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119 屋久島「 岳参り」歩道

宮之浦集落の「岳参り」

宮之浦には日増上人が開基した法華宗本門流・久本寺や式内社・益救神社(やくじんじゃ)があり、古くから「岳参り」が行われてきた。
宮之浦集落から宮之浦岳への「岳参り」歩道は、白谷雲水峡、縄文杉を経由して宮之浦岳の権現様を参詣するものだ。
宮之浦から白谷雲水峡入口を経て遊歩道の一部を辿り、楠川歩道に出てそこから七本杉の大木を鑑賞して、辻峠から縄文杉に至るコースに出る。
森林軌道の終点から大株歩道に入り、ウイルソン株、大王杉、夫婦杉、縄文杉などを経て高塚小屋に至り、平石でお参りし、宮之浦岳の山頂に到る。
笠石の下の岩の間隙に宮之浦岳の権現様が祭祀されている。
宮之浦の「岳参り」は平成17年(2005年)、有志による参加者の公募によって復活し、春は5月下旬、秋は10月下旬に行われている。

古道を歩く

白谷雲水峡から宮之浦岳の「岳参り」歩道

特別なイベントがあって白谷雲水峡、縄文杉を経由して平石の詣所を参詣する場合に行われる「岳参り」。
白谷雲水峡は屋久島の北面に位置し、苔に覆われた屋久島きっての景勝地で多くの観光客で賑わう。
宮之浦から白谷雲水峡宮之浦線で白谷雲水峡入口まで12km、白谷雲水峡入口(600m)から遊歩道の一部を辿り、さつき吊橋から400年の歴史ある楠川歩道に出る。
また原生林歩道を辿っても上部で楠川歩道に出ることもできる。
このほか、白谷雲水峡宮之浦線をさらに奥へ辿り、白谷雲水峡第二駐車場の先で楠川から上がってきた楠川「岳参り」歩道に出ることもできる。
白谷川の清流を眼下に見ながら上部で左岸へ渡る。
白谷川一帯の沢は橋掛けがなく、雨天時は急激に水量を増すため要注意。
さらに歩を進めると右の枝道の先に白谷山荘(30名収容)がある。
七本杉の大木を見るとこの先で白谷雲水峡の美しい苔の森に至る。
左に美しい苔の森を見ながら高度を上げると標高979mの辻峠に出る。
安房川との分水嶺でこの先50分も下れば、荒川から縄文杉に至るコースに出る。
左へ下れば小杉谷を経て荒川入口へ、右へ行けば大株歩道から高塚を経て宮之浦岳へ通じる。
この歩道には安房からの森林軌道が現在も残され、縄文杉への観光ルートとして多くの登山者で賑わう。
三代杉を過ぎ、途中仁王杉を右に見て、軌道の終点である大株歩道入口に至る。
大株歩道は世界自然遺産の最たる巨木の鑑賞ルートで、白谷雲水峡とともに屋久島きっての観光地。
転石の急峻な歩道を登ると、翁杉の倒木(平成22年)に至り、その先で巨木のウイルソン株に出る。
切株の内部には木魂神社(もっこんじんじゃ)の小社があり、三神が祭祀(*ウイルソン株参照)されている。
さらに高度を上げると、標高1220mで左に樹齢3000年の大王杉の巨木を見る。

その上方で森の中に佇む夫婦杉の合体木を眺め、30分で板の階段を上がって展望デッキに立つとヒメシャラの美しい森にひときわ巨大な縄文杉(胸高囲16.4m、樹齢およそ3000年の合体木)を見る。
巨木の森に感動しながら10分登ると、標高1330mの高塚小屋(収容20名)に至る。
ここで旧宮之浦歩道と合流するが、現在は高塚から龍神杉間が未整備荒廃のため通行禁止になっている。
美林の尾根を1時間ほど辿ると、新高塚小屋(収容60名)に至る。「岳参り」としてはここで一泊。
これより40分で露岩の第一展望台、さらに40分で第二展望台、次に宮之浦川側斜面にでると右にビャクシン岳(坊主岩)の奇岩を見る。
鬱蒼とした森は失せ、シャクナゲ、アセビ、ハイノキなどの灌木林に変わり、展望が開けて急峻な斜面を登ると平石(1707m)に至る。
平石の露岩上からは真正面にどっしりした宮之浦岳を望むが、ここは御岳宮之浦岳を遙拝する詣所で、悪天候や降雪により宮之浦岳の山頂に至らない場合はこの平石で宮之浦岳を遙拝し、平石の岩屋入り口にある祠(現在は風化著しい)で参拝を済ませて引き返していた。
さらに登ると宮之浦岳、永田岳の分岐、焼野の三差路に出る。
ヤクシマダケに覆われた斜面にシャクナゲ、アセビなどの灌木が点在する。
5月下旬は開花したシャクナゲの群落に感動しながら山頂に到る。
山頂からの展望は遮るものなく、屋久島全域の山岳景観を一望にする。
「岳参り」の祭祀祠は西の露岩笠石の下、南側に回り込むと岩の間隙に宮之浦岳の権現様が祭祀されている。
集落から持参したお供え物を捧げ、仏式で参拝してから帰途に就く。
下山時は車の関係上もと来た道を下るか、もしくは栗生岳の祠に参り、花之江河で黒味岳を遙拝し、尾之間歩道を経由して淀川小屋、淀川入口へと至る。(車の手配が必要)
宮之浦に下山後は坂迎え(うちむけ)を受け、益救神社に山からの授かりものを奉納してお神酒をいただき、直会が行われる。

この古道を歩くにあたって

白谷川一帯の沢は橋掛けがなく、雨天時は急激に水量を増すため要注意
2024年現在、高塚から龍神杉間が未整備荒廃のため通行禁止

古道を知る

宮之浦岳の「岳参り」がいつ頃から行われてきたか明確ではないが、天正14年(1586年)の祠が最も古いとされ、その後の祭祀祠や奉納物がいくつか置かれている。
日増上人が開基した宮之浦の法華宗本門流・久本寺、益救神社の存在から、永田に次いで古くから「岳参り」が行われてきた。
過去の文献では明治40年頃までは、旧暦9月19日から21日まで3日間にわたって山の供養として行われ、集落を6組に分けて担当した。その後、春は旧暦4月8日、秋は旧暦10月と変更されたが、積雪のため春は旧暦5月16日、秋は旧暦9月16日へとさらに変更された。
残雪や豪雨などの悪天候に遭遇し、頂上まで登れない場合は平石(1707m)の詣所で宮之浦岳を遙拝して帰った。
宮之浦岳の参拝は、1~2泊山籠りをして3日がかりで行われ、山小屋のない時代は平石の岩屋や途中岩屋になるような大きな岩を利用し、一時的小屋掛けなどで雨露をしのいで宿泊した。
林業による山小屋が設置されてからは、龍神杉と高塚小屋の中間にある下の小屋や現新高塚小屋上部1km地点にあった上の小屋が利用されていたが、現在は撤去され痕跡すら見当たらない。
帰着すると村人から坂迎え(うちむけ)を受け、御馳走を持ちよって盛大な酒宴が催された。
宮之浦の「岳参り」は15歳以上の女性は禁制がとられ、また黒不浄として家族に死者の出た場合49日間山に入ることができず、「岳参り」は1年或いは3年間参加することができなかった。
生理のある女性は赤不浄として「岳参り」の参加が許されなかったが、昭和13年に若い女性達の請願で女人禁制が廃止され、老若男女自由に「岳参り」に参加できるようになった。
戦後しばらく続けられたが、その後いつしか途絶えていた。
平成17年(2005年)、有志による参加者の公募によって復活し、現在春は石楠花の開花期である5月下旬、秋は10月下旬に行われている。

深掘りスポット

詣所・山口神社(標高50m)

過去には益救神社で神事を行った後山口神社を参拝し、宮之浦橋がない時代は宮之浦川で禊をし、船で渡るか浅瀬を渡渉して対岸の牛床詣所を参拝、村民の見送りを受けて神域の山に入った。
現在は山口神社での神事は必ずしも毎年行われていない。
■御祭神
「天津日高彦火火出見尊」(あまつひこひこほほでみのみこと)
「大山津見命」(おおやまつみのみこと)
江戸の初期から明治時代にかけて大山祇命を祭り、林業に係わる人たちの安全を願って祈願している。
自然石の大山祇命と入母屋形式の小社に石祠三基が祭祀されている。
■山口神社祠の碑文
自然石製の「大山祇命」を祀った木造小社と「天津日高彦火火出見尊」(一品法壽大権現)を祀った鹿児島石製入母屋型石祠三基が建立されている。
「天津日高彦火火出見尊」を祀ったそれぞれの祠には以下の年号が記されている。
・ 明治十四年一月記祠
・ 明治三十五年十二月一日記祠
・ 一基は不明

牛床詣所(うしどこもいしょ)(標高60m・屋久町指定文化財)

■御祭神
「天津日高彦火火出見尊」(あまつひこひこほほでみのみこと)
「大山祇命」(おおやまつみのみこと)
牛床の詣所は宮之浦集落の生活圏である俗世界と神宿る神聖な霊山である神域とに分けた場所で、「岳参り」を行なう穢れのない男達を村人が送迎する神聖な場所として位置づけられていた。
入口には檜造りの鳥居があり、その奥の境内中央には藩政時代からの「一品法壽大権現」が祭祀されている。
その右には昭和40年代に上屋久営林署により建立されたコンクリート製の祠があり、3km上流の事業所(現在廃村)に祭祀されていた「大山祇命」を移設、現在では森林管理署により安全祈願祭など神事が行われている。
両端には右側に吽形、左側に阿形の金剛力士像があり、その背後には小さな石祠が60基ほど散在している。
寛永2年(1625年)、文政11年(1828年)、天保5年(1834年)、天保14年(1844年)、安政3年(1856年)、文久2年(1862年)など、江戸時代後期の石祠が多く、明治時代の石祠も8基ほどみられる。
江戸時代に疫病退散を願い、また村の安泰を願って祭祀された祠ばかりである。
屋久島の仁王像は明治の廃仏毀釈運動によりことごとく破壊されたが、ここ牛床の詣所と益救神社の仁王像は宮之浦村民の信仰ゆえに難を免れた。
中央に祭祀されている「一品法壽大権現」の石竿は1985年8月の台風13号で一部破損し、これを益救神社において修復した際に、法壽の文字を宝珠に変更し翌年再納したとされている。
古い石竿は現在歴史民俗資料館に保管され、当初「一品法壽大権現」の刻字の法壽に宝珠が上書きされていた。

平石詣所(宮之浦歩道1707m)

宮之浦岳から北東に延びる尾根上に平石という露岩が突出した小ピークがある。
宮之浦岳を間近に見る好展望地で、北斜面歩道横に平石の岩屋があり、その入口に風化し崩壊した祠が一基重ねられて安置されている。
昭和の中頃には屋根型鹿児島石製祠が2基あったが、現在は崩壊著しく1基に集約されている。
藩政時代「岳参り」最中に天候の悪化や雪で山頂まで行くことが困難な場合はこの平石から宮之浦岳を遙拝した。

■宮之浦岳山頂下笠石内祠の碑文
宮之浦岳山頂露岩(笠石)、南側岩隙に5基の祠がある。祠は山川石製、鹿児島石製など。
形状は切妻、寄せ棟、入母屋、石柱型などさまざまである。他奉納物などが祭祀されている。
・ 天正14年(1586年)山川石製祠。詳細不明。郷土史研究家故山本秀雄氏確認。
・ 明暦(1655〜1658年)の頃(崩壊して形状碑文詳細不明)。詳細不明
・ 年代不詳 奉寄進□□忠長、伊集院市左衛門、□□久彌、山川石製詳細不明
・ 寛延2年(1749年)8月2日に宮之浦住人□田藤右エ門建立
・ 明治36年 「三嶽権現神社」福谷早直建立
・ 昭和6年奉納。詳細不明。
・ 昭和28年10月1日奉宮之浦一同、岩川氏等建立。
・ 昭和48年7月1日奉荒田洋一、木原忠義建立。ステンレス製鳥居。

ウイルソン株の祭祀と伐倒

■御祭神
「天津日高彦火火出見尊」(あまつひこひこほほでみのみこと)
「大山祇命」(おおやまつみのみこと)
「久久能智神」(くくのちのかみ)
屋久杉は年輪が緻密で単位体積当たりの油分が通常杉の6倍あり、腐食菌がつきにくく、耐久性に富むことはすでに屋久杉、薩摩杉として知られ、平木(屋根の瓦の代用)として京阪、北部九州、琉球などに搬出されていた。
大正12年大株発見後、林業関係者により神木の象徴として入口には鳥居を立て(現在は無い)、空洞内部には木魂神社の小社を置いて、三神を祭祀した。大株歩道上の標高1030m地点にある。胸高周囲13.8m。
■大株(ウイルソン株)の伐倒
天正14年(1584年)京都方広寺の大仏殿建立の際、豊臣秀吉の命により島津家久(1547〜1587年)が楠川の牧五郎七以下7名で伐倒したと伝えられている。伐倒時の想定樹齢は3000年。
しかし、島津義久(1533〜1611年)が豊臣秀吉、石田三成の命を受け、屋久島に杉と桧を調査するよう二人の使者を派遣したのは天正16年のことで、秀吉朱印状に名指で大仏用の材木、寺院や神社にある神木も含めて調査をするよう伊集院忠棟、島津忠長を指名したのは天正17年のこと。
文禄4年(1595年)大仏殿が完成したが翌年の慶長元年(1596年)地震によりすべてが崩壊した。
天正14年のウイルソン株の伐倒は時期的に疑わしいと考えられる。
■大株(ウイルソン株)の再発見
大正12年(1923年)、天然記念物の調査として内務省に委託された田代善太郎氏が、屋久島の植物調査をする過程で大切株(現ウイルソン株)を発見した。以下発見時の報告(省略文)。
「小杉谷官行斫伐事務所より、宮之浦道一里弱の所より六町程入りたる所、千百メートルの地点にあり、高岳(現高塚山)の山腹八左衛門山と称する所。根廻り百七尺二寸、幹の根際五十九尺二寸、幹の切口四十三尺三寸、内部に空洞あり。入口南に向ひ自由に出入りすることを得、大正の初め頃まで其伐採面に屋根を造り、洞底に板敷をなして、木挽小屋に用ゐられた。南北の方向に通路を取り、其の左右側の板敷を居室とし、中央に囲炉裏を設けた。北の詰めや、東によりて清泉湧き出で洞外に出づ。洞底より五尺の高さではかりたる南北の径一丈五尺三寸、東西の径一丈四尺一寸あり。約十年前ウイルソン氏の植物採集に同行せる(?)鹿児島県林業技手たりし小林求吉氏の調査によれば空洞内底面の大さ三百三十九平方尺九三に達し、坪数に換算すれば九坪半の広さとなり、畳敷とすれば六畳間三室余の面積を有し、総計畳十九枚を敷き込むべし。ウイルソン株の名を得たるは、ウイルソン氏の宣伝によりて世に知られたるが為り。・・・・」

小杉谷の大山祇神社

■御祭神
「大山祇命」(おおやまつみのみこと)
「益救皇大神」(やくこうたいじん)
小杉谷(600m)の氏神で、旧暦正月16日、5月16日、9月15日に村落の繁栄及び林業の安全を願って祈願が行われていた。
文明元年(1469年)〜長享2年(1488年)尼崎本興寺や京都本能寺から法華宗の伝播に来島した日良、日増上人自ら御岳に登り祈願することにより御岳の鳴動沈静化、疫病退散を図ったことと年代から推察して、屋久島に杉の銘木が存在することは当時の権力者には当然知られていたものと思われる。
豊臣秀吉による京都の巨大な大仏殿方広寺の建立にあたり、薩摩藩島津義久は屋久島の良材を秀吉に献上した。
その後、義久は屋久島に膨大な屋久杉の資源があることに着目し、資源維持のための「屋久島置目」を発令するなど、森林資源の統制を図った。その後薩摩藩は慶長17年(1612年)屋久島を直轄統制下に置いて支配した。
寛永21年(1643年)頃、これまで神木として保護されていた屋久杉は、島民の貧困解消と薩摩藩財源確保と経済発展のため、泊如竹の進言に従い伐採され始め、加工された平木(瓦の代用)は薩摩藩の大きな収入源になった。伐採は次第に里山から奥山へと進められ、小杉谷、太忠岳周辺にまで及んだ。
明治12年(1679年)に地租改正が行われ、屋久島の山所有について官民争ったが、官の勝訴によって大正9年(1920年)国有林になった。
これを契機に「屋久島国有林経営の大綱」(「屋久島憲法」)を制定し、大正12年(1923年)安房から小杉谷間に森林鉄道を敷設、昭和45年に事業所が閉鎖されるまで国有林の開発事業として安房川中流域標高600mに小杉谷斫伐所を開設し、良質の杉が生産される上流域標高1500m一帯にかけて広大な伐採が行われた。
小杉谷は作業にかかわる事業所として、一つの集落を形成し、安房の小中学分校や売店、宿泊所等生活に必要な施設も置かれ、昭和35年には作業関係者も540人に達した。
昭和30年(1955年)には林業にかかわる小杉谷住民の安全と繁栄を祈願する大山津見神社が造られた。小杉谷集落の対岸安房川右岸の森林軌道横から急な階段を上り詰めると境内に至り、その奥の杉の袂に大山祇神社が祀られている。

ミニ知識

金剛院日増上人(1442~1503年)

「三國名勝圖會」・佛寺・長遠山久本寺の項では、久本寺の開山は金剛院日僧上人とある。
日増上人は嘉吉4年(1442年)京都の公家に生まれ、若くして法華宗再興の日隆聖人のもとで修業した。
種子島を法華宗に改宗した日良上人と種子島11代領主時氏公の招きにより、長享元年(1487年)45歳で従者蓮光坊など一行7名で種子島入りをし、慈恩寺の池之坊に宿泊、次いで屋久島、口之永良部島にも渡り布教活動に力を注いだ。
屋久島での日良上人による法華宗布教活動は八重岳権現の怒りをかい、様々な怪異が起こったが、日増上人の偉大な法力によって鎮められ、法華経の功徳に島民の信仰をさらに篤くし、たちまち島内全域に法華宗が広まり律宗から法華宗への改宗が行われた。
また隣接する口之永良部島も火山爆発(100年に一度爆発すると言われる)の危険があり、同様に鳴動を鎮め、天変地異や疫病の不安を除いた。
長享3年(1489年)京都に帰郷。明応元年(1492年)京都本能寺の貫主、尼崎本興寺両山の七世を務め、院号金剛院聖人となり、文亀3年(1503年)11月5日、63歳で示寂(高僧の死をいう)された。
日増上人が長田村へ渡り、全島鳴動により人々が不安な日々を送っていた当時の長寿院は祈願菩提所であり、現在では永田嶽神社になっているが、境内にはヒゲ文字のお題目と法界萬霊と刻まれた自然石があり、現在でもこの付近は堂の前部落と呼ばれ、お寺の存在を示した地名が残っている。
また、明暦年間(1655~1658年)に描かれたとされる絵地図「屋久島大會圖」に脇元という集落が記載されている。
当時お寺もあったそうだが天然痘の流行により、集落が消滅した。
古老の話では、近年まで日増上人講が毎年11月5日に各寺院で行われていたらしく、永田の顕寿寺では脇元部落の先祖の供養も行っていたとのこと。
また、風習として続けられていた行事は、旧暦1月23日の23夜村祈祷、大漁祈願、病気平癒、家屋新築改増築、5月・9月の16日山供養、大漁萬供養。

ルート

■白谷雲水峡から宮之浦岳の「岳参り」歩道
宮之浦(バス)
↓30分 ↑30分
白谷雲水峡入口
↓2時間 ↑1時間30分
辻峠
↓50分 ↑1時間
楠川分れ
↓1時間10分 ↑1時間10分
大株歩道入口
↓2時間 ↑1時間40分
縄文杉
↓15分 ↑10分
高塚小屋
↓1時間20分 ↑1時間10分
新高塚小屋
↓1時間 ↑50分
第二展望台
↓1時間 ↑50分
平石
↓50分 ↑40分
焼野三叉路
↓30分 ↑25分
宮之浦岳

アクセス

■白谷雲水峡から宮之浦岳の「岳参り」歩道
公共バス:宮之浦―白谷雲水峡(一日往復4便)
タクシー、レンタカー

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