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5 恐山古道

大湊口ルート

このルートは「観音様の道」です。
常楽寺(真言宗)の如意輪観音像から恐山菩提寺境内の聖観音像まで、姿や表情の異なる33体の石像(密教の六観音)が並んでいます。
これらの観音像は、1861年(文久元)に開催された恐山開山一千年祭を記念して造立されたもので、安渡村(むつ市大湊)の信者たちや下北のヒバや海産物で利益を上げた商人たちが奉納したと伝えられています。
観音像のほとんどは県道や市道脇にありますが、約1㎞残っている古道(「一本杉」付近で田名部道と合流)の途中にもあります。

古道を歩く

大湊道は、全長約15km(最高標高396m、最低標高4m)で、菩提寺地蔵殿まで約5時間を要します。
これからの案内で「道の右側」は、「恐山への進行方向に向かって右側」のことです。
ルートに沿って33体の観音像(石像)が配置されています。
第一番(常楽寺)から第五番(運動公園脇)までは、大湊の旧道・旧街並みを通ります。途中、第三番から大平からの参詣道と重なります。
観音像のなかには風化して顔や手の形が明確でないものもありますが、『恐山の石仏』(畑中徹)などを参考にしながらまとめました。
「第一番」から「第三十三番」までの33体の観音像の内訳は、如意輪観音(5)、不空羂索観音(1)、聖観音(9)、千手観音(14)、十一面観音(3)、馬頭観音(1)で、密教系の六観音となります。
【第一番<如意輪観音>】
常楽寺(真言宗豊山派)は国道338号線沿いにあります。
本尊は不動明王で、その脇に如来立像である円空仏(県重宝)が並んでいます。
常楽寺から一番坂を陸奥湾に向かって降りていき、旧街並みを大湊駅方面に向かいます。

【第二番<十一面観音>】
近川稲荷神社の前にあります。
大湊には、旧街並みに沿って湧水(釜臥山からの豊富な伏流水)のポイントが多数あります。
地元では「大湊天然水」としてPRしています。近川稲荷神社の境内にも湧出しています。

【第三番<千手観音>】
大湊駅を過ぎて古刹の願求院の前を過ぎると変則交差点があり、「斗南(となみ)藩士上陸地」の案内があります。
観音様はその交差点の脇にあります。この辺りの地名は大平で、ここから北上します。

【第四番<千手観音>】
住宅街の道を抜けて、大荒川の橋付近にある墓地の傍らに見えます。

【第五番<千手観音>】
(常楽寺から約1時間)
保育園やむつ工業高校の横を通って、運動公園の交差点にあります。

【第六番<千手観音>】
運動公園から閑静な住宅街を北上します。その路傍(民家との法面の一画)にあります。

【第七番<聖観音>】
さらに北上すると民家が次第に少なくなります。道が大きく右にカーブするところにある木の根元にあります。

【第八番<十一面観音>】
主要道路から外れた小さな脇道(ゴルフ練習場の脇)にあります。

【第九番<不空羂索観音>】
矢立(やだて)温泉方面と恐山方面への分かれ道にあります。ここを越えると完全に山道です。
少し登ると冬季ゲートで、冬はここで道路が閉鎖されます。

【第十番<聖観音>】
冬季ゲートを過ぎてさらに登っていくと、道路標識(道の左側)のすぐ近くにあります。

【第十一番<千手観音>】
道路左側の道から奥に引っ込んだ林の中にあります。

【第十二番<千手観音>】
尾根のほぼ最高点。大きなアカマツがあります。
第十二番を少し行くと恐山や陸奥湾の眺望がすばらしい場所があります(常楽寺から約2時間)。
また、一本杉までの間に釜臥山がよく見えるところがあります。

【第十三番<聖観音>】
恐山方向に向かって右側にあります。

【第十四番<如意輪観音>】
尾根を横切り、二又沢に降りていく峠の左側の高いところにあります。
アカマツの巨木とともに3体の石仏(地蔵菩薩、如意輪観音、明治初年の墓)が見えます。

【第十五番<聖観音>】
第十四番を越えて二又沢の橋を渡ります。
すぐに前が開け、上の方を恐山街道が走っているのがわかります。
道は右に大きく旋回しますが、ここで大湊参道は左側の二又林道を少し辿ります。
その入り口に第十五番があります。そしてここから旧街道(国土地理院地図に記載なし)に入ります。
ここから第十六番を経て山道を約1km(大湊ルート唯一の古道部分)登ると田名部からの恐山街道に合流し第十七番となります。
この合流点は、「大湊別れ」と呼ばれていました。

【第十六番<千手観音>】
山道に入ってずっと1本道なので迷う心配はほとんどありません。
100mほどの所にあります。最後に草に覆われた階段があり、田名部道(県道)に出ます。
その逆の入り口には古い看板もあります。すぐ近くに石造りの古い道標もあります(左 田名部道 右 大平道)。
写真は古道(約1㎞)の様子です。

【第十七番<聖観音>】
恐山街道(県道)に出てすぐ近くにあります。恐山街道には恐山菩提寺からの距離を示す丁塚石が並んでいます。
県道の脇に古道が見えたりします。

【第十八番<如意輪観音>】
少し進むと、右側(駐車帯)に見えるのが第十八番です(常楽寺から約3時間)。

【第十九番<千手観音>】

道の右側にあります。

【第二十番<千手観音>】

道が大きくカーブするところにあります。

【第二十一番<聖観音>】
「一本杉」の少し先にあります。
左手に持っている未敷蓮華(みふれんげ)はこれから花が開く蕾で、観音の慈悲によってこれから成仏するという意味を示しているそうです。

【第二十二番<千手観音>】
クサギの木の下にあります。クサギは初冬になると藍色の果実と赤い萼が、花や星のように見える美しい木です。

【第二十三番<千手観音>】
「冷水(ひやみず)(水は大変おいしい)」にあります。
道の右側にトイレがあります(常楽寺から約3時間30分)。

【第二十四番<十一面観音>】
少し歩くと道の右側(ヒバの根元)にあります。

【第二十五番<千手観音>】
第二十四番から600mほど行ったところにあります。

【第二十六番<如意輪観音>】
釜臥山展望台への分岐点のすぐ向こう(道の左側)にあります。(常楽寺から約4時間)

【第二十七番<如意輪観音>】
道の右側にあります。比較的新しい時期に補充されたようです。

【第二十八番<聖観音>】
しばらく行くと「霊場恐山」の扁額が掲げられている冠木門(かぶきもん)があります。その向こうで林道が左右に分岐しています。
その右側の分岐点脇に、2体の地蔵菩薩と並んでいます。
ここから先は、カルデラ内壁の急坂となります。道の右側に「湯坂の一本杉」の印があります。

【第二十九番<馬頭観音>】
急坂の途中(右側)にあります。

【第三十番<千手観音>】
急坂が終わって傾斜が緩やかになる道路(右側)の少し奥にあります。
ここを過ぎると硫黄の匂いがしてきます。カルデラ底に辿り着き、左に大尽山を見ながら宇曽利山湖岸を歩きます。

【第三十一番<聖観音>】
ここからの観音像は、硫化水素の影響か黒く変色しています。

【第三十二番<千手観音>】
三途の川を渡った宇曽利山湖畔の岩の上にあります。

【第三十三番<聖観音>】
恐山菩提寺の地蔵殿に向かって左側にあります。左奥に大尽山が見えます(常楽寺から約5時間)。

古道を知る

平安時代、源信(天台宗)が『往生要集』(985年)を著して、六道(ろくどう=すべての衆生が生死を繰り返す迷いの世界で、地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人間道・天道のこと)や地獄を記述して、地蔵による「六道抜苦」を説くと、地蔵信仰は現世利益的信仰から来世(迷いのない浄土)的信仰へと発展していきました。
1052年を末法元年とする末法思想の流行を背景に、浄土教が盛んになると、密教も従来の鎮護国家的祈祷から個人の利益を求める祈祷へ、さらに現世利益だけではなく来世信仰の性格も帯びるようになりました。
そのよい例が、観音信仰における真言密教の六観音(聖観音・千手観音・馬頭観音・十一面観音・准胝観音・如意輪観音)の成立です。
11世紀になると、密教の六観音こそ六道の苦を救う功徳があるのだという主張が真言宗を中心に唱えられて貴族社会に広まり、12世紀以降六観音といえば密教の六体の観音をさすようになりました。
天台宗でも、真言宗の六観音に対抗して、真言六観音のうち准胝観音を不空羂索観音に変えて、天台密教の六観音を新しく説くようになりました。
むつ市内の常楽寺(真言宗豊山派)には、江戸時代初期の円空(1632~1695)作と伝えられる下北ヒバの一刀彫り仏像があります。
大湊道には、この常楽寺から恐山菩提寺まで姿や表情の異なる33体の観音菩薩(密教の六観音)が並んでいます。
これらの観音像は、幕末の1862年(文久2)に開催された恐山開山一千年祭を記念して造立されたものです。
安渡村(むつ市大湊)の信者たちや下北のヒバ(芳香や殺虫作用、耐久性に優れる)や海産物(コンブ、干し鮑、煎海鼠)などの交易で利益をあげた商人たちが奉納したものと伝えられています。
田名部-恐山間にバス路線が開通(昭和12年頃)すると、古道は廃れていきました(バス路線開通の影響をもろに受けたのは川内口)。大湊道の古道部分は長くなく、田名部道に合流する直前の約1㎞が主です。
地元の婦人会が、夏の大祭前に観音様の前掛けを新しくしています。

深掘りスポット

六道(ろくどう)

天台思想は、6世紀の中国の思想家天台智顗(ちぎ)(538~597)の教説です。
その思想の中心は、十界(十の世界の観相)、特にそのうちの最初の六つの世界(地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人間道・天道という六つの迷いの世界)への深い観相で、人間の煩悩の姿、迷いの姿、魔の姿を凝視せよ(煩悩の相を熟視せよ。その煩悩の空しいことを悟れ。煩悩への執着を脱せよ)と説きました。日本に地獄思想をもっとも深く普及させました。
地獄には八つの地獄があり、罪の重い者ほど苦悩の多い地獄に堕ちるとされました。
地獄の次は、餓鬼道(欲張りで嫉妬深い人間が堕ちるところ)です。
そして畜生道は陰気なうめきの世界で、この畜生道と人間道(不浄で、苦に満ちて、無常の世界)の世界だけが実在の世界とされました。天道も迷いの世界でした。
『宇曾利山(恐山)由緒』(1761)には、女性が堕ちるとされる「血の池地獄」を始め、多くの地獄が記されています。

六観音

10世紀の中国仏教では、六道(地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人間道・天道)や地蔵信仰、そして六観音信仰が盛んでした。
この頃、源信が天台浄土教の聖典ともいえる『往生要集(985)』を著して地蔵による六道抜苦を説くと、地蔵信仰は現世利益的信仰から六道抜苦の来世的信仰へと発展していきました。
また、この頃(平安末期)日本で撰述された『延命地蔵経』(地獄救済、十種福徳、代受苦が説かれる比較的短い経典)は、地蔵菩薩信仰を支える大きな要因となりました。
このように個人の来世信仰としての浄土教が盛んになると、密教も従来の鎮護国家的祈祷から個人的利益を求める祈祷へと変質し、さらに現世利益だけでなく、来世信仰的性格も帯びるようになりました。
恐山参詣道(大湊道)には、33体の観世音菩薩像が造立されています。むつ市内(国道338号線沿い)にある常楽寺(真言宗豊山派)の如意輪観音像から始まり、恐山菩提寺の聖観音像まで、姿や表情の異なる33体の観世音菩薩(密教の六観音)が鎮座しています。

六地蔵

湯坂を下り、正津川を渡って恐山菩提寺駐車場に入ると、立派な六地蔵が迎えてくれます。
現在、恐山参詣道で六地蔵が確認できるのは、「川内口(二か所)」と「正津川口」です。
11世紀になると六観音信仰に刺激されて「六地蔵」が発生し、13世紀にかけて次第に持ち物・名称・六道配当などが付加されていったようです。
六地蔵信仰は、六体の地蔵を六道に配し、六道衆生の救済を願う点では六観音信仰に似ていますが、六観音の信仰が10世紀の中国で盛んだったのに対し、六地蔵は敦煌の壁画や中国の説話集にもあらわれないため、日本の天台宗や真言宗の僧侶によって考え出されたとの推測もあります。

まつわる話

【恐山古道共通】

霊場恐山の由来

《『恐山と下北(ほっつき歩記)』(森本守)より》
名僧慈覚大師(円仁)が唐の五台山で修行のある夜、夢の中に一人の聖僧が現れ、日本の都の東方に地獄のさまを呈し、しかも万病に効く温泉が湧いている霊山がある。
帰国後は此の地を訪れ、地蔵尊一体を刻して、お堂を建て仏事に励むようにと告げて消え去った。
目を醒ました大師が辺りを見廻すと、室内に香気が立ち込め、不思議なことに机上には一巻の地蔵経が置かれていたという。
帰国後、教えに従って東北地方に霊場を尋ねた大師は、山野を歩いて、ついに本州最北の地に到った。
ある日、道に迷っていると、一羽の鵜が魚をくわえて飛びゆくのが見えた。
必ずや水があると思って奥へと進むと満々と水をたたえた宇曽利山湖を発見したのであった。
附近の荒涼たる様子は、さながら地獄を見るようであり、また豊かに湧く温泉は、これこそ捜し求めた霊山であったのだった。
大師はお告げに従い、その中に地蔵尊一体を刻し、その中に持ち帰った地蔵経を納めて一宇を建立して祀り、今日の地蔵堂の基を開いたのであった。
時に貞観四年(862)のことであったという。
(むつ市役所資料より引用)

優婆寺の伝承

《優婆寺案内板にある「正津川橋と優婆寺」より》
昔(今から約1200年前)恐山「三途の川」の橋のたもとに天台宗の名僧慈覚大師円仁作と伝えられる優婆夷像がお堂に安置されてあった。その優婆様のお堂が、湖の大洪水により正津川の橋まで流されて着くことが3度もあった。
そのつど恐山に返しましたが、またも若木の松の木と一緒に流されて来たので、村人は優婆様を拾い上げてお寺に安置し、若木の松は「うばの松」として近くの民家の畑に植えられました。

ルート

(常楽寺→恐山菩提寺)
常楽寺(第一番観音)
↓(徒歩1時間)
第五番観音
↓(2時間)
第十八番
↓(30分)
第二十三番(冷水)
↓(30分)
第二十六番
↓(1時間)
第三十三番観音(恐山菩提寺)
【徒歩5時間約15km】

参考資料

参考資料
【恐山古道共通】
『青森県史(民俗編 資料下北)』2005年
『青森県史(資料編 近世4)』2003年
『むつ市史(民俗編)』昭和61年
『むつ市史(近世編)』昭和63年
『大畑町史』1992年
『川内町史(民俗編・自然Ⅰ)』1999年
『川内町史(近・現代、林野、教育)』2001年
『脇野沢村史(民俗編)』昭和58年
『東通村史(民俗・民俗芸能編)』平成9年
森嘉兵衛『岩手県の歴史』山川出版社、1972年
とよだ時『日本百霊山』山と渓谷社、2016年
宮本袈裟雄・高松敬吉『山と信仰 恐山』佼成出版社、平成7年
月光善弘編『東北霊山と修験道』名著出版、昭和52年
速水侑『観音・地蔵・不動』講談社、1996年
西海賢二・時枝務・久野俊彦『日本の霊山読み解き事典』柏書房、2014年
青森県高等学校PTA連合会下北文化誌編集委員会『下北文化誌』青森県高等学校PTA連合会下北文化誌編集委員会、1990年
九学会連合下北調査委員会『下北-自然・文化・社会-』平凡社、1970年
楠正弘『庶民信仰の世界-恐山信仰とオシラサン信仰-』未來社、1984年
小松和彦『鬼と日本人』角川文庫、平成30年
飯倉義之『鬼と異形の民俗学』ウェッジ、2021年
森本守『恐山と下北(ほっつき歩記)』昭和63年
森本守『下北半島(四季のうつろい)』平成2年
東奥日報社『あおもり県の鳥とけものウォッチング』平成2年
速水侑『地蔵信仰』塙書房、1975年
「大正三年測圖」(内務省)
松田広子『最後のイタコ』扶桑社、2013年
内田武志・宮本常一編訳『菅江真澄遊覧記3』平凡社ライブラリー、1968年
東通村教育委員会『奥州南部小郡田名部目名村不動院』東通村教育委員会発行
下北の歴史と文化を語る会編『下北半島の歴史と民俗』伝統と現代社、1978年
柴田純『日本幼児史』吉川弘文館、2013年
森山茂樹、中江和恵『日本子ども史』平凡社、2002年
富岡一郎『下北地方史話』青森コロニー印刷、1981年
支倉清、伊藤時彦『お稲荷様って、神様?仏様?』築地書館、2010年
多賀康晴『立山における地蔵信仰』富山県[立山博物館]研究紀要第23号
安田喜憲『山岳信仰と日本人』NTT出版、2006年
小泉武栄『日本の自然風景ワンダーランド』ベレ出版、2022年
下北ジオパーク推進協議会『みんなの下北ジオパーク』下北ジオパーク推進協議会、2022年
宮家準『霊山と日本人』講談社、2016年
合田一道『松浦武四郎 北の大地に立つ』北海道出版企画センター、2017年
中村博男『松浦武四郎と江戸の百名山』平凡社新書、2006年
松浦武四郎『東奥沿海日誌』時事通信社、昭和44年
田口昌樹『菅江真澄読本3』無明舎出版、1999年
石井正巳『菅江真澄が見た日本』三弥井書店、平成30年
司馬遼太郎『菜の花の沖(4)』文藝春秋、2000年(新装版)
圭室諦成『葬式仏教』大法輪閣、1963年
『恐山史料の再発見(宇曽利山由緒)』青森県立郷土館研究紀要<第46号>、2021年
梅原猛『地獄の思想』中公新書、昭和42年
清水邦彦『お地蔵さんと日本人』法藏館、2023年
村上義千代『あおもり110山』東奥日報社、1999年
縄田康光『立法と調査 No260「歴史的に見た日本の人口と家族」』2006年
畑中徹『恐山の石仏』名著出版、1977年
笹澤魯羊『下北半島町村誌(上巻<復刻>)』名著出版、1980年
下泉全暁『密教の仏がわかる本』大法輪閣、2019年
藤沢周平『春秋山伏記』新潮社、昭和59年
『うそりの風(第9号)』(うそりの風の会 会長 祐川清人)
宮本袈裟雄『天狗と修験者』法蔵館、2023年
平岡聡『禅と念仏』角川新書、2024年

協力・担当者

【恐山古道共通】
《協力・担当者》
【原稿作成】
遠藤智久
【ルート図作成】
鈴木幹二
【協力者】
田中武男/下北ジオパーク推進協議会副会長(調査当時)
むつ山岳会/会長 前田惠三
酒井嘉政/郷土史研究家
佐藤衞/むつ市教育委員会川内公民館
若松通/むつ市立図書館大畑分館
鈴木久人/泉龍寺住職
新井田定雄
熊谷慎吉/東奥日報社
工藤文一/デーリー東北新聞社
(敬称略)

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