宗)の墓地で眠っています。
また、江戸後期の旅行家菅江真澄(1754~1829)も、1792年(寛政4)10月にこの地(優婆寺)を訪れています。

北限のニホンザル

『あおもり県の鳥とけものウォッチング』(東奥日報社、平成2年発行)には、下北半島のサルについて次のようにあります。
地球上に生息している209種のサルの仲間のうち、208種が東南アジアからアフリカにかけて熱帯地方にすんでいるのに、ニホンザル一種だけが北緯30度以北の寒い北国日本に住んでいる。そのなかでも最北に生息しているのが「下北半島(気温が零下20度にも下がる)に生息しているニホンザルである。
今から約40万年あまりも前の第一間氷期から第二間氷期といわれる古い時代(日本列島がアジア大陸と陸続きであった)に、大陸から渡ってきたサルの一部が、今は熱帯地方にだけすむゾウや水牛たちと一緒に北に進んで下北半島までやってきた。
やがて洪積世後期といわれるもっとも寒い時代になったとき、下北半島にいたゾウや水牛は全滅したが、サルたちは生きのびた。
現在(平成2年)、下北半島の平舘海峡(脇野沢)に面した西海岸地域に三つの群れ約80頭、大間町の山奥に四つの群れ約220頭、合わせて約300頭のサルが生息している。

なお、文化庁より「下北半島のサルおよびサル生息北限地」として、ニホンザルは下北半島に生息するもの全てが「天然記念物」に指定されていますが、近年は畑の作物を食い荒らすという食害も頻発しており、人とサルの共存に地元では頭を痛めています。

大畑カルデラと北前船

大畑川を遡って大畑カルデラの内側に入ると、かつてのヒバ産業の歴史を感ずることができます。
この川の流域はかつてヒバの一大産地で、流域のヒバは北前船で日本各地に運ばれていました。
北前船とは、西廻り航路(日本海航路を大坂まで年に2回)に就航していた廻船で、下北には室町時代から盛んに来航するようになりました。
下北からはヒバ、中国貿易用の長崎俵物(干し鮑、煎海鼠(いりこ)、昆布、スルメ)などを運び、下北への下り荷は、米、粟、木綿、古着、酒、たばこ、畳、仏壇、墓石など様々でした。
また北前船は、京都や大坂の文化(佐井村の漁村歌舞伎など)も運びました。

まつわる話

【恐山古道共通】

霊場恐山の由来

《『恐山と下北(ほっつきある歩き記)』(森本守)より》
名僧慈覚大師(円仁)が唐の五台山で修行のある夜、夢の中に一人の聖僧が現れ、日本の都の東方に地獄のさまを呈し、しかも万病に効く温泉が湧いている霊山がある。
帰国後は此の地を訪れ、地蔵尊一体を刻して、お堂を建て仏事に励むようにと告げて消え去った。
目を醒ました大師が辺りを見廻すと、室内に香気が立ち込め、不思議なことに机上には一巻の地蔵経が置かれていたという。
帰国後、教えに従って東北地方に霊場を尋ねた大師は、山野を歩いて、ついに本州最北の地に到った。
ある日、道に迷っていると、一羽の鵜が魚をくわえて飛びゆくのが見えた。
必ずや水があると思って奥へと進むと満々と水をたたえた宇曽利山湖を発見したのであった。
附近の荒涼たる様子は、さながら地獄を見るようであり、また豊かに湧く温泉は、これこそ捜し求めた霊山であったのだった。
大師はお告げに従い、その中に地蔵尊一体を刻し、その中に持ち帰った地蔵経を納めて一宇を建立して祀り、今日の地蔵堂の基を開いたのであった。
時に貞観四年(862)のことであったという。
(むつ市役所資料より引用)

優婆寺の伝承

《優婆寺案内板にある「正津川橋と優婆寺」より》
昔(今から約1200年前)恐山「三途の川」の橋のたもとに天台宗の名僧慈覚大師円仁作と伝えられる優婆夷像がお堂に安置されてあった。その優婆様のお堂が、湖の大洪水のため正津川の橋まで流されて着くこと3度もあり、そのつど恐山に返しましたが、又も若木の松の木と一緒に流されて来たので村人は集まり優婆様を拾い上げて、お寺に安置し、若木の松は「うばの松」として近くの民家の畑に植えられました。

ルート

(優婆寺→太鼓橋)
優婆寺
↓90分(徒歩)
関根橋集落
↓2.8㎞(40分)
下小川

上小川(関根橋集落から徒歩50分)
↓(50分)
八滝
↓(80分)
県道4号

太鼓橋(田名部道と合流)
【優婆寺から太鼓橋まで徒歩約5時間】

参考資料

『青森県史(民俗編 資料下北)』2005年
『青森県史(資料編 近世4)』2003年
『むつ市史(民俗編)』昭和61年
『むつ市史(近世編)』昭和63年
『大畑町史』1992年
『川内町史(民俗編・自然Ⅰ)』1999年
『川内町史(近・現代、林野、教育)』2001年
『脇野沢村史(民俗編)』昭和58年
『東通村史(民俗・民俗芸能編)』平成9年
森嘉兵衛『岩手県の歴史』山川出版社、1972年
とよだ 時『日本百霊山』山と渓谷社、2016年
宮本 袈裟雄・高松 敬吉『山と信仰 恐山』佼成出版社、平成7年
月光 善弘編『東北霊山と修験道』名著出版、昭和52年
速水 侑『観音・地蔵・不動』講談社、1996年
西海賢二・時枝務・久野俊彦『日本の霊山読み解き事典』柏書房、2014年
青森県高等学校PTA連合会下北文化誌編集委員会『下北文化誌』青森県高等学校PTA連合会下北文化誌編集委員会、1990年
九学会連合下北調査委員会『下北-自然・文化・社会-』平凡社、1970年  
楠 正弘『庶民信仰の世界-恐山信仰とオシラサン信仰-』未來社、1984年
小松 和彦『鬼と日本人』角川文庫、平成30年
飯倉 義之『鬼と異形の民俗学』ウェッジ、2021年
森本 守『恐山と下北(ほっつきある歩き記)』昭和63年
森本 守『下北半島(四季のうつろい)』平成2年
東奥日報社『あおもり県の鳥とけものウォッチング』東奥日報社、平成2年
速水 侑『地蔵信仰』塙書房、1975年
「大正三年測圖(昭和4年修正測圖)」(内務省)
松田広子『最後のイタコ』扶桑社、2013年  
内田武志・宮本常一編訳『菅江真澄遊覧記3』平凡社ライブラリー、1968年
東通村教育委員会『奥州南部小郡田名部目名村不動院』東通村教育委員会発行
下北の歴史と文化を語る会編『下北半島の歴史と民俗』伝統と現代社、1978年
柴田 純『日本幼児史』吉川弘文館、2013年
森山茂樹、中江和恵『日本子ども史』平凡社、2002年
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支倉 清、伊藤時彦『お稲荷様って、神様?仏様?』築地書館、2010年
多賀康晴『立山における地蔵信仰』富山県[立山博物館]研究紀要第23号
安田喜憲『山岳信仰と日本人』NTT出版、2006年
小泉武栄『日本の自然風景ワンダーランド』ベレ出版、2022年
下北ジオパーク推進協議会『みんなの下北ジオパーク』下北ジオパーク推進協議会、2022年
宮家 準『霊山と日本人』講談社、2016年
合田一道『松浦武四郎 北の大地に立つ』北海道出版企画センター、2017年
中村博男『松浦武四郎と江戸の百名山』平凡社新書、2006年
松浦武四郎『東奥沿海日誌』時事通信社、昭和44年
田口昌樹『菅江真澄読本3』無明舎出版、1999年
石井正巳『菅江真澄が見た日本』三弥井書店、平成30年
司馬遼太郎『菜の花の沖(4)』文藝春秋、2000年(新装版)
圭室諦成『葬式仏教』大法輪閣、1963年
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梅原 猛『地獄の思想』中公新書、昭和42年
清水邦彦『お地蔵さんと日本人』法藏館、2023年
村上義千代『あおもり110山』東奥日報社、1999年
縄田康光『立法と調査 No260「歴史的に見た日本の人口と家族」』2006年
畑中徹『恐山の石仏』名著出版、1977年
笹澤魯羊『下北半島町村誌(上巻)』名著出版、1980年
下泉全暁『密教の仏がわかる本』大法輪閣、2019年
藤沢周平『春秋山伏記』新潮社、昭和59年
『うそりの風(第9号)』(うそりの風の会 会長 祐川清人)

協力・担当者

【原稿作成】
遠藤智久
【ルート図作成】
鈴木幹二
【協力者】
田中武男(国立研究開発法人・海洋研究開発機構むつ研究所前所長)
むつ山岳会(会長 前田惠三)
酒井嘉政(郷土史研究家)
佐藤衞(むつ市教育委員会川内公民館)
若松通(むつ市立図書館大畑分館)
鈴木久人(泉龍寺住職)
新井田定雄
(敬称略)

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