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94 京と丹波路往還 明智越・唐櫃越・老ノ坂

明智越

「ときは今天が下しる五月哉」(「天が下なる」説もあり)
天正10年(1582)、明智光秀が本能寺攻めの直前に、亀山城から愛宕山の愛宕神社に参詣したときに通ったとされる道です。
また、本能寺攻めるときに利用した道のひとつとされています。
丹波亀山城(亀岡城)を発し一気に本能寺に向かったとされますが、「明智越」なのか「唐櫃越」なのか、その経路には諸説あり、推察の域を出ていません。
光秀が走り抜けた姿を思い浮かべながら、山道を歩いてみました。

古道を歩く

「明智越」は本来は愛宕神社参拝路として整備された道ですが、山陰道の京都・亀岡間の間道としても利用されていました。
亀岡市保津町から愛宕山南麓の水尾あるいは京都市右京区の嵯峨周辺までの山道です。
「明智越」の途中に「さが」の古い道標があって、それが理由で嵯峨まで続いていた説があります。
調査では、明智光秀の本能寺攻めの伝承においても、水尾から嵯峨までの経路については諸説あることから、亀岡側はJR亀岡駅とし、京都側は水尾直近のJR保津峡駅としました。
最高地点400m余,距離約5kmに及ぶ山道です。

亀岡駅から

亀岡駅は橋上駅舎で、コンコースの南北自由通路(のどかめロードという)から駅北口に向かいます。
コンコースの先のテラスに出ると、正面に大きく牛松山が見えます。
目指す「明智越」は以前は良く眺められましたが、現在は巨大な京都スタジアムに遮られここからは確認できません。
「明智越」登山口の保津集落へは、駅北口から京都スタジアム左側を回り込むように保津大橋へ向かいます。
橋へ登る手前の三差路を左折すると、旧「保津川下り」の乗船場であった観光ビルがあります。
裏手に出ると丹波亀山城築城の際に、保津川の氾濫で堤防が崩れるのを防ぐ目的で植栽されたサイカチの古木があります。
樹齢400年以上の大木で、鋭い大きなトゲが無数にあり忍者返しとも言われています。
京都スタジアム建設に際し環境保全で問題となった、天然記念物の保津川と支流に生息するドジョウに似た「アユもどき」の生息地ともなっています。
保津大橋は長さ368m、橋の中央でT形に交差点がある特異な形で、橋は斜張橋の一種で「PCエクストラドーズド橋」という橋梁形式です。
霧がなければ大橋からはすこぶる見晴らしが良く、正面左に牛松山がどっしりと大きく迫り、正面右に明智越の山並が連なっています。
なお、丹波山地にある亀岡は霧の町としても有名で、冬期の晴天の日の午前中は、日本海から吹き込む冷たい空気による放射冷却作用で、年間30日程「丹波霧」と呼ばれる濃い霧で覆われます。

保津町保津神社横の信号を右折、次の辻に赤い「保津百選道しるべ」があります。
これは地元「保津町自治会」が設置したもので、明智越コースの要所にも設置されています。
「保津百選道しるべ」横の道標に「いずも」とありますが、はるか遠い出雲の国ではなく、この先に座す式内社丹波一宮で、「本出雲」「千年宮」ともいう「出雲大神宮」のことです。
「保津百選道しるべ」にある「保津道路元標」とは、対面する神社石垣基部の古い石標のことです。

戦国時代から江戸時代初期にかけての京都の豪商、角倉了以(すみのくらりょうい)ゆかりの養源寺を過ぎ、保津川屋酒店のユーモラスな看板を見て、平安時代後期に袈裟御前との恋物語を秘めた文覚(もんがく)上人の文覚寺門前を行きます。
秋には、民家の塀越にモミジの紅葉、鈴なりの赤い柿、黄色いカリンの実、ムクの大木の下には無数の実。保津には日本の里の原点を見るような風景があります。

文覚寺門前を過ぎると道は二又に別れます。
左は愛宕谷林道を経て神明峠から越畑、水尾に抜ける道ですが車両は全面通行止めです。
明智越えには右の民家の塀に沿って直進します。

山際の三差路を右折、次の地蔵様の祠のある辻は、左の坂を直進すれば明智越登山口の簾戸口(すどぐち)です。
大きな案内板にはぎっしりと明智越の説明が書いてあり、これから登る明智越は、もともと亀岡から愛宕山への参詣道として整備され、明智光秀もいつもこの道を通って愛宕山の将軍地蔵に詣でていたと記してあります。
簾戸口から明智越えに入ると、すぐに「保津百景142 保津城跡」。
「保津百景143 左空池 右土取場跡」 空池は保津城の空堀の跡、土取場跡は茶室等の「三和土(たたき)」に用いられる良質の土がとれたといいます。
保津城入口からつま先上がりの道が続きます。

次に景観の良い「保津百景144 身代わり地蔵 保津観音の伝説」の標識。
「保津百景145 帯解石」「保津百景146 大見晴らし」と続きます。
右手の山肌が迫ってくるあたりに「保津百景147 石堂古墳」があります。
石堂古墳は径39mもある前方後円墳で、平成17年偶然発見されたもので盗掘された形跡がないということがわかっており、調査が進むと価値あるものが発見されるのではと期待されています。

登り坂が一段落すると「請田神社」分岐で、展望はないが絶好の休憩場所です。
請田神社は亀岡盆地が湖だったころ、出雲地方から来た神様の大山咋神が保津峡の開削を始め、開拓着工の鍬入れを受けたので神社の名が「請田(うけた)」となりました。
尾根上の緩い登りを行くと「保津百景148 石堂の森(峯の堂)」に出ます。
「いしだあはん」とも言います。
標識の裏手の雑木がまばらに生える円丘を「峯の堂」といいます。
清和天皇の隠棲地で息子の陽成天皇に譲位されて、この地で崩御されました。
御陵は水尾にあり清和源氏の祖とされています。
「遠近の桜をここに峯の堂 あらしのはなぞ雲間にかえる」という歌を残しています。
往時は眺望絶佳であったようです。
明智光秀は清和天皇を祀る峯の堂に、信長を討つ必勝の祈願をこめて祈ったといわれます。
光秀は山崎の合戦で秀吉に敗れ、無念にも山科の小栗栖の藪の露と消えました。
この光秀の胸の内を想い、人々は「峯の堂」を語呂が通じる「無念堂」と呼ぶようになりました。

次いで「保津百景149 愛宕山白雲寺五千坊 鐘撞堂跡」。
今は何もない藪の中です。
その先でコースの道床が大きく崩落し、崖縁上部の山腹にロープを張って通過する所があり注意して通過します。
右手の展望が開け、保津峡を隔てた対岸の唐櫃越の尾根が良く見えます。左手一番高い部分が沓掛山。
「保津百景150 明智光秀ゆかりの土用の霊泉」
現在は涸れていますが、かつては、真夏の土用でもこんこんと清水が湧き出ていました。

神明峠分岐、右手に降る旧来のコースは大きく谷源頭が崩落し、縁ぎりぎりのトラバースが続くので安全のため、左の送電鉄塔経由のコースをとります。
送電鉄塔の下は、広々と開けて京都市内の展望もきき、気持ちの良い昼食場所です。
送電鉄塔の下からは左手の神明峠への道に入り、新たに設置された手書きの標識に従ってすぐに右折、送電鉄塔広場の上部のピークに登り南下します。しばらく下れば従来のコースに合流。

更に下ると風化して読み難いが、「左さが道、右やま道」と判読できる古い石標があります。水尾へは分岐を左に降ります。
その先には送電鉄塔が建つ開削地があり、水尾の里から地蔵山を経て愛宕山へ続く稜線の展望が広がっています。

開削地から少し下ると急坂で、深い雨裂や大きな段差の不整路がしばらく続くため、慎重にゆっくりと下ります。
植林帯を抜けると水尾への旧道に合流。
光秀の部隊は当地から水尾集落を経て、「米買い道」荒神峠を越え、落合から六丁峠を嵯峨に進軍したと想定できます。
しかし、本能寺はまだ遠い。

舗装道路を水尾川に沿って降り府道50号線と合流。悠久の戦国の歴史に想いを寄せ、深い渓流沿いとなった道を、美しい紅葉を愛でながらJR保津峡駅に到着。

この古道を歩くにあたって

一部を除き良く整備された道で、道標も整備され迷うところも少ない。雨裂で掘れた隘路、崩落地点のトラバースだけは注意しよう。

古道を知る

明智越

「明智越」は山陰道の京都・亀岡間の間道であるが、愛宕山(愛宕神社)への参詣の道のひとつでもある。
亀山城の城下町から水尾の里を経て、愛宕神社へ参る道が、いつごろからか「明智越」と称されるようになった。
明智光秀が本能寺を攻める際にこの道を通ったことから「明智越」と呼ばれるようになったという説もあるが、光秀が愛宕神社に参詣するためにしばしば通ったことから、この呼び名がついたと考えられる。
愛宕神社への参詣道は、明智越から水尾の里を経由する水尾道のほか、メインである清滝からの表参道、樒原(しきみがはら)からの丹波口参道、表参道の東側を通る月輪道、細野口からの裏参詣道などある。

愛宕山と明智光秀

天正10年(1582)、明智光秀が本能寺攻めの直前に愛宕山で詠んだ「ときは今天が下しる五月哉」は有名だが、光秀と愛宕神社との関係は深く、しばしば愛宕山を訪れていたという。
愛宕山神社には、光秀が丹波国攻略に向けて出陣した際の戦勝祈願の書状が残されており、また勝って得た土地や金銭などを愛宕神社に奉納していた。

明智光秀の本能寺攻め

『重修真書絵本太閤記』写本では、光秀が本能寺を攻めたとき、1万3千の軍を三隊に分けて、明智越(神越)、唐櫃越(カラトコエ)、老ノ坂越(オオエノ坂)の三路より進軍したとある。
“惣大将惟任日向守光秀 明智十郎佐衛門 荒木山城守 同友之亟 諏訪飛騨守 齋藤内藏介 奥田宮内 三牧三左衛門等三千余人 酉下刻に保津の宿より山中に懸り 水の尾の陵を余所に見下し 内々作られ置き尾の傳への道を凌ぎ 嵯峨の邊に出て衣笠山の麓 地蔵院まで着陣せり”
これによると、明智越を本能寺に向かったのは、光秀本人と旗下の三千余人という。
それにこの山道は事に備え事前に内々に作られていたらしい。
酉下刻とは夕方の18時の事で、本能寺を襲った時刻は暁明の東雲の頃という。

深掘りスポット

保津「文覚寺」

文覚上人は高雄神護寺の中興の祖として「高雄の聖」と呼ばれ、源頼朝に平家打倒を進言したことでも知られる。
上人は難波で生まれ、3歳までここ亀岡市保津のこの地で育てられたと伝わり、後年になり当地に文覚寺が開創された。
文覚寺の山門は明智光秀が築城した亀山城の遺構と伝わる。

保津城跡

室町初期にはすでに城があったようで南朝側の城という。
この城跡より直線距離にして約2.5km南の「篠村八幡宮」は、足利尊氏が後醍醐天皇の綸旨に応じ、鎌倉幕府討滅の旗揚げをした地。
後に尊氏は北朝の天皇を奉じ南朝を攻めた。
この城も足利尊氏と共に、時代の変転に翻弄されたのは想像に難くない。

水尾

山城と丹波の両国を結ぶ要所として古くから開けていた。
「水尾天皇」とも呼ばれた第56代清和天皇(嘉祥3年(850年)〜元慶4年(881年))のゆかりの地としても知られている。
出家後に水尾で激しい苦行を行い、水尾を隠棲の地と定めて新たに寺を建立中に亡くなった。
清和天皇陵がある。
水尾小学校には清和天皇社がある。

愛宕山

愛宕山(924m)は、京都市内の西にある山で、山城と丹波の国境に位置する。
東の比叡山と並ぶ市民の山として多くの人に親しまれている。
「火伏せの神さん」として有名で、山頂に愛宕神社がある。
この愛宕神社は全国に約900社を数える愛宕神社の本社でもある。
平安時代に建立された月輪寺や鎌倉時代に作られた神護寺が現存し、江戸時代末期の白雲寺宿坊跡の礎石群も残る。
中世においては、武士たちから「いくさの神様」として勝軍地蔵が信仰を集め、光秀もこれを信仰していた。
「伊勢に七度、熊野に三度、愛宕さんへは月参り」とうたわれ、愛宕権現が全国の信仰を集めた。
7月31日の「千日参り」に登れば、千日間お参りした御利益があるといわれ、いまでも多くの人が参拝する。
昭和になって、ケーブルカーが敷設され、遊園地やホテルなどのリゾート施設もできたが、いまはその痕跡は草に埋もれている。
京都の旦那が幇間(太鼓持ち)や芸妓たちを連れて愛宕山に野駆けに行く、落語「愛宕山」も有名である。

ミニ知識

光秀は保津川を渡渉した?

一説に、光秀は本能寺攻めの折に、明智越の山道の途中から「保津川」に降り、渓谷の隘路を渡渉し唐櫃越に登ったいう。
架橋可能と想定する地図表示の地点を検証してみるとかなりの急勾配を登り下りしなければならないことが分かる。
たとえ装備は本隊の老ノ坂隊が運搬し、保津峡には事前に架橋しておいたとしても、保津及び渡河想定地点の標高は100m程度で稜線は400m程あり、夜間に明智越の中間地点から高度300mの登下降に加え、更に唐櫃越の300mを登るのはかなりたいへんだと言わざるを得ない。
これから戦という前夜に兵卒は疲労困憊し戦にならないのではないだろうか。
加えて、明智越はまだしも唐櫃越には馬での通過は困難と思われる隘路がある。
江戸時代に書かれた書物や現地を知らない歴史家の説は現実的ではない。

まつわる話

身代わり地蔵 保津観音の伝説(保津百景144)

明智光秀が亀山城を築城した頃、保津に住む美保という娘と母親にまつわる悲劇の伝承が伝わっている。
亀山城の石垣の一部にされた石地蔵を取り返しに行った娘が、石地蔵と共に城の堀に沈んでしまい、月夜になると白い鯰になって現れるという伝承がある。

帯解石(保津百景145)

保津の村人が山仕事を終え、芝や薪を背負ってここまで帰ってきて、我が家に帰りつく前に一服する場所で、艶のある話ではない。
この場所は亀岡全体が見渡せる最高の眺望場所。
ここから見渡す亀岡盆地は、縄文時代には標高100m以下で、まだ湖底にあった。
湖底は赤土で「風が吹くと湖に丹色(朱色)の波が立った」ことから、この地の国名が「丹波」と名付けられたと伝える。

大見晴らし(保津百景146)

明智光秀に攻められた西方の余部城城主・福井因幡守貞政の子4人が、ここまで落ち延びてきて、落城する城の火の手を見て、この崖から飛び降りて命を絶った悲劇の場所と伝わる。
余部城は亀岡駅西方約1.5kmにあり、たしかにこの場所が明智越から唯一城が望める場所であるが、飛び降りて死ぬような断崖は存在しない。

石堂の森(峯の堂)(保津百景148)

■石堂丸ゆかりの石堂の森(通称いしだあはん)。
昔、水尾と保津の間で喧嘩があり、水尾の石堂丸は保津の人を殺めてしまった。
石堂丸は処刑されることになったが、「処刑されるのは仕方がないが、以後は山の神として祀ってくれ」と言い残したと伝える。
石堂丸を保津では「いしだあはん」と呼んで崇めている。
■清和天皇隠棲の地
清和天皇(水野天皇)隠棲の地とも伝えられており、御製の歌に「遠近の桜をここに峯の堂あらしのはなぞ雲間にかえる」を伝えている。

愛宕山白雲寺五千坊 鐘撞堂跡(保津百景149)

往時に隆盛を極めた愛宕山白雲寺には番人が常駐しており、侵入者があると鐘を撞いて急を告げたという。

明智光秀ゆかりの土用の霊泉(保津百景150)

現在は涸れているが、かつては、真夏の土用でもこんこんと清水が湧き出ていた。
光秀は愛宕山参詣の折には馬に水を飲ませ、本能寺攻めの際は、将卒に三七草(血止めの妙薬)をこの霊泉に浸し、将卒の鎧の下に秘めて進軍したと伝える。

ルート

JR亀岡駅
↓ 約2.1km:50分
簾戸口(登山口)
↓ 約2km:70分
峯の堂
↓ 約0.7km:40分
送電鉄塔
↓ 約1.5km:60分
水尾旧道別れ
↓ 約2.2km:40分
JR保津狭駅
歩行距離約8.5km、歩行時間約4時間20分(休憩時間は含まない)

アクセス

JR亀岡駅
JR保津峡駅

参考資料

『重修真書絵本太閤記』

協力・担当者

《担当》
日本山岳会京都・滋賀支部
村上 正
岡田茂久
《協力》
日本山岳会MCC

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