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66 東山道 保福寺峠

東山道 保福寺峠

古道を歩く

市之沢集落から保福寺峠

保福寺峠(ほふくじとうげ※)越えは、始点を長野県青木村「市之沢宿」、終点を松本市保福寺町(ほふくじまち)にある「保福寺宿(ほうふくじじゅく)」としました。
市之沢宿には、公共機関を利用する場合は、上田駅方面からは千曲バスと青木村営バスを利用して市之沢バス停で下車します。
バス停の向かい側の大きな家が荷物の取次所兼旅館の「つた屋」で、あたりに古い町並みが残っています。
なお、市之沢集落に入る手前(上田側)にある、恋渡(こえど)神社の鳥居前には「歴史の道 東山道」の標柱があります。
市之沢宿を保福寺峠に向かって県道181号線を歩くと臼川の橋があり、渡ったところに左に入る道があります。
左に行くと瀬合川を渡り、少し上ったところの右手に「歴史の道東山道 保福寺峠上り口」と書かれた標柱が立っています。
(※『コンサイス地名辞典』三省堂、『日本山名辞典』三省堂、によった)

右手に見ながら通り過ぎて、すぐの分岐を右へ曲がると林の中に入ります。
野生動物用の柵を開け閉めし、農作業の道なりにずっと登っていくと、瀬合川近くでさきほどの県道181号線に出ます。
しばらく県道を歩くと左手にパターゴルフ場の跡があり、清水茶屋の標柱があります。
その150mくらい先、左手に道型が見え、入りくちに「東山道」の標柱が倒れています。
路面には笹が伸びてきていますが、幅3mほどの広い道をゆるやかに登ります。
車道に出る直前の左手に「一遍水 石川軍陣地跡」の標柱がありますが、水場は見あたりません。

県道をさらに100mほど歩くと、左手に道型が見えますが、入り口に古道だという目印はなく、路面に草が茂っているのでわかりにくい箇所です。真っ直ぐ歩くと再び県道に出ます。この分岐には「東山道」の標柱があります。
しばらく県道を行くと、右手にやや登り気味に傾斜した道が現れます。
最初はふくらはぎの高さまでの笹をかきわけて歩きますが、幅2mくらいで道は明瞭です。
南西方向に道は向かっています。
しばらく歩くと右側に、入奈良本牧場の柵が続くようになりますが徐々に離れます。

かき分ける笹がなくなり、路面が見えるようになると、縦横に作業用林道が交差するため、入り込まないように注意して、曲がることなく真直ぐに進みます。
周囲が平らで広くなると、左手に「中の茶屋跡」の標柱が見え、道幅が狭い県道181号線に出ます。
向かい側に「上 追分へ 下 中の茶屋跡」の標柱があり、また古道をしばらく進むと尾根の上に「右 北向山 別所道」と彫られた高さ2mの大きな石の道標が立っています。
これを左に見て直角に進路を変え、南西方向と緩い坂を上っていきます。
「接待茶屋跡」の標柱に続き、「石止観音」を右に見て、車道を少したどったら、カーブする手前で突っ切る古道に入り、最後は車道を歩いて保福寺峠(標高1345m)に着きます。

左手の交通標識に「県道181 松本市保福寺峠」とある他は、スカイラインの古びた地図と万葉歌碑だけが立つ、やや広い場所となっています。
左手に「ウオルターウエストン 日本アルプス絶賛の地」という標柱があり、小高い丘の上に、西を向いた石碑があります。
碑を背にして遠望すると、晴れた日には北アルプスの山並みが見渡せます。

保福寺峠から保福寺町

下り口は、万葉歌碑と車道を挟んで反対側の階段からとなり、(今は、壊れたトイレの建物があり、その裏手)「歴史の道東山道 江戸道入口」の標柱が立っています。
少し下るとすぐに車道に出て、向かい側でまた古道に入ります。
幅が2~3mあり、緩やかな下りで次に車道に出たところに、モミの大木と、一遍水の説明版、ベンチ、そして水が音を立てて流れ出ています。
そこからはゆるやかに下っていく車道歩きとなります。

ガードレールから下を覗くと、幅広い道型が見えていますが、ところどころで崩落しているために通行できません。
あとは県道181号線をひたすら保福寺宿に下っていきます。
ヘアピンカーブを過ぎて商人沢沿いの道に下りていきます。
本来の古道は商人沢(保福寺川の上流)の上流から保福寺峠に真っ直ぐ道があったようですが、商人沢の上流にある堰堤の手前で消失しています。
県道と商人沢沿いの道の分岐、商人沢が保福寺川と合流する近くの角に「保福寺峠」と「一遍水」 の看板があります。

家々が立ち並び、西方に向かう道の展望が開け、「保福寺大王」のバス停と津嶋神社の鳥居があります。
右手にこんもりした森が見え、保福寺の山門が見えます。
道の反対側には「保福寺町 番所跡」の石碑が立っています。

西に向かうと道は枡形のクランクになり、保福寺宿に着きます。
保福寺宿は明治に大火があり、古い町並みはあまり残ってはいませんが、その雰囲気はいまでも残っています。
コミュニティバスの保福寺下町バス停が見えます。
コミュニティバスの便がないときは、3km先の「化石館」バス停まで車道を西へ歩くことになります。

この古道を歩くにあたって

上り下りとも緩やかで危険個所もない。
青木村の側には要所要所に標柱が立てられているが、車道から入るときにわかりにくい所も2か所ある。
林道と交差している部分は、左右に入り込まず、直進を心がける。
松本市の側は、上部のみ古道を歩けるが、ほとんどは舗装道路を歩くことになる。
11月下旬から4月下旬までは冬季閉鎖される。

古道を知る

東山道保福寺峠越え

東山道は、古代日本の律令制における「五畿七道」のひとつで、行政区分として近江国、美濃国、飛騨国、信濃国、上野国、下野国、武蔵国、陸奥国、出羽国の国々を指し、古代から中世にかけては、畿内からこれらの国へ至るための東山道諸国の国府を結んだ道も指していました。
『日本書紀』では「東ノヤマノ道」、『西宮記』では「東ノ道」と記載され、政治面・軍事面で重要で、最短ルートでもありました。
東山道は、京の逢坂峠から神坂峠、伊那谷を抜けて、筑摩山地(現在の松本市と上田や長野との間にある山地)を越える保福寺峠を行き、上田にある国府に向かっていました。
三才山(みさやま)峠、武石(たけいし)峠越えのルートもありましたが、距離は短いものの地形上険しく、一般的には使われなかったようです。
松本市と上田市の間には錦織駅(旧四賀村錦部)と浦野駅(青木村岡石)が設置され、駅馬が15疋置かれていたことが「延喜式」に記載されています。
青木村の浦野駅の調査から、大宝年間(701~704)に開削されたと考えられ、東北に向かって直線状に進み、千曲川を渡って上田の国府に続いていました。
千曲川を渡るところは曰理駅(わたりのうまや)が設置されました。現在の古舟橋の北岸にあたると考えられています。
平安時代の初期に国府が上田から松本市大村に移転し、信濃守護所が設けられます。

中世以降の保福寺街道

中世に入ると、塩田北条氏によって塩田平(上田市)に数多くの神社仏閣が建てられました(信州の鎌倉と呼ばれています)。
保福寺街道は政治・軍事上の要衝で、文亀2(1502)年に小笠原氏が保福寺に掻揚(かきあげ)城を築き、天文17(1548)年に村上氏と武田氏が、同19(1550)年には小笠原氏と武田氏が、慶長5(1600)年には真田氏と石川氏が沿線で戦火を交えています。
江戸時代には塩尻経由の中山道よりも三里ほど短いために、松本藩では寛永19(1642)年以降の参勤交代の通路としています(それ以前は、約30年間、三才山道を使用)。
浦野宿や保福寺宿の成立は、慶長19(1614)年と考えられ、朝松本城を出て保福寺宿で休み、浦野宿で泊まるのが定式でした。
庶民の通行や物資の輸送にも重要なため、道普請もたびたび行われています。
松本からは米穀類、酒、薪、紙、柿、戻り荷は塩、茶、こうぞ、絹、紬、塩、下駄、瀬戸物、海藻、魚、反物、麻などが通りました。
明治23(1890)年に長野県道(現在の国道143号線)が開通し、さらに、明治35(1902)年に篠ノ井線が開通するとこの道は荒廃していきました。
ちなみに、青木峠の下を通る明通(あけどおし)トンネルは、国道トンネルとしては日本最古だそうです。
昭和39(1964)年に保福寺林道、さらには舗装された県道も開通しました。
なお、上田—青木村間に、大正10(1921)年に電気軌道が敷設され、昭和13(1938)年に廃止になっています。

深掘りスポット

大法寺(天台宗 一乗山 観音院)

小県郡青木村にある。
東山道浦野駅の駅寺として、藤原鎌足の子、定恵上人が大宝年間(701~704)に開き、初めは大宝寺と号した。
その後、大同元(801)年に坂上田村麻呂の祈願により、初代天台座主義真法印が再興したと伝わる。
寺伝によれば、永正2年(1505)三重塔と観音堂を残して焼失し、同8年戸隠山勧修院の月如法印が再建され、以後同院の末寺となったことが記されている。
明治維新以降は再び延暦寺末となっている。
正慶2年(1333)建立の国宝三重塔、戦国時代建立の本堂、重文木造十一面観音立像、木造普賢菩薩立像(両像とも藤原時代末期の作)などがある。
三重塔は大阪四天王寺の大工四郎兵衛ほか御番匠七人の手で建立され、その優美さから旅人が振り返り、「見返りの塔」と呼ばれる。

<アクセス>
上田駅より千曲バス青木線にて当郷バス停下車10分。
上信越自動車道上田菅平インターより国道143号線を道の駅あおき方面へ。川西消防署の先を右折、直進。

浦野駅(うらののうまや)跡

8世紀の初め東北地方開発のために開設された東山道の駅で、信濃国府に隣接しており、特に道中の難所、保福寺峠をもち重大任務を果たした。
常備駅馬15匹の延喜式所載の駅跡。昭和50年の発掘調査により、多数の遺構と遺物が発見されて、東山道浦野駅跡と推定された。

恋渡(こえど)神社

入奈良本の氏神であり保福寺峠の守護神を祀る。
創建年代は不明。農耕の神、養蚕の神、火防の神として知られる。

保福寺峠にある万葉歌碑と「日本アルプス絶賛の地」石碑

昭和58年3月に青木村と四賀村が資金を出し合って建立。表面は西本願寺本の原本から採った万葉仮名で刻まれている。
信濃路は 今の墾道(はりみち)刈株(かりばね)に 足踏ましむな 履著(くつは)けわが夫(せ)
万葉集のこの歌は、この峠路を詠んだものという。
明治24年(1891)7月、ウエストン卿が信越線上田駅から人力車夫2人を雇い、午後6時にこの峠に立ち飛騨山脈を眺め感動し、後に日本アルプスを世界に紹介したため、「日本アルプス絶賛の地」の石碑が立つ。このあと、徳本峠を越えて上高地へ入った。

一遍水

鎌倉時代に一遍上人が念仏遊行の際に休息し水を飲まれた場所と伝わる。
江戸時代末から明治までは商人茶屋が営まれ、建物は大正末期まで残っていたという。
その下は、昭和34年の台風災害で崩れ、堰堤を入れたので通行不能となった。

保福寺

もと真言宗、のち臨済宗、今曹洞宗。鎌倉時代の創建。
大きなわらじがかかった仁王門は宝暦8年(1759)建立で寺では最も古く、高さ250cmの仁王像一対を安置する。
右方の上り坂には、道祖神・庚申塔・馬頭観音・二十三夜塔・本堂建築記念碑などが並ぶ。
明治15年の大火で他は再建。本尊の十一面千手観音は文永年間の作で、前面二対の腕は当初のものも、他は後のもの。
右の坂道上には享和元年(1801)から昭和7年までの馬頭観音や文字碑が二十七基も並ぶ。

保福寺番所跡

永正10年(1513)小笠原氏は番所を設け、小沢氏に銘じて番をさせたという。
建物は明治初年焼失し、石垣のみ残る。
昭和12年に番所役人末裔の小沢榊氏が建てた浅井冽書の「保福寺駅東口旧御番所跡」の碑がある。

ミニ知識

ウォルター・ウェストンと保福寺峠

英国宣教師ウォルター・ウェストンは明治24(1891)年に保福寺峠を越えている。
明治21(1888)年、新潟県の直江津駅から群馬県の高崎駅に鉄道(新幹線が走る前の信越本線)が開通し、ウェストンは上田駅で下車し、人力車で松本に向かっている。
篠ノ井線もまだ開通しておらず、松本にはこれが最短コースだった。
ウォルター・ウェストン著 岡村精一訳『日本アルプス 登山と探検』(平凡社ライブラリー)には次のように書かれている。
「造られてまもない立派な道路なので、屈強な二人の車夫は浦野までなんの苦もなくずんずん走れた」
明治23(1890)年に長野県道(現在の国道143号線)が開通し、上田から浦野(青木村)まではほぼ直線道路だった。
しかし保福寺街道はそうはいかなかった。
「浦野からの道路の表面は年月を経て起伏ができたり、雨が降るたびに造られる小さな激しい流れで傷められたりして、不快なほど凸凹になっていた」
ウェストンは人力車を下り、険しくほとんど木のない丘陵を6km登って行く。
「そののぼりは、何もない草だけの斜面にかかったり離れたりうねうねして行ったが、その斜面は火山岩燼(もえがら)でできていて、午後の暑い光をまともに受けていた。午後六時に、海抜一三五〇メートルの山頂に着いた。それから、その尾根の割れ目の右側にある小さな丸い丘に立つと、あの大連峰の全光景が始めて眺められたが、その景観にわれわれの心はひきつけられた。
私たちは、思いがけなくその展望に接したので、その壮麗さにはただ驚嘆するばかりだった。その連峰の中央部と南部全体は、足の下に広々と拡がる松本平とそのかなたの淋しい飛騨の国とのあいだに、一つの大きな障壁ように、西の方の前面にそびえていた。高さ三〇〇〇メートルないしそれ以上の雪襞のある尾根や気高い峰々が、落日に映えたオパール色の空を背景に、紫の輪郭も鮮やかにそびえている。日本のマッターホルンである槍ヶ岳(槍の峰)やペニンアルプスの女王ワイスホーンの縮図を想わせる優美な三角形の常念岳、それより遙か南のほうには、どっしりした双峰の乗鞍岳(鞍の山)がそびえ、それぞれ特徴ある横顔を見せている」
彼らは保福寺村を通り、湿っぽく薄暗いトンネルを抜けて、午後10時ごろに松本に着いている。

ルート

青木村営バス 市之沢バス停
25分  ↓ 1.5km↑ 22分
歴史の道 東山道 保福寺峠上り口 の標柱
20分  ↓ 800m↑ 15分
清水茶屋跡
60分  ↓ 2km↑ 45分
中の茶屋跡
35分  ↓ 1.2km ↑ 20分
保福寺峠
20分  ↓ 1km ↑ 45分
一遍水
100分  ↓ 7km ↑ 120分
保福寺町 番所跡(保福寺前)
45分  ↓ 3km ↑ 50分
松本市四賀化石館前バス停

アクセス

■公共機関
・「市之沢宿」
上田駅から千曲バスで青木バスターミナル下車。
青木村コミュニティバス「ふるさと号」に乗り換えて市之沢バス停下車。
・「保福寺宿」
松本バスターミナルよりアルピコ交通バス四賀線で化石館下車。
松本市コミュニティバス四賀循環線に乗り換えて保福寺下町バス停下車。
■クルマ
・「市之沢宿」
上信越自動車道の上田菅平I.Cから国道18バイパス経由で国道143号線沿いの道の駅あおきを通り過ぎ、青木の交差点で右手へ青木峠に向かう143号線と分かれて左の方へ。
約2.5km先で沓掛温泉の方でなく、右に曲がる。
恋渡神社鳥居を目指し、鳥居の先に市之沢バス停がある。
バス停近くに公共の駐車場なし。
・「保福寺宿」
長野自動車道の安曇野I.Cから四賀化石館へ向かう。
大口沢信号を四賀方面へ。
トンネルを抜けて最初の信号を右折し、突き当りを右折して化石館を左に見ながら保福寺へ。
バス停近くに公共の駐車場なし。

参考資料

『歴史の道調査報告書17 保福寺道』 長野県教育委員会編 1986年3月

協力・担当者

《担当》
マウンテンカルチャークラブ(MCC)
松本博子

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