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5 恐山古道
このルートは「丁塚石」の道です。
寛政5年(1793)に菅江真澄が歩いた頃は木を敷き並べて造った一本道で、このような状態は明治の末ごろまで続いたようです。
昭和12年(1937)頃に自動車道路が開削されると、恐山への参詣者の流れが変わっていきました。
丁塚石は、文久2年(1862)の開山一千年祭を前に諸国の篤信者から寄進されたもので、安政年間(1854~1860)から文久2年の間に建立されたものです。
恐山信仰の歴史を知るうえで欠かせないのが、田名部にある円通寺(曹洞宗、恐山菩提寺本坊と大覚院・熊野神社です。
熊野神社と円通寺は、隣り合わせの敷地にあります。
江戸時代には、恐山全体を管理する円通寺と大覚院(修験者を統括)との協調関係が成立していました。
大覚院は、18世紀後半から由緒ある釜臥山(恐山奥の院)を掌握することによって、田名部の修験の寺院(五か院)の中で指導的地位を確立しその勢力を拡大しました。
やがて明治の神仏分離令(1868年)によって、修験の中心であった大覚院は熊野神社となりました。そして宮司となった大覚院は、修験寺院としての役割を放棄せずに継続し、神職として大湊のひようす兵主神社など近隣の数多くの神社の祭祀儀礼を執行してきています。
田名部川を渡ると消防本部の横に案内板と「百弐拾四丁(恐山までの距離で約13.5㎞)」と刻まれた丁塚石があり、この丁塚石が田名部口の起点となります。
田名部道には、一丁(約110m)ごとに124本の丁塚石が建てられています。
起点から約1㎞でバス停「念仏車(古い地名)」です。「念仏車」とは、念仏を唱えながら回すもので、一回まわすごとにお経を一度読んだのと同じ功徳があるとされ、念仏の功徳を効率よく広めるために造立されたと考えられています。参詣者は、死者の冥福や極楽浄土への往生を願ってこの車を回したものと思われます。本物は川内口ルートの「四体地蔵」脇で見ることができます。
恐山の管理について、以下のような歴史がありました。
(1)第一期(1670以前)
《田名部周辺の諸寺院(浄土真宗を除く)や修験が恐山に関係した時代》
南部氏に関する資料(中世)が皆無に近いため、恐山(中世)についても詳細は不明ですが、地蔵堂と簡単な湯治場があり、滞在する病人のために宿泊する小屋が建てられていたものと推測されています。
『下北半島町村誌(上巻)』(笹澤魯羊)には、「恐山は、慈覚大師の開闢以来、地蔵堂を本殿といたして、この地蔵堂を守る僧の寺が境内にありまして、恐居山(おそれざん)金剛念寺(こんごうねんじ)と申しました。あるいは略して峰の寺とも申しました。地蔵堂の堂守(どうもり)の僧というはおおかたは修験者でありました。」とありますが、近世以前に関するものであり信憑性に乏しいと言われています。
近世初頭、下北の里修験のなかで大きな力を持っていた東通村目名集落の不動院が熊野系修験であったので、恐山山地一帯が修験の修行道場であったと考えられています。
(2)第二期(1670頃~1780)
《蓮華寺と円通寺(曹洞宗)の間に、管理上の争いが生じた時代》
17世紀に入り、円通寺が蓮華寺(羽黒山寂光寺末、天台宗系寺院で六坊を支配)に代わって恐山を管理するようになると、蓮華寺対円通寺の争いが始まり100年近く続いたようです。
結果は、円通寺が地元の大覚院(熊野系修験)と連携してライバルである羽黒系修験に対抗し、従来の恐山管理権を守りました。
1780(安永9)年に蓮華寺が敗北すると、大覚院との関係が円通寺の課題として残りました。
この期間(恐山をめぐる制度上の争いの期間)は、恐山信仰が形成される時期で、現存する堂社が整う時期でもありました(元禄の頃にはその原型ができていたようです)。
18世紀末からは、死者供養や各種祈願(病気治癒・海上安全)のための参詣も増えました。
菅江真澄や松浦武四郎が恐山を訪れたのはこの頃です。
(3)第三期(1780~1872)
《円通寺が大覚院の協力を得て恐山を管理した時代》
大覚院は、早くから円通寺を始めとする禅宗系の寺院の行事に参加していましたが、元来両者間には教義や信条の相違がありました。江戸末期になると、大覚院は釜臥山(恐山奥の院)の管理権を主張し「山かけ」の行事を形成しました。
ところが、1868(明治元年)の神仏分離令や1872年(明治5)の修験道廃止令によって、大覚院は修験から神道に変わってしまいました。
これによって大覚院は、恐山祭典の一切の行事から退き、円通寺は完全に恐山を単独管理するようになりました。
以上のような歴史をたどったために、恐山信仰は複合的(修験的、天台的、真言的、禅的)で、拝まれる神仏も数多くあります。
(1)不動院と大覚院
下北地域で早い時期(15世紀以前)に里修験(近世の地域社会に定着した修験)となったのは、目名(めな)(東通村)の不動院であったと伝えられていますが明証がないようです。
この不動院は、18世紀前半まで下北修験の支配的地位ありました。
下北では、17世紀以降に里修験が増加し、17世紀には、田名部1、大畑2、目名2、大平1、安渡1、川内2、大間1、奥戸1、佐井1、脇野沢2の14人の修験が土着していたといわれます。
そして、これらの修験は「かすみ霞」を所有し、3~4の堂社を管轄していました。
当初、不動院をはじめ下北の修験は羽黒派に属していましたが、17世紀中頃から本山派と羽黒派の霞場争いに巻き込まれ、1685年(貞享2)年に本山派に転じました。
そして元禄(1688~1704)頃になると、盛岡のじこうぼう自光坊が下北の修験を支配するようになりました。
当時盛岡の自光坊は南部藩の修験そう惣ろく録やく役を勤めた本山派の修験で、配下の修験を支配する一方、他派も含めて藩内の修験全体を統轄するそう惣ろく録の地位についていました。
自光坊は修験の増加に対して霞の再配分を行いましたが、これをめぐって不動院と下北修験17ヵ院が対立しました。
結果として不動院の勢力が弱まり、代わって円通寺との協力により釜臥山を掌握した田名部の大覚院が台頭し、明和年間(1764~1772)には下北修験の中で不動院と並ぶ指導的立場を確立しました。
その後、南部藩では「神道」が重んじられるようになり、文化・文政(1804~1830)の頃になると更にその傾向が強くなり、里修験の活動(村々の加持祈祷などの減少)にも影響がでるようになりました。
江戸時代末期における各修験の管理する堂舎は、大覚院29社・大宝院18社・不動院13社・円蔵院2社・所属不明10社となっています。
(2)里修験の宗教活動
〇堂宮奉仕(村々の氏神や小祠・小堂への奉仕)
修験寺院は、その奉仕する堂宮の所在する村落から証文を出させて自分の寺の持宮であることを明文化させ、それらよって他の山伏や神職たちとの持宮争いを避けるようにしていました。
堂宇奉仕の内容としては、農村地帯であれば農村生活に密着した農耕咒術(じゅじゅつ=祈ること)であったことに特色があります。
二月には春祈祷を行ってお札を配り、三月三日、五月五日などの節句、つまり生産暦と関連する神祭行事の日には、祭祀者として祈祷を村民に代わって堂宮で行いました。
夏には虫除け祈祷、雨乞い祈祷など、農村の祭事や年中行事と深く結びつくことによって、村落社会にしっかりと定着していました。
そのほかに、新社開眼、堂宮普請、遷宮などがありました。
〇仏事法要や仏事講
堂宮奉仕は、多く村落社会の主催であるところに山伏が出かけるのですが、仏事に関するものは山伏寺院から村落へ向けての宗教活動でした。
仏事法要は、滅罪と死者追善を目的とするいたって民衆的な形態をとっていました。
仏事講は毎月行われていて、これも死者追善のためのものでした。
こうした法要や講の寺院側の目的は、祠堂銭の調達にあったようです。
祠堂銭は、寺院維持の諸入用や中央への冥加金、修験の位階補任を受けるための費用などに用いられていました。
〇近世後期には、医業をはじめ、卜占・まじない・配札・葬儀を取り扱っていました。
◎恐山菩提寺については「川内口ルート」をご覧ください。
江戸時代の旅行家、菅江真澄は寛政5年(1793)の夏にこの道を通っています。
紀行文『奥の浦うら』によると、木を敷き並べて造った板敷の橋のような状態だったようです(杣夫が伐木の運搬に利用)。
その後も参道は、雑草の生い茂った一本道で、道の両側には開山一千年祭を記念して植えた杉と松の並木が続いていました。
明治に入っても末頃までは道路が悪く、泥濘の箇所にヒノキの丸太や小枝を敷き詰めて登っていたようです。
その後、1913年(大正2)の大凶作(冷害により青森県内の稲作は約9割の減収)の際、凶作救済事業(大正3年)として新たに道路が開削されました。
そして昭和12年(1937)頃に自動車道路の開削にともなう拡幅工事により、両側の大木が大半伐採されてしまいました。
「大湊別れ」付近の「一本杉(推定樹齢500年)」は生き残りで、ヒバ林の中に道標として残っています。夏祭りの際には、茶屋が立っていたといいます。
田名部口の特徴は「丁塚石」にあります。
霊場恐山に到る街道沿いには124の丁塚石があり、参詣する人たちの道しるべとなりました。
各丁塚石間は約109mなので、起点から終点まで約13㎞ありました。
これらの丁塚石は、江戸時代末期の文久2年(1862)の恐山千年祭を前に諸国の篤信者から寄進され、安政年間(1854~1860)から文久2年の間に建立されました。
表には丁数、裏には建立した年月と寄進者の名前が刻まれています。
寄進者に商人が多いことから察すると、現世利益(商売繁盛)を祈念して建立したのかもしれません。
建立当初のものは58基残っていますが、大口の寄進者である県外の福山(松前町)の天屋善兵衛や江州日吉(滋賀県)の辰巳屋松兵衛らに混じって、「十九丁」の石には「津軽大釈迦村伝十郎」、「二四丁」には「津軽大釈迦村高橋金之丞」の名が刻まれています。
いずれも安政6年(1855)の建立です。
その後、新道(昭和12年頃に田名部-恐山間にバス路線が開通)開削にともない、丁塚石は現在地に移されました。
そして昭和45年(1970)には、失われた石の補充が行われ現在に至っています。
◎恐山菩提寺については「川内口ルート」をご覧ください。
・「むつ来(か)さまい館」
むつ市田名部町10-1(0175-33-8191)
http://kasamaikan.info/index.html
・「北の防人大湊 安渡館(あんどかん)」
むつ市桜木町3-1(0175-29-3101)
https://www.city.mutsu.lg.jp/bunka/leisure/kankousisetu-anndokann.html
・「東通村歴史民俗資料館」
下北郡東通村大字田屋字家ノ上29-2
(教育委員会教育総務課:0175-27-2111)
http://www.vill.higashidoori.lg.jp/kyouikai/page000015.html
恐山は、かつて恐居山金剛念寺(密教系の寺院)が支配し、「峰の寺」と呼ばれていたといいます。
円通寺は、室町時代の1522年(大永2)に宏智聚覚和尚(曹洞宗)によって開かれたのが始まりとされています。そして、1530年(享禄3)に宏智聚覚和尚により恐山菩提寺が再興されると、半世紀の間に曹洞宗の信者も増え、恐山の信仰者も増えていったようです。
やがて円通寺が恐山を治めるようになると、恐山に定着していた修験者や天台宗・真言宗の僧侶を束ねていたと思われる天台宗の蓮華寺(1670年頃の開基~1780年廃寺)と円通寺との間で支配権争いが始まり、約100年近く続いたといわれます(蓮華寺の敗北)。
その後円通寺にとって残された課題は、大覚院(修験)との関係でした。
大覚院は、早くから円通寺を始めとする禅宗系の寺院の行事に参加していましたが、両者間には教義や信条の違いがありました。
やがて江戸末期になると、大覚院は釜臥山の支配権を主張し「山かけ」行事を形成したのですが、修験道廃止令(1872年)によって修験から神道に変わりました。
これにより、大覚院は恐山祭典の一切の行事から退き、恐山は円通寺の管理下に入ることになりました。
円通寺と隣り合わせの敷地に熊野神社があります。
この神社は、明治に神仏分離令以前は修験(大覚院)の寺院でした。
下北における里修験としては、東通村のめな目名集落にある不動院が大きな勢力を保持していましたが、霞の配分から田名部の五か院の勢力が強まり、特に大覚院は18世紀後半から釜臥山(恐山奥の院)を掌握することにより、指導的地位を確立していったようです。
そして、円通寺が恐山全体を管理し、大覚院は修験者を統括して釜臥山を掌握するという協調関係が成立していきました。
やがて明治の神仏分離令(1868年)によって、修験寺院の中心であった大覚院は熊野神社となりました。
そして宮司となった大覚院は、修験寺院としての役割を放棄せずに継続し、神職として大湊のひようす兵主神社など近隣の数多くの神社の祭祀儀礼を執行してきています。
また、田名部の大覚院以外の四か院は神仏分離令により廃寺となりました。
(田名部口入口→恐山菩提寺)
田名部口入口(丁塚石「百弐拾四丁」)
↓(9㎞)
一本杉
↓(1㎞)
冷水
↓(4㎞)
恐山菩提寺
【徒歩で4時間30分~5時間】
『青森県史(民俗編 資料下北)』2005年
『青森県史(資料編 近世4)』2003年
『むつ市史(民俗編)』昭和61年
『むつ市史(近世編)』昭和63年
『大畑町史』1992年
『川内町史(民俗編・自然Ⅰ)』1999年
『川内町史(近・現代、林野、教育)』2001年
『脇野沢村史(民俗編)』昭和58年
『東通村史(民俗・民俗芸能編)』平成9年
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とよだ 時『日本百霊山』山と渓谷社、2016年
宮本 袈裟雄・高松 敬吉『山と信仰 恐山』佼成出版社、平成7年
月光 善弘編『東北霊山と修験道』名著出版、昭和52年
速水 侑『観音・地蔵・不動』講談社、1996年
西海賢二・時枝務・久野俊彦『日本の霊山読み解き事典』柏書房、2014年
青森県高等学校PTA連合会下北文化誌編集委員会『下北文化誌』青森県高等学校PTA連合会下北文化誌編集委員会、1990年
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縄田康光『立法と調査 No260「歴史的に見た日本の人口と家族」』2006年
畑中徹『恐山の石仏』名著出版、1977年
笹澤魯羊『下北半島町村誌(上巻)』名著出版、1980年
下泉全暁『密教の仏がわかる本』大法輪閣、2019年
藤沢周平『春秋山伏記』新潮社、昭和59年
『うそりの風(第9号)』(うそりの風の会 会長 祐川清人)
【原稿作成】
遠藤智久
【ルート図作成】
鈴木幹二
【協力者】
田中武男(国立研究開発法人・海洋研究開発機構むつ研究所前所長)
むつ山岳会(会長 前田惠三)
酒井嘉政(郷土史研究家)
佐藤衞(むつ市教育委員会川内公民館)
若松通(むつ市立図書館大畑分館)
鈴木久人(泉龍寺住職)
新井田定雄
(敬称略)