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108 対馬 佐須坂三里
「佐須坂三里(さすざかさんり)」は、鎌倉時代の1274年(文永11年)に起きた元寇・文永の役において、対馬地頭代の宗助国(そうすけくに)が一族郎党とともに国府を出立し、戦場である西海岸の佐須浦(現在の小茂田浜)へと駆け抜けた古道の一部です。
未舗装部分だけでは歴史背景がわかりにくいため、観光情報館ふれあい処つしま(厳原町中心部、厳原港から650m)を起点に、佐須坂を越え、小茂田浜までのルートを紹介します。
厳原町中心部の城下町エリアには、江戸時代の石垣が多く残り、豊臣秀吉の文禄慶長の役に際して築かれた清水山城(しみずやまじょう)、宗氏の菩提寺・万松院(ばんしょういん)、対馬博物館などの史跡・建物が集中しています。
史跡や石垣などを見ながら1.9kmほど歩くと、厳原中学校前で国道と県道44号が分岐しています。
厳原中心部と佐須の間には、権現山(ごんげんやま)~有明山(ありあけやま)の尾根が屏風のようにそびえ、標高390mにある佐須峠をふくむ「佐須坂三里」は古くから難所として知られていましたが、峠道を北に迂回する形で県道44号が整備され、さらに短縮路として2016年(平成28年)に佐須坂トンネルが開通しました。
左の県道側に進み、1.5km先の県道の新道・旧道分岐点から左の旧道に進みます。旧道を1.1km進むと、標高150m地点にコンクリートの擁壁があり、ちょっとわかりにくいですが、ここが佐須坂の未舗装部分の起点です。ここまでは徒歩での移動のほか、タクシー・レンタカーなども利用できます。
周辺の植生は、スダジイ・ヤブツバキなどの照葉樹の二次林や、スギ・ヒノキの植林で、林床にはマンリョウが目立ちます。
堆積岩が花崗岩マグマの熱で変性した堅硬なホルンフェルスの巨石が、ところどころで姿を現します。
幅1.5mほどの踏み跡と、道の両側にある石積みが、そこがかつて山道であったことを教えてくれます。
落ち葉を踏みしめながら300mほど歩くと、もう何十年も往来が途絶えたであろう山道に、お地蔵さんがひっそりと佇んでいました。
現在、峠には送電線の巨大な鉄塔が立っており、その東側の支柱が、宗助国一党が軍議を行ったとされる「軍議壇(ぐんぎだん)」です。
文永の役では、夕方6時ころに元軍侵攻の一報が国府に届き、宗助国一党は真夜中に出立。
佐須坂を馬で越え、深夜2時ころに佐須浦(小茂田浜)に到着し、未明4時から元の大軍と5時間にわたって交戦し、全滅したとされます。
日本で初めて元軍と対峙することになった68歳の老将・宗助国は、どのような心境で出発し、真夜中の軍議で何を思ったのでしょうか。
終点の小茂田浜神社までは、標高300mから海抜0mの海岸部まで続く舗装道です。
元禄国絵図では、古道は士富村(しとみむら)に接続しており、現在と変わりませんが、道路はかなり大規模な掘削工事やコンクリートの吹き付けが行われ、古道の雰囲気は失われています。
佐須地区には、宗助国が自決して家臣に首を隠させたと伝わるお首塚(下原の観音堂)、太刀塚(樫根の銀山神社)、お胴塚(樫根の法清寺)、古戦場跡(金田小学校)、宗助国が陣を構えたとされる「ひじきだん」などの元寇関連地(県道からそれぞれ数百m)が多く、目的地の小茂田浜神社までは8.3kmの道のりです。
小茂田浜神社の祭神は宗助国で、毎年11月の慰霊祭では、「鳴弦の儀」「命婦(みょうぶ)の舞」などの神事が奉納され、地域住民による武者行列も再現されます。
かつては、実際に戦った宗氏と一族郎党の子孫たちが家に伝来する鎧を着て、神事・行列を行っていたようです。
小茂田浜神社のすぐ横は海岸で、少し歩くと、海に沈む夕日を見ることができます。
起点(観光情報館ふれあい処つしま)から終点(小茂田浜神社)までは約14.8kmあり、舗装部分は12.7km、未舗装部分は2.1kmの山道となる。
起点(島の東側)・終点(島の西側)が離れており、レンタカーを終点に配置するか、タクシーを利用するなどの工夫が必要。
佐須坂の未舗装部分は登り標高差240m、下り標高差130mで難易度は高くないが、観光客や登山者はほぼ皆無で、また携帯電話がつながりにくいため、読図・登山アプリなどの利用を勧める。
対馬の古道は海上の道につながり、日本と大陸をつなぐ重要な中継拠点でした。神話の時代から対馬は、外国との攻防にさらされ、また独自に交流・外交・貿易などを行ってきました。
江戸時代の地図に描かれた古道も、道路・港湾・トンネルなどのインフラ整備や、伐採作業道の造成などで姿を消しつつありますが、想像力を駆使して「道」に刻まれた記憶を辿ると、かつてそこを往来した人々の想いが胸に迫ってきます。
2024年(令和6年)は、1274年(文永11年)の元寇・文永の役から750年の節目の年を迎えます。
対馬の古道を歩き、古代から繰り返される攻防と交流の歴史について、想いを巡らせてみませんか?
律令制(7世紀)により島の南東部におかれた国府(厳原町中心部)は、江戸時代には宗氏10万石の城下町として整備され、現在も市役所や官公署、海の玄関口・厳原港があり、飲食・宿泊施設なども集中しています。
また、日本書紀には、674年(天武2年)に対馬で日本初の銀が産出したと記載されており、島の西側の佐須地区に最古の銀山があったと考えられています。
佐須で産出される銀を、峠を越えて国府へと運ぶ古道が佐須坂であり、元寇の際には元軍を迎え撃つ死出の道となり、昭和30年代に県道44号が整備されるまで利用されていました。
厳原港は国道382号の起点であり、同国道および県道44号で小茂田浜まで結ばれていますが、佐須坂の一部が山道・峠道として未舗装(2.1km)で残されています。
厳原八幡宮は清水山を神山(磐座)とし、神功皇后の朝鮮征伐の帰路に、異国の寇からこの地を守るために皇后自ら祭ったとされる由緒ある神社だ。
元寇の前日には神社で火災騒ぎが起きたが、実際には出火しておらず、元寇の予兆とされた。
また、戦国末期、豊臣秀吉の文禄慶長の役(朝鮮出兵)に際し、山城(清水山城)に造り変えられた。
厳原八幡宮の祭神は古くは海神であったと考えられているが、外国との緊張が高まりを受け、軍神でもある神功皇后を祭る八幡に変貌していったらしく、神話においても、歴史においても、対馬と外国の攻防の歴史をいまに伝えている。
厳原町中心部と佐須地区を結ぶ佐須峠(標高390m)は、古くから難所として知られていた。
戦前・戦中まで、小茂田浜神社大祭に際し、厳原中学校の男子生徒はこの峠を歩いて越える鍛錬歩行を行っていたという。
直線距離で峠から北東3kmには、明治期に上見坂堡塁(かみざかほうるい)があったが、戦後には公園化され、佐須峠を避ける緩傾斜の県道44号が接続し、リアス海岸・浅茅湾(あそうわん)を一望できる展望所として人気を博した。
2016年(平成28年)に佐須坂トンネルが開通し、上見坂公園も旧道となり、往時ほどの賑わいは見られなくなった。
旧観音堂の横にあるお首塚は、自決した宗助国が自らの首を隠させた地、と伝わる。
佐須地区は古くから銀山として知られ、平安時代の刀伊の入寇や鎌倉時代の元寇は、一説には鉱山が標的でもあったと言われている。樫根地区にある銀山神社の祭神は、坑道の闇あるいは諸黒岳(矢立山)に由来するとされる諸黒神(もろくろがみ)で、鉱山の安全を祈願する対馬固有の神であったらしい。
境内には、宗助国の太刀塚がある。
同地区の観音堂には千手観音に代表される平安時代の木造仏が16躯ほどあるが、元寇の際にもたらされた「蒙古仏」だと信じられてきた。
隣地の法清寺には宗助国のお胴塚がある、
■観光情報館ふれあい処つしま
〒817-0021 長崎県対馬市厳原町今屋敷672番地 1
電話: 0920-52-1566
https://www.tsushima-net.org/fureaidokoro-tsushima/
■対馬博物館
〒817-0021 長崎県対馬市厳原町今屋敷668−2
電話: 0920-53-5100
https://tsushimamuseum.jp/
■小茂田浜(こもだはま)神社
〒817-0248 長崎県対馬市厳原町小茂田742
対馬藩では1721年(享保6年)に元禄国絵図を制作しているが、100年後に来島した伊能忠敬を驚かせるほど精密なものであった。
明治時代に日本地図の制作・測量を推し進めたのが陸軍参謀本部であったように、地図情報は重要な軍事情報でもあったので、国絵図制作の背景には、常に外国との緊張にさらされてきた、国境の島ならではの事情があったのかもしれない。
魏志倭人伝には、対馬は平地が少なく自給自足できないため、九州や朝鮮半島にわたって交易を行っている、と描写され、古代から外洋航海の技術に長けていたことがわかる。
島内移動においても、対馬の89%を山地が占め、また岩がちで平野が少ないため、集落は限られた河口部に分散して形成され、集落間の移動は舟を使うか、峠を越える必要があった。
宗氏は宗助国を初代とし、出自としては平氏や安徳天皇の血筋だと自称したが、もとは鎌倉の御家人として九州で権力をふるった少弐氏の地頭代である惟宗(これむね)氏が、対馬の在庁官人・阿比留(あびる)氏から権力を奪いながら、対馬を統治していったようだ。
少弐氏の没落とともに、宗氏は対馬に土着し、文禄慶長の役や国書偽造事件など、何度も軍事的・外交的な危機を乗り越えながら、幕末まで600年対馬を統治し、明治期には伯爵に列した。
「街道をゆく13 壱岐対馬の道」(司馬遼太郎)において、司馬氏と郷土史家の永留久恵氏は、宗助国が全滅するまで戦わなければ、宗氏は武士として存立はできなかっただろう、と述べている。
元寇において対馬・壱岐・松浦などは壊滅的な打撃を受け、のちにそれらの地域の住人を主体とする前期倭寇(海賊・海商)が発生する原因となったとされる。
対馬の中央に広がる浅茅湾(あそうわん)は、複雑な海岸線と無数の島々で構成されるリアス海岸で、倭寇の絶好の活動拠点となった。
※起点となる観光情報館ふれあい処つしま(長崎県対馬市厳原町今屋敷672番地1)は、厳原港から650m、車で3分、対馬空港から10.5km、車で15分。
観光情報館ふれあい処つしま
↓1.9km 35分
厳原中学校前
↓1.5km 20分
県道44号(旧道・新道分岐点)
↓1.1km 20分
佐須坂道・厳原側登山道
↓2.1km 1時間30分 ※未舗装
佐須坂道・佐須側下山口
↓8.2km 1時間45分
小茂田浜神社
合計距離 14.8km(舗装部分12.7km、未舗装部分2.1km)
移動時間合計4時間30分(元寇関連地などでの滞在時間を除く)
福岡空港・長崎空港~対馬空港 (ANA・JAL・ORCコードシェア 1日4~5便 片道30~35分)
博多港(福岡県)~厳原港 (九州郵船 1日2便 高速船片道2時間15分、フェリー片道4時間30分)
博多港(福岡県)~比田勝港 (九州郵船 1日1便 フェリー片道4時間55分)
対馬空港~バス停「厳原」 (対馬交通路線バス 1日20便 片道約30分)
佐須坂道・厳原側入口(未舗装部分)への最寄りのバス停「厳中前」(厳原中学校前)へは、対馬空港から1日20便片道25分、バス停「厳原」から1日25便片道5分
佐須坂道・佐須側下山口、小茂田浜へは路線バスがなく、タクシーを呼ぶなどの工夫が必要。
《参考にした文献など》
元禄国絵図 (国立公文書館デジタルアーカイブ)
対馬国貢銀記 (国立公文書館デジタルアーカイブ)
《参考になる書籍や雑誌》
「厳原町誌」
「街道をゆく13 壱岐対馬の道」 朝日新聞出版 司馬遼太郎
「辺要 壱岐 対馬 防人史」 みつしま印刷 小松津代志
《原稿作成》
一般社団法人対馬観光物産協会
西 護