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67 中山道 和田峠
和田宿の本陣から男女倉口まで6kmほどあり、ほとんどが国道142号線に重なっていますが、わずか「唐沢一里塚」(国指定史跡)のところに古道が残っています。「唐沢一里塚」は対で現存する貴重な一里塚で、保存状態がよく手入れも行き届いています。
舗装のない古道歩きは、和田宿(標高682m)から6kmほど登ったバス停「男女倉口」(標高約1097m)の近くからはじまります。国道142号線のヘアピンカーブに中山道の案内板「歴史の道 中山道」があり、石碑が門のように並んでいます(地図の①)。
入口付近は国道設置のために削られていますが、すぐに道幅2〜3mほどの広く緩やかな古道となり、国道と和田川に並行して、カラマツとモミが目立つ谷あいの道を遡行していきます。
歩くと100mぐらいで右手に「三十三体観音」があります(地図の②)。かつて熊野権現社前に並んでいた千手観音、如意輪観音、馬頭観音など29体を発掘し、1973年(昭和48年)に並べたとあります。
となりに「休み茶屋跡」があります(地図の③)。
さらに緩やかな古道を1.5kmほど行くと142号線と合流し「接待」があります(標高1250m)。
ここには湧き水があり、「永代人馬施行所」(国指定史跡)の外観が復元され、休憩所になっています(地図の④)。
隣には「近藤巡査慰霊碑」があります(地図の⑤)。
強盗に刺されて殉職した巡査のもので、いかに住民に愛されていた人であったのか、偲ばれる慰霊碑です。
道はすぐに山中に戻り、近藤巡査が刺された現場の石碑があります。
「長坂」と呼ばれる長いゆるやかな坂を登っていくと足元は苔むした石畳になります。古くからあったものを整備したとあります。
接待から30分ほど歩くと、当時と変わらない椀を伏せたような「広原一里塚」があります(地図の⑥)。江戸から五十二里にあたります。
ここで和田川を離れ、再び142号線に合流します。国道沿いには廃墟となったドライブインがあり、道路を挟んで向かいに東餅屋茶屋跡(標高1460m)があります(地図の⑦)。ここには江戸時代5軒の茶屋が並び、人馬の休憩所になっていました。幕末には大名休息のための茶屋本陣も置かれた、と案内板には書いてあります。
古道はUカーブの国道をショートカットします。Uカーブの内側には鳥居のある祠があります。
ここまでは長和町の手入れが行き届いた道が続いていましたが、さらに行くと道は少々荒れて、ビーナスラインに遮断され、ビーナスラインの下をくぐったり横断するようになります。しかし古道ではなく、古道は工事で消滅したものだと思われます。
ビーナスラインを抜けるとスキー場跡を登り、道は直線になって、これまで頭の上をおおっていた木々が消えて和田峠に着きます。案内板には「古峠」とあります(地図の⑧)。
和田峠は広くて展望がよく、南に諏訪湖や諏訪の街並みが望め、さらにその向こうに木曽駒や御嶽山が広がります。「御嶽山遙拝所」が復元され当時と同じ眺望を楽しむことができます。石碑や馬頭観音、「賽の河原」があります(地図の⑨)。
また、中央分水嶺でもある美ヶ原から霧ヶ峰へと続く縦走路と直交しています(真っ直ぐ霧ヶ峰方面に行く道はなくなっており、一旦和田トンネル北口に下りる)。
和田峠から諏訪方面に下りる道は、これまでのゆったりとした古道ではなく、人一人が通れるほどの登山道です。大名の参勤交代の道でもありますが、現在では駕籠はおろか、馬も通れない状態です。
当時とは地形が変わってしまったと思われます。
なお、「歴史の道調査報告書1 中山道」(長野県教育委員会発行)には、「和田峠を越える古道は、江戸時代の和田峠(略)より約1km西の鞍部を越え、ほうろく沢を下り」(p61)とあり、また地形図の和田峠付近には、峰から砥川に向かっていくつかの道が記されていますが、現在は道が消失したりヤブにおおわれており、古道の痕跡はありませんでした。
峠沢のジグザグの道(九十九折坂)を下りていくと、峠から350mほどのところに水呑場があり(地図の⑩)、
さらに下に安政2年(1855年)に建てられたという石小屋跡があります(標高約1450m)(地図の⑪)。
高さ約2m、長さ55mという大きな石造りの施設だったとありますが、山中の傾斜の部分に少し石が積み上げられているだけで、建物を想像することはできませんでした。
さらに下ると左手にヘリポートがあり、142号線を2度横断すると「西餅屋茶屋跡」に出ます(標高約1300m)(地図の⑫)。西餅屋には4軒の茶屋があったそうで、案内板にはそれに加えて、道の「曲之手(まきのて)」が残っているとありましたが、「曲之手」(道がクランク状)になっているところは判然としませんでした。和田宿の本陣には西餅屋の写真が展示されていますが、そこは非常に広い場所のように感じます。
道はゆるやかになり、再度142号線を渡ると200mほどで西餅屋一里塚碑(五十三里塚)に出ます(地図の⑬)。そこから砥川に沿って700mほど行くとまた142号線にぶつかり、ここで未舗装の古道は終わります(地図の⑭)。
ここから下諏訪の本陣までの中山道はほとんどが国道142号線と重なっています。
ただ、「歴史の道調査報告書1 中山道」(前出)には、「垂木石の所に桟道があったが失われ、この辺から川荒れのため道がはっきりしない」(p62)とあり、必ずしも国道142号線と重なっているわけではないようです。
砥川の右岸に沿った国道を2kmほど下ると、142号線の下をくぐるようにして古い道があり、道路脇に幕末に、高島藩、松本藩と戦った水戸藩天狗党の死者を祀った「浪人塚」があります(地図の⑮)。
さらに砥川を渡って500mほど行くと「樋橋茶屋本陣跡」があり、下諏訪町循環バスの樋橋バス停があります(標高1000m)。
樋橋から下諏訪宿までは、約6 km。途中、樋橋一里塚碑、下の原一里塚跡碑、芭蕉句碑などがあります。また、御柱祭(おんばしらまつり)の木落坂や注連掛、下諏訪宿には諏訪大社下社春宮、諏訪大社下社秋宮などがあります。諏訪湖を見下ろしながら下る中山道は、ほとんど舗装されていますが、私有地を通る道や未舗装の部分もあります。要所要所に「下諏訪中山道を守る会」の案内板があり、古い道を辿ることができます。
▶ 男女倉口から和田峠(古峠)はおろか、古峠から西餅屋一里塚碑付近までを除く、すべての旧中山道を、googleのストリートビューで楽しむことができます。
諏訪側から和田峠にとりつく道は、幾たびか作り直されたようだが、痕跡を探すことはできませんでした。
和田峠を越える中山道は、1602年(慶長7年)に、江戸幕府によって開かれました。徳川家康が大久保長安に命じて、五街道のひとつとして整備させたものです。
中山道は、律令時代につくられた畿内から陸奥国に至る古代の道路、東山道(とうさんどう/とうせんどう)の道筋をおおよそ踏襲しましたが、信濃国では、東山道の松本盆地と上田盆地との間の保福寺峠(ほうふくじとうげ/ほふくじとうげ)を通る道ではなく、南へ20kmほど離れた和田峠を越えるものでした。
ちなみに、それ以前の道(古東山道)が蓼科山麓の大門街道にあったと考えられています。
和田峠周辺は旧石器時代(15000年〜20000年前)から良質な黒曜石の産出地として人が訪れ、縄文住居跡が数多く残っています。星糞峠や星の塔には当時の黒曜石採掘跡が残り、この地の黒曜石は遠く東北や近畿でも利用されています。中山道や古東山道もその昔は黒曜石を運んだ道だったのではないでしょうか。
鎌倉・室町時代は諏訪大社への参詣道として和田峠が利用されていたといわれています。
中山道は日本橋を起点に草津まで129里余(約508km)、69宿あり、京都三条大橋まで135里余(約562km)で、東海道の126里余(約492km)、53宿よりも距離的に長かったのですが、川留めや箱根峠などの難所がなくて日程が読め、宿賃も比較的安いなど利点も多く、旅人たちに利用されていました。姫街道とも呼ばれ、皇女和宮をはじめ、江戸輿入れの際にも使われていました。
東海道などほかの街道と比べ中山道には、宿場跡をはじめ江戸時代の建造物や石碑などが多く残っています。当時の道はほとんどが車道の下になっていますが、長野県では当時の面影を残す道を歩くことができます。
ことに佐久から諏訪にかけては、明治に入って参勤交代が廃止され、鉄道が長野市経由になったことから、宿場町は衰えましたが、当時の姿がそのまま残っています。宿場町や社寺が残り、路傍には石碑、馬頭観音、地蔵、道祖神などを数多く見ることができます。
和田峠は、明治9年(1876年)に、東餅屋から西餅屋に下る道が東側に開削され、「紅葉橋新道」と名づけられました(峠の標高1570m)。
新道は明治29年(1896年)には、さらに掘り下げられ、道幅も広くなり、同年に開通した信越本線の大屋駅を結ぶ諏訪からの馬車道として、岡谷の製糸産業を支えました(峠の標高1531m)。
しかし明治38年(1905年)に中央線が岡谷駅まで開通すると利用者は大幅に減ります。
昭和2年(1927年)には和田嶺自動車によるバスが運行を開始し、旧和田トンネルが開通したのは昭和8年(1933年)。現在の和田トンネルは昭和53年(1978年)に開通しました。
昭和52年(1977年)最大斜度27度のスキー場が開設され、平成10年(1998年)に閉鎖されました。
茅野と美ヶ原高原を結ぶ観光山岳道路ビーナスラインが全線開通したのは昭和56年(1961年)です。
いまはハイカーのみが「古峠」と記された和田峠を訪れます。
和田峠は、和田宿と下諏訪宿の間にあり、宿間の距離が5里18町(約22km)と長い上、五街道の中で最も高い標高1600mでした。和田宿の標高が825m、下諏訪宿の標高が787m、およそ1600mのアップダウンです。長い急坂に加え、雪や雨には苦しめられたといいます。
浅田次郎はその著書『一路』のなかで、下諏訪側から和田峠に向かう道を、「中山道はその急斜面を貫いて、まっすぐに延びていた。ほかの峠のように、曲ながら登るのではない」と表現しています。
そうした難所であるため、幕府や篤志家などによって、和田峠越えの人馬の休息や救護に用いた施設、東餅屋や西餅屋などがつくられ、いまもその跡が残っています。
幕末の文久元(1861)には、「公武合体」として徳川家茂に嫁いだ皇女和宮が和田峠を越えています。資料によって数は異なりますが、一行は警備や人足を含めると3万人、馬は1000頭におよび、行列は12里(50km)、行列の先頭から最後が通り過ぎるまでに4日かかったなどと、宿場などの記録文書に記されています(京都からの警備や人足は途中で大量に帰っています)。峠の急坂では、和宮は駕籠ではなく背負子に乗り、背負われて峠を越えたという説もあります。
島崎藤村の『夜明け前』にもこの下向の出来事が描かれています。
それからわずか3年後の1864年(元治元年)、京へ向かう水戸天狗党の一隊と、幕府の命を受けた松本藩・高島藩が和田峠で戦いました。「和田峠の戦い」などと呼ばれ、松本藩・高島藩は破れます。そのときの天狗党の戦死者が樋橋の「浪人塚」に祀られています。
→水戸天狗党については「40_蠅帽子峠」にも記載。
和田宿は文久元年(1861年)の大火で消失しましたが、同年、和宮の宿泊を受けて再建されました。
国指定史跡の和田宿本陣(昭和66年に復元)には明治時代の和田宿の写真や和宮の行列のようすが展示され、また殿様のトイレや独特な石置き屋根などを見ることができます。また、歴史の道資料館となった旅籠のかわちや(国史跡)、江戸時代につくられた八幡神社の本殿などがあります。
黒曜石石器資料館もあり、男女倉遺跡群で出土した黒曜石器や石榴石などが展示されています。
下諏訪宿は中山道で唯一温泉が湧き出る宿場として人気を集めました。甲州街道ともつながり、諏訪大社門前町としても多くの往来がありました。和田宿側とは違い、明治38年(1905年)中央線が開通し、製糸業などの産業が盛んになったため、繁栄が途絶えることはありませんでした。
いまでも温泉や旅館が軒を連ね、観光客や参拝者が多く訪れています。
下諏訪本陣には、江戸時代の建物と回遊式庭園が残り、皇女和宮が宿泊した上段の間が聴泉閣かめやに移設されていて見学することができます。
マグマが急速に冷えて固まった黒曜石は、割ると鋭い破断面(貝殻状断口)になることから、ナイフやヤジリなど刃物として使われていました。なかでも和田峠周辺の黒曜石は透明度が高いものや均質で良質なものが多いことから、旧石器時代から縄文時代を通して日本列島の広い地域に流通し、大量に見つかっています。和田峠の周辺には、和田峠黒曜石原産地群をはじめ、男女倉、星糞峠、星ヶ塔などがあり、星糞峠や星ヶ塔には縄文時代に掘った採掘跡がいまも残っています。
黒曜石はいまでもパーライトとして土壌改良剤や建築資材、トイレの屎尿濾過材などで利用されていて、和田峠では最近まで採掘されていました。
なお、黒曜石だけではなく、宝石のざくろ石(ガーネット)や建設用内装外装材である鉄平石も諏訪地域の名産です。
外観が復元され、休憩所になっています。道路を挟んだ向かいには水量が豊富な湧き水があります。
長和町産業振興課商工観光係作成のパンフレットには「江戸呉服町のかせや与兵衛が幕府に寄附した金千両より、利子の半分50両が下付され、1828年(文政11年)に設置された。11月から3月までに峠を越える旅人に粥と焚き火を、牛馬には年中小桶1杯の煮麦を施行した」とあります。
また隣には「近藤巡査慰霊碑」があります。
案内板には以下のように書いてあります。
「五軒の茶屋があり、寛永年間より一軒に一人扶持(1日玄米5合)が与えられ、旅人の救助にあたった。幕末には大名休息のための茶屋本陣も置かれた」
「餅屋」とは茶屋で出す名物「力餅」からきた名前で、「餅を瓶に入れて保存し、その瓶を湯釜に入れておいて客の求めに応じて取り出し、飴をつけて、温かくやわらかい餅を提供していたもの」とあります。
和田峠は、別名で餅屋峠とも呼ばれていました。
下諏訪教育委員会の案内板には以下のように書いてあります。
「下原村の名主勝五郎は、安政2年(1855)に避難場所と荷置場を造ろうと、郡御奉行所に口上書を差し出し、馬士の出金、旅人等の援助を乞うて、五十両ほどで石小屋を築いた。」
石垣から軒先まで2.3m、長さ55mという大きな建物だった、とも記されています。
下諏訪町教育委員会の案内板には以下のように書いてあります。
「西餅屋は江戸時代中山道下諏訪宿と和田宿の五里十八丁の峠路に設けられた「立場」(人馬が休息する所)であった。中山道は江戸と京都を結ぶ裏街道として重視されていた。ここは茶屋本陣の小口家と武居家、犬飼家、小松家の四軒があり、藩界にあったので、ときには穀留(こくどめ)番所が置かれた。幕末の砥沢口(とざわぐち)合戦のときは、高島藩の作戦で焼失されたが、すぐに再建された。現在は道の「曲之手(まきのて)」(直角な曲り)と茶屋跡が残っている。」
当時は写真のように広い場所だったようですが、いまは猫の額ほどの平らな場所があるだけで当時の面影はありません。
大樋橋(および樋橋)の北側にあります。
水戸の天狗党と高島・松本両藩の戦い「和田峠の戦い」で亡くなった天狗党の戦死者を弔った塚です(和田嶺合戦、砥沢口合戦、樋橋合戦などともいう)。
元治元年(1864年)11月、当時大子村(茨城県大子町)に集結していた1000人あまりの水戸尊攘派の天狗党、武田耕雲斎や藤田小四郎らは、一橋慶喜に朝廷説得を嘆願するために、中山道を京に向けて出発。これに対して幕府は諸藩に天狗党を追討するように命じ、高島・松本両藩が11月20日に樋橋で迎え撃ったのが和田峠の戦いです。両藩で800人近くが動員されましたが、結局、高島・松本側の敗戦となり、浪士勢14~5人、両藩で10人近くが亡くなっています。
この戦いの後、天狗党はさらに西上を続けますが、12月17日に幕府軍に投降し、多くが処刑されました(詳細は蠅帽子峠参照)。
明治2年(1869年)高島藩は浪士のために戦死塚をつくり、碑を建てて供養しました。地元では25年祭、50年祭、70年祭、90年祭、100年祭など催されています。
下諏訪宿と和田宿は距離が長いため、大名や公家も休める本陣茶屋がある立場(休憩所)がありました。10軒ほどの家と数軒の茶屋があり、案内板に当時の建物の配置があります。宿場の道の形は曲手(クランク状)になっています。
諏訪大社では7年に一度*「御柱祭」という神事が執り行われます(正式には式年造営御柱大祭)。樅の巨木を山から曳き出し(直径約1m、長さ約17m、重さ約10t 以上)、諏訪大社四宮(本宮、前宮、春宮、秋宮)の社殿の四隅に建てて更新します。この御柱祭最大の見せ場が「木落し(けおとし)」。下諏訪宿本陣から3.5kmほど登ったところにある木落坂が舞台になります。氏子たちがまたがった巨木が、傾斜35度長さ100mの急坂を一気に曳き落とされます。「男見るなら七年に一度諏訪の木落し、坂落とし」とうたわれる豪放な祭です。
*正確には満6年間隔。
諏訪大社2社4宮のひとつ。下諏訪宿の北側にあり、本殿はなく、現在の弊拝殿と左右片拝殿は安永3年(1780年)に建てられたものでご神体は杉の木。大門前の県道には屋根がついた下馬橋(太鼓橋)があります。
諏訪大社2社4宮のひとつ。下諏訪宿の東側にあり、秋宮にも本殿がありません。ご神体はイチイの木。拝殿は安永10年(1781年)、神楽殿は天保6年(1835年)に建てられたものです。8月1日に春宮から秋宮へ、2月1日には秋宮から春宮へ御霊代(みたましろ)を遷す神事、遷座祭が行われます。
○「長和の里歴史館」「長和町文書館」
http://nakasendo.nagawa.ne.jp/
○「歴史の道資料館」和田宿かわちや
https://www.nagawa.info/facility-spot/2042/
○宿場街道資料館
http://www.town.shimosuwa.lg.jp/www/contents/1475143913642/index.html
○「みんなでつくる下諏訪デジタルアルバム
https://d-commons.net/shimosuwa/
○「星くずの里たかやま黒耀石体験ミュージアム」
長野県小県郡長和町大門3670-3
0268-41-8050
○「黒曜石石器資料館」
長野県長和町和田2629-1
0268-88-2794
○星ヶ塔ミュージアム矢の根や
https://konjakukan-oideya.jp/%E7%9F%A2%E3%81%AE%E6%A0%B9%E3%82%84/
○NPO法人和田のあしたを考える会
https://www.wadajuku.com/wada-guide.html
中山道は江戸前期には中仙道と表記しましたが、1716年(享保元年)に、幕府は、東山道の内の中筋の道であるから古来より中山道という(『御触書寛保集成』)と、公的に中山道に改めました。しかし、現実には中仙道も併用され、中仙道、仲仙道とも表記されています。また、別名を木曽街道や木曽路ともいわれています。
なお、江戸幕府によって開かれた五街道は、現在では基本的に1本もしくは2本の国道として利用されていますが(東海道=国道1号線のように)、中山道は多くの道に分かれ管轄も分断されています。とくに長野県では、長野県道9号佐久軽井沢線→長野県道44号下仁田浅科線→長野県道154号塩名田佐久線→佐久市道→国道142号→国道20号→国道19号と呼び名や管轄が変わります。また、ほとんどの中山道の道筋が鉄道と併走しているにもかかわらず、佐久から諏訪にかけては、鉄道も高速道路もありません。
もうひとつつけ加えると、佐久から諏訪にかけては、国道の中山道をはじめ、バイパスの中山道、旧国道の中山道、旧中山道、古中山道、中山道原道、廃中山道など実に多くの中山道の表記があり、時代時代に変化していった道であったことをうかがい知ることができます。
男女倉口
約1.5km↓約40分↑約35分
接待
約1.4km↓約30分↑約25分
広原一里塚
約0.8km↓約15分↑約15分
東餅屋茶屋跡
約1.7km↓約45分↑約35分
和田峠
約1.8km↓約40分↑約60分
西餅屋茶屋跡
約0.2km↓約5分↑約10分
西餅屋一里塚碑
約0.7km↓約10分↑約15分
古中山道入口
約2km↓約35分↑約45分
浪人塚
約0.6km↓約10分↑約10分
樋橋茶屋本陣跡(樋橋バス停)
○男女倉口バス停
車:佐久IC→141号線→142号線
公共機関:上田駅(北陸新幹線、しなの鉄道線)からJRバス関東の長和町行きバスで終点。長和町内循環バスの男女倉行きに乗換え男女倉口下車
○桶橋バス停
車:岡谷IC→20号線→142号線
公共機関:下諏訪駅(JR中央線)から下諏訪コミュニティバス「あざみ号」(萩倉・星が丘線)で桶橋下車
○旧中山道入口(標高1180m)
車:岡谷IC→20号線→142号線
公共機関:桶橋バス停から徒歩50分
《参考資料》
・『歴史の道調査報告書1中山道』長野県教育委員会
・山田忠雄・編『街道の日本史17 中山道』吉川弘文館
・児玉幸多『信濃路をゆく 下』学習研究社
《和田峠について書かれた小説やエッセイ》
・吉村昭『天狗争乱』新潮文庫
・島崎藤村『夜明け前』新潮社文庫
《原稿作成》
・日本山岳会マウンテンカルチャークラブ(MCC)
・永田弘太郎
《協力》
・下諏訪町立図書館
・下諏訪中山道を守る会