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41 北陸道 木の芽峠

旧北陸道 山中峠

官道として木ノ芽峠にその位置を奪われた山中峠ではありましたが、その後も1000年以上の長きにわたって脇往還として人々や物の往来を支え続けてきました。
今庄側には山中大桐番所もありました。
しかし木ノ芽峠と同様に海岸に国道が作られるとともに通行がなくなりました。
さらに国鉄が山中トンネルを開通させて、峠は全く顧みられず今日に至っています。

古道を歩く

忘れ去られた峠道

今庄駅⇒南今庄⇒林道山中・大谷線入口⇒山中峠⇒山中トンネル西口(敦賀側)《全長約11.5㎞歩行時間約3時間30分、峠のみ2.3㎞歩行約1時間》

今庄から山中トンネル東口

旧北陸道は今庄を出て追分にある文政の道しるべ「右・京・つるが・わかさ道」の指す方向へ鹿蒜川に沿って旧道を峠に向かいます。
集落を結ぶ旧道沿いに鹿蒜神社のある南今庄(旧「帰」)地区は鹿蒜駅家に比定されています。
さらに旧道は鹿蒜一里塚跡を経て、鹿蒜田口神社のある新道集落まで続き、この追分を左折すれば二ツ屋集落を経て木ノ芽峠へ向かっています。

新道からは県道207号が山中峠へ向かっています。
ここからは旧道はほとんどなく県道を歩きます。
(2024年1月現在、大桐集落付近では県道が災害で壊れ、残っていた旧道に沿った仮設道路を歩きます。)
途中、道路の右手(北側)に鉄道のスイッチバック用の待避線跡があり、やがてトンネルの入り口が2つある山中トンネル東口へ着きます。

山中トンネル東口から山中峠を越えてトンネル西口

山中トンネルの東口の手前左側に林道山中・大谷線の入口があります。
林道をしばらく登ると山中峠への標識があり、左へ少し下ると旧北陸道になります。
古道は落ち葉などが多く判別困難な個所もあります。
途中には崩れた石垣などが見られ、まもなく峠に着きます。
峠には標識と祠があります。

ここから敦賀側へ下ります。
少し下ると疎林の中に小径があり、かなり急斜面のトラバースでの下りとなります。
わかりにくいですが、わずかに残るピンクと赤のリボンを頼りにターンを繰り返し下っていけばトンネル西口の北側に出ます。
元比田へはそのまま険しい谷を下りますが、現在道はありません。
県道はさらに鉄路の跡のトンネル群を抜けて北陸自動車道杉津PA付近で杉津集落へ下り国道8号にでます。敦賀側からの登りはわかりにくいうえに短いが険しく急な登りとなりますので慎重に行動してください。

この古道を歩くにあたって

今庄側から県道207山中トンネル東口、林道山中―大谷線を経て山中峠までは急な傾斜など危険個所はなく、道の痕跡を探して歩けば問題ありません。
しかし歩く人がほとんどいないので踏みあとが少なく、道が落ち葉で隠されているところが多く道迷いに注意してください。
峠の敦賀側はすぐに急斜面のトラバースでの急下降となります。
さらに道と思しきものが沢山あって迷いやすく、歩きにくい下りですので、濡れているときは滑落に注意してください。
赤とピンクのリボンが所々にありますのでこれを探しながら注意深く降りてください。
距離は短いのでそれほど時間はかかりません。
南の方へ行き過ぎたと思ったら下の方に見える県道を目指して下れば何とか道路へ出られます。
山中トンネルを歩くときは通行車両と天井からの漏水に注意が必要です。
待避所がたくさんありますのでここへ隠れて車をやり過ごしましょう。
トンネル内には照明がなくライトは必携です。

古道を知る

【「北陸道 木の芽峠」と同じ内容です】

北陸道の歴史

日本が大和政権に統一され、律令制が始まった時代以来、平城京・平安京から越の国(のちの越前・加賀・能登・越中・越後)に至る官道を北陸道と称しました。
その北陸道の越の国の入り口が敦賀(角鹿)の松原駅(駅家)でしたが、ここから北には現在の福井県の嶺南と嶺北を分ける南条山地があり、海岸線まで山が迫っていて旅人が難渋する交通の隘路でした。
奈良時代には敦賀の松原駅から海岸沿いに船便で大比田・杉津などへ渡り、山中峠(標高389m)や菅谷峠を越えて府中(現越前市)へ向かうのが一般的でした。
荒天などで海路を行けない場合には敦賀湾沿いの200m前後の山や峠を越えたようです。
大伴家持の歌「かへるみの道行かむ日は五幡の坂に袖振れ吾をし思わば」(万葉集)にある五幡(いつはた)越えは、途中に五幡の集落を経て、4か所の山地を越えて杉津に至り、最後は元比田から標高389mの山中峠を越えなければならなかったようです。
五幡へは木ノ芽川沿いの越坂・葉原から「うつろぎ峠」越えのルートも残っています。
平安時代となった天長7年(830年)ごろに木の芽峠(標高628m)を越える最短道路が開鑿され、官道北陸道となり、その後栃ノ木峠を越える北国街道の東近江路に対し西近江路とも呼ばれました。
以来、明治20年(1897年)に海岸線に沿った敦賀街道(その後国道53号、現国道8号線)が開通するまでの一千年以上の長きにわたり人々の往来を支え続けてきました。
北陸と畿内との交通の要衝として、紫式部、源義経、道元禅師、新田義貞、織田信長、豊臣秀吉など戦国大名、松尾芭蕉、武田耕雲斎と天狗党など、多く人が行きかいました。
そして明治天皇の全国行幸のときには輿に乗って峠を越え、峠の前川家にて休息され、その記念の碑もあります。

北陸道の名称

奈良時代から続いた北陸道の名称は明治6年(1873年)1等道路国道53号線と改称されてその名を消されました。
さらに前掲の敦賀街道の開通により、敦賀・今庄間木ノ芽峠越えは管理道路から外され放置されることとなりました。
平成9(1997)年全開通の北陸自動車道の略称として北陸道の名称が使われています。

官道の管理や宿はどうなっていた?

律令制のもと整備された官道は官吏が赴任先への行きかえり、命令や報告など情報交換の伝令、防人の移動、租庸調の税の徴収や移送など、朝廷などの権力者のための道路であり、国司などの官吏が整備していました。
律令制の奈良時代には駅家と呼ばれる官吏の乗馬の乗り継ぎ所が整備されましたが、一般の使用には対応せず、私的な旅人が使うことはできませんでした。
その後人々の移動が徐々に増加し、民間による宿場が形成され、○○の宿とよばれる宿駅制となり、旅館、馬借などの施設を備える宿場町として栄えました。
江戸時代、木の芽峠の南には新保・葉原、北側には二ツ屋・今庄・湯尾の宿があり、問屋場に伝馬・駅馬・馬子・人足を常備して栄えました。
また、峠や宿場には関所(番所)がおかれ、いわゆる「入り鉄砲に出女」のチェックや不審者の改めなどを行っていました。
現在、今庄は宿場町として当時の面影を残しています。

天狗党事件

水戸藩の尊王攘夷派藤田小太郎が元治元(1864)年筑波山で挙兵し、武田耕雲斎を首領として天狗党と名乗りました。
朝廷へ直訴するため中山道から蝿帽子峠を越え越前に入り、今庄宿に泊まりました。
この時宿舎となった京藤甚五郎家には柱に刀傷が残されています。
その後木ノ芽峠を越え新保宿に布陣、その後幕府軍に投降し処刑されました。新保にはこの時の本陣が残っています。
観覧は無料です。

山中トンネル

山中峠の下を貫く山中トンネルは明治26(1893)年から工事が始まり(明治29(1896)年に完成した全長1170mのトンネルです。
現在は県道207号線として旧国鉄のトンネルをそのまま利用しており、レンガ造りの隧道の中には人の待避所などがそのまま残されています。
1車線交互通行ですが直線で出口が見えるため信号機は設置されていません。
今庄から山中峠へ向かう県道207号はかつて旧国鉄北陸本線の跡地で、現北陸トンネルが昭和37(1962)年に開通するまでは、今庄駅から山中トンネルまでの12㎞が25/1000の急こう配が続く鉄路の難所として有名でした。
列車の前後に補助機関車を増結し、スイッチバック方式でようやくトンネルの入り口まで登りました。
山中トンネルの入り口の左側には退避線用のトンネル、反対側には道路に並行した待避線跡も残っています。
山中トンネルをはじめとする敦賀・今庄間のトンネル群は平成26(2014)年に土木学会選奨土木遺産、平成28(2016)年には日本遺産(国登録有形文化財)に登録・保存されています。

深掘りスポット

【「北陸道 木の芽峠」と同じ内容です】

北国の玄関口だった「今庄宿」

今庄宿は官道「北陸道」の鹿蒜駅の下流に近接し、北陸道と北国街道が合する地点にあって、中世以降大いに栄えました。
すなわち越の国と畿内の間に立ちはだかる南条山地を越える山中峠、木ノ芽峠、栃ノ木峠を通る北陸道、北国街道が今庄で1本になります。
町の南側今庄追分には道標「文政の道しるべ」が残されています。


ここは鹿蒜川が日野川と合流し、背後に藤倉・鍋倉山がそびえる要害の地であり、中世まではその入り口には木曽義仲が築いたとされる燧ヶ城がにらみを利かせていました。
今庄宿には江戸時代、参勤交代のため越前藩、加賀藩の本陣がおかれ、その先北陸道の二ツ屋、北国街道の板取には関所(番所)がおかれていました。
天保期の記録では戸数290余軒、人口1300余人、旅籠屋55軒、茶屋15軒、酒屋15軒、遊郭2軒などがあり、他に問屋、傳馬所、高札場などがありました。
今も酒屋や旅籠、京藤神五郎家をはじめとする古い建築物が残り、先が見通せない曲がった街道筋など宿場町の面影を強く残しています。

明治20(1887)年に国道(敦賀街道)が海沿いに建設され、宿場としての役割を終えました。
しかし明治29(1896)年に山中トンネルを通る国有鉄道北陸本線が開通すると、この山地の急勾配をスイッチバックで越えるための機関車の増結が必要となりました。
このため今庄機関区が置かれ、全列車停車駅となり、国鉄の町今庄として復活しました。
ところが昭和37(1962)年に北陸トンネルの開通と電化、さらに複線化となって鉄道基地としての役割は終わりました。
今庄駅には国鉄時代の記録を残したコーナー「今庄鉄道物語」があり、鉄道ファン必見です。

ミニ知識

【「北陸道 木の芽峠」と同じ内容です】

駅家(駅)と宿場

駅家とは奈良・平安の律令制の時代に作られた官吏のための宿泊所を言います。
「令義解」(833年)によれば、官吏の旅行や通信・連絡のため、官道には駅(駅家)が30里(約16㎞)ごとに置かれ、宿泊、食事、乗馬の提供などを行いました。
駅家は防人や役夫など国家に奉仕する人には使用を許されましたが、一般人には解放されていません。
利用する官吏は駅鈴を携える必要がありました。
越前国には松原駅、鹿蒜駅、淑羅(さわあみ)駅、丹生駅、朝津駅、阿味駅、足羽駅、三尾駅があったようですがその位置は諸説あり明確ではありません。
駅家には、駅舎、馬と馬屋、駅田を有し、駅長以下、伝使・厨人・駅丁などの職員とその宿舎を備えていました。
後世、鉄道の駅として名称が復活しました。
平安中期以降に律令制が徐々に崩壊していくと駅家は衰退し、代わって宿場が登場しました。
近世になって、人の往来が盛んになるにつれて発達し、宿泊・人足・食事・遊興など、旅人が求める要件を満たした体制で、当然一般人を含めたすべての人が利用でき、江戸時代以降大いに発達しましたが、明治になって鉄道などの交通運輸体制が整備されて衰退しました。

北国街道

北陸道と混同して使われていますが不破の関から木ノ本を通り栃ノ木峠(標高538m)を越えて越前に入り、今庄の宿までを北国街道と呼びます。かつては東近江路とも呼ばれ、現在の国道356号線です。
戦国時代には軍用道路として使われており、越前の朝倉氏や一向一揆の軍勢、織田信長の諸将が通りました。
柴田勝家が北ノ庄(福井)に居城を構えた時に、安土城の信長にはせ参じるために幅13mにもなる道路を建設したと伝わっています。
江戸時代には参勤交代で江戸に向かう越前、加賀、能登の各藩大名が使ったので、整備されていました。板取(虎杖)宿には口留番所が置かれ、駅馬18匹が長い峠道に備えていたそうです。

二ツ屋の関(番所)

江戸時代初期寛永元(1624)年に福井藩領であった敦賀が小浜藩領になり、南条山地が領国境となりました。
そのため北陸道の二ツ屋と北国街道の板取に口留番所(関所)を置き、さらに山中大桐に番所、木の芽峠に茶屋番と木の芽山回りの役人を置きました。
記録によれば二ツ屋の関所設置は寛永11(1634)年で城代の管理下に置かれ、警備の役人は上番(藩士)3名、下番(群奉行により選任された農民=足軽)2名でありました。
ちなみに板取の番所も同じ規模でしたが、山中峠の大桐山中番所は上番2名だけであり、女性の通行は認められていませんでした。女性が国外(藩外)に出るときは「女手形」が必要で、関所の主要な役目のひとつが「女改め」でありました。

まつわる話

【「北陸道 木の芽峠」と同じ内容です】

言う奈地蔵(いうなじぞう)

北国の商人が大金を持ち、馬を雇って木ノ芽峠を越えた。
ところが、馬方が実は山賊であって峠近くで商人を殺して金を奪った。
そして道端の石の地蔵に「見ただろうがこのことは決して他人に言わないでください」とたわむれに頼んだところ「地蔵は言わぬがお前が言うな」と返事をしたのでびっくりした。
数年後、この峠を越えた昔の馬方がうっかり同行の旅人に、もの言うた不思議な地蔵の話をしてしまったが、その道連れこそ以前に殺した商人の子で,親のかたきをさがしていたところなので早速討たれてしまった。
それから「言う奈地蔵」として有名になった。
(「福井県大百科事典」塩津三治)

ルート

【コースタイム】:距離、所要時間共におおよそです。所要時間に休息は含みません。
今庄駅⇔県道207山中・大谷林道登り口⇔山中峠⇔山中トンネル西口、11,5㎞、約3時間30分
(県道207山中トンネル西口⇔山中峠⇔県道207山中・大谷林道登り口、2.3㎞、約1時間)
県道207山中トンネル西口
↓0.8㎞ 0:35
山中峠
↓1.0㎞ 0:15
林道・古道分岐
↓0.5㎞ 0:10
県道207山中・大谷林道登り口
↓県道207 9.2㎞ 2:30
今庄駅

今庄駅
↓県道207 9.2㎞ 2:30
山中・大谷林道登り口
↓0.5㎞ 0:10
林道・古道分岐
↓1.0㎞ 0:20
山中峠
↓0.8㎞ 0:30
県道207山中トンネル西口

アクセス

敦賀側、今庄側ともに公共交通はハピラインふくい南今庄駅となりますが、約6.2㎞の県道歩きとなります。今庄駅からのタクシー利用がおすすめです。自家用車の場合は山中トンネルの両側に数台の駐車スペースがあります。山中トンネルを歩く場合は天井からの水漏れと通行車両に注意してください。トンネル内に照明はないのでライトが必要です。

参考資料

上杉喜寿『越前若狭歴史街道』
印牧邦夫監修『市町村で見る福井県の歴史』 
『福井県の地名 日本歴史地名体系18』平凡社
館野和己「古代越前国と愛発関」論文
杉原丈夫編『新訂越前国名蹟考』
『福井県歴史の道調査報告書 第2集 北陸道Ⅱ 』福井県教育委員会
『福井県大百科事典』福井新聞社

協力・担当者

《担当》
福井支部
原稿執筆:森田信人

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