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32 越後銀の道 枝折峠
国道352号線の灰の又を右折して県道518号線駒之湯温泉線を進むと、駒の湯山荘手前に駒の湯登山口がある。
左側に8台程度駐車可能だ。
ここから越後駒ケ岳小倉尾根に取り付く吊り橋を右に見て、右岸を進む。
まもなく「銀の道」登り口に一合目「坂本」の標柱が立ち、峠のはじまりを示している。
尾根の取り付きは少し急で階段状になっているが、すぐに傾斜は緩くなり、斜面を折り返しながら登って行く。
ブナやミズナラなどの広葉樹林帯が続く道は落ち葉に覆われ歩き易い。
二合目「目覚まし」を通過するとユキツバキやオオバクロモジなどの低木落葉樹も見ることができる。
三合目「楢の木」と四合目「水函」の中ほどにはブナの大木が道端に立ち、その幹回りに圧倒される。
五合目「半腹石」は中間点となり、標高は約790mである。
この峠道は大半を尾根の右斜面に付けられているので、道行沢を挟んで越後駒ケ岳の豪壮な姿を木々の中、垣間見ながら歩くことができる。
五合目を過ぎ、つづら折りで高度を稼ぎ尾根上に出ると、灰の又沢を挟んで枝折峠に続く国道352号線の車道やその先には北方の山並みが遠望できる。
道が平坦になってくると六合目「中の水」で標高918m付近は開けて、休憩場所に良い。
この先は、ヤセ尾根となって灰の又沢側に付けられた道を通過するが、狭く滑り易いので注意する。
七合目「千本仏」を過ぎると左手遠方に枝折峠の展望台広場が確認できる。
道はふたたび、道行沢側をつづら折りで八合目「仏堂」へ続き、九合目「日本坂」で展望が開け明神峠や道行山が視界に入ると、峠まではあと一息だ。
尾根を左に捲いて進めば、枝折峠からの登山道に合流し明神峠(旧枝折峠)に着く。
銀の道と記された苔むした案内板があり、鞍部の右に十合目「大明神」の社堂が建つ。山仕事や銀山普請の安全を願って命を祭ったの中は4~5人泊まれる位の広さがあり、休憩や避難小屋として利用することも可能だ。
社堂から駒ケ岳方面に向かう登山道を2~3分登ると1235.9mの三等三角点と傍らに「明神峠」の標柱が立つ峠の頂上で、一気に展望が開ける。
雄大な越後駒ケ岳、鷲が翼を広げたような鋭い荒沢岳そして銀山平を挟んで左に大きな三角形の未丈ヶ岳の姿は圧巻である。
しばし、展望を楽しんだら、「大明神」まで戻り、一合目「石抱」に下ろう。
枝折峠方面に5分程進むと「銀の道」への分岐があり、奥只見湖を眼下にして右に下る。
ほどなく九合目「問屋場」で当時は季節遊女まで置いて賑わっていたという。
すぐに八合目「水場」となるが、かつて湧水があったのか今は不明である。
尾根筋を下り七合目「焼山」を過ぎると、U字状に掘りこまれた道がしばらく続く。溝状に踏み固められた道跡は勾配もあり滑り易い。
まもなく左下方に国道352号線を見てエンジン音が時折聞こえてくると六合目「ブナ坂」で、足元に車道を見ながらコンクリートの法面上を通過する箇所がある。
五合目「松尾根」は下りの中間点で標高は約950mとなり、その先、尾根の左側を捲いて進み、つづら折りで四合目「十七曲り」を過ぎ、小沢の右岸を下ると三合目「オリソ」で林道に出る。
林道を横切ると北ノ又川の左岸に沿って平坦な道を進むが、途中、へつりがあるので注意する。蛇子沢橋への分岐は二合目「榛の木」で広くなった道を直進すると、この地をこよなく愛した開高健の記念碑「河は眠らない」が建っている。
「銀の道」案内板が設置された一合目「石抱」で車道に出ると銀山平の石抱橋である。
「銀の道」は駒の湯温泉から明神峠を越え、銀山平の石抱橋までを結ぶ全長約12kmのコースである。かつて、人や物資が往還した道は尾根づたいに付けられ、それほど険しくはない。
道中、合目ごとに設けられた「一服場」跡には地点の地形、眺望、利用場所などを表現した標柱が立ち、その名称から往時のにぎわいや歴史に思いを馳せるのも一興である。
また、いたるところにブナ林の広がる尾根は新緑(6月中旬)と紅葉(10月中旬)の時期に特段絶好のロケーションとなり古の峠歩きが一層満喫できる。
1)案内板によれば峠までは駒の湯側「坂本」から標高差約900m距離約8kmで3時間半を要し、銀山平側「石抱」からは標高差約460m距離約4kmを2時間とある。
一般的には「石抱」から上り、峠を越え「坂本」に下るコースが利用されている。
この場合、「坂本」への長い下りは斜面に付けられた道を辿るので滑り易く要注意。
2)峠越えをする場合は公共交通機関が利用できないので、下山口に配車しておくと良い。
また、それぞれの登山口から峠を往復しても楽しめる。
今から約800年の昔、平安時代の末期、長寛元(1163)年、若くして夫である二条天皇に先立たれた皇妃を巡り、時の権力者である平清盛と争いが起きた。
清盛の策謀により京を追われ都落ちした尾瀬三郎は魚沼に流れ着いた。数名の従者とともに湯之谷の山に分け入ると、やがて道が険しくなったため、馬から降りて歩き始めた。そこへ現れた童子が枝を折りながら一行を案内したという。
その峠が枝折峠だと地元では言い伝えられている。
なお、現在の明神峠が本来の枝折峠である。
枝折峠(いまの明神峠)の北側に昭和25年自動車道路が開通し、県道から国道352号線に昇格し、定期バス路線が開設されてからは、自動車道路の峠を新枝折峠、昔からの峠を旧枝折峠と呼称していた。
現在では自動車道路の峠を「枝折峠」、旧道つまり銀の道の峠を「明神峠」と呼んでいる。
寛永18年(1641)折立村の百姓源蔵が枝折峠を越えて只見川に鱒漁に行った際、銀鉱石を発見したことから高田藩による上田銀山の開発が始まった。
以来、無人の原野は銀山平と称される鉱山町として栄え最盛期には約2万5千人が働き「町屋千軒、寺院三ヶ寺」と言われるほどに発展した。
しかし安政6年(1859)只見川の川底が破れ三百余人が亡くなる事故が発生し、およそ200年にわたる鉱山の歴史は幕を閉じた。
純銀の多い時は年間1044貫(約4000kg)、鉛の多い時は年間19000貫(約72000kg)。
佐渡の黄金山、岩船地方の高根金山と魚沼地方の上田銀山を合わせると、全国の金銀の産出量の6割を占める時代もあったと言われている。
積雪は銀の採掘場で約5m、枝折峠で約10m近くにも達する豪雪地帯である。
冬は下山したが、約90人が越冬隊として残り、建物の除雪にあたった。
銀山平は江戸時代に断続的に200年もの間、銀・鉛鉱石の採掘が行われてきた地であるが、そこに明治の末になってから農地を中心にした開拓が始まった。
大自然の中、理想郷の建設を目指して人々が入植し、村が形成されていったが自給自足同様の生活は過酷な自然条件の中、厳しい暮らしであった。
昭和37年に9年の歳月をかけて奥只見ダムが完成すると貯水により銀山平一帯と50年間存在した拓殖の村は38戸の住居とともに湖底に沈んだ。
そして当時、日本最大の人工湖といわれた奥只見湖(銀山湖)ができた。
かつての銀鉱山跡から現在の銀山平、石抱橋に至る銀運搬路は、奥只見ダムにより出現した銀山湖(奥只見湖)の湖底に沈み、今は歩くことができない。
新潟県魚沼地域振興局地域整備部「佐梨川・只見川 川ガイド」の「奥只見原生林が辿った歴史」によれば、銀鉱石の採掘場所は、只見川の恋ノ岐川出合から大津岐川出合にかけての一帯であり、左岸が越後側で「上田鉱山」、右岸が会津側で「白峯(しらぶ)鉱山」といわれ、2つを合わせて「大福鉱山」と言われていたという。
これらの採掘場や集落は、大部分が湖底に沈んだが、国道352号線沿いの「大福十二山神社」下に当時の坑道(間歩)口跡を見ることができる。
「大福十二山神社」の下は、かつて只見川の「音無淵」と言われる場所で初めて銀鉱石が発見された場所という。
図は、ダム湖水没前の集落、銀鉱石採掘場所等の位置を表したものである。銀鉱石採掘場所の中心からの道は、「音無淵」南の「金山」、精錬所があったといわれる買石原(かいしはら)から只見川に沿って北へ進み、虚空蔵岩付近の波拝(なみおがみ)を通ってさらに北上、北ノ又川合流点付近の須原口へ至る。
この付近から北ノ又川へ沿って西へ、「細越」、中ノ島川出合から「下小滝」へと進み「螢沢」、そして現在の銀山平、石抱橋に至ったものと思われる。
※図は、新潟県魚沼地域振興局地域整備部「佐梨川・只見川 川ガイド」(平成21年3月発行)の「奥只見 原生林が辿った歴史」をベースに作成。
小出から鉱山に至る約50kmの峠道には8か所の宿場と3か所の番所が設けられた。
古くから魚野川水運の河港として栄えた小出宿(魚沼市小出島)から、順に、芋川宿、大湯宿、坂本宿、大明神宿、村杉宿、グミ沢宿、須原口宿があった。
小出宿は銀山への物資輸送の基地として、また全国各地から銀山の噂を聞きつけた、ひと稼ぎを狙う者たちの玄関口として人々があふれていた。1000戸を越える小屋があったという。
大湯宿があったころは、大湯温泉1300年の歴史の中でも大いに賑わった時期である。
また、須原口には本陣があった。
銀山平から江戸までの輸送路は、ほぼ現在のJR信越本線と同じである。
銀山~小出~小千谷~柏崎~高田~野尻~善光寺~軽井沢~高崎~本庄~熊谷~大宮~浦和~板橋~江戸
銀の道には10合目の明神峠まで合目ごとに地名を刻んだ道標が建てられている。
■駒の湯温泉側
一合目「坂本」 峠の始まり
二合目「目覚まし」 芋川宿を早立ちすると、ここで夜が明けることから
三合目「楢の木」 ミズナラの大木がそびえ、格好の休憩場所であった
四合目「水函」 湧き出す水を箱にため、水場とした
五合目「半腹石」 峠の頂と麓の中間点
六合目「中の水」 付近一帯をこのように呼んでいた
七合目「千本仏」 多数の仏像を安置したところから
八合目「仏堂」 お堂があり、多数の仏像が安置されていた
九合目「日本坂」 日本中が見渡せるほどの展望
十合目「大明神」 山仕事や銀山普請の安全を願って、命をまつっている
■石抱側
九合目「問屋場」 問屋場で季節遊女までいた
八合目「水場」 定かに水場の後が確かめられ、湧き水が今も続く
七合目「焼山」 当時の山火事で、一帯が焼け果てたことから
六合目「ブナ坂」 ブナの大木が繁っていた
五合目「松尾根」 松の大木が繫っていた
四合目「十七曲り」 つづら折りの坂道
三合目「オリソ」 ”お入り候” の転訛したものか?
二合目「榛の木」 榛の巨木がそびえていた
一合目「石抱」 川の氾濫で流出した石に、枝が挟まったまま成長した木があった(諸説あり)
国道の枝折峠(1065m)は、雲海スポットとして全国でも有名だ。
日の出の頃、銀山平で発生した霧が雲海となり、山々を越えるとき大河が流れているようになる。
滝雲といい、枝折峠ならではの雄大な現象だ。
期間は6月中下旬から11月上旬にかけて。
適度な風がある快晴の早朝、前日との気温差が大きいことが条件だ。
奥只見ダムの建設(着工1953年、竣工1960年)により、かつての銀鉱山の坑道、坑口の殆どはダム湖に水没したが、現在5か所ほど水没せず残っているという。
銀鉱石が最初に発見されたという只見川「音無淵」の左岸上部、現在の国道352号線沿いには「大福十二山神社」がある。
この神社は、かつて只見川沿いにあったとのことであるが集落の水没に伴い、この地に移された。
この神社には慰霊碑や銀鉱石を砕くために使用した石臼などがある。
また、神社から湖側に少し下ったところに当時の坑道(間歩)跡を見ることができ、当時の銀採掘の一端が垣間見られる。
▼ 奥只見郷インフォメーションセンター(魚沼市観光協会)
登山情報、周辺観光・宿泊案内
〒946-0075 新潟県魚沼市吉田1144 tel0257-792-7300 Fax025-792-7200
http://www.city.uonuma.niigata.jp/kankou
▼ 大湯温泉「湯之谷交流センター ユピオ」
日帰り温泉、民俗資料・多目的展示場、イベント
〒946-0088 新潟県魚沼市大湯温泉182-1 tel025-795-2009
http://www.ooyu-yupio.com/
▼ 奥只見湖遊覧船
銀山平と奥只見ダムとの間に遊覧船が運航されているほか、奥只見ダムと尾瀬口、奥只見ダムの周遊コースがある。
外輪船も就航しており新緑や紅葉には多くの観光客で賑わう。
http://okutadami.co.jp/boat/
一説に尾瀬を発見したと伝えられる尾瀬三郎藤原房益。奥只見湖を見下ろす湖畔に大きな像が建てられていて、毎年供養祭が行われている。
石抱橋近くに建つ記念碑。
奥只見をこよなく愛した開高健は、乱獲によって激減した奥只見の魚を蘇らせようという目的で「奥只見の魚を育てる会」の発起人となり会長となった。
1991年「奥只見の魚を育てる会」により建立された。
北ノ又川から枝折峠への登り口に骨投げ沢という名前の沢がある。骨箱を持って峠を越えると大明神が怒って大嵐になる、骨箱を沢に投げ入れると嵐はたちまち収まった事からその名が付いたと言われている。
骨箱に銀鉱石を隠して盗み出す者が後を絶たず、幕命により銀山を経営していた河村瑞賢が銀鉱石の不法持ち出し防止策として考えた作り話だと考えられている。
もともとそこは「小貫ぎ沢」という所で「骨投ぎ」に結びつけたのではないかと言われている。
ロマンチックな響きを持つ地名であるが、奥只見湖に水没するまではこの沢に温泉が湧き出ていた。もともとは「小湯の又」という地名だったと伝えられている。
一合目(坂本)駒の湯温泉口 一合目(坂本)
↓ 120分 ↑ 90分 ↓
六合目(中の水) 8km
↓ 90分 ↑ 70分 ↓
十合目(大明神)明神峠 十合目(大明神)
↓ 50分 ↑ 70分 ↓
五合目(松尾根)
↓ 40分 ↑ 60分 4km
三合目(オリソ)
↑ 20分 ↑ 20分 ↓
一合目(石抱)石抱橋口 一合目(石抱)
JR上越線小出駅からタクシー利用:駒の湯温泉まで17km、約30分。
マイカー利用:関越自動車道小出ICより国道352号線を大湯温泉方面へ約20分さらに、約10分で駒の湯温泉。登山口に8台ほど駐車可能。
路線バス:小出~枝折峠~銀山平線は廃止。
◎うおぬま滝雲シャトルバス
近年雲が滝のように流れ落ちて見える「滝雲」が人気。9月中旬~10月下旬期間限定でビュースポットの国道352号線枝折峠までシャトルバスが運行されている。
◎枝折峠ヒルクライムinうおぬま
大湯温泉スタート~枝折峠ゴールの全長14km標高差750mのヒルクライムタイムトライアル
8月上旬開催。
磯部定治著「銀山物語」新潟日報事業社、昭和58年
小出郷山岳協会編「小出郷山岳史」小出郷山岳協会、2009年
湯之谷温泉郷・尾瀬ルート活性化委員会 制作・監修「越後魚沼 上田銀山・尾瀬」
魚沼市観光協会「魚沼江戸古道 銀の道」
魚沼市観光協会ホームページ
新潟県山岳協会監修「新潟の山歩き50選」新潟日報事業社、2018年4月
関田雅弘「明神峠」新潟日報、2022年8月
《担当》
日本山岳会越後支部
吉田 理一(執筆)
松井 潤次(執筆)