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日本が大和政権に統一され律令制が始まったころから、国家プロジェクトとして都から地方に至る道路網「官道」が整備されました。
越の国(のちの越前・加賀・能登・越中・越後)に至る官道を北陸道と称し、越の国の入り口が敦賀(角鹿)、松原駅(駅家)でした。
ここから北には現在の福井県の嶺南と嶺北を分ける南条山地があり、海岸線まで山が迫っていて旅人が難渋する交通の隘路でした。
奈良時代には敦賀の松原駅から海岸沿いに船便で大比田・杉津などへ渡り、山中峠や菅谷峠を越えて府中(現越前市)へ向かうのが一般的でした(旧北陸道)。
平安時代となった天長7年(830年)ごろに木の芽峠を越える最短道路が開鑿され、官道北陸道となり西近江路とも呼ばれました。
明治20年(1896年)に海岸線に沿った敦賀街道(その後国道53号、現国道8号線)が開通するまでの一千年以上の長きにわたり人々の往来を支え続けてきました。
この間、大友家持・紫式部・源義経・道元・新田義貞・足利尊氏・朝倉義景・織田信長・豊臣秀吉・松尾芭蕉など、多く人々が峠を行き交っています。明治天皇の全国行幸のときには輿に乗って峠を越えられたといいます。
北陸道の名称は明治6年(1873年)1等道路国道53号線と改称されてその名を消され、現在の自動車専用高速道に引き継がれています。
※写真は峠の北側(二ツ屋側)から峠の茶屋前川家、手前の石畳が北陸道。