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107 梼原街道 韮ヶ峠

梼原街道 韮ヶ峠

明治維新の6年前の1862(文久2)年3月、土佐藩の郷士だった坂本龍馬(1835~1867年)は、土佐から西方の韮ケ峠を越えて伊予の大洲(長浜)に脱藩した。
ただ、当時の史料を参考にして確実にいえる点は龍馬が梼原に泊まった事実のみ。高知城下の龍馬の家から梼原を経て韮ケ峠まで脱藩ルートは前半と後半に大きく分かれる。
前半の区間は佐川を通って梼原に至るルートと、須崎を通って梼原に至るルートがあるが、龍馬がどちらを選んだのか不明だ。
脱藩ルートの後半の梼原から伊予までの間も、九十九曲峠ルートと、韮ケ峠ルートが推定でき、以前は九十九曲峠ルートを龍馬は辿ったとされたが、1989年に龍馬の義理の兄・高松小埜(順蔵)が残した新史料の発見によって韮ケ峠ルートが有力視されている。
龍馬の人気は全国的に高く、龍馬の脱藩の道を訪れる人は多いという。
地元の梼原町なども紹介しており、イベントも開いている。
山の肩や尾根、谷筋には、幸い、集落や田畑の道が残り、一部の車道もつなぐと一本の道となり、昔から残る街道の姿も浮かび上がる。
明治維新の立役者の一人、坂本龍馬だけでなく、龍馬にまつわる土佐の志士をしのぶ古道の一つとして紹介する。

古道を歩く

茶や堂と呼ばれる集落の中に立つ「茶堂」はよく目立つ。
木造平屋建て、かやぶき屋根の趣のある建物だ。江戸時代から残っており、梼原町の指定文化財になっている。
諸仏が祭られ、かつて旅人の接待や集落の人々の会合に使われた集会所のような場所だった。
ここを見学し、しばらく車道を歩くと、右側に民家が2軒現れる。
そこを過ぎ、道標に従って右側の山道に入る。

標高は580m。夏は雑草が道に生い茂って歩きにくく、かき分けながら進む。
尾根を回り込み、車道を横断する。
車道の脇の民家や棚田の近くから急な坂道を登っていくと、少しずつ山に入ってきた実感がわいてくる。
小さな谷筋を慎重に辿り、登っていくにつれて里山とは違う景観が現れ、普通の登山をしている気分に浸れる。
突然、山の中の台地上になった平地に出る。
木陰になって暗いが、建物があった雰囲気が伝わる。
木製の立て看板に「維新の道・坂本龍馬脱藩の道(松ケ峠番所跡)」と書かれている。
龍馬が同志・澤村惣之丞とともに越えたことが記されており、感慨深い。
澤村惣之丞は龍馬の右腕として活躍した人物だ。
龍馬はここを通る際に「坂本龍馬、まかり通る」と言ったと伝わっている。

一帯の標高は700~900m程度あり、植林帯が広範囲に占める一方で、広葉樹の自然林も豊かだ。
右側の斜面が大崩壊した「青ザレ」を通過する時は足元に注意する必要がある。
間もなく上部の林道が複数交錯する付近が青ザレ峠と呼ばれていたらしい。
林道と山道を交互に出入りする箇所が出てくるため、林道に出たら道標をしっかり確認して進む。

風景がよく山深さも味わえるが、多くの人が山に出入りしているらしく、山道はよく歩かれている気配だ。
高度をどんどん下げていくと、林が途切れがちになって視界が広がってくる。
その辺りは地図を見ても分かるように標高差約150mにわたって緩傾斜地になったナラ山集落の跡地で住居跡の台地や石垣、車のタイヤで設けた柵などが残されている。
水に恵まれており、沢を渡る個所もある。
利用されなくなった田畑や農作業小屋を通過する場所では、脱藩ルートと重なったあぜ道をしっかり見極めてほしい。
寂しさより、こんな山の奥にも人生があったのか、と思える。

林道をしばらく歩き、車道が右へ回り込んで北に向きを変えると、左から上がってきた林道との分岐点が現れる。
標高約820m付近だ。標識に従って擁壁沿いに進み、さらにスズタケの中を下るようになる。
つづら折りの坂道の向こうに控えているのが、明るく広大な高階野の集落だ。

歩道は谷を渡り、車道に通じている。
大きな石垣のある分岐を左に曲がり、住人がいる家屋の手前から韮ケ峠に通じる最後の上り坂が始まる。
一気に100m以上の高度を稼ぐ。
車道の手前で左に進行方向を変えると貯水タンクが見える。
尾根をまたぎ沢筋に入る。
谷筋の薄暗い上り坂を一歩一歩、足を出す。
未舗装の車道に出てしばらく歩き、山道に戻る。
すぎ右上には車道があり、エンジン音が聞こえる。
植林帯の中をまっすぐ登っていくと、韮ケ峠の南側の直下の斜面に整備された階段を経て山道は終わる。

そのまま車道を歩くと、龍馬が目指した韮ケ峠だ。
峠は約950m。一帯は切り開かれた広場になっていて、大きな標柱、小さな案内標識が立っている。
トイレやベンチもある。
残念ながら景色はよくない。

西側には伊予側に下る登山口がある。

この古道を歩くにあたって

特に危険な個所はないが、歩行距離が長い上、アップダウンが多く体力を要する。
道は整備されていて道標はあるものの、地図やGPSで現在位置の確認を怠らないようにしたい。
途中に谷はあるが、商店や自動販売機はないため、生水を嫌う人は飲み物を多めに持つ必要がある。

古道を知る

坂本龍馬について

土佐藩の郷士坂本八平と妻幸の二男として生まれる。
変名は才谷梅太郎など5種類。
江戸で千葉定吉の門に入り北辰一刀流を修めた。
1862(文久2)年3月24日、高知城下から龍馬とともに脱藩を目指したのは澤村惣之丞。
25日に梼原に到着して勤王の志士・那須俊平、信吾父子の家に泊まり、26日未明、父子2人の案内で龍馬たちは韮ゲ峠を越えた。
龍馬は勝海舟に弟子入りする。
薩長同盟の締結、大政奉還の推進など明治維新の指導者として活躍したが、1867(慶応3)年11月15日、京都の醤油屋「近江屋」で薩長の和解に奔走した盟友・中岡慎太郎(変名・石川清之助)とともに京都見廻組の今井信郎ら7人に襲撃されて死亡したとする説が有力視されている。

土佐の主な脱藩者

坂本龍馬の脱藩は、土佐では4人目だった。
最初は大庄屋の吉村虎太郎と庄屋の宮地宜蔵が勤王挙兵のために脱藩。
澤村惣之丞も勤王挙兵のため一度脱藩した後、帰国して龍馬を伴って再び脱藩した。
さらに那須信吾、岡田以蔵、池内蔵太、中岡慎太郎、北添佶磨、望月亀弥太、浜田辰弥(後の田中光顕)らの脱藩が知られている。

九十九曲峠と九十九曲峠湿原

梼原町と愛媛県西予市の境にある峠(標高約830m)。
大正時代まで主要な街道で、維新の志士・吉村虎太郎らが脱藩した。
標石には「勤王の志士脱藩遺蹟 九十九曲峠」「再びと帰り来ぬべきふるさとを出でし心はいかにありけん」とある。
愛媛の城川町側の傾斜がきつく「九十九曲」という名前の通り、つづら折りの急坂になっている。
峠の東にある九十九曲峠湿原は、四国に3カ所しかないセラピーロードに認定されており、四季折々の山の草花を楽しめる。

日本三大カルストの一つ「四国カルスト」

韮ケ峠の東に連なる愛媛、高知県境にあるカルスト台地。
標高は約1,400m、東西の幅は約25km。
山口県の秋吉台、福岡県の平尾台とともに日本三大カルストの一つ。
西日本最高峰の石鎚山など周辺の山々が一望できる。
西から大野ヶ原、姫鶴平、五段高原、天狗高原などがあり、夏は草原、秋はススキが広がる。
乳牛の放牧地帯で、多くの牛が放牧され、牧歌的な観光地として知られる。
愛媛県が1964年(昭和39年)3月21日に四国カルスト県立自然公園に指定した。

四万十川源流

不入山(1336.2m)の東側中腹(1037m)が 四万十川の源流。登り道口(910m)に 四万十川源流の碑と呼ばれる石碑がある。
四万十川は、高知県の一級河川で渡川水系の本流。
全長は196kmで四国で最長の川。本流に大規模なダムが建設されていないため「日本最後の清流」、また柿田川、長良川とともに「日本三大清流の一つ」と呼ばれる。

深掘りスポット

維新の門

梼原小・中学校の東にある。梼原町ゆかりの志士6人に坂本龍馬、沢村惣之丞を併せた8人の銅像が建立されている。
明治維新が遂げられて近代国家が誕生したが、既に8人は死を遂げてた。
脱藩の道を行くとき、新しい時代の到来を信じた男たちの決意が偲ばれる。
8人の群像を建てて「維新の門」と名づけている。

吉村虎太郎像

梼原町から東の津野町新田に立つ。
北方に吉村虎太郎ら代々の庄屋邸跡地で、かつ旧梼原村役場庁舎跡地がある。
吉村は1837(天保8)年4月18日、大庄屋吉村太平、妻雪の長男として誕生。
龍馬も入った土佐勤王党を武市瑞山らと結成し、1862(文久2)年3月6日に脱藩して京に上った。
一時捕らえられたが、出所後再び京に上り、翌年2月中山忠光卿を擁して天誅組を組織し、大和に兵を挙げた。
八・一八の政変で孤立無援となり、奈良の鷲家谷で幕府軍に阻まれて天誅組は壊滅、吉村虎太郎も9月27日壮烈な戦死を遂げた。

ミニ知識

■脱藩と脱藩の影響

坂本龍馬が脱藩した際、残された家族はどうのような処遇を受けたのか。
龍馬の兄・権平は龍馬の脱藩が明らかになるとすぐに坂本家の「御預」だった土佐藩家老福岡家に対して届け出をしており、坂本家が罰を受けた形跡はない。
しかし、龍馬の脱藩後、吉田東洋が暗殺された後で脱藩者を出した家は、例えば池内蔵太の池家は断絶、家族は屋敷を追われた。
浜田辰弥(後の田中光顕)の浜田家は取り潰された。

■坂本龍馬の一族、坂本直行

北海道大学山岳部出身の登山家で画家。
父・弥太郎(婿養子)、母・直意は坂本龍馬のおい・直寛の長女。直寛の次男で直意の兄弟・直道は龍馬のひ孫として養子に入っている。
龍馬は北海道開拓の志があり、それを引き継いだといわれる。

ルート

梼原町(5・2km、車10分)→宮野々(4・4km、車10分)→六丁(4・2km、車10分)→茶や堂(0・3km、徒歩10分)→松ケ峠番所跡(2・4km、1時間)→ナラ山(1・6km、30分)→高階野(1・7km、40分)→韮ケ峠

アクセス

〇公共交通機関
高知空港から連絡バス(約30分)JR高知駅(特急約40分、普通1時間20分)JR須崎駅(高陵交通バス約1時間20分)
〇自家用車の場合
高知市の高知IC(高知自動車道)須崎東IC(国道56号、197号)新田(国道439号)梼原(約15km)茶や谷

参考資料

〇高知県立坂本龍馬記念館 「龍馬脱藩160年 維新へつながる 土佐の道」(2022年)
〇高知県立坂本龍馬記念館 「龍馬と北の大地」(2021年)
〇高知新聞社「詳細地図でめぐる 土佐龍馬」(1987年)
〇高知新聞社「土佐の峠風土記」(1991年)
〇岩波書店「坂本龍馬」(2008年)
〇成美堂出版「坂本龍馬 幕末の風雲児」(2009年)
〇教育評論社「坂本龍馬からの手紙」(2014年)
〇学研「坂本龍馬 脱藩の道をゆく」(2010年)
〇ロンプ事務局「龍馬が辿った道 高知市の即席と脱藩道」(2008年)
〇古文書「覚・関雄之助(澤村惣之丞)口供之事」
〇古文書「那須信吾書簡」(佐川町立青山文庫蔵)
〇絵図「御国大境山峰筋之図」(安芸市立歴史民俗資料館蔵)
〇絵図「土佐国絵図並地高書付」(安芸市立歴史民俗資料館蔵)

協力・担当者

《担当》
日本山岳会四国支部
尾野 益大

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