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43 沼田会津街道 尾瀬越え

保護中: 沼田会津街道 尾瀬越え《福島側》

沼田街道(沼田会津街道)は会津坂下の気多宮追分から只見川と伊南川沿いに桧枝岐や尾瀬を通り沼田に至る街道です。
沼田街道福島県側の道は、全国でも有数の豪雪地帯でもあり、一年のうち半分が雪に閉ざされる生活を重ねてきました。
今回、古道沼田街道のうち桧枝岐周辺の歴史をなぞりながら、七入から沼山峠を越え尾瀬沼までのルートを紹介します。

古道を歩く

沼田街道(沼田会津街道)は、起点となる会津坂下(ばんげ)塔寺宿(とうでらじゅく)の気多宮(けたのみや)追分から只見川、伊南川沿いに桧枝岐まで切り開かれた街道です。

その中で柳津(やないづ)から先の会津川口までの間は、峡谷が続く只見川を避けた沼沢沼(いまは沼沢湖)越えの道が開削されました。街道に沿ってそれぞれの集落(宿駅)があり、文化、民俗、風習、宗教、しきたり等を祖先から受け継いできましたが、大規模な電源開発によって消失しています。

只見から桧枝岐集落

伊北(いほう)と呼ばれた只見を過ぎ、伊南川に沿って南郷、古町、内川と進み大桃集落に出ます。
街道の南側山手に駒嶽神社が祀られ、境内に明治28年に復元・保存された「大桃の舞台」があります。

奥会津地方では江戸時代から盛んに村歌舞伎が集落ごとに演じられてきた歴史があり、「大桃の舞台」は全国でも珍しく「兜造り茅葺き屋根・回り舞台、花道付き」農村舞台の一典型を成すものとして、昭和51年に桧枝岐の舞台とともに国の重要有形民俗文化財に指定されています。
桧枝岐集落の遺跡、遺構等から七入りまで街道を南に進んだ桧枝岐集落手前右側に追分遺跡があります。
この地は舘岩村川衣に通じる小繋道路の追分で、現在見通川林道となっています。
追分から1.5km南進した駒ケ岳登山道入口手前の丘陵地に滝沢遺跡があり、ここから縄文後期の土器(昭和28年の無線棟建設工事現場)が発掘され、石碑、石仏が数基残されています。
ここからさらに南進すると桧枝岐村本村となり遺構、遺跡が多くみられます。
桧枝岐は上州沼田に通じる福島県側の最終宿駅として口留め番所が置かれ、通行人と物資の監視という重要な役割を担いながら、標高1000mに近い集落で自治組織的な暮らしを続けてきたといわれています。
古文書によると桧枝岐集落には延歴13年(794年・平安朝黎明期)に紀州牟婁郡の里から藤原氏の子孫が、承和11年(844年)には越後の国より枝折峠を越え、藤原常衡、大友師門、熊谷勘解由の3人が来て村を開いたとされ、道端に整然と並ぶ六地蔵とその隣の大樹3本(1本が昭和初期に枯死)が藤原常衡以下3氏の墓印と伝えられています。
同所には、奈良正倉院と同建築様式の「井籠(せいろう)造り板倉」があり、そこから南進して口留め番所跡、道の西側奥には駒岳大明神と燧大権現を祀った相殿一社の村鎮守があり、境内には桧枝岐歌舞伎の舞台があります。神社の階段がそのまま自然の観覧席になっています。



桧枝岐村には平家の落人伝説があります。
平安時代(794年から1185年)のころに桧枝岐村が出来たことから推察して否定も肯定もできないものと言えます。
鼻濁音のない独特な言語、受け継がれてきた生活習慣などから「落人伝説」とか「秘境」として受け止められてきました。
後白河天皇の第三皇子「高倉宮以仁親王」が京都治承の乱(1180年)で平清盛に敗れ、上州沼田から尾瀬越えをして会津に逃げ延び、桧枝岐通行の際飲んだとされる安宮清水は川向にあります。
さらに本道を進んで馬坂峠との追分となります。

桧枝岐集落から七入まで

馬坂峠追分を南進、桧枝岐川にかかる橋を渡ったところがミニ尾瀬公園、道路反対側が駐車になっています。
さらに南進し山の神、万里姫像、キリンテキャンプ場と大津岐登山口、七入となり、御池古道と沼山峠との分岐となります。

七入から沼山峠を越え尾瀬沼まで

このルートはブナ、トチノキ、ミズナラ等の巨木の立ち並ぶルートで、桧枝岐村観光協会では令和3年広報用のパンレットを作成し、36本の巨木(太さ・樹高)を紹介したウォーキングマップを発行し、観光客誘致に努めています。
七入駐車場を出発して一旦車道を進み七入山荘手前右側の山の神の祠を過ぎ登山口となります。硫黄沢を渡るといよいよ古道となります。

かつての開墾地である赤法華平(あかぼっけだいら)をすぎて赤法華沢橋を渡り、森林浴と沢の心地良い音を聞きながら、道行沢沿いに架かる一番橋から五番橋までを右岸へ左岸へと渡っていきます。

大樹の森を進み大岩に出ます。最後の五番橋から急斜面を登ります。

標高約1500m地点の右手に落差25mの抱返ノ滝(だきかえりのたき)が姿を現し、白糸が垂れる姿から「抱いて返りたい滝」の名が付いたと伝えられています。
この辺りから森の切れ目に会津駒ヶ岳の山並みが望まれ、さらに急坂を登ると、やがて道は緩やかとなり、樹木の根元に「山ノ神」の祠が現れ、程なく「沼山峠休息所・シャトルバス乗り場」に到着します。

沼山休憩所からは峠最後の登りとなり、シラビソ林の整備された木道を約20分辿ると沼山峠頂休憩ベンチに到着します。展望台からさらにシラビソの林が続き、大江湿原を過ぎると三本カラマツの先に尾瀬沼が姿を現します。沼山休憩所から長蔵小屋までは1時間で到着します。

この古道を歩くにあたって

ハイキングコースで特に危険個所はない。

古道を知る

沼田街道の歴史と変遷

明治14年に福島県議会によって命名された「沼田街道」は、会津若松と群馬県沼田を結ぶ全長約160kmの要衝です。もとは越後裏街道や上州街道と呼ばれた古道をつなぎ合わせたもので、現在は国道としての呼称が一般的ですが、かつては燧ヶ岳を水源とする河川沿いの集落を繋ぎ、人々の生活を支える重要な動脈でした。
なかでも中世に開かれたとされる「尾瀬越え(沼山峠)」は、会津の米や酒、上州の塩や油といった物資が盛んに行き交う交易路であり、明治初期までは尾瀬沼畔に設けられた交易小屋で物品の売買が行われていました。この街道は、会津西街道や八十里越、六十里越といった奥会津の主要な古道とも網の目のように繋がり、会津街道との追分を起点に新潟の新発田方面へも続く広大なネットワークを形成していました。
現在、尾瀬は世界的に貴重な高層湿原として「特別天然記念物」に指定され、多くの登山者が訪れる聖地となっています。開発が進む一方で、七入から沼山峠を越えて県境に至る道筋は、かつての人々が歩いた当時とほとんど変わらない風情を今に留めています。

ミニ知識

桧枝岐歌舞伎

江戸時代より始まった農村歌舞伎で、親から子、子から孫へと受け継がれている伝統芸能。始まりは、江戸で歌舞伎を観劇した農民が、その美しさに魅せられ、見様見まねで村に伝えたと言われている。数少ない農民の娯楽として270余年にわたり継承され、演者も裏方も全て村人が行い、大道具、小道具、衣装に至るまで彼らの手によるものである。上演は年3回(5月、8月、9月)千葉之家花駒座の皆さんにより演じられ、一般客も鑑賞できる。

七入という地名の由来

尾瀬沼方面、御池経由銀山方面への分岐点である「七入」は、実川(みかわ)の出戸(出口)から七番目の入り(奥)に当たる所から付けられたという。
赤ボッケの「ボッケ」はアイヌ語の崖を意味し、地図上の「赤法華」は、後日の当て漢字であるという。
ちなみに「キリンテ」の由来は不明である。

只見川と電源開発

明治から昭和30年代にかけ、只見川は豊かな水量と急峻な地形から「電源開発の最適地」として注目され、大規模な開発の波に飲み込まれた。特に戦後復興期には、産業の心臓部である関東圏へ電力を送るため、奥只見や田子倉といった巨大ダム建設が国家の威信をかけた一大プロジェクトとして強行軍で進めらた。
この開発は福島・新潟・群馬の3県にまたがる広大な利根川水系や尾瀬をも巻き込み、地域住民と電力関係者の間に激しい葛藤を生む結果となった。多くの集落が水底に沈んで人口離散を招き、地域コミュニティは根本的な変容を余儀なくされる事態となった。その一方で、工事用の道路が観光インフラへと転じるなど、この地は深い犠牲の上に築かれた「電源の故郷」として、今なお首都圏のエネルギー基盤を支え続けている。

はるかな尾瀬を守りぬいた平野家4代

明治3年桧枝岐に生まれた平野長蔵は、19歳で単身尾瀬に入山、尾瀬沼畔の沼尻に掘っ建て小屋を建て、ヒメマスの養殖や小魚の干物、つくだ煮づくりなどを生業として59歳の生涯を尾瀬で終えた。
この中で、1922年(大正11年)に尾瀬の水利権を得た関東水電(現在の東京電力)が「尾瀬ヶ原水力発電所建設計画」を発表。当時51歳の平野長蔵は、時の内務大臣に建設反対の請願書を提出した。尾瀬ヶ原をコンクリートで水没させてはならないとの主張である。
これを機に尾瀬は水利権をめぐり福島、群馬、新潟の3県と電力会社が入り乱れ、水利権獲得の動きが泥沼化した。尾瀬水系をめぐる電源開発は電力需要の多い首都圏にとって最適の地理的条件を備え、長期化した。
新たに尾瀬の自然崩壊があらわになる中、尾瀬の自然を守る運動は長蔵小屋二代目長英氏、三代目長靖氏に受け継がれ、4代目の平野太郎氏に託され尾瀬は守られた。悲劇もあった。
古道沼田街道がスーパー林道に付け替えられる。政権内部から沸き上がった建設計画である。
長靖氏は尾瀬の自然をつぶしてはならないとして昭和46年12月16日、初代環境庁長官大石武一に建設反対を訴え、長蔵小屋に戻る途中、吹雪の三平峠で生涯を閉じた。36歳の若さでの疲労凍死であった。
機を同じくして全国初の「尾瀬ゴミ持ち帰り運動」が動き出し、これが全国に広がりを見せ今日に至っている。
尾瀬保護に尽くした平野家のお墓は、武田久吉追慕の碑とともに。大江湿原近くヤナギランの咲く小高い丘にある。

尾瀬から生まれた自然保護運動

昭和4年8月、尾瀬の植物調査に入山した植物学の権威牧野富太郎博士が、平野長蔵に「あんまり多く採るな」と叱責されたエピソード(岩波新書「尾瀬―山小屋三代の記」)が語り継がれている。
他方、平野長蔵の生誕に遅れること2年、明治4年に桧枝岐に生まれた星大吉は、小学校教諭を務める傍ら牧野富太郎や植物学者武田久吉、山と渓谷社川端隆章、深田久弥などの多くの学識者を尾瀬に案内し、高山植物の新種発見に貢献している。牧野富太郎命名の「ダイキチササ」や「オゼソウ」、「アンドンマ  ユミ」の珍品種も本人が見出した。
また「オゼコウホネ」、「ナガバノモウセンゴケ」を尾瀬で発見するも黙々と手伝うだけであったと語り継がれてきた。現在桧枝岐で旅館升屋を営む星守氏の祖父であり、その活動は「会津生物同好会明治100年記念誌別冊」誌上に掲載されている。
このほか桧枝岐生まれの多くが見返りを求めることなく尾瀬高山植物の保護と調査研究にかかわり、我が国の自然保護活動の礎を築いた。

村民自治を大切にした桧枝岐の日常

平家の落人の里と言われる桧枝岐は、高冷地ゆえに耕作地が狭く稲作が不毛で、豪雪地帯により一年の半分は孤立するという厳しい環境におかれてきた。この厳しい環境から独特の村民自治が生まれてきたと言われている。
住民すべてが「平野、橘、星」の姓を名乗り、司法、立法、行政の各般にわたり独特の方式で自立の生活を執ってきた。具体的には、村長を選ぶのは有力者の話し合い。訴訟事があれば両者を立ち合わせその裁定を代表者に任せる。
各選挙の投票率は90%台と高い。地域のことは地域で解決させてきた独特の自治の考えは徐々に廃れてきたが、雪解け短期間だけの「臨時駐在所開設」は今も受け継がれ、刑法犯罪の発生は皆無に近い。

ルート

沼田街道起点の会津坂下気多宮(車で出発)
↓ 2時間  ↑ 2時間
七入駐車場 (出発徒歩)
↓ 2時間10分  ↑ 1時間40分
抱返ノ滝
↓ 45分  ↑ 25分
沼山峠休息所
↓ 25分  ↑ 20分
沼山峠

アクセス

七入駐車場にマイカー駐車可

参考資料

福島県教育委員会社会教育課「福島県文化財調査報告書」
桧枝岐村役場ホームページ
尾瀬桧枝岐温泉観光協会「巨木MAP」

協力・担当者

《担当》
日本山岳会 福島支部
佐藤一夫
渡部展雄
《協力》
桧枝岐村役場 観光課

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