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5 恐山古道
釜臥山は約90万年~70万年前に活動し、ガメラレーダーのある頂上付近は溶岩ドームです。
山頂からの眺望は素晴らしく魅力的なコースです。
「山懸け」は、釜臥山嶽大明神に登拝する行事で、陸奥湾岸の兵主(ひょうす)神社から観音堂、不動岩、胎内潜り、薬師天、大黒天などの大岩を経て頂上を目指します。
前代には正津川河口付近にある光主神社からの登拝もあったようです。
写真は、浜奥内(はまおくない)漁港(むつ市)から見た釜臥山(恐山奥の院)で、山頂には巨大なガメラレーダーが設置されています。
斜面の灰色の部分はスキー場で、ここからも登山道があります。
20万年前の下北半島は二つの島(恐山山地と下北丘陵)に分かれていて、その間を西からやってきた海流が縦横に流れていました。恐山山地の西側は強い海流に浸食されて、仏ヶ浦のような切り立った断崖が続く直線状の海岸になりました。断崖を作る地質は、1500万年前に堆積したグリーンタフ(緑色凝灰岩)です。
その後、13万年前の海面の高い時期に、二つの海峡(恐山山地と下北丘陵、下北丘陵と野辺地)を埋めるように砂洲が延びました。それによって田名部平野は陸地となり、下北丘陵も野辺地から延びてきた砂洲とつながって、マサカリの柄ができました。
(『日本の自然風景ワンダーランド』小泉武栄、ベレ出版、2022/8/25発行)
恐山山塊で最初の噴火は朝比奈岳(約145万~118万年前)で、100万年前に大尽山と円山が活動し、釜臥山と障子山は90万年~70万年前(特に80万年前が活動の中心)に活動しました。
ガメラレーダーが乗っかっている頂上付近は溶岩ドームです。
山頂付近まで上がってきたマグマが流れ出さずに、ゆっくりと冷えていったので薬師天や大黒天、大日天のような大きな岩体が残ったものと考えられています。
(1)山懸けとは
釜臥山山頂(恐山奥の院)に釜臥山嶽大明神が祀られたのは、明暦3年(1657)と伝えられています。
「山懸け」とは、この釜臥山山頂の嶽大明神の小祠に参詣する行事(目的は五穀豊穣や村内安全、心身鍛錬などの現世利益)のことで、すくなくとも江戸時代のころから行われていたようです。
江戸時代末期、円通寺と密接な関係にあった大覚院が釜臥山に勢力を伸ばすと、先達(案内人)のいない登山は認められず、登拝習俗も女人禁制、別火、垢離とりなど修験色の強いものになっていったようです。
(2)山懸けの変遷
「山懸け」は、戦前には山麓部の村々をはじめ、川内町・大畑町・東通村の村落も参加していました。
観音堂から入るのが一般的なルートでしたが、大畑町方面の人々は正津川河口にある優婆寺(光主神社)より恐山に登り、さらに屏風山・北国山を経由して釜臥山に登っていました。
やがて昭和40年代になると「山懸け」は廃れ始め、戦後(昭和51年時点)は3集落のみとなりました。
(3)山懸けの様子
以下は「山懸け(昭和~平成)」の様子です。
参加者は、一週間前から兵主神社に泊まり込み、別火精進することが一般的でした。やがて中学生が多くなったため、神社に寝泊まりしますが食事は各家でとるようになりました(朝夕二回、食前に海に入って垢離をとる)。
前日の夜に稲荷神社(産土神)に集合し、浜で垢離行をした後に稲荷神社に戻って仮眠をとりました。
翌午前0時頃に大湊上町の兵主神社にお参り(大覚院熊野神社の別当の祭祀)し仮眠。午前4時頃に山懸けの出発点である大湊の兵主神社(頂上に祀られている釜臥山だけ嶽大明神と対になる釜臥山下居(おりい)兵主大明神を祀る)を出発し、観音堂にお参りしました。
観音堂のすぐ近く(上の方)にある第一鳥居から先が神域となります。
先達の音頭で山懸け唱文「サンゲ(懺悔)、サンゲ六根サンゲ、オ山(御山)ニ八大金剛童子童子(不動明王の使者である八人の童子)、イチイチ(一々)礼拝南無帰命頂来」を唱えてから山懸け道を登り始めました。
巨岩の上に小祠が祀られている不動岩では、その周りを三度廻り、懸け念仏を唱えました。さらに進むと薬師が祀られている小祠ですが、そこでも懸け念仏を唱え、持参した幣帛(へいはく)のうち小さい方を奉納しました。
薬師の懸け所から道は左右二手に分かれ、一般には左手の「籠山」の道を登ったようです。
登頂すると、まずお堂の周りを三度巡って懸け念仏を唱え、灯明をつけて幣帛・オサゴ(散米(さんまい):邪気を払うため、また神饌として神前にまき散らす米)・お神酒を供え、ご来光を拝み、下山となりました。途中、ひと一人がやっと通れるような「胎内潜り」の懸け所をくぐりました。
恐山火山は、青麻-恐火山列(青麻山-七ツ森山-七時雨山-恐山-恵山)という東北日本弧の火山フロント(海溝に一番近い火山)を代表する火山とされ、それらはいずれも脊梁山脈の火山とは異なる成分を持ち、島弧火山岩の成因研究において重要な火山とされています。
恐山山塊で一番最初の噴火は朝比奈岳(約145万~118万年前)で、100万年前に大尽山と円山が活動し、釜臥山と障子山は90万年~70万年前(特に80万年前が活動の中心)に活動しました。
50万年前から20万年前まで宇曽利カルデラを中心とした恐山火山の活動があり、この時に宇曽利カルデラを形成する大噴火(約27-8万年前)があったとされています。
その後恐山は、約10万年前の活動を境に溶岩を出す活動はなく、約2万年に鬼石のところで水蒸気爆発がありました。
なお、約120万年~100万年前の間および70万年~50万年前の恐山火山休止期にすぐ北側の陸奥燧岳が活動しており、それらは交互に活動していたようです。
『むつ市史(民俗編)』には次のようにあります。
明治以前の恐山は硫黄の山で、百を超える噴出口が活動して、俗に「百三十六地獄」と称されていました。
明治初年、霊場恐山は硫黄行者により掘荒らされ、その結果地獄を思わせる鳴動や蒸気・熱湯の噴出が弱くなり、わずか36ヵ所になりました。
また、硫黄採掘作業のためにうそりやま宇曽利山湖の落口を約1m切り下げたので水位が低下し、それに伴って湖底の亜硫酸ガスの発生が夥しく増大して周辺の樹木が枯死したために山内の風致が著しく損なわれました。
現在の恐山は、宇曽利山湖の周辺に背丈を凌ぐ奇岩・奇石があり、至る所に熱湯が湧きでています。
また、水面には湖底から噴出する蒸気が幾重にも小さな波紋を作り、湖水(強酸性)にはウグイが住みついています。
恐山山塊を始めとするマサカリ形の下北は、「日本ジオパーク」に認定されました(2021年2月)。
この地域には、寒立馬で知られる尻屋崎(2億年ほど前に堆積した下北最古の大地)や、恐山山塊が島だった時代に強い海流に浸食されてできた仏ヶ浦の奇勝など、注目を集めているスポットがいくつもあります。
下北ジオパークは、全18エリア(芦崎の砂嘴、田名部平野、尻屋崎など)に様々なジオサイトがあり、貴重な景色や文化に触れることができます。山頂からは、以下のエリアが確認できます。
①恐山
②大湊・芦崎
〇砂嘴は、恐山山塊から流れ下った土砂が、海岸に沿うように流れる海流(沿岸流)によって運ばれ形成されました。
③田名部平野
④尻屋崎
〇1億5千万年ほど前に付加した古い地層と寒気と粗食に耐える寒立馬(かんだちめ)を見ることができます。寒立馬(青森県の天然記念物)は、南部馬の系統で足が短く胴が長くて、ずんぐりしています。1995年(平成7)には9頭まで激減しましたが、保護政策により回復してきています。
・「むつ来(か)さまい館」
むつ市田名部町10-1(0175-33-8191)
http://kasamaikan.info/index.html
・「北の防人大湊 安渡館(あんどかん)」
むつ市桜木町3-1(0175-29-3101)
https://www.city.mutsu.lg.jp/bunka/leisure/kankousisetu-anndokann.html
・「東通村歴史民俗資料館」
下北郡東通村大字田屋字家ノ上29-2
(教育委員会教育総務課:0175-27-2111)
http://www.vill.higashidoori.lg.jp/kyouikai/page000015.html
(水源地公園→観音堂→山頂→七面山→観音堂→駐車場)
水源地公園駐車場
↓(50分)
観音堂
↓(40分)
仁王岩
↓(30分)
不動岩
↓(20分)
行者岩
↓(30分)
胎内潜り
↓
薬師天
↓(10分)
大黒天
↓(15分)
釜臥山山頂
↓(60分)
七面山
↓(50分)
観音堂
↓(40分)
水源地公園駐車場
【約5時間50分】
『青森県史(民俗編 資料下北)』2005年
『青森県史(資料編 近世4)』2003年
『むつ市史(民俗編)』昭和61年
『むつ市史(近世編)』昭和63年
『大畑町史』1992年
『川内町史(民俗編・自然Ⅰ)』1999年
『川内町史(近・現代、林野、教育)』2001年
『脇野沢村史(民俗編)』昭和58年
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森嘉兵衛『岩手県の歴史』山川出版社、1972年
とよだ 時『日本百霊山』山と渓谷社、2016年
宮本 袈裟雄・高松 敬吉『山と信仰 恐山』佼成出版社、平成7年
月光 善弘編『東北霊山と修験道』名著出版、昭和52年
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畑中徹『恐山の石仏』名著出版、1977年
笹澤魯羊『下北半島町村誌(上巻)』名著出版、1980年
下泉全暁『密教の仏がわかる本』大法輪閣、2019年
藤沢周平『春秋山伏記』新潮社、昭和59年
『うそりの風(第9号)』(うそりの風の会 会長 祐川清人)
【原稿作成】
遠藤智久
【ルート図作成】
鈴木幹二
【協力者】
田中武男(国立研究開発法人・海洋研究開発機構むつ研究所前所長)
むつ山岳会(会長 前田惠三)
酒井嘉政(郷土史研究家)
佐藤衞(むつ市教育委員会川内公民館)
若松通(むつ市立図書館大畑分館)
鈴木久人(泉龍寺住職)
新井田定雄
(敬称略)