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岳参り歩道について

1993年世界自然遺産として国内第1号に登録された屋久島。
しかし、古来から「岳参り」という山岳宗教文化があったことはあまり知られていない。
九州最高峰の宮之浦岳、永田岳、栗生岳をもって三岳と呼び「一品法壽大権現」を祭祀、「岳参り」の対象の山として島民に崇められてきた。
「岳参り」の形態は各集落でも基本的に同じだが、各集落がこぞって対象とする山に「岳参り」を行ってきたことは全国的にも珍しい。
現代では自然環境、社会環境の変化により「岳参り」の風習や宗教的文化は大きく変化し、過去から延々と伝承されてきた本来の姿はほとんど見ることはできなくなった。
失われつつある文化を後世に残すべく、各集落の「岳参り」を紹介する。

古道を歩く

行程は各集落の「岳参り」を参照ください。
■宮之浦集落の「岳参り」歩道
宮之浦岳
■楠川集落の「岳参り」歩道
楠川前岳、石塚山
■安房集落の「岳参り」歩道
中島権現岳、明星岳、太忠岳
■尾之間集落の「岳参り」歩道
耳岳、割石岳、花之江河、栗生岳、宮之浦岳
■湯泊集落の「岳参り」歩道
七五岳、烏帽子岳
■栗生集落の「岳参り」歩道
花之江河、栗生岳
■永田集落の「岳参り」歩道
永田岳
■そのほかの「岳参り」歩道
楠川前岳、愛子岳、向岳二の岳、三野岳、明星岳、前岳、平野権現様、高平岳、本富岳、芋塚岳、破沙岳、権現堂、吉田岳、一湊岳

この古道を歩くにあたって

「岳参り」歩道へのアクセスおよび登山上の注意点

屋久島はほぼ円形の島を成していることから集落は海岸線に沿って河岸段丘上にあり、交通機関は各集落をつないで公共のバスが運行されている。
しかし、現代の車社会の影響で、バスの運行本数は少なく、しかも屋久島の西部林道栗生(大川の滝)―永田間は国立公園、自然保護区域内であることから公共の交通機関はない。
外に「岳参り」の歩道入口へのアクセスは公共の交通機関がない林道を利用することが多く、タクシーやレンタカーを利用することになる。
しかし、これらのレンタカーやタクシーを利用するとなれば、入島の船舶埠頭や飛行場がある宮之浦、安房、小瀬田飛行場など主要地域に限られ、やや不便なところもある。

林道、森林軌道の立ち入り禁止による一般登山者の規制

以下の地域は一般登山者には許可されない。集落の行事として行う「岳参り」の参加は許可される。
・中島権現岳「岳参り」 安房森林軌道(安房から荒川入口間)  管轄;屋久島電工株式会社
・一湊岳 一湊林道一湊(白川)側、永田側にゲートがあり、一湊から永田への通行は不可。
・明星岳の安房川左岸林道の入口にゲート有。

国有林内の入林に対して林野庁の許可を必要とする規制

1.無人航空機(ドローン)飛行については、操縦者が国有林野内に立ち入らず無人航空機を国有林野内で飛行させる場合も手続きが必要。
2.取材、撮影などで入林する場合。
3.調査、研究のための入林。
4.立ち入り制限がある場合。
*問い合わせ 屋久島森林生態系保全センンター 0997-42-0331
*林野庁の林道、屋久島電工の森林軌道は一般登山者の入域は禁止されているが、地元集落の「岳参り」時は許可されるので合わせて参加することは可能。

協力金など(令和5年現在)

・登山協力金の徴収 観光協会手続き 日帰り登山;1000円、一泊登山;2000円
(屋久島観光協会 宮之浦0997-42-1019、安房0997-46-2333、空港0997-49-4010)
・白谷雲水峡、ヤクスギランド、入園料 500円 入園入口で支払い

屋久島入山にあたっての注意点

・登山届の提出。屋久島警察署及び派出所、屋久島町役場及び支所、屋久島観光協会、淀川登山口、荒川登山口。
・屋久島の降雨量(山岳地帯10000mm/年)は国内最多。行動中の天候把握に努め、雨天時の入山では徒渉点の増水に注意。
・島内は世界遺産登録地域、国立公園、原生自然環境保全林、生態系保護区域、鳥獣保護区、天然記念物等多く制定されています、自然環境の現状維持から、動植物の保護などにご協力ください。
・山中トイレは山小屋のある箇所や縄文杉コース、一部登山口(淀川、荒川入口)に限る。携帯トイレ使用推奨。

古道を知る

屋久島神仏の歴史

屋久島は大隅(おおすみ)諸島の一つ、九州本土最南端の佐多岬から60km南方に位置し、面積504km²周囲130kmの隔絶した自然豊かな山岳島である。
1993年白神山地とともに世界自然遺産国内第一号に指定された。
西方12kmには面積38km²の火山島口永良部島があり、行政上屋久島町に属する。
屋久島は中央に九州最高峰の権現様と仰ぐ宮之浦岳(1936m)を盟主とし、永田岳(1886m)、栗生岳(くりおだけ、1867m)の三峰をもって古来屋久島では三岳(みたけ)と呼び「一品法壽大権現」を祭祀、「岳参り」対象の山として島民に崇められてきた。
藩政時代に作成された「屋久島大會圖」では、この三岳に黒味岳を加え、宮之浦御岳、長田御岳(現永田岳)、芋生御岳(現栗生岳)、黒御岳(くろみだけ、現黒味岳)の主要山岳4峰を御岳(みたけ)とした。

また、屋久島では海岸線を司る1000m前後の山々を前岳、 前岳の背後から中央部主稜の山々に至る高峰を総称して奥岳とも称した。だが屋久島は祈りの島、神の島、神宿る島であることは一般に知られていない。
九州本土から隔絶した島民の生活圏は僅かな河岸段丘や山麓の段丘堆積層上に開かれ、自然と対峙しながら天変地異、疫病、不漁不作に怯え、有史以来自然崇拝、神道、仏教、山岳宗教、民俗神など多くの神仏を崇拝し、神に祈りを捧げ、島民の繁栄、豊漁豊作、除災招福を願い、さまざまな宗教や民俗神を取り入れ、祈願帰依することによって心の安寧を求めてきた。
屋久島に関係する古い文献は、神社、仏寺の興亡、明治の廃仏毀釈運動、戦争、火災消失などによってほとんど残されていないが、このような状況下でも唯一島津藩が天保14年(1843年)に編纂した「三國名勝圖會」(巻50)は屋久島の有史以来唯一の貴重な文献、歴史資料として高く評価され、近年では各専門の研究者や学者によって編纂整理された「上屋久町郷土史」「屋久町郷土史」、島内から集積された民俗資料館の文献、資料などが後世に残る貴重な資料として残されている。
屋久島がはじめて文物に登場したのは「日本書紀」で、第33代推古天皇の616年に夜玖人30人余りが大和朝廷に貢物を献上したと記され、三度ほど往来があった。
次いで629年には田部連(たべのむらじ)が朝廷の命で夜玖島(現在の屋久島)に派遣されたと「古事記」に記されている。
その後中国の隋、唐の時代には交易が盛んになり、遣唐使船の南島路(702〜752年)では良港をもつ屋久島や口永良部島に寄港し、食料の補給、船舶の避難、修理などが行われた。
屋久島には高い山が聳え、口永良部島には火山があることから航海上の目印として重要な役割を果たしたことは言うまでもない。
また屋久島は藩政時代には流人の島として奉行所が置かれ、島民の往来は厳しく制限され、容易に本島へ渡ることが許されなかった。
故に家屋敷、集落、山中、島内各地に多くの神仏、山岳信仰、民間信仰など多様な宗教的生活文化を見ることができる。
屋久島には古来「延喜式神明帳」に記載されている式内社益救神社がある。
屋久島では由緒ある神社として古くは須久比ノ宮、三岳の宮として島民に親しまれてきた。
現在は「一品宝珠大権現」以下八神が主祭神として祭祀され、宮之浦岳は神霊が宿る崇高な奥宮として権現様を冠し、後に山岳信仰と深いかかわりをもつようになる。
日本の仏教伝来は聖徳太子の伝記や元興寺の由緒などから宣化天皇3年(538年)とされているが、屋久島の仏教伝来は鑑真大和上によって律宗がもたらされた。
聖武天皇は当時僧侶の資格制度や戒律がなく、伝戒師制度を設けるため、唐の高僧鑑真大和上の招聘を図った。
鑑真大和上は6度目の密航を果たし、その途上天平勝宝5年(733年)12月12日益救嶋(現在の屋久島)に到着し入国手続きなどで6日間を屋久島に滞在した。
その後大宰府を経由して天平勝宝6年(754年)2月4日、ついに奈良の平城京で聖武上皇以下僧侶、民衆の大歓迎を受け、念願の都入りを果たし後に東大寺戒壇堂の建立、唐招提寺の開基につながった。
鑑真大和上の屋久島滞在は大きな出来事で、しかも朝廷の請願による中国の高僧の来日とあって、屋久島にも律宗が伝授されたことは否定できない。
律宗は第10代種子島幡時の時代まで熊毛三島(種子島、屋久島、口永良部島)に広がり、繁栄した。
屋久島の仏教は種子島家11代島主時氏公に代わり、日典、日良、日増各上人によって法華宗が熊毛三島に伝播し、島内全てが法華宗に改宗された。
1488年日増上人の入島以来、山岳崇拝である「岳参り」が繁栄し、祭祀祠は益救(やく)神社の「一品宝珠大権現」と法華宗との神仏習合によって「一品法壽大権現」と改められ、各集落こぞって「岳参り」が行われるようになった。
以来屋久島ではこれまで全島法華宗、わずかに律宗が繁栄していたが、明治の始めに藩政時代(慶長初期)から300年続いていた人吉藩、薩摩藩による浄土真宗(一向宗)の弾圧禁制が解かれ、屋久島にも浄土真宗、真宗の布教がもたらされた。
一湊、志戸子、栗生、口永良部島の4ケ所に浄土真宗や真宗の説教所が開設され、その後一湊の願船寺(真宗大谷派)、栗生の七宝山・大照寺(本願寺派)、志戸子の顕正寺(真宗興正派)、口永良部島の永光寺(本願寺派)へと発展した。
近年では宗教の自由により日蓮正宗、真言宗、曹洞宗、創価学会、浄土宗、天理教、単立、キリスト教など多くの宗教が島内で見られる。
だが、屋久島は九州の最高峰宮之浦岳を擁し、1000mを越える山50座を数える山岳島でありながら、法華宗による「岳参り」の風習が根強く、内地の修験道や山伏の山岳信仰が屋久島に広がることはなかった。
一方口永良部島は歴史上遣唐使の南東路上にあり、2007年には屋久島霧島国立公園に指定され、今尚活発な火山活動の島として知られ、2015年の爆発的噴火は記憶に新しい。
口永良部島では鹿児島の金峯(かなみね)神社の影響を受け明治以降山ノ神を祀り、「蔵王権現」を祭祀する修験道があったと文献上記録され、遺跡も残されている。
過去の屋久島における神道神社、仏教寺院は天保14年に編纂された「三國名勝圖會」にその攻防の歴史を見ることができる。

益救神社と法華宗「岳参り」

屋久島の宮之浦には古来益救神社があり、屋久島では中心的存在の神社である。
島民に最も親しまれ、権現様とする御嶽の頂上や前岳の頂上には祠が祭祀され、春秋参拝、遥拝するのが恒例とされてきた。
益救神社の創建は明確ではないが、醍醐天皇(897年)の勅命により延長5年(927年)にまとめられた「延喜式神明帳」の延喜式巻の9、10に、当時官社として3132社が指定され、益救神社はその一つとして「大隈国馭謨郡一座名神小益救神社(ヤクノマスクヒ)」と記載され、当時日本国最南端の格式ある式内社として全島民に厚く崇拝されてきた。
益救神社主祭神は「一品宝珠大権現」(天津日高彦火火出見尊・山幸彦)(注1)とされ、当時10神が祭祀されていたが、現在は「天津日高彦火火出見尊」(「火遠理命」、「山幸彦」、俗称「一品宝珠大権現」)を主神とし、「大山祇命」 「木花開耶姫命」「塩土翁命」「豊玉彦命」「豊玉姫命」「玉依姫命」「綿津見神」以上八神が主祭神として祭祀されている。
正祀「一品宝珠大権現」の一品とは朝廷の神格の位で高位にあり、益救神社の祭神が「天津日高彦火火出見尊」、つまり「一品宝珠大権現」である事は一つに屋久島が山岳島であり、当時日本国の南端(注2)要衝の島、遣唐使の南島路として屋久島、口之永良部島が中国、南方の島々との交易の重要拠点であったことである。
また、益救神社の奥宮である宮之浦岳は神霊が宿る崇高な場所として「権現様」を冠し、後に山岳信仰と深いかかわりをもつようになる。
屋久島の仏教伝来は鑑真大和上の来島により律宗が繁栄したが、後に日典、日良、日増上人による、種子島、屋久島、口永良部島の熊毛三島は「法華宗」に改宗された。
長享2年(1488年)、日増上人の屋久島御岳祈願があって神道である益救神社と日増上人開基による法華宗久本寺との習合により「岳参り」が行われるようになった。
その後詣所、前岳、奥岳に祠を建立し、集落の安寧招福を願い参拝するようになった。
宮之浦の詣所や花之江河の祠には島であるがゆえに、伝染病疱瘡(天然痘)の蔓延を恐れ、疫病退散の碑文が多く見られ、当時疱瘡の蔓延を如何に恐れていたか伺える。
現に永田の脇元村は疱瘡の蔓延により全滅の状態で廃村になっている。
祠が建立された年月は疫病が発生していた年月と重なるところが多く、疫病退散のために祈願した祠とも言える。
屋久島の山は精霊が宿る神の山を御嶽(みたけ)権現として崇め、益救神社と法華宗寺社との互恵関係が深く、屋久島の自然、神教、仏教が習合し、ここに屋久島固有の「岳参り」の祭祀が出来上がった。

(注1)天津日高彦火火出見尊:彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)は、日本神話に登場する神。瓊瓊杵尊と木花開耶姫の子であり、神武天皇(初代天皇)の祖父。「山幸彦」として知られる。「古事記」では、第三子が火遠理命(ホオリ=山幸彦)である。「日本書紀」では、第二子が彦火火出見尊(ヒコホホデミ=山幸彦)となっている。現在益救神社祭祀の八神に加え、過去には「火須勢理命」「恵比寿の神」が祭祀されていたが、この二神は明治7年宮之浦川川向の河口神祠として川向神社に祭祀された。
(注2)琉球王国(現沖縄諸島)が日本の支配下になったのは1609年の島津藩制圧によるが、それまでは屋久島が日本国の南限であった。

「法華宗」の権輿と「岳参り」の発祥

室町時代の中期、第10代領主種子島幡時公(1405〜1462年)の時代までは鑑真大和上の影響を受けて種子島全島律宗が繁栄していたが、第11代領主種子島時氏公(1447〜1504年)になり、慈恩寺の若い僧侶林応(りんのう)を島内の律宗発展のため奈良で修業させた。
林応はその帰路法華宗に感化され、尼崎の大本山本門流法華宗の本興寺門祖日隆聖人のもとで修業、律宗から法華宗に改宗し、定源院日典を名乗って種子島に戻った。
しかし、領主時氏公をはじめ島民は、日典の改宗を良しとせず、日典は島民の迫害に耐えながらも島中法華宗を説いて回った。
日典の熱心な教えは後に時氏公を動かし、法華宗は次第に種子島全島に広がり、島民も法華宗へと改宗していった。
しかし日典上人をよく思わなかった一部の島民は、日典を迫害し石子攻めにして殺害した。
寛正6年(1465年)、殉教した日典上人の遺志を継いで浄光院日良上人が種子島に渡り、日典上人同様島民の迫害を受けながらも法華宗の功徳を説き、全島律宗から法華宗への改宗を成し遂げた。
種子島を法華宗に改宗した日良上人と種子島11代領主種子島時氏公は、長享元年(1487年)、京都本能寺の高僧日増上人を種子島に招聘し、種子島に次いで屋久島、口永良部島にも布教活動を行った。
ところが屋久島の八重岳権現様は法華宗を受け入れなかったため、御岳が時々鳴動し(地震?)、疫病(疱瘡)が流行するなど、さまざまな怪奇現象が絶えず起こり、屋久島の住民は恐怖に怯え生活の安寧が得られなかった。
このようなことがあって1488年、領主種子島時氏公はこれらの天変地異や疫病を鎮めるため再び京都本能寺から種子島に来島してきた高僧日増上人を屋久島によこした。
上人は奥岳(永田岳)の見える長田村(現永田村)に滞在し、長壽院(現在の永田嶽神社)より使いの僧侶を以って「妙法蓮華経」の法札を御岳である長田嶽(現永田岳)に納めさせた。
しかし、八重岳の権現様の怒りは治まらず、三度にわたり勤行を行なったが、使いの僧侶が途中まで降りてきたところ、その法札が三度とも長壽院に舞い戻ってきた。
これを危惧した日増上人は自ら御岳に登り、法華経の勤行を行い、法札を納めて長壽院にもどり法華経を唱えたところ寶殿が鳴動し、白い鹿が現れて日増上人に一礼して忽然と消えた。
このことがあって、以後島内での鳴動は治まり、怪奇現象、天変地異も無く、疫病退散、家内安全、豊漁豊作が得られるようになった。
以来種子島、屋久島、口永良部島の熊毛三島は全て日典、日良、日増の三上人の布教活動により法華宗へと改宗し、日増上人開基の宮之浦久本寺を本山として、島内各集落の法華宗仏寺の開基となった。
島民は神仏の信仰を厚くし、法華宗は益救神社の「一品宝珠大権現」と習合し、「一品法壽大権現」と改め、御岳や前岳の頂上に祠を建立し祭祀するようになった。
藩政時代には屋久島に18の集落があり、各集落は「岳参り」の崇める山を定め、村落から崇拝する山へ「岳参り」歩道を開き、村のしきたりにそって「岳参り」をするようになった。
現在は安房や小瀬田のように村が大きくなると長峰、春牧、平野、松峰のように新たに開拓村ができて、今では24区に区分されている。
新たに増加した集落は元の集落に従った「岳参り」や、多くの対象の山を抱えていた村ではそれぞれに分散して新たな「岳参り」が行われるようになり、現在では過去にこだわらない集落固有の「岳参り」が行われるようになった。

「岳参り」の形態—本来の「岳参り」

過去の文献や昭和の中旬まで行われていた「岳参り」の基本。
1.集落内で「岳参り」の催行者戸頭(とがっしゃ)、所官(ところかん)、所願(ところがん))、参加者を決める。
2.前夜神社または仏寺で宮籠り(お籠り)をし、神に仕え、身体を清める。
3.翌早朝お潮井取りとして集落の前浜で神事を行う。
海または途中の渓流で禊をする。
藩政時代には各村の神社には神主が滞在し、それぞれ集落ごと独自に行われていたが、神官は時代と共に少なくなり、集落で益救神社の神官を呼ばない限り村の代表者が代行して諸神事を行ってきた。
村によってお潮井取りは異なり、海砂、海水や砂を竹筒に入れて持参する集落、海浜の小石を持参する集落等さまざまである。
4.奉納お供えするために持参するものは塩、生米、海藻、線香、ローソク、焼酎、お賽銭、シキミ、サカキなど。
5.詣所、神域と俗域を分ける場所では僧侶によって法要が行われ(神仏習合)、村人は「岳参り」に向かう代表者を送迎する。途中にも詣所がある場合は立ち寄って参拝する。
6.集落の定める「岳参り」の山に登り、祭祀祠の前で村から持参したお供え物を奉納し神事を行う。
一般に線香を立て柏手を打って神式で行う集落が多いが、詣所より上部をすべて仏式で法要する集落もある。
7.参拝を終え、山からの授かりものを採取し、昔はのろしやほら貝などで無事「岳参り」を終えたことを集落に知らせ、詣所、神域と俗域を分ける場所で坂迎えを行った。現在坂迎えは各集落行われていない。
8.集落の氏神である神社で「岳参り」の報告を済ませ、その夜は直会として集落挙げて慰労祝宴を行う。
山からの授かり物は神社に奉納し、集落の人々に分配して集落の繁栄、無病息災、家内安全を祈願した。
(1)宮籠り(お籠り)
「岳参り」の前夜神社や仏寺で籠り(宿泊)し心身を清める神事、仏事を行った。現在はほとんどの集落が行っていない。
(2)お潮井取り
お潮井取りは災厄を流し福を招くと言う神事で、早朝村の前浜で神式によりお祓い、お汐井取などの神事が行われるが、現在集落に神官が不在のため神事は省略されることが多い。形なりに海砂、海水、浜の小石等の供物を採取し祭祀祠に奉納するが、湯泊では七五岳、烏帽子岳、白檀峰、花之江河、栗生岳、宮之浦岳、永田岳の七箇所を詣でるにあたって海岸の小石七個を持参し、それぞれの詣所に一個ずつ奉納する。
(3)「岳参り」の目的、祈願
・集落の安泰・・・集落の繁栄、安寧、農業、漁業、林業、旅行、船舶の航海、安全を祈願
・無病息災・・・・・藩政時代は疫病の蔓延は集落、島民の滅亡危機を意味し、無病息災の祈願は当時医者もいない時代背景があり、祠の碑文には疫病退散を目的とした祈願祭祀が見られ、島民の切なる願いが込められている。
・豊漁豊作・・・・・・島民の生活に欠かせない漁業、農業の収穫を願っての祈願。春は願掛けとして豊漁、豊作を祈願し、秋は願ほどきとして収穫の御礼と来年の収穫を願って祈願した。漁業では一部の集落でトビウオの豊漁を願って「トビウオ祈願」が行われる集落もある。
・除災招福・・・・・・島民は突然襲来する台風、豪雨による土砂災害、地震などの天変地異による災害を恐れた。また林業における災害、火災などのように人為的災害の発生による被害の拡大を阻止し、身の安全を祈願した。「岳参り」は当初各集落統一された風習であったと思われるが、時代と共に各集落独自の風習に変化していったと考えられる。
(4)「岳参り」で奉納祭祀されるお供え物
祈願には神式と仏式があるが、「岳参り」をどちらの形式で行うかは神仏習合によって特に決まりはない。本来仏式で奉納されるお供え物は花、ローソク、線香、水、ご飯が基本で、神式では生米、塩、水、神酒、ローソクが基本とされる。つまり、神に供えるものは人の手が加えられてないものが好ましいとされる。
屋久島では神式、仏式にとらわれず、清めの塩、米、線香、ローソク、神酒、賽銭等持参することが多いが、集落によってはホンダワラ(海藻)、シキミ、サカキなどを奉納する所もある。
(5)山から里へ神の授かりもの
「岳参り」を終えると神からの授かりものとして以下の花木、香木の枝を持ち帰り、集落の神社仏寺などに奉納祭祀される。
また一般関係者にも配布され、床の間や祭壇、墓地などに祭祀される。
鹿児島以南の島嶼で言えることだが、屋久島も同様墓地には先祖を敬い、いつも生花が飾られている。
しかし、1971年に環境省が屋久島の国立公園、規制区域を統括するようになってから、古来行われてきた山からの授かりものは採取が禁止され、現在は規制区域外でのシキミ、サカキ等が山の神聖な授かりものとして採取されている。
・ヤクシマシャクナゲ・・・・・・九州では古来神に捧げる花として知られ、屋久島では奥岳の春の祈願は高山に咲くシャクナゲの開花時期に行われた。特に「岳参り」の土産として島民に喜ばれた。世界遺産、国立公園内に生育しているので原則採取禁止となっている。

・シキミ・・・・・・天竺の青蓮華の代用として空海が仏前の供養花としてシキミを使ったことから仏前に供えられるようになった。香りが良く、葬儀の枕花として用いられる。屋久島ではシキビ、香ノ木と言われている。仏式での山頂、寺院での供物に使われる。
・サカキ・・・・・・神事に用いられ、神と人との境を成す神木とも言われているが、サカキの葉は先が尖り、神が降臨の際よりどころにする木とされている。お祓いの儀式、神式で祈願する山頂での祭事、神社に奉納する際に使われる。
・ビャクシン・・・・・・ヒノキ科の針葉樹で香りが高く、屋久島ではハイビャクシンとして別称ビャクダンと言われている。屋久島の頂稜部岩礫帯に多く生育し、ビャクシン岳(1581m)、「岳参り」の山白檀峰(びゃくだんみね、1565m)の山頂部に多く見られ、山名の由来ともなっている。この種の植物はヒマラヤやチベットの高山でも燃やすと香りが良いことから仏事祈願に使われる。
(6)「岳参り」の祠や石塔、墓石に使われている岩石
屋久島の祠や石塔、墓地に使用されている石は屋久島で産出される岩石ではなく、鹿児島で産出される火山系凝灰岩や山川付近で産出される溶結凝灰岩が利用されている。
特に多く使われている通称山川石は鋸で切れるなど、岩質は柔らかく粘性があり、加工しやすく風化に絶える優れた特徴があり、藩政時代からわざわざ屋久島まで運んで利用されてきた。
一般に言う凝灰岩の鹿児島石は石質が荒く、風化が早く脆いため年月が経つと祠に描かれている碑文の読み取りはやや困難。
(7)「岳参り」の催行日
「岳参り」の催行日は本来春に豊漁豊作を祈願し、秋に開眼収穫御礼として春秋それぞれ年2回行なわれる集落が多い。しかし、旧屋久島町(南半分)では年一回という集落が多く、しかも催行の日程はとくに定められてはいない。
現在では集落の現状を踏まえ、都合のよい時期に行われる。
また、集落によっては、屋久島の自然条件に鑑み、積雪期を外し、催行日に条件が伴わず、目的とする山頂祠まで到達しえない場合は途中の詣所や前岳、中宮(遙拝所)で済ませることもあった。現在では春は4月〜5月、秋は9〜10月、集落の都合や現状に即し、また秋の祭事に合わせて行なわれるところが多い。
春の「岳参り」は豊漁豊作が得られるよう願掛けを行い、秋は春の願いを願ほどきとしてお礼参りをする。
(8)「岳参り」祈願者の条件
・「岳参り」は古くは集落を代表する汚れのない成年男子を所願(所官;ところかん、所願;ところがん)とし、集落によっては戸頭(とがっしゃ)をたてて当番制で引き継がれていた。
所とは集落を意味し、官は本来願う願(ガン)がいつしか方言で官に転化し所官になった。
一時村の青年団が主催していたが、現在では希望者を募り誰でも自由に参加できるようになった。
現在も一部所願を決めて行う集落もあるが、一般には区の役員、消防団及び有志により催行される事が多い。
原集落では10人組、9燐保班の持ち回りで行われ、尾之間集落は小組合(東町、中町、西町)があり、輪番制で戸頭を決め催行されている。
・「岳参り」は神聖とされ、開基と同時に女人禁制が敷かれ一般には赤不浄として14、5歳以上の婦女子は参加できなかった。
女人禁制の年齢は集落によって少々異なるが、宮之浦、永田では15歳、小瀬田では18歳とされていたところもある。
・死者が出た家は黒不浄として、49日以内はもちろん、集落によっては1〜3年間喪に服し、「岳参り」には参加できない集落もあった。現在はこのようなしきたりは全て排斥され自由に参加できる。
(9)坂迎え
集落によって、さかむかえ、うちむけ、さかむけ、まちうけなど表現が異なる。所官や参加者が「岳参り」を無事終えると集落を前にして山中からのろしや笛、ほら貝などの合図で村人に知らせた。
坂迎えの場所は神域と俗域を分ける所や、神域を避けた集落との間の特徴ある岩や松など、あらかじめ村で指定されている坂迎えの場所に村民が出向いて労をねぎらい迎えた。
(10)「岳参り」終了時参加者の慰労直会(なおらい)
「岳参り」を終え村民に迎えられると、村の神社や寺社に参り、無事終えたことを報告。山からの授かりものを村人に分配し、身を清めてその夜は盛大に棒踊りや笠踊りなどの余興もまじえて行われた。
現在は各集落共簡素化し、過去の集落上げての酒宴や余興は皆無で、関係者のみでささやかに酒宴が行われる集落が多くなった。

「岳参り」の現状

「岳参り」は時代とともに変遷し翻弄されてきた。
藩政時代は病を治す手立てがなく、神にすがり祈願することによって疫病を退散させる心のよりどころとしていた。
隔絶された離島である屋久島に神社仏閣、民俗神(水の神様、火の神様、目の神様、歯の神様、蛇の神様など)の祭祀が多いのはこのような背景があり、特に集落の「岳参り」の祈願には、集落や個人の危機に対して心の安寧や疫病退散、村落招福は自然崇拝的要素が強く、屋久スギは神木とされ、山や大木、自然、村の象徴物に願いを託し、神に祈るしか方法はなかった。
本来「岳参り」は山岳地帯の神の住む世界と、村民の住む生活圏の俗世界とに分ける詣所(もいしょ)が設けられ、村の穢れ無き男子を集落の代表として「岳参り」に向かわしめ、村に襲いかかるさまざまな畏怖、恐怖から逃れるために祈願、安寧、招福を願った。
しかし、時代の変遷により近代化された現代では、島の青年は都会へ憧れ、より幸せを求めて貧困からの脱却を図った。
昭和30年代には希望に満ちた集団就職や出稼ぎで島を離れ、島内若者の減少が続いた。
さらに最近問われている少子化や高齢化社会、危機的限界集落が拍車をかけ、若者の宗教に対す帰依や願掛けは薄れ、「岳参り」は創始以来これまで続けられてきた本来の姿から逸脱し、集落によっては中止に追い込まれたり、簡素化縮小されて過去のように重厚で神聖な行事ではなくなってきた。
最近では1993年の世界自然遺産登録によって屋久島が一躍注目され、観光化に伴って過去の文化を復活させる機運が高まり、島外からの移住者も加わって再び形式的に「岳参り」を復興させた集落もある。
戦前までは赤不浄(女性の生理)、黒不浄(死者の出た家)は「岳参り」に参加できなかった。
また、村を代表する所願として穢れ無き成年男子に特化した「岳参り」も、現在では誰でも自由に参加できるようになった。
屋久島全体で言えることは、限界集落を危惧する集落の人口減、島民、若者の島離れ、高齢化による体力的限界、信仰心の希薄化、2019年に発症したコロナウイルス感染症による「岳参り」の一時中断など、時代の変遷により「岳参り」を疎遠にし、1488年から500年余継承されてきた宗教文化の存続が危ぶまれている。

各集落「岳参り」の山(古文献に見る過去と現在)

各集落「岳参り」の山(PDF)

深掘りスポット

屋久島の「岳参り」歩道

屋久島では古くから登山道や一般的な歩く道を歩道、川の名前を「こ、こう、ごう」という。例えば大川を「おおこ」と言い、鯛之川を「たいのこう」、宮之浦川を「みやのうらごう」という。
また。文献上歩道が描かれている最も古い地図に島津藩により明暦(1655〜1658年)の頃に作成された絵地図「屋久島大會圖」がある。地図には屋久島海岸線に沿って周回する歩道と山を越える険しい隣接の村との連絡歩道があり、山頂に至らない歩道は里山林業、狩猟、薪採取の生活上必要とする歩道であった。
屋久島で最初に山頂への道が開かれたのは1488年の日増上人が法華宗伝播を意図として永田岳山頂で勤行を行って開山したとされている。その後「岳参り」の繁栄と共に次々と山頂への道が開かれていった。
文禄5年(1595年)豊臣秀吉の発願によって京都方広寺に巨大大仏殿が建立されるにあたり、天正16年(1588年)石田三成の材木提供の命を受けた薩摩の大名第16代島津義久が、屋久島に杉と檜を調査するよう伊集院忠棟、島津忠長を屋久島に派遣。
天正17年秀吉の朱印状を受けて大仏用の材木、寺院や神社にある神木も含めて調査をするよう指示。
二人は屋久島に渡り、調査内容を克明に記帳し、併せて島民が勝手に伐採しないよう監視までも行った。
明暦(1655〜1658年)の「屋久島大會圖」に描かれている歩道が山頂部まで至ってないことは、秀吉の命による調査が樹木のない山頂部まで行く必要がなかった結果によるもので、薩摩藩の調査結果が「屋久島大會圖」に反映され、「岳参り」の歩道はその延長上にあったものと思われる。
また「屋久島大會圖」に描かれている山名で「岳参り」を対象とする宮之浦御岳、長田御岳(現永田岳)、芋生御岳(現栗生岳)、黒御岳(現黒味岳)など4つの御岳を主とし、浄光坊山(現楠川前岳)、中島権現嶽など宗教的山名が存在することも、1488年の日増上人の開山以来160年後描かれた絵地図の中で山名がつけられたものと推察される。
宮之浦山頂に建立されている祠は天正14年(1586年)とされていることから、日増上人の永田岳開山100年後に建立され、以後各集落から「岳参り」歩道が開かれていったと想定される。
祠の碑文に描かれている年代がわかるもので、江戸時代明暦の「屋久島大會圖」以降に建立された祠が多い。
近年では1873年、明治維新新政府により全国の廃藩置県に伴い地租改正が開始された。
鹿児島での地租改正は1877年の西南の役で遅滞したものの、1881年に完了した。
1882年当時、屋久島の山林は島民のものと考えられていたが、地租改正によって総面積の90%以上が国有林化され、島民はこれを不服として1904年「国有林下戻請求」の行政訴訟を起こした。
1920年、16年続いた「国有林下戻請求」の行政訴訟は官の勝訴で結審、以後本格的大規模な伐採が開始された。
1923年以降安房森林軌道の小杉谷まで16kmが完成し、さらに石塚上部まで延長された。
以後1928年には宮之浦上流22km、1934年には栗生森林軌道5.5km、併せて永田森林軌道が開設された。
しかし、1965年以降これまで設置した森林軌道は次々廃止され、1970年には小杉谷事業所を閉鎖、1975年には安房森林軌道が廃止された。
その後効率の良い林道による材木の搬出が各山中に敷設され、伐採による自然破壊は加速された。
近年に至り自然保護の機運が高まり、1954年山林の一部が天然記念物、1964年国立公園化、1993年世界自然遺産登録、外原生林自然環境保全地域、生物保存地域、鳥獣保護地域、ラムサール条約登録地など多くの指定、登録が成された。
以上保護地帯を除く林野はそのほとんどが伐採され、現在非営業林は25000ha(国有林全体の65%)が禁伐となっている。
以上の経緯により「岳参り」は時代の趨勢とともに、車社会の普及、奥地まで伸びた森林軌道や林道の利用により負荷軽減を図るコースがとられるようになった。
奥岳の「岳参り」を対象とする集落をはじめ、安房、原、湯泊、栗生、外前岳の「岳参り」に到っても、できる限り目的の山に近づける最も効率的な林道を活用し、「岳参り」の簡素化に伴ってコースの変更が再三行われ、重みのない現在の「岳参り」に至っている。

「屋久島大會圖」にみられる「岳参り」歩道

(會圖には描かれていないが想定される「岳参り」道も含む。「屋久島大會圖」解析図参照)
・旧宮之浦岳「岳参り」歩道 宮之浦村〜(猿渡谷)〜ちよこい〜あした山(現小高塚山)〜宮ノ浦御嶽
・現楠川前岳「岳参り」歩道 楠川村〜白谷〜まさの木
・現小瀬田愛子岳「岳参り」歩道 小瀬田村〜いわさく山(現愛子岳)〜小すぎよこい(現小杉谷)
・現船行三野岳「岳参り」歩道 船行村〜たいひら山(現三野岳)
・旧安房中嶋権現岳「岳参り」歩道 安房村、船行村〜中嶋権現
・旧安房太忠岳「岳参り」歩道 安房村〜花ふさ〜とんびふ峯、谷のはり山〜荒川〜たちう岳(現太忠岳)
・現破沙岳「岳参り」歩道 平内村(現大崎川)〜はさ山(現破沙岳)〜物見石〜淀川〜平内奥山
*はさ山(現破沙岳)〜物見石〜淀川〜平内奥山は現在廃道
・現湯泊歩道・烏帽子岳「岳参り」歩道 湯泊村〜えぼし石(烏帽子岳)〜白檀峯〜湯泊奥山
・旧栗生岳「岳参り」歩道 芋生村(現栗生)〜大杉(大洞杉)〜白州山(現上中島)〜中嶋山(現中島ノ頭)〜芋生御岳(栗生岳)
・現永田岳「岳参り」歩道 長田村〜絶頂ノ辻(現八井の鼻)〜長田御岳(現永田岳)
・現一湊岳「岳参り」歩道 一湊村、志戸子村〜黒はげ(現一湊岳)
注1.( )内は現在の山名地名
注2.旧は過去にあったと想定される歩道
注3.現は古来から現在に至るまで使われている歩道

昭和・平成・令和の「岳参り」に利用された各集落からの歩道

■宮之浦集落
・【奥岳;宮之浦岳】宮之浦―(車;神之川林道)―益救参道入口―龍神杉―太古杉―高塚小屋―新高塚小屋―平石―宮之浦岳〈龍神杉―高塚小屋間間荒廃〉
・【奥岳;宮之浦岳】宮之浦―(車;白谷雲水峡宮之浦線)―白谷雲水峡―辻峠―楠川分れー大株歩道―ウイルソン株―大王杉―縄文杉―高塚小屋―新高塚小屋―平石―宮之浦岳
■楠川集落
・【前岳;楠川前岳】楠川―正の木―野のよけい―(楠川歩道)-三本杉―楠川前岳入口―楠川前岳
・【奥岳;石塚山】楠川―正の木―野のよけい―楠川歩道入口-三本杉―辻峠―楠川分れー小杉谷―石塚集落(廃村)―石塚山〈石塚集落(廃村)―石塚山間廃道〉
・【奥岳;石塚山】楠川―安房―(車;屋久島公園安房線)―ヤクスギランドー太忠岳/石塚山分岐―石塚山
■楠川集落、椨川集落
・【前岳;楠川前岳】楠川―野のよけい―楠川歩道入口-三本杉―楠川前岳入口―楠川前岳(高岳)〈荒廃〉
・【前岳;楠川前岳】楠川―野のよけい―(車;白谷雲水峡宮之浦線)―白谷雲水峡―楠川前岳歩道入口―楠川前岳(高岳)〈楠川前岳歩道入口―楠川前岳(高岳)間荒廃
■椨川集落
・【前岳;楠川前岳(高岳)】椨川―(楠川前岳北尾根)-P582-P945―楠川前岳(高岳)〈全行程廃道〉
*楠川前岳は椨川では過去高岳と称していた。
■小瀬田集落
・【前岳;愛子岳】小瀬田―愛宕神社―(車;林道)―愛子岳歩道入口―小杉谷分岐―愛子岳
■小瀬田集落、長峰集落
・【前岳;向岳】小瀬田―愛宕神社―(車;町営牧場農道)―向岳歩道入口―向岳二の岳〈牧場ゲート有〉
■船行集落
・【前岳;三野岳】船行―(車;林道船行線)―三野岳歩道入口―三野岳〈荒廃〉
■船行集落、安房集落
・【奥岳;中島権現岳】安房健康の森公園―(安房森林鉄道)―中島権現岳〈健康の森公園ゲート有、入山不可〉
・【奥岳;中島権現岳】安房―(車;屋久島公園安房線)―(車;町道荒川線)―荒川入口―(安房森林鉄道)―中島権現岳〈荒川ゲート有、入山不可〉
・【奥岳;太忠岳】安房健康の森公園―(安房森林鉄道)―荒川橋―太忠岳〈尾立ダムー太忠岳歩道廃道〉
・【奥岳;太忠岳】安房―(車;屋久島公園安房線)―ヤクスギランドー太忠岳歩道入口―天文の森―太忠岳/石塚山分岐―太忠岳
■船行集落、松峰集落、安房集落
・【前岳;明星岳】船行、松峰、安房―(車;林道鍋山林道)―明星岳歩道入口―明星岳/三野岳鞍部―明星岳〈全行程廃道〉
・【前岳;明星岳】船行、松峰―(車;安房川左岸林道)―明星岳北沢歩道入口―明星岳/三野岳鞍部―明星岳〈林道入口ゲート有〉
■春牧集落
・【前岳;前岳】春牧―安房―(車;屋久島公園安房線)―千頭川前岳「岳参り」歩道入口―(安房)前岳
■平野集落
・【前岳;前岳】平野―(車;中瀬川林道)―権現様入口―権現様
■高平集落、麦生集落
・【前岳;高平岳】麦生、高平―麦生歩道入口―高平岳鞍部-高平岳〈全行程荒廃〉
■麦生集落
・【前岳;俵石山】麦生―詣所・中足の山神―麦生歩道入口―高平岳鞍部―俵石山〈麦生歩道廃道〉
・【奥岳;宮之浦岳】麦生―詣所・中足の山神―(麦生歩道)―麦生歩道入口―太郎兵衛小屋―尾之間歩道分岐―淀川―花之江河―宮之浦岳〈麦生歩道(歩道入口―尾之間歩道分岐間)廃道〉
■原集落
・【前岳;雪岳】原―山口詣所(原歩道入口)―本富岳分岐―鯛之川徒渉点―雪岳〈本富岳分岐―雪岳間廃道〉
・【奥岳;宮之浦岳】原―山口詣所(原歩道入口)―本富岳分岐―鯛之川徒渉点―雪岳―太郎兵衛小屋―尾之間歩道分岐―淀川―小花之江河―花之江河―投石平―栗生岳―宮之浦岳〈原歩道(本富岳分岐―尾之間歩道分岐間)廃道〉
・【前岳;耳岳、割石岳】原―山口(原歩道入口)―タナヨケ歩道―万代杉―神山展望台―耳岳―割石岳〈神山展望台―耳岳―割石岳間廃道〉
■原集落、尾之間集落
・【前岳;本富岳】原、尾之間―正面歩道入口―平石詣所――本富岳〈歩道崩壊廃道〉
・【前岳;本富岳】原―山口(原歩道入口)―タナヨケ歩道―万代杉―神山展望台―本富岳
・【前岳;耳竹・割石岳】尾之間―二又川詣所―(耳岳歩道)―耳岳/割石岳暗部―耳岳―割石岳〈廃道〉
■尾之間集落、小島集落、平内集落
・【奥岳;宮之浦岳】尾之間―尾之間温泉歩道入口―鯛之川徒渉点―淀川小屋―小花之江河―花之江河―投石平―栗生岳―宮之浦岳
■小島集落
・(前岳;芋塚山)・林道;南ルート 小島―歩道入口-芋塚山〈荒廃〉
・鈴川東ルート小島―歩道入口-芋塚山〈荒廃〉
■平内集落
・【前岳;権現堂(ごんげんどん)】平内―平内詣所―農道― 権現堂歩道入口―権現堂〈荒廃〉
・【前岳;破沙岳】平内―平内詣所―山口どんー破沙岳歩道入口―破沙岳
■湯泊集落
・【奥岳;宮之浦岳】湯泊―(湯泊林道)―下湯泊歩道入口-上湯泊歩道入口(標高850m)-湯泊三能山舎跡-白檀峰(詣所)-栗生歩道分岐―花之江河―投石平―栗生岳―宮之浦岳〈林道標高500mにゲート有、湯泊歩道(三能山舎跡-栗生歩道分岐間)荒廃〉
■湯泊集落、中間集落
・【前岳;烏帽子岳/七五岳】湯泊―(湯泊林道)―下湯泊歩道入口-上湯泊歩道入口(標高850m)―三能山舎跡-烏帽子岳―七五岳分岐―七五岳〈林道標高500mにゲート有〉
■中間集落
・【前岳;七五岳】中間―山口詣所―七五岳歩道入口―(七五岳西尾根)―七五岳〈七五岳歩道入口―七五岳間荒廃〉
・【前岳;七五岳】中間―山口詣所―上湯泊歩道入口―七五岳〈全行程廃道〉
・【奥岳;宮之浦岳】中間―(七五岳西尾根)―七五岳―(湯泊歩道)―三能山舎跡―データロー岩屋―栗生歩道分岐―花之江河―投石平―栗生岳―宮之浦岳〈七五岳西尾根、湯泊歩道(三能山舎跡―栗生歩道分岐間荒廃〉
■栗生集落
・【奥岳;宮之浦岳】栗生―栗生歩道入口(標高450m)―上小楊子林道栗生歩道入口(標高1100m)―栗生歩道―花之江河―投石平―栗生岳―宮之浦岳〈栗生歩道全行程荒廃〉
■永田集落
・【奥岳;永田岳】永田―町道・林道-モチダー永田歩道入口―岳の辻―姥ケ岩屋―桃平―七ツ渡シー鹿之沢―永田岳
・【奥岳縦走;栗生岳、宮之浦岳、永田岳】永田―(車)―安房-淀川入口―淀川小屋―花之江河―投石平―栗生岳―宮之浦岳―鹿之沢―七ツ渡シー桃平―姥ケ岩屋―岳の辻―永田歩道入口―モチダー林道・町道・林道-永田
■吉田集落
・【前岳;吉田岳】吉田― 一湊―白川(しらこ)村―(車;一湊林道)― 一湊林道吉田岳歩道入口―吉田岳〈白川村先ゲート有〉
・【前岳;吉田岳】吉田―岳参り歩道入口―旧岳参り歩道― 一湊林道吉田岳歩道入口―吉田岳〈廃道〉
・【前岳;吉田岳】吉田―(車;吉田林道)―吉田岳歩道入口一湊林道吉田岳歩道入口―吉田岳
■一湊集落、志戸子集落
・【前岳;一湊岳】一湊、志戸子―白川―(一湊林道)― 一湊岳歩道入口―一湊岳〈白川村先ゲート有〉
■志戸子集落
・【前岳;雪岳】志戸子―(林道)-歩道入口―上ノ山―(一湊岳歩道)-一湊岳〈全行程廃道〉
■宮之浦集落、原集落、尾之間集落、中間集落、栗生集落、永田集落
・安房-(車;屋久島公園安房線・町道淀川線)―尾之間歩道淀川入口―淀川小屋―小花之江河―花之江河―投石平―栗生岳―宮之浦岳
*令和5年(2024年)8月の台風による各歩道、車道(林道)の崩壊、倒木などにより登山、通行の規制あり。要現地確認。

屋久島の山岳宗教

山岳信仰は壮大な山や自然を敬い、人の生活に欠かせない恩恵と畏怖と祖霊などに対して崇拝する自然崇拝で、世界各地でその地域独特の崇拝のあり方を見ることができる。
世界的には特に高い山や特徴ある山を自然崇拝の対象として崇める風習が多くみられるが、特にアジアを中心とし、仏教界の聖山とされる西チベットのカン・リンポチェ(カイラス・6638m)はチベット仏教、ボン教、ネパール仏教、ヒンドゥー教、ジャイナ教の聖地とされ、周辺国から多くの敬虔な信者が巡礼に訪れるが、あくまで信仰の対象として山自体に捧げられ、その山に登ることは許されない。
カンリンポチェの一周巡礼は52km、氷床に覆われた標高5630mのドルマ・ラ(峠)を1月かけて五体投地で越える敬虔な巡礼者の姿は凄まじい。
途中巡礼途上で亡くなった子供を含むメモリアルストゥーパは涙を誘う。強烈な宗教の一念がここに存在し、訪れた者の心がゆすられる。
一方ネパール・ルンビニで生誕したゴータマ・シッダールタ(釈迦)を開祖とする仏教は、チベット、中国、韓国を経由して日本に伝えられ、日本固有の仏教に発展したが、中でも日本の山岳宗教は、山頂に達することが重要視されることが多く、火山信仰として富士山、鳥海山、阿蘇山、水源を尊ぶ白山信仰、死者の霊を弔う恐山、月山、立山、熊野三山、山そのものをご神体とし神霊が宿るとして崇拝する大神神社(三輪山)、宇佐神宮奥宮御許山(おもとさん)など、目的が異なる山岳信仰がみられる。
一方九州の山岳宗教では福岡県の山そのものをご神体とする英彦山、求菩提山、式内社修験道の竈門神社、大分県国東半島の六郷満山霊場、鹿児島県の天孫降臨、火山信仰、高千穂峰を崇拝する式内社霧島神宮、同じく鹿児島県屋久島の三岳信仰の式内社益救神社などがある。
なかでも、役小角(えんのおづの)により開かれた大峰山修験道は日本古来の神道と外来密教である天台宗、真言宗が習合して日本固有の修験道が生まれ、全国各地に広がった多種多様な山岳宗教を見ることができる。山の頂上には山を崇める修験道や神社の奥宮が建立され、地域の民俗的自然崇拝の小社や祠が祭祀され、山麓では遥拝の神社、仏寺が建立されるなど、日本固有の独特な山岳信仰が生まれた。
三岳信仰とされる屋久島の「岳参り」は、長享2年(1488年)、日増上人の屋久島法華宗布教に始まり、神道である「一品宝珠大権現」と法華宗の習合により開基された。屋久島の山岳宗教は、国内各地で広がった一般的山岳宗教と異なり、法華宗色が強い特異な祭祀のあり方と風習がみられる。
島全体の広域山岳地帯を宗教の対象とし、僧侶や宗教に帰依する宗徒に限らず、島民の全てが同じ風習に従って各集落がこぞって「岳参り」を競うように行われてきたことは、全国的にも珍しく、屋久島固有の山岳宗教として特筆すべきことであろう。

屋久島の「岳参り」(タケメー)風習の最も古い記述は天保14年(1843年)に編纂された「三國名勝圖會」總説に見られるが、開基は永田における京都本能寺の日増上人による法華宗伝播により始まったとされる。屋久島の神社仏閣の開基や創建は不明な点が多く、各集落の「岳参り」の祭祀も同様にいつ始まったか明確ではない。
当時は隣接する集落との交流は船か歩道を辿らなければならず、日増上人の教えは屋久島全体に伝播するのに時代差があったと考えられるが、「岳参り」に関する最も古い遺跡、祠などの碑文からある程度想定はできる。藩政時代は疫病、それも疱瘡蔓延を恐れ、疱瘡の退散を祈願する祭祀が多く、山麓の詣所(もいしょ)や山中、山頂に祭祀されている祠の建立年代から、必ずしも各集落同時期に祭祀されたとは言い難い。
また、屋久島「岳参り」の形態は基本的に大筋同じであるが、地形的環境により対象とする山が異なる。屋久島北部は一応に険しく、南部は丘陵的柔和な地形を成し、屋久島の東海岸から南部にかけては各集落から三岳を目指す歩道が開かれ、貪欲に前岳、奥岳複数の山を対象として崇拝しているが、西海岸では三岳への道筋が取れず、前岳から三岳を遙拝するなど一集落一岳を特徴としている。
「岳参り」が行われる旧来の海岸から山頂にいたる歩道(登山道)も、近代林業における大正時代から昭和初期に敷設された森林軌道や、昭和の中期から屋久杉搬出用の林道の敷設により、時代の変化とともに行程の変更が再三行われ、「岳参り」を催行する祈願者の負荷軽減が図られてきた。時代の変遷は女人禁制を廃止し、集落を代表して祈願する催行者も高齢化社会、過疎化に伴い、昔日の穢れのない青年に特化されることなく、近年老弱男女自由に参加できるようになった。
また、1964年霧島屋久国立公園、1971年の環境省の屋久島設置、2011年改変による屋久島国立公園の独立、1993年の世界自然遺産登録による自然保護によって、「岳参り」催行者が山からの授かりものとして持ち帰ったシキミ、サカキ、ビャクシン、シャクナゲなどの樹木の採取は禁止され、村人や神社、寺院などに配って祭祀お供えした習慣がなくなるなど、地域的宗教文化の変化も否めない。
現代では自然環境、社会環境の変化により「岳参り」の風習や宗教的文化は大きく変化し、過去から延々と伝承されてきた本来の姿はほとんど見ることはできなくなった。 「岳参り」は往古より絶えることなく続いている集落もあれば、衰退した集落もあり、廃仏毀釈、信仰の希薄化、高齢化によって一時途絶えた集落もあれば、1993年の世界自然遺産登録に刺激され、形式的に復活した集落もある。各集落は高齢化社会と現代人の宗教に対する尊崇の念が希薄になり、「岳参り」の宗教的伝統の維持が危惧され、将来如何に存続させるか模索している段階にある。

ミニ知識

天津日高彦火火出見尊

彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)は、日本神話に登場する神。瓊瓊杵尊と木花開耶姫の子であり、神武天皇(初代天皇)の祖父。
「山幸彦」として知られる。
現在益救神社祭祀の八神に加え、過去には「火須勢理命」「恵比寿の神」が祭祀されていたが、この二神は明治7年宮之浦川川向の河口神祠として川向神社に祭祀された。

ルート

ルートは各集落の「岳参り」を参照ください。

アクセス

屋久島観光協会

バス:「屋久島交通バス」「まつばんだ交通バス」
タクシー:「屋久島交通タクシー」「まつばんだ交通タクシー」「安房タクシー」
https://yakukan.jp/on-island.html

「岳参り」歩道に関係するバス(屋久島交通)の運行(令和5年度)

《右回り》
永田―宮之浦―安房―尾之間―栗生橋 2便
宮之浦港―安房―尾之間―栗生橋 4便
宮之浦―安房―尾之間―栗生橋―大川の滝 3便
永田―宮之浦―安房―尾之間(いわさきホテル) 4便
《左回り》
栗生橋―尾之間―安房―上宮之浦―永田 2便
栗生橋―尾之間―安房―宮之浦港 6便
大川の滝-栗生橋―尾之間―安房―宮之浦港 3便
尾之間(いわさきホテル)―安房―宮之浦―永田 2便
宮之浦港―永田 2便
《白谷雲水峡線》
宮之浦港―白谷雲水峡往復 4便
《ヤクスギランド線》
合庁前―ヤクスギランドー紀元杉往復 2便
《荒川線、縄文杉線》
シーサイドホテルー宮之浦―合庁前―屋久杉自然館(早朝) 1便(注2)
いわさきホテルー尾之間―屋久杉自然館(早朝) 1便
屋久杉自然館―荒川登山口(期間限定3月〜11月) 4便
荒川登山口―屋久杉自然館 6便
(注1)時間の変更に要注意。 問い合せ先 屋久島交通0997-46-2221または観光協会、インターネット
(注2)荒川線(縄文杉線)の屋久杉自然館出発停留所へは宮之浦シーサイド発及び尾之間いわさきホテルの早朝バスを利用または、タクシー、レンタカーを必要とし、事前調査、予約を必要とする。
(注3)落石、倒木、豪雨、積雪時は白谷雲水峡線、ヤクスギランド線、荒川線は運行中止になることがあり要注意。

各集落の「岳参り」歩道入口までのアクセス

過去には各集落から「岳参り」や登山をする場合は山麓から目的の山まですべて歩きであったが、林道や農道の発達によって歩道入口までのアクセスは基本的にレンタカーもしくはタクシー。
ただし、ゲートのある林道や規制のかかっている入山は林野庁の許可を必要とし、事前の申請、許可を得なければならない。
また林道が登山観光のため町道に変更された箇所は、「岳参り」入口まで公共のバスが行かない箇所がある。
■「岳参り」で許可を必要とする歩道
・安房から中島権現岳への森林軌道(一般者入山不可) 屋久島電工株式会社管理
・一湊林道一湊側、永田側ともゲートあり(一般者入山不可)林道の舗装化。
・湯泊歩道崩壊によりゲート上部は入山不可。ただし、中湯泊歩道入口までは入域可能。
・小楊子林道ゲート上部は入山不可。
荒川登山口へは、タクシーの場合は荒川三叉路にあるゲートを通過できるが、自家用車はその手前にある駐車場に駐車してシャトルバスで向かう。

参考資料

【「屋久島 岳参り」共通】
・「古事記」「日本書紀」総覧 別冊歴史続本・辞典シリーズ(第二刷)新人物往来社(平成2年4月17日発行)
・「三國名勝圖會」(仏寺・法華宗の權輿)天保14年(1843年)薩摩藩主第27代藩主島津斎興の命で五代秀堯、橋口兼柄等により編纂された。内屋久島関係は巻ノ五十に表されている。
・屋久島大會圖
・益救神社「益救神社由緒記」
・村田煕「種子・屋久・トカラ列島の山岳宗教」(山岳宗教史研究書⑬)
・石飛一吉「屋久島における山岳信仰県の研究」
・山本秀雄「岳参り」(上屋久町楠川を中心として)
・(楠川区長牧実寛メモ)「楠川の岳参り」
・「上屋久町誌」(1984)上屋久町
・屋久島町郷土誌(第一巻〜第四巻・1993〜2007)屋久町
・ウィキペディア検索
仏教 全日本仏教会、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
神道 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
法華宗フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
山岳信仰 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
・楠川天満宮「楠川天満宮の由緒」
・久本寺渡辺智弘御住職「渡部智弘論文」
・「屋久島『岳参り』の研究」「国際言語文化研究」第四号(1998)鹿児島純真女子大学
・太田五雄「屋久島の山岳」(1993、再販1997,再販2006)八重岳書房、南方新社
・太田五雄、三橋和己共著「屋久島の神と仏—神社・仏寺・山岳宗教・民俗神」(2020)自費出版
・太田五雄「屋久島総覧—未来への伝言」(2021)自費出版
・太田五雄論文「屋久島の山岳宗教・法華宗「岳参り」」(2023)自費出版

協力・担当者

【「屋久島 岳参り」共通】
《執筆者》
太田五雄(日本山岳会 福岡支部)
《協力》
益救神社(宮之浦) 宮司 故大牟田信文 禰宜 大牟田祐
久本寺(宮之浦、法華宗・本門流) 御住職 渡邉智弘 僧侶 渡邉智旭
日本山岳会MCC
(敬称略)

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