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43 沼田会津街道 尾瀬越え

保護中: 沼田会津街道 尾瀬越え《群馬側》

群馬県沼田と福島県会津を結ぶ「沼田会津街道」は、古来より関東と東北を繋ぐ交易の要衝であった。
慶長5年に真田信之が戸倉に関所を設けて以来、難所ながらも物資往来の重責を担い、戊辰戦争時には軍事拠点にもなった歴史を持つ。
沼田から片品へ至る「東入り」の路は複数の峠を経て戸倉へ集約され、そこから三平峠・沼山峠という標高2,000m近い山岳区間を越えていく。
かつては尾瀬沼の小屋を拠点に盛んな交易が行われたが、現代では自然保護を優先し車道建設が中止されたため、国道401号は今なお寸断されている。
日本でも稀な「車道のない県境」として、往時の風情と峻険な自然を今に留める稀有な街道である。

古道を歩く

東入り(沼田から片品村)川場回りルート

起点は沼田市西倉内町の沼田城址にある沼田公園、沼田城の御馬出しから国道120号に沿って東の沼田インター方面へ向かう。
途中、沼田台地の水を潤した城堀用水の脇を歩く。これは、享禄3年(1530年)の沼田城築城にあたり作られた白沢用水と、寛永5年(1628年)、さらに不足した水を補うため作られた川場用水を合流させたものである。
インターを超えると川場村への分岐となる。この分岐で左の川場方面へと向かう。
延命寺を右に見て川場分岐から約3kmの緩い左カーブが始まる所に弁財天道標(1741年)がある。

道標を過ぎて下りきったところが白沢町方面と川場村方面の分岐となる。
川場ルートは左に向かう。左手の道の駅を過ぎ信号をまっすぐ進むと谷地の信号に出る。
ここを右折して片品方面へ向かう。
川場湯原の直線道路が終わり川場温泉を過ぎると、左の奥に入ったところに、彫刻が見事な武尊神社(1718年)がある。

さらに進むと右手に小住温泉が見えてくる。この先の武尊温泉手前右手に薄根川を越える橋がある。
ここが赤倉峠への入り口だ。(ここまで川場村ルート共通となる)

■赤倉峠(1100m)ルート

赤倉峠ルートは赤倉八景を有する赤倉渓谷沿いとなる。現在は林道が整備されているがここから赤倉峠までは、ゲートがあり一般の車は入れない。赤倉峠から片品村側の花咲、針山方面に降りる林道がある。また赤倉峠から片品村幡谷までの道は途中まで林道だが、幡谷に降りる道が良くわからない。この林道は南の沼田市白沢町の栗生峠隧道まで続いている。

■千貫峠ルート(1220m)

赤倉峠入り口を右に見てさらに県道を進むと木賊(とくさ)部落に入る。右に小さなお堂(如意輪観音堂)がある所が入り口だ。源義経が平泉に落ちる際に通ったという伝説がある。
沼田顕泰が峠の岩に生い立つ松の古木を見て「われ世にある時なれば千貫文の領地にもかえがたし」と詠んだことからこの峠の名前が付いたといわれている。
以前あった解説看板は撤去され、現在では入口に新しい看板が立っている。
道は沢沿いに登って行く。杉の植林がありわかりづらいところもある。
標高1000m付近に小さな道標があるが道はわかりにくい。ここから傾斜が急になり枝沢に入っていく。
さらに傾斜が急になり石垣を積んだ跡がわかるつづら登りとなる。
石垣が崩れていて歩きにくい。尾根に出ると地蔵菩薩が出迎えてくれる。

この尾根を登り詰めると千貫峠(1250m)に出る。峠近くには弁天様と十二様が祀られている。

片品側の道は植林のためわからなくなっている。伐採のために入った重機の跡を地図だよりで林道まで出るしかない。足元にはくれぐれも注意が必要だ。入り口から林道まで約4km、2時間半(参考タイム)。

■花咲峠(別名背峰峠・1206m)ルート

花咲峠または背峰峠と呼ばれる峠である。川場回りルートでは一番使われていたルートらしい。
川場からのルートは県道のり面、植林のため入り口が良くわからない。片品側の林道から古地図を頼りに登る。
花咲峠の代わりに現在は背峰トンネルができている。
背峰トンネルから片品側に下り、標高1040mカーブを曲がったところから林道に入る。林道の1130m付近より左の尾根に取り付くとはっきりした古道が現れる。標高差70mで花咲峠に到達する。峠には石碑一つのみ現存している。

川場側の道は峠からしばらくははっきりした道があるが、途中から植林地となり作業道をたどって下るしかない。途中古道らしき道はあるがはっきり確認はできない。のり面を回避して作業道を県道まで下りる。古道は現在の県道より下にあるようだがはっきりした道は確認できなかった。現在の県道を川場まで下るのが賢明だ。千貫峠入り口から千貫峠に登り、片品側の林道に降りてから花咲峠に向かうルートでコース取りするのが良いと思う。

■花咲から御座入(みざのり)経由で土出

川場回りの峠越えの道は片品村の花咲で合流する。花咲からさらに針山峠を越えるがこの峠に現在道はない。街道は花咲登戸を経由して宇条田峠に向かう。

古道ははっきりしていないが細い車道があり、峠近くには電波塔が立っている。この峠を下ると片品川沿いの御座入部落となる。古道は御座入を過ぎ片品川右岸を行って土出に至るが、この道も現在ははっきりしていない。土出で高平回りルートと合流する。

東入り(沼田から白砂経由で片品村)高平回りルート

前出の川場村との分岐から沼田市白沢町の高平宿に向かう。
水田の中を進むと「東入り」と記された石の道標がある。

ここを右に向かい学校のそばから現在の国道401号へ出ると高平宿がある。
峠手前の宿場町でありそれなりに栄えていたと思われる。栗生峠との分岐手前には番所が存在した。
高平の書院、五葉松など数々の歴史建造物や天然記念物が現存している(ここまで白沢町ルート共通となる)。

■栗生峠(960m)ルート

1920年(大正9年)にこの峠の真下に栗生トンネルが開通した。
さらに1997年(平成9年)に現在のトンネルが竣工し、若山牧水の歌碑が白沢町側入り口に移設された。
「相別れ、われは東に、君は西に、わかれてのちも、飲まむとぞおもふ」。崇徳院の詠を思い起こさせる詩である。
このトンネルの開通でバス通りとなり輸送量が大きく変わり、椎坂峠に車道ができるまでメイン通りとなっていた。
高平宿の東の端で分かれ道となり、左へルートをとる。車道を約400mで右に入り細い林道をたどる。
白沢用水沿いに登る。この道は定かではないがこの近くを通っていたと思われる。
栗生トンネル手前で赤倉栗生線林道と合流する。このあたりから峠に行く道があるはずだが、植林のため不明。
また、大原新町側は道路ののり面で不明である。峠にどうしても行きたい時は栗生トンネルの大原新町側から赤倉峠に行く林道を少し行き、のり面が低くなったところを強引に登り、のり面の上を行くと古道がはっきりあらわれる。
ジグザグをくりかえすと栗生峠に到達する。

白沢町側に降りる道もはっきりしている。石垣跡が見られるジグザグ道を下るが、植林のために道がわからなくなる。
栗生トンネルから大原側は、現在の道より下を通っていたようだが道は不明。
林道を下りきったところに昌竜寺があり会津街道であったことが現代の石碑に刻まれている。
お寺を過ぎると各峠を越えて合流する大原新町の宿場に到着する。

■数坂峠(850m)ルート

数坂(かっさか)峠は栗生峠と椎坂峠の中間に位置している。明治27年には馬車道の隧道を作ろうとしたが、完成間近で落盤事故が起きそのまま埋められて破棄されたが、現在でも高平宿側の入り口が残っている。
高平宿最後の分かれ道を右に進み生枝の部落へ進む。現在の国道401号の椎坂トンネル入り口の手前を左手に入るのが古道であるが、今ははっきりしていない。
椎坂トンネルができる前の国道を行くと、大きな右カーブの所から古道に入ることができる。
小さな沢の右岸に取り付くと古道がはっきりとしてくる。しばらく行くと首無馬頭観音があらわれる。
ここから植林のため道が交錯している。峠に向かい右手を登って行くと、破棄された数坂隧道が現れる。
峠は真上なので隧道に向かう道は古道ではないようだ。峠には道ができており、近くには採石場がある。

大原新町へ降りる古道は高平側よりはっきりしている。
隧道を作るための石が散乱しているところを通り、はっきりした道を下ると先ほどの旧国道に出る。
ここから先は道が無くなっているので旧国道を下り、大原新町へ行くコースをおすすめする。

■椎坂峠(793m)ルート

椎坂(しいさか)峠は数坂峠の南に位置している。1964年に2車線化され片品に入るメインのルートとなった。
さらに2013年には椎坂バイパスとしてトンネル化され、短時間で安全に交通できるようになった。
古道は高平宿の東端の分かれ道を左に行く。生枝の信号を右に行くと生枝の集落となり、はずれの下りに入る前を左に行く。現在は林道となっており、この途中から右に入るのが古道ルートであるが、道はなくなっている。
林道を登ると椎坂峠より南に向かう林道と合流する。これを左折し椎坂峠に向かう。
現在は廃屋となっているオルゴール館を右に見て敷地の東端と国道のコンタクトするところを急ではあるが強引に50mほどくだると、おぼろげに古道が出てくる。
途中、国道工事の土で覆われている所が出てくるが、ルートはわかる。
沢南郷のバス停に向かいその手前を左に折れると武尊大明神を鳥居に掲げる神社がある。
導きの神様である猿田彦大神の石碑がある。

街道を示すものと言って良いだろう。バス停に戻り大通りを行くと左手に集落がある。
ここを左に曲がり登って行くと、数坂峠からの旧道に合流し大原新町へ向かう。

大原新町から土出

大原新町は東入ルートの栗生峠、数坂峠、椎坂峠が集まる通り道で、今でも宿場町のたたずまいがうかがえる。
また、東には「脚気川場に瘡老神」と言われた湯治場、老神温泉がある。ぜひ入浴をお勧めする。
集落の中を道は北へ向かい、現在の国道401号に出る。
「滝は吹割(ふきわれ)片品渓谷」と言われる片品渓谷の白眉は名勝「吹割の滝」。滝見物の観光客でにぎわっている。その手前の信号を右折し渓谷にかかる橋を渡り旧道に入る。この橋の周辺に軍事目的の刎橋があったと記録されている。ここから追貝(おっかい)集落に入る。道は旧道を直角に曲がり右の坂を上り追貝原に出て平川集落に向かう。
片品渓谷の上流で合流する泙川(たにがわ)を渡るルートは二つあり、本道は旧平川小学校付近の土橋を渡り、近道は手前の千鳥橋を渡る。

合流して国道401号に出てから伊香原集落に向かう。伊香原から現在の401号を進み、片品村境の大立沢を渡った付近から右に登るのが古道であるが、はっきりしていない。
下平集落から築地を通り小立沢を渡って菅沼集落に入る。現在の鎌田より東のルートを行き、東小川で小川を渡る。
千明牧場を巻くように進み、細工屋手前で片品川を渡り土出に至る。

土出から大清水

土出で再び片品川を渡り左岸にある401号に出て戸倉まで進む。
戸倉の入口に関所跡がある。戊辰戦争の時に会津藩が焼き討ちした関所である。
戸倉集落を抜け、古道を忠実には行かないが国道401号を進み、尾瀬ヶ原への玄関口の大清水まで至る。

大清水から沼山峠

大清水から一ノ瀬までは林道があり、低公害の乗り合いタクシーが運行している(運行期間注意)。
その林道の右下が会津街道でほぼ林道沿いとなる。この林道は尾瀬沼を経由して福島まで車道を通す計画が中止された名残で一ノ瀬の上の岩清水近くまで道路跡が残っている。
一ノ瀬から林道の橋を渡るとすぐ左に登山道入り口がある。
沢の左岸を行きこの沢を渡って少し登ると岩清水があり、美味しい水が飲める。
ここから七曲のつづら登りの急登となり、傾斜が緩くなってからしばらく登ると三平峠だ。
針葉樹林の深い森を下っていくと尾瀬沼湖畔の尾瀬沼山荘に着く、ここからは湖畔を反時計回りに長蔵小屋へ向かう。
尾瀬沼と燧ケ岳が良く見える。長蔵小屋の手前で福島県に入る。
長蔵小屋は1890年(明治23年)に尾瀬沼の沼尻に平野長蔵によって建てられたのがその始まり。
1915年(大正4年)、今の場所に移り、現在の建物も1934年(昭和9年)に建てられた由緒あるもの。
また、燧ケ岳の火山活動によってせき止められてできた周囲約6kmの尾瀬沼は標高1665m。
日本で最も高いところにある湖と言われている。
その昔にはこの湖畔には小屋があり、上州と会津の交易がおこなわれていたという。
現在は小屋だけでなくビジターセンターもできている。長蔵小屋から大江湿原に向かう。
夏から秋にかけてはたくさんの高山植物が楽しめる。
長蔵小屋を経営する平野家の墓を左に見ながら沢を渡ると、木道の間に小さな「土塁跡」の標識がある。
矢印の方向を見ると、会津藩が官軍の進軍を防御するために作った土塁が見える。
大江湿原から登りとなり30分ほどで沼山峠に着く。
ここから下るとすぐに福島県側からのバスの終点となる沼山峠休憩所に到着する。

この古道を歩くにあたって

国道401号と川場から片品へ抜ける県道を通るルートが大半を占め、山道を歩くという場所は、群馬県側では川場から抜ける花咲峠(背嶺峠)、千貫峠、林道を行く赤倉峠と、高平宿から抜ける栗生峠、数坂峠、椎坂峠および大清水から尾瀬沼の間くらいしかない(長蔵小屋以北は福島県)。前記の6つの峠は入口から出口まではっきりわかる古道はなく、地図を読みながら踏み跡をたどる程度である。さらに動物との出会いが多く、気を付けて歩かなければならない。
大清水から尾瀬沼畔を経て沼山峠への道は尾瀬の人気ルートで、木道も整備されたくさんの登山者でにぎわっているが、濡れた木道では転倒事故が多発しており注意したい。

古道を知る

沼田会津街道(群馬県側)の歴史と変遷

■街道の概要と「東入り」の路

群馬県北部の沼田から片品村を経て会津へ向かうルートは、古くから「東入り」と呼ばれた。
沼田から片品へ至るには峻険な山々を越える必要があり、旅人は気象条件や季節に応じて、川場経由(花咲峠、千貫峠、赤倉峠)や白沢経由(栗生峠、数坂峠、椎坂峠)の各峠を使い分けていた。
これらの道筋は、最終的に戸倉へと集約され、そこから標高2000m近い三平峠・沼山峠を越える本格的な山岳区間へと入った。

■真田氏による統治と軍事の舞台

近世に入ると、沼田城主・真田信之によって街道の整備が進められた。慶長5年(1600年)には戸倉に関所が、追貝(おっかい)には利根川の難所を渡るための刎橋(はねばし)が架けられ、交通の要衝としての地位が確立された。また、幕末の戊辰戦争では軍事拠点となり、会津軍の侵攻に備えて戸倉の関所が焼き討ちに遭ったほか、大江湿原には今もその痕跡を留める土塁が築かれるなど、激戦の歴史を刻んでいる。

■険しき山岳交易の記憶

この街道は、関東と東北を結ぶ重要な交易路であった。
標高差が激しいため、馬や牛に積める荷量は通常の半分に制限されるほどの難所であったが、会津からは米や酒、沼田からは塩や油が運ばれた。
峠越えの負担を軽減するため、尾瀬沼畔には無人の小屋が置かれ、そこを拠点に物資の売買や交換が行われていた。

■未完の国道と自然保護の象徴

現在、群馬・福島両県を直接結ぶ車道は存在しない。これは、寸断された国道401号が示す通り、全国的にも極めて稀な事例である。
かつては観光と物流を目的とした車道計画が進められ、着工に至ったが、尾瀬を通るルートであったため激しい自然保護運動が巻き起こった。
1971年に環境庁(現環境省)が発足。7月に長蔵小屋の平野長靖氏が大石環境庁長官宅を訪問し直訴する。大石長官は至仏山に登り尾瀬を横断する。尾瀬の自然に感銘を受けた大石長官は新潟県を含めた3県知事と会談して工事の変更を要請。12月には工事が中止となった。後世に伝わる「大石裁定」だ。
日本での自然保護運動の大きな成果の一つとなった。
沼田会津街道は「車を通さない歴史の道」として、その貴重な生態系と風情を今に留めることとなった。
尾瀬を通りこの古道を歩きながら、自然保護のあり方について考えていきたい。

深掘りスポット

沼田城

会津街道の西の起点となる沼田城は沼田市街地の西、西倉内町の河岸段丘の崖の上に建つ。北西の崖際にある捨曲輪からは沼田盆地北部を眼下に背後に谷川連峰、上州武尊山などの雄大な山岳展望が広がる。
戦国時代に沼田顕泰が築城したが、長尾景虎(上杉謙信)による関東進出以降は上杉氏の関東支配の重要な拠点となった。なお、一族の内紛に敗れた沼田顕泰は会津街道をたどって逃げ落ちたと言われている。その後は武田氏、北条氏と支配は変遷するが、徳川家康の関東入国後は真田氏が城主となり、城郭の整備が行われた。現在では沼田公園として整備され、御殿桜など200本以上の桜が咲く春などを中心に、市民や観光客に親しまれている。石垣や復元された城鐘などが真田氏時代の古城を偲ばせている。

吹割の滝

沼田市利根町追貝の片品川の深い渓谷にある。滝は落差約7mほどだが、「東洋のナイヤガラ」とも呼ばれ、雪解けの増水期には豪快な姿を見せる。滝の上下流は深い渓谷で岩畳となった谷底を片品川が流れている。この「吹割渓谷と吹割の滝」は国の名勝と天然記念物に指定されている。
真田信幸により、会津街道が渓谷を渡る刎橋が設けられたと言われているのがここ。
国道120号沿いに土産物店などが並び、滝を間近に見られる谷底まで遊歩道が通じている。

ミニ知識

武田久吉と尾瀬の保護活動

武田久吉(1883-1972)は、日本山岳会の創立メンバーであり、のちに第6代会長を務めた(会員番号5)。また、初代日本山岳協会会長、日本自然保護協会会長を歴任した。
かつて群馬、福島、新潟の三県にまたがる広大な高層湿原、尾瀬が、巨大なダム計画によって水没の危機に瀕していたことがあった。
武田久吉はその危機から尾瀬を救い、日本における自然保護運動の礎を築いた人物として、また日本におけるナショナル・トラスト精神の黎明となった。

尾瀬との邂逅と植物学的価値の発見

武田久吉が初めて尾瀬の地を踏んだのは、1905年(明治38年)のことである。当時、東京帝国大学の学生であった武田は、植物採集のために日光から足を踏み入れ、まだ世に広く知られていなかった尾瀬ヶ原の景観とその学術的価値に驚嘆した。
武田は、尾瀬が氷河時代の生き残りである寒冷地植物の宝庫であることを科学的に立証した。ヒツジグサ、ミズバショウ、ニッコウキスゲといった植物が織りなす生態系は、武田の研究によってその希少性が明らかにされ、1922年(大正11年)には尾瀬が国の「天然記念物」に指定される大きな原動力となった。武田にとって、尾瀬は単なる美しい風景ではなく、地球の歴史を物語る「生きた標本室」だったのである。

尾瀬原ダム計画と「水没」の危機

しかし、大正末期から昭和にかけて、尾瀬には「電源開発」という名の近代化の波が押し寄せる。当時、急増する電力需要を補うため、利根川の源流に近い尾瀬ヶ原を巨大な貯水池にする「尾瀬原ダム計画」が持ち上がった。
この計画は、尾瀬ヶ原の全面水没を意味していた。1919年(大正8年)に利根発電(後に東京電燈、現在の東京電力へ継承)が水利権を獲得し、戦後の電力不足を背景に関東電源開発の目玉として具体化していった。この国策ともいえる巨大プロジェクトに対し、武田は断固として反対の旗を掲げることになる。

日本初の組織的自然保護運動

1949年(昭和24年)、武田久吉を中心として「尾瀬保存期成同盟」が結成された。これは、単なる一部の専門家による反対声明ではなく、日本山岳会、日本植物学会、日本自然保護協会(後に設立される前身組織)などが結集した、日本初の本格的な組織的自然保護運動であった。
武田の信念は明確であった。
「一度破壊された自然は、二度と元には戻らない」
彼は、ダムがもたらす経済的利益と、尾瀬の自然が持つ永遠の価値を天秤にかけること自体が誤りであると説いた。武田は科学者としての論理に加え、自ら撮影した美しい尾瀬の写真や紀行文を通じて、国民の心に「自然を守るべき宝である」という意識を植え付けていった。

歴史的転換点 ― ダム計画の中止

武田らの粘り強い運動は、次第に世論を動かした。1950年代に入ると、科学的な調査結果や国際的な視点(国立公園のあり方など)が重視されるようになり、1953年には厚生省(当時)の国立公園審議会が、尾瀬のダム建設を事実上認めない方針を打ち出した。
そして1966年、ついに東京電力は尾瀬ヶ原のダム建設を正式に断念する。
水利権の放棄という異例の結末は、日本の開発優先主義が「自然保護」という概念によって初めて押し留められた歴史的な瞬間であった。
武田久吉という一人の科学者の情熱が、国家プロジェクトを動かし、日本の風景を守り抜いたのである。

「ゴミ持ち帰り運動」と武田の遺志

武田久吉の功績は、ダム阻止という「大きな政治的勝利」だけにとどまらない。彼は、尾瀬を訪れる登山者一人ひとりの意識改革にも尽力した。
1970年代、尾瀬を訪れる観光客の急増に伴い、湿原の踏み荒らしやゴミ問題が深刻化した際、尾瀬では日本で最初となる「ゴミ持ち帰り運動」が始まった。
武田は「自然を愛する者は、その足跡以外に何も残してはならない」という精神を説き続け、これが現在、日本のあらゆる山岳地帯で常識となっているマナーの原点となった。
また、尾瀬独自の「木道」の整備も、武田の提唱した「湿原を傷つけずに観察する」という思想が形になったものである。
1972年、武田久吉は89歳でその生涯を閉じた。尾瀬沼を見下ろす平野家の墓所に武田を記念する碑が建ち、今も静かに湿原を見守っている。
武田が提唱した「自然保護」の精神は、後の国道401号(沼田会津街道)の車道建設中止決定(1971年)にも直結した。大石長官による工事差し止めは、武田らが築き上げた「尾瀬の価値は開発に勝る」という社会的合意があったからこそ可能だったといえる。
なお、尾瀬の福島側にある「ミニ尾瀬公園」には「武田久吉メモリアルホール」が建つ。

ルート

*コースタイムは大清水から沼山峠
大清水
↓ 1:10  ↑ 1:00(低公害車の運行あり)

一ノ瀬

↓ 1:15  ↑ 1:00

三平峠

↓ 0:15  ↑ 0:20

尾瀬沼山荘

↓ 0:25  ↑ 0:25

長蔵小屋

↓ 0:55  ↑ 0:40

沼山峠(バス停、休憩所までは20分)

アクセス

◉戸倉・大清水までは上越新幹線上毛高原駅・上越線沼田駅から関越交通バス。大清水に有料駐車場あり。
関越交通(沼田営業所) 電話0278-23-1111
◉バスタ新宿から大清水まで高速バスが運行している。
尾瀬高速バス案内センター 0120-53-0215
◉大清水から一ノ瀬へは低公害車が運行している。
◉尾瀬保護財団ホームぺージ https://oze-fnd.or.jp/
◉群馬県ホームページ
尾瀬の交通対策のお知らせ
https://www.pref.gunma.jp/page/1162.html
※川場村へは関越交通の循環バスが運行されているが、各古道のアプローチとしては下車後の徒歩時間が長く一般的ではない。

参考資料

群馬県教育委員会編「群馬県歴史の道調査報告書第4集『沼田・会津街道』」1997.3改訂新版
上毛新聞社編「群馬新百科事典」2008.3

協力・担当者

《担当》
日本山岳会群馬支部
佐藤光由

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