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41 北陸道 木の芽峠

北陸道 木の芽峠

木ノ芽峠は標高628mと山中峠よりも200m以上高い峠ですが、海岸線から直接400m近い標高差の急斜面を上ることに比べて、木ノ芽峠の登りの方が徐々に高度を上げている点では楽であったかと思われます。
また何より距離的に短いことがこの峠道が官道として1000年以上の長きにわたって維持されてきた理由ではないでしょうか。
その1000年の間には我が国の歴史上欠くことのできない重要な人物が往来し、戦乱の舞台ともなりました。
ここを歩くことで遠い時代の人々や出来事に思いをはせていただきたいものです。

古道を歩く

峠の周囲は歴史の宝庫

新保バス停⇒R476木ノ芽峠登山口⇒木ノ芽峠⇒言う奈地蔵⇒笠取峠⇒二ツ屋宿場跡⇒南今庄駅⇒今庄駅(ハピラインふくい)《全行程約16㎞、歩行約4時間》

新保バス停から木ノ芽峠

北陸道(栃ノ木峠越えの北国街道に対し西近江路とも呼ばれました)は、敦賀からはほぼ木ノ芽川に沿って北上し、現国道476号に沿う旧道がほぼ現存しています。
すなわち余座・深山寺・樫曲・越坂・葉原と辿り、新保の集落に達します。
バス停から集落の中を行くと右手に立派な門構えの天狗党武田耕雲斎の本陣が残されています。
集落を抜けて国道を立体交差で横切ると、国道476号木ノ芽峠トンネル入り口の手前に「木ノ芽峠登山口」の標識があり、数台の駐車スペースもあります。

ここからしばらくは木ノ芽川に沿って旧官道らしい広い道幅で一部舗装されています。
ほどなく山道となり、中部北陸自然歩道の道標に、木ノ芽峠1.4㎞とあります。進むにつれて急こう配、路肩崩壊の悪路となってきます。
木ノ芽川の谷を渡る橋の際に「弘法の爪描き地蔵さん」と表示のあるお結び型の大岩がありますが、お地蔵様の姿は全くわかりません。
さらに登ると、紫式部が読んだ歌を書いた案内板がありますが、式部が帰路に通ったとされる山路は木ノ芽峠ではなく国府のあった府中(現武生)から大谷浦に向かう別の古道であったともいわれています。
さらに登ると旅人が休んだという腰掛石と案内板とがあり、やがて峠の下の平坦地にある立派な屋根で囲われた木ノ芽川源流と書かれた建物が見えます。
ここは明治天皇行幸の折りに御膳水として使われたそうで、弘法大師が掘られたと伝わるきれいな湧水泉です。

ここからすぐ上の峠まではかつての官道らしい石畳の道となり、標高628mの木ノ芽峠に達します。
峠にはかつて番所がおかれ、朝倉氏の時代から続くという峠番前川家の茅葺の家屋があり、往時の面影を伝えています。
前川家には豊臣秀吉が休んだお礼に置いて行った茶釜があるそうです。
家の前の広場には道元禅師をはじめ数基の石碑が祀られています。

峠からの見晴しは南北方向が開けており、南は木ノ芽川の深い谷、北側は今庄365スキー場を眼下に見下ろせます。
峠から北西に伸びる尾根をたどれば南北朝や戦国時代の砦があった鉢伏山(標高762m)に至り、南東の尾根は北国街道の難所栃ノ木峠(標高538m)のある滋賀県境尾根に至ります。

木ノ芽峠から首切り谷

峠の石畳の道を少し下って、北に向かう幅広い水平歩道たどり「言奈(いうな)地蔵堂」の立派な茅葺の社に着きます。
お地蔵さまは弘法大師の作であるといわれ、周囲の園地はよく手入れされており、東側はスキー場が開け良い眺めです。さらに北へ進むと笠取峠で、案内板があります。

二ツ屋方向から登り続けてようやく水平歩道となる峠で、風が強く笠を飛ばされそうになることからつけられたとか。この辺りにもかつての官道北陸道の石畳が残っています。
峠の案内板からはスキー場の西側裾の歩道を下ります。スキー場のリフト乗り場を過ぎ、さらに北に向けて舗装された県道138号二ツ屋線を二ツ屋川に沿って下ります。やがて左手に中部北陸自然歩道の案内板があります。
首切り谷の標識を過ぎS状カーブの坂を下ると、やがて道の両側が広くなり、かつての二ツ屋の宿場跡に着きます。

二ツ屋宿跡から二ツ屋集落を経て今庄駅

現在の二ツ屋集落はもう少し下流で、ここには道の両側に関所跡、明治天皇御在所跡、御膳水問屋跡、制札場跡、旅籠屋のあったと思しき平坦地などが残されています。
少し下ると左に往還一里塚跡があり、ここから次の鹿蒜一里塚まで約4㎞あるようです。

 

さらに北に下ると二ツ屋集落を過ぎ、県道207号との交差点で、この北で二ツ屋川が鹿蒜川に合流します。
鹿蒜川に沿って旧道が残っており、一部県道の橋を渡りますがそれからは鹿蒜川の左岸に沿った旧道を歩きます。
官道北陸道の鹿蒜駅家に想定される新道、帰(かえる)(現、南今庄)集落があります。
それぞれに鹿蒜田口神社、鹿蒜神社が残され、その間には鹿蒜一里塚もあります。

さらに川に沿って下ると、日野川との合流地点が北国街道との分岐点で、今庄追分の立派な石の道標「文政の道しるべ」が残っており、「右 京・つるが・わかさ 道」「左 京・いせ・江戸 道」と書かれています。ここから燧ヶ城址の下を通り、宿場町の面影を残す今庄の宿へ入ります。

この古道を歩くにあたって

中部北陸自然歩道でもあり、道標が整備され、路面もそれほど危険個所はありません。
しいて言えば木ノ芽谷に沿った新保側の山道で片斜面トラバースの坂がありますので雨や雪の時には転倒・滑落に注意してください。
なお令和4(2022)年9月1日の集中豪雨で二ツ屋川、鹿蒜川の氾濫による災害がありました。
林道などいまだ復旧していない可能性がありますので、事前に情報収集してください。

古道を知る

北陸道の歴史

日本が大和政権に統一され、律令制が始まった時代以来、平城京・平安京から越の国(のちの越前・加賀・能登・越中・越後)に至る官道を北陸道と称しました。
その北陸道の越の国の入り口が敦賀(角鹿)の松原駅(駅家)でしたが、ここから北には現在の福井県の嶺南と嶺北を分ける南条山地があり、海岸線まで山が迫っていて旅人が難渋する交通の隘路でした。
奈良時代には敦賀の松原駅から海岸沿いに船便で大比田・杉津などへ渡り、山中峠(標高389m)や菅谷峠を越えて府中(現越前市)へ向かうのが一般的でした。
荒天などで海路を行けない場合には敦賀湾沿いの200m前後の山や峠を越えたようです。
大伴家持の歌「かへるみの道行かむ日は五幡の坂に袖振れ吾をし思わば」(万葉集)にある五幡(いつはた)越えは、途中に五幡の集落を経て、4か所の山地を越えて杉津に至り、最後は元比田から標高389mの山中峠を越えなければならなかったようです。
五幡へは木ノ芽川沿いの越坂・葉原から「うつろぎ峠」越えのルートも残っています。
平安時代となった天長7年(830年)ごろに木の芽峠(標高628m)を越える最短道路が開鑿され、官道北陸道となり、その後栃ノ木峠を越える北国街道の東近江路に対し西近江路とも呼ばれました。
以来、明治20年(1897年)に海岸線に沿った敦賀街道(その後国道53号、現国道8号線)が開通するまでの一千年以上の長きにわたり人々の往来を支え続けてきました。
北陸と畿内との交通の要衝として、紫式部、源義経、道元禅師、新田義貞、織田信長、豊臣秀吉など戦国大名、松尾芭蕉、武田耕雲斎と天狗党など、多く人が行きかいました。
そして明治天皇の全国行幸のときには輿に乗って峠を越え、峠の前川家にて休息され、その記念の碑もあります。

北陸道の名称

奈良時代から続いた北陸道の名称は明治6年(1873年)1等道路国道53号線と改称されてその名を消されました。
さらに前掲の敦賀街道の開通により、敦賀・今庄間木ノ芽峠越えは管理道路から外され放置されることとなりました。
平成9(1997)年全開通の北陸自動車道の略称として北陸道の名称が使われています。

官道の管理や宿はどうなっていた?

律令制のもと整備された官道は官吏が赴任先への行きかえり、命令や報告など情報交換の伝令、防人の移動、租庸調の税の徴収や移送など、朝廷などの権力者のための道路であり、国司などの官吏が整備していました。
律令制の奈良時代には駅家と呼ばれる官吏の乗馬の乗り継ぎ所が整備されましたが、一般の使用には対応せず、私的な旅人が使うことはできませんでした。
その後人々の移動が徐々に増加し、民間による宿場が形成され、○○の宿とよばれる宿駅制となり、旅館、馬借などの施設を備える宿場町として栄えました。
江戸時代、木の芽峠の南には新保・葉原、北側には二ツ屋・今庄・湯尾の宿があり、問屋場に伝馬・駅馬・馬子・人足を常備して栄えました。
また、峠や宿場には関所(番所)がおかれ、いわゆる「入り鉄砲に出女」のチェックや不審者の改めなどを行っていました。
現在、今庄は宿場町として当時の面影を残しています。

天狗党事件

水戸藩の尊王攘夷派藤田小太郎が元治元(1864)年筑波山で挙兵し、武田耕雲斎を首領として天狗党と名乗りました。
朝廷へ直訴するため中山道から蝿帽子峠を越え越前に入り、今庄宿に泊まりました。
この時宿舎となった京藤甚五郎家には柱に刀傷が残されています。
その後木ノ芽峠を越え新保宿に布陣、その後幕府軍に投降し処刑されました。新保にはこの時の本陣が残っています。
観覧は無料です。

山中トンネル

山中峠の下を貫く山中トンネルは明治26(1893)年から工事が始まり(明治29(1896)年に完成した全長1170mのトンネルです。
現在は県道207号線として旧国鉄のトンネルをそのまま利用しており、レンガ造りの隧道の中には人の待避所などがそのまま残されています。
1車線交互通行ですが直線で出口が見えるため信号機は設置されていません。
今庄から山中峠へ向かう県道207号はかつて旧国鉄北陸本線の跡地で、現北陸トンネルが昭和37(1962)年に開通するまでは、今庄駅から山中トンネルまでの12㎞が25/1000の急こう配が続く鉄路の難所として有名でした。
列車の前後に補助機関車を増結し、スイッチバック方式でようやくトンネルの入り口まで登りました。
山中トンネルの入り口の左側には退避線用のトンネル、反対側には道路に並行した待避線跡も残っています。
山中トンネルをはじめとする敦賀・今庄間のトンネル群は平成26(2014)年に土木学会選奨土木遺産、平成28(2016)年には日本遺産(国登録有形文化財)に登録・保存されています。

深掘りスポット

北国の玄関口だった「今庄宿」

今庄宿は官道「北陸道」の鹿蒜駅の下流に近接し、北陸道と北国街道が合する地点にあって、中世以降大いに栄えました。
すなわち越の国と畿内の間に立ちはだかる南条山地を越える山中峠、木ノ芽峠、栃ノ木峠を通る北陸道、北国街道が今庄で1本になります。
町の南側今庄追分には道標「文政の道しるべ」が残されています。

ここは鹿蒜川が日野川と合流し、背後に藤倉・鍋倉山がそびえる要害の地であり、中世まではその入り口には木曽義仲が築いたとされる燧ヶ城がにらみを利かせていました。
今庄宿には江戸時代、参勤交代のため越前藩、加賀藩の本陣がおかれ、その先北陸道の二ツ屋、北国街道の板取には関所(番所)がおかれていました。
天保期の記録では戸数290余軒、人口1300余人、旅籠屋55軒、茶屋15軒、酒屋15軒、遊郭2軒などがあり、他に問屋、傳馬所、高札場などがありました。
今も酒屋や旅籠、京藤甚五郎家をはじめとする古い建築物が残り、先が見通せない曲がった街道筋など宿場町の面影を強く残しています。

明治20(1887)年に国道(敦賀街道)が海沿いに建設され、宿場としての役割を終えました。
しかし明治29(1896)年に山中トンネルを通る国有鉄道北陸本線が開通すると、この山地の急勾配をスイッチバックで越えるための機関車の増結が必要となりました。
このため今庄機関区が置かれ、全列車停車駅となり、国鉄の町今庄として復活しました。
ところが昭和37(1962)年に北陸トンネルの開通と電化、さらに複線化となって鉄道基地としての役割は終わりました。
今庄駅には国鉄時代の記録を残したコーナー「今庄鉄道物語」があり、鉄道ファン必見です。

ミニ知識

駅家(駅)と宿場

駅家とは奈良・平安の律令制の時代に作られた官吏のための宿泊所を言います。
「令義解」(833年)によれば、官吏の旅行や通信・連絡のため、官道には駅(駅家)が30里(約16㎞)ごとに置かれ、宿泊、食事、乗馬の提供などを行いました。
駅家は防人や役夫など国家に奉仕する人には使用を許されましたが、一般人には解放されていません。
利用する官吏は駅鈴を携える必要がありました。
越前国には松原駅、鹿蒜駅、淑羅(さわあみ)駅、丹生駅、朝津駅、阿味駅、足羽駅、三尾駅があったようですがその位置は諸説あり明確ではありません。
駅家には、駅舎、馬と馬屋、駅田を有し、駅長以下、伝使・厨人・駅丁などの職員とその宿舎を備えていました。
後世、鉄道の駅として名称が復活しました。
平安中期以降に律令制が徐々に崩壊していくと駅家は衰退し、代わって宿場が登場しました。
近世になって、人の往来が盛んになるにつれて発達し、宿泊・人足・食事・遊興など、旅人が求める要件を満たした体制で、当然一般人を含めたすべての人が利用でき、江戸時代以降大いに発達しましたが、明治になって鉄道などの交通運輸体制が整備されて衰退しました。

北国街道

北陸道と混同して使われていますが不破の関から木ノ本を通り栃ノ木峠(標高538m)を越えて越前に入り、今庄の宿までを北国街道と呼びます。かつては東近江路とも呼ばれ、現在の国道356号線です。
戦国時代には軍用道路として使われており、越前の朝倉氏や一向一揆の軍勢、織田信長の諸将が通りました。
柴田勝家が北ノ庄(福井)に居城を構えた時に、安土城の信長にはせ参じるために幅13mにもなる道路を建設したと伝わっています。
江戸時代には参勤交代で江戸に向かう越前、加賀、能登の各藩大名が使ったので、整備されていました。板取(虎杖)宿には口留番所が置かれ、駅馬18匹が長い峠道に備えていたそうです。

二ツ屋の関(番所)

江戸時代初期寛永元(1624)年に福井藩領であった敦賀が小浜藩領になり、南条山地が領国境となりました。
そのため北陸道の二ツ屋と北国街道の板取に口留番所(関所)を置き、さらに山中大桐に番所、木の芽峠に茶屋番と木の芽山回りの役人を置きました。
記録によれば二ツ屋の関所設置は寛永11(1634)年で城代の管理下に置かれ、警備の役人は上番(藩士)3名、下番(群奉行により選任された農民=足軽)2名でありました。
ちなみに板取の番所も同じ規模でしたが、山中峠の大桐山中番所は上番2名だけであり、女性の通行は認められていませんでした。女性が国外(藩外)に出るときは「女手形」が必要で、関所の主要な役目のひとつが「女改め」でありました。

まつわる話

言う奈地蔵(いうなじぞう)

北国の商人が大金を持ち、馬を雇って木ノ芽峠を越えた。
ところが、馬方が実は山賊であって峠近くで商人を殺して金を奪った。
そして道端の石の地蔵に「見ただろうがこのことは決して他人に言わないでください」とたわむれに頼んだところ「地蔵は言わぬがお前が言うな」と返事をしたのでびっくりした。
数年後、この峠を越えた昔の馬方がうっかり同行の旅人に、もの言うた不思議な地蔵の話をしてしまったが、その道連れこそ以前に殺した商人の子で,親のかたきをさがしていたところなので早速討たれてしまった。
それから「言う奈地蔵」として有名になった。
(「福井県大百科事典」塩津三治)

ルート

【コースタイム】:距離、所要時間共におおよそです。所要時間に休息は含みません。
新保バス停⇔木の芽峠⇔今庄駅、全長約16㎞、約4時間

新保バス停
↓1.2㎞ 0:20
R476木ノ芽峠登り口
↓1.6㎞ 0:45
木ノ芽峠
↓0.7㎞ 0:15
言う奈地蔵
↓0.5km 0:10
笠取峠
↓0.5㎞ 0:10
365スキー場リフト乗り場
↓2.5㎞ 0:35
二ツ屋関所跡
↓2㎞ 0:25
二ツ屋集落
↓3㎞ 0:40
南今庄駅
↓3㎞ 0:40
今庄駅

今庄駅
↓3㎞ 0:40
南今庄駅
↓3㎞ 0:40
二ツ屋集落
↓2km 0:30
二ツ屋関所跡
↓2.5㎞ 0:40
365スキー場リフト乗り場
↓0.5㎞ 0:15
笠取峠
↓0.5km 0:15
言う奈地蔵
↓0.7㎞ 0:15
木ノ芽峠
↓1.6㎞ 0:30
R476木ノ芽峠登り口
↓1.2㎞ 0:15
新保バス停

アクセス

敦賀側:敦賀市コミュニティバスは予約便のみで利用は難しい。タクシーまたは自家用車利用が一般的です。新保バス停またはR476の木ノ芽峠登り口まで行け、駐車可能です
今庄側:JR北陸線敦賀駅乗り換え、ハピラインふくい南今庄駅もしくは今庄駅下車。今庄駅にはタクシーあり。自家用車駐車場は今庄駅駐車場、二ツ屋集落路駐、365スキー場上部など

参考資料

上杉喜寿『越前若狭歴史街道』
印牧邦夫監修『市町村で見る福井県の歴史』 
『福井県の地名 日本歴史地名体系18』平凡社
館野和己「古代越前国と愛発関」論文
杉原丈夫編『新訂越前国名蹟考』
『福井県歴史の道調査報告書 第2集 北陸道Ⅱ 』福井県教育委員会
『福井県大百科事典』福井新聞社

協力・担当者

《担当》
福井支部
原稿執筆:森田信人

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