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94 京から丹波へ 明智越・唐櫃越・老ノ坂峠

94 京から丹波へ 老ノ坂峠

山陰道は、古代から山陰と畿内を結ぶただ一つの重要な官道でした。
平安時代中期に編纂された『延喜式』には、丹波国の駅名として、大枝(おおえ)、野口(ののぐち)、小野、名柄、星角(ほしずみ)、佐治が記されています。
現在の国道9号線は山陰道を踏襲したもので、長岡京や平安京からの道です。
山城国から丹波国へは、沓掛(くつかけ)山と大枝(おおえ)山の鞍部にあたる老ノ坂(おいのさか)峠を越える必要がありました。
百人一首には「大江山 生野の道の 遠ければ まだふみもみず 天の橋立」(小式部内侍(こしきぶのないし))と詠まれています。

古道を歩く

平安京からの古道である旧山陰道を紹介するなら、七条通りの「丹波口」を起点とするべきですが、京都市街内は古道としては対象としにくく、また、平城京、長岡京、平安京から亀岡盆地に抜ける道筋が、いずれも京都の西部に位置する大枝沓掛付近に集束されため、大枝沓掛付近を起点とするのが合理的であると思われます。
そのため、ここでは京都側の起点は大枝沓掛。亀岡側は老ノ坂峠を下った亀岡市篠町王子としました。

大枝沓掛(おおえくつかけ)から老ノ坂峠(おいのさかとうげ)

京都駅もしくは阪急桂駅東口から、亀岡方面行の京阪京都交通バスに乗車し「国道沓掛」で下車。
沓掛の大きな交差点を横断して坂道を降り、小畑川に架かる大枝橋を渡ります。
そのまま道なりに北に進めば100mほどで旧山陰街道に突き当たります。
(喫茶店横の川沿いの小道を左折するのもいい)
左折するとすぐに沓掛町の産土神、大枝神社(おおえじんじゃ)があり、さらに進めば桓武天皇の生母「高野新笠」の大枝山陵参拝路の石碑が立っています。時間があれば登拝していきましょう。
さらに進むと、右の崖上に「関の明神社(せきのみょうじんしゃ)」の小祠が現れます。
古代山陰道の山城国と丹波国の境界にあった「大江関(おおえのせき、大枝関)」があったところです。

このあたりは尾根の先端にあたるところで、旧山陰街道は北北西に進路が変わります。
「関の明神社」から500m程で新山陰街道である交通量の多い国道9号線に出ます。
国道の歩道を300m程行き「京都霊園」の信号を渡って京都霊園方面に行きます。

橋を越えて右の「洛西散策の森」方面に向かいます。
旧山陰道の旧老ノ坂峠道になります。
京都縦貫自動車道路の下を潜り進めば、左正面に「京都霊園」の入口があり、右側の小畑川沿いの道路を直進します。
このあたりは「京都霊園」造成時に整備され、旧山陰道の面影はありません。
しばらく舗装道路を行き、右側の橋を渡り縦貫自動車路の下を潜る分岐は、京都府立大学演習林を活用した「洛西散策の森」でトイレも設置してあります。
旧山陰道は京都縦貫自動車路と並行して直進し、京都縦貫自動車路の「新老ノ坂トンネル入り口」付近で、細流となった小畑川と霊園管理道路が左上へ逸れ、旧山陰道は自動車侵入防止チェーンを跨ぎ、直進します。
勾配はやや急になりますが、10分ほどで舗装道はフェンスで遮られ、右上に折り返すように地道が繋がっています。
すぐに苔むしたコンクリート道になり、倒木と崩土で塞がれるが通行に困難さはないのをみると、通るハイカーはほとんどいないようです。

すぐに峠状の掘り込み地形となり、上には清掃工場の取付道路橋が掛かっています。
右の尾根上には旧山陰道の喉首を抑える要害「沓掛城」跡があります。

道路橋を潜って坂を下れば再び舗装路となり、左上の太い杉木立に囲まれた小詞が「首塚大明神」が現れます。
大事に守られているようできれいに掃除もされています。
社殿の前にある大杉の中心の空洞が、5m程上まで真黒に焼け焦げ、原因は落雷とも思われますが不明で、焦げ跡も妙に新しく見えますが何年も経過しているようです。

「首塚大明神」の参道を下ると柵で遮断された林道脇に、丹波国と山城国の国境です。
「従是東山城國」と彫られた国境石があります。
江戸時代のものと言われています。

老ノ坂峠から王子神社

古図を見ると老ノ坂峠は行き交う旅人も多く、茶店等があり大いに賑わった様子ですが、今は数件の民家があるものの人影も見えません。
途中の新山陰道へのT分岐近くに「京都の自然200選」の標識が建っています。
新山陰道への分岐を過ぎ、竹藪が迫った辺りが老ノ坂峠の頂上(標高246m)のようです。
坂を下り、車の騒音が響き渡る京都縦貫自動車道路を潜ります。

上下線の間の道となり、右の登り線を潜ると、国道9号線で新山陰道国道9号線と合流。その手前で国道9号線と並行する様に草が生い茂った舗装路が旧の山陰道です。

夏草を掻き分けるように降ると、国道9号線との横断地点ですが、横断歩道はないため、往来する走行車両の間隙を縫って横断し、左方向に行くと王子橋のある新山陰道となります。

右方向に行き、建設会社の門前を通り、ガードレールに沿い一旦国道9号線に出てから、左に分岐する狭い舗装路が旧山陰道で、山裾を北西に緩やかに降ります。左の荒れ地の上に見える石積は旧山陰路の元路盤ではないでしょうか。
林道分岐を過ぎ、路傍にある石は「占い石」と案内板にあります。

小川に架かる橋の袂には「船着き場址」の案内板。往時は数キロ離れた保津川本流から、船便が通じていたのでしょう。
前方には「唐櫃越」の山並みが望めます。

のどかな田園風景を愛でながら行くと、新山陰街道添いの「王子神社」の社叢が近づき、旧山陰道は国道9号線と別れた新山陰道(府道402号王子並河線)に合流します。

山陰道老ノ坂道の終点は一応「王子神社」とします。

新山陰道を「篠村八幡宮まで」約1kmを経由し、「唐櫃越」登山口である「鵜の川遊歩道」南条橋に寄り道して約2km、合計約3kmでJR馬堀駅に到着します。

この古道を歩くにあたって

この古道は400m前後の低い山地の中でもより低い鞍部を利用しているため、年間を通して登山用具は季節に応じた軽装で賄える。
道はほとんどが舗装路であり、老ノ坂頂上付近約200mのみが山道である。
年間を通じこの経路を歩く登山者は非常に少ないようだ。
より低い峠や谷筋を最大限に活用した古道であるため、展望は望めない。

古道を知る

古代の山陰道

7世紀から8世紀にかけて平城京、長岡京、平安京と都が移り替わったが、古代日本の律令制においては都所在地を五幾、全国を七道の広域行政区画に分け、五幾と各地方の広域行政区画に向かう官製街道として七道を制定、七道の国府それぞれに向けて、同名の幹線官道(駅路)が結んでいた。
その道幅は奈良時代は12m、平安時代は6mにおよび、、平野や多少の起伏地形は直線で貫く直線道路を基本として、総距離およそ6300kmという現在の高速道路網を凌駕するきわめて大規模なものだった。
約16kmごとに駅家(うまや)を設け、全国には約400か所の駅家があったという(武部健一著、木下良監修『続古代の道』)。
山陰道は、丹波、丹後、但馬、因幡、伯耆、出雲、石見、隠岐をいい、道は本路が424.2kmあったという(前掲書)。
平安京の羅城門から5町(約550m)南に行った大縄手で西に直進し、桂川を渡って国道9号線に近いルートで老ノ坂峠を越えて、丹波の亀岡盆地に至る道である。
大縄手の分岐では、山陽道と南海道はそのまま南進、東山道・東海道・北陸道は左折だった。
また、平安京に加え、平城京、長岡京、そして近江京から老ノ坂峠への道筋も、いずれも大枝沓掛付近に集束されていたようだ。
そして「延喜式」によれば、最初の駅家が大枝駅であり、8疋の馬が用意されることになっていた。
奈良時代の大枝駅は老ノ坂より東にあったが、都が京に移ってからは亀岡市篠町王子付近にあったと推測されている。

近世の山陰街道

京の都から丹波に向かうのは、七条通の西詰にある丹波口が出発点だった(現在の梅小路京都西駅付近)。
豊臣秀吉によって作られた京都を囲む土塁、御土居の丹波口は千本通七条上るにあった。
丹波口は平安京に遷都以来、数百年以上も公設市場として賑わいをなした。
江戸時代、慶長7年(1602年)には、西本願寺の西に公許遊里が移転し、「島原」と呼ばれて賑わっていたという。
国の重要文化財建造物である揚屋の角屋(すみや)や置屋の輪違屋(わちがいや)などの建物がいまも並んでいる。
桂川には「桂渡(かつらわたし)」と呼ばれる船着場があり、行楽地でもあった。
皇族の八条宮家の別邸である桂離宮でも有名だ。
丹波口から約6kmのところにあったのが、樫原宿(かたぎがはらじゅく)である。
下ノ町には本陣玉村家が現存し、いまも宿場の雰囲気が残っている。

深掘りスポット

王子橋

亀岡側に老ノ坂を降り、国道9号線を越えた地点から現国道9号線に沿って残っている新山陰道に架かる橋。
田邊朔郎設計の石造アーチ橋で、歴史的土木施設として高い価値があり、土木学会推奨土木遺産とし認証されている珍しい構造形式をもつ道路橋である。
これにちなんで京都縦貫自動車道の橋もアーチ橋で建設された。
現在は人と自転車の専用橋として利用されている。

大江関(おおえのせき)

山城国と丹波国の境、旧山陰道の老ノ坂峠の手前(京側)に設けられた関所。
大枝山関(おおえやまのせき)・大江山口関(おおえやまぐちせき)とも呼ばれ、現在の「関の明神」が関所跡だとされる。
平安時代に軍事的・治安維持的機能、および穢れや邪悪から都を防衛するために関所を設置したという。
承和の変や保元の乱などの際には、関所を封鎖していた。
応永30年(1423)に 室町幕府が関銭額を定め、徴収権を与えられた嵯峨天龍寺は多額の収益を上げていたという。

大枝の陵墓

桓武天皇の皇后であった淳和天皇御母陵と桓武天皇御母陵がある。
どちらも長岡京で亡くなり、この地に葬られた。
この地は古墳時代は葬送の地で、ほかにも多くの古墳がある。
近くの大枝神社には円墳があり、鳥居のところに横穴式石室の天井石が露出している。

篠村八幡宮

足利尊氏が鎌倉幕府打倒のために挙兵をしたところとして名高い。
1331年(元弘元年)後醍醐天皇が鎌倉幕府討幕を意図して笠置で挙兵した。
これがいわゆる「元弘の乱」である。
足利高氏(後の尊氏)は、鎌倉幕府北条高時の命により「クーデター」を鎮圧、後醍醐天皇は1332年(元弘2年)隠岐に流され、高氏は鎌倉へ帰った。
しかし、1333年(元弘3年)後醍醐天皇は隠岐を脱出し伯耆国船上山に籠城した。
高氏は再び後醍醐天皇を封じる命を受け上洛するが、後醍醐天皇と密かに連絡を取合い、鎌倉幕府討幕の密勅を受取る。
5月7日、兵2万5000を率いて丹波篠村八幡宮を出発、おそらく老ノ坂、唐櫃越を通り鎌倉幕府の京の拠点である六波羅探題を攻め落として鎌倉幕府150年の歴史の幕を引くにあたり大きな役割を果たした。
高氏は出陣前の4月2日篠村八幡宮に戦勝祈願の願文を奉じており、尊氏自筆の祈願文が残っているとのことである。
後醍醐天皇の建武の新政に当たり高氏は、鎮守府将軍に任ぜられ、名前も高氏から尊氏へと変わった。
尊氏が戦勝祈願した篠村八幡宮は、JR馬堀の駅、あるいはトロッコ亀岡駅から南東へ徒歩10分程度である。
1335年(建武2年)鎌倉では北条残党による「中先代の乱」が勃発。
尊氏の弟直義が対応したが戦況は思わしくなく尊氏自らが朝廷の許可なく鎌倉へ出向き対応した。
勝利した尊氏は鎌倉に留まって戦の恩賞を独自に配ったという。
なかでも同門の新田義貞の所領まで下げ渡したという。
これらにより後醍醐天皇との関係も悪化し、1336年ついには「建武の乱」が勃発する。
尊氏は、箱根、足柄古道の竹之下の戦で勝利し、上洛するも後醍醐天皇方の反撃にあい、籠城していた東寺を出て老ノ坂、唐櫃越を通り西国九州に逃がれた。
途中、再び篠村八幡宮で味方の兵を集め、再起祈願をしたという。
その後光厳上皇の院宣を受け、太宰府天満宮を拠点に西国武士を集め上洛し、京都を制圧して光明天皇即位を支援した。
これらの功より1338年(歴応元年)征夷大将軍に任ぜられた。
この篠村八幡宮に尊氏は、2度の大願成就をしたとして1349年お礼参りをしているという。
このように老ノ坂峠、唐櫃越は、明智光秀以前にも足利尊氏をはじめ多くの武将達が行き来した歴史の道である。
(唐櫃越と同じ内容)

まつわる話

首塚大明神

大江山(あるいは大枝)に酒が好きな鬼、酒呑童子(しゅてんどうじ)が住んでいた。
由緒書に寄れば、都を荒らす酒吞童子を、源頼光一行が大江山で征伐し首を担ぎ老ノ坂まで来たところ、道端の地蔵が「不浄なものを都に持ち込むことはならん」と言われ、家来の坂田金時が持っていた酒吞童子の首が急に重くなり、やむなく峠に首を埋めたという。
小祠の背後の石塚がその首塚と伝える。
酒吞童子は討たれる時に悔い改め、これからは世の人を助けたいと言い残した。
以後、首塚大明神は首から上の病に霊験あらたかと今に伝えている。
なお、『御伽草子(おとぎぞうし)』などに描かれている「酒顛童子」の大江山は千丈ヶ岳の大江山を指しているが、こちらの大江山が元であろう。

占い石

国道を横断し、土木学会推奨土木遺産の「旧王子橋」から旧山陰街道を進み、林道分岐を少し進んだ路傍にこんもりとした石が路傍にある。
由来書によると往古、山陰街道を行きかう旅人は、この石に座る辻占い師に旅の吉凶を問うたという。

ルート

【スタート】
阪急京都線の桂駅
桂駅東口(京阪バス亀岡行乗車)
↓(15分)
国道沓掛下車
↓(約0.5km:10分)
関の明神
↓(約0.9km:15分)
京都霊園前交差点
↓(約1.6km:40分)
首塚大明神
↓(約0.4km:10分)
旧老ノ坂峠
↓(約1.2km:20分)
国道9号王子橋
↓(約1.3km:30分)
王子神社
↓(約1.2km:15分)
篠村八幡宮
↓(約1km:15分)
唐櫃越登山口「鵜の川南条橋」
↓(約1km:15分)
JR馬堀駅
計=約9km:3時間(休憩時間は含まない)

アクセス

阪急電鉄京都線桂駅、京都バス(東口)亀岡行で国道沓掛下車
JR山陰本線馬堀駅または亀岡駅  

参考資料

足利健亮『景観から歴史を読む』NHKライブラリー、日本放送出版協会発行
村井康彦編集『京都・大枝の文化と歴史』思文閣出版
武部健一著、木下良監修『続古代の道』吉川弘文館

協力・担当者

《担当》
日本山岳会京都・滋賀支部
 村上 正
 岡田茂久
《協力》
日本山岳会MCC

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