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5 恐山古道

川内口ルート

川内口のルートは、恐山古道のなかで、古道の部分が多く残っているルートです。
5本(湯野子川越え・和白沢越え・八木沢越え・くまの熊野川越え・こうや高野川越え)のルートがありますが、登山者が多いのは「八木沢越え」と「板子塚地蔵堂」を起点とする「熊野川越え」で、両道は「四体地蔵」で合流します。
その他のルートは、廃道または廃道に近い状態です。
「四体地蔵」からは、六体地蔵や一体地蔵などの小さな地蔵様(石仏)が迎えてくれます。
地蔵信仰の痕跡が最も残っている道です。
一体地蔵からは、おおづくし大尽やま山(ハート形の宇曾利山湖が美しい)に登ることができます(片道約40分)。
また、「熊野川越え」も歩けますが、四体地蔵まで時間がかかります。

古道を歩く

八木沢越え

(八木沢登山口⇒四体地蔵⇒恐山菩提寺)
①八木沢登山口(鳥居)⇒四体地蔵(約50分)
県道46号(かもしかライン)沿いにある「銀杏木地区」の大イチョウ(推定樹齢:500年以上)。
大イチョウから、車で川内方面へ約500mのところに標柱「八木沢林道入口」があります。
八木沢林道入口から車(オフロード車)で約1.2㎞進むと独峰山(どつぽうざん)がよく見える急カーブがあり、そこから左へ入って約3㎞進むと駐車場(10台)に着きます。

駐車場の脇を流れる八木沢(幅約6m)を渡渉すると鳥居があります。
植林したヒバ林の中を登っていくと、やがて目印として残したと思われるブナの大木が現れます。

さらにブナを中心とした桜やミズナラなどの落葉樹の中を進んでいくと「四体地蔵」で、小さなお堂の中に、約50㎝の小さなお地蔵さんが安置されています。
登って来た方向(南方)を見下ろすと、右手に「八木沢越え」、中央に「熊野川越え」、左手に「高野川越え」のルートが見えます。
「高野川越え」は廃道に近い状態です。

②四体地蔵⇒六体地蔵(約50分)
四体地蔵の隣にある後生車(ごしよぐるま)(地蔵車・念仏車)。
下から上の方に廻して往生を祈ったら、緩やかな尾根道を登っていきます。
ブナの大木をところどころに見ながら約50分進むと「六体地蔵」です。
ブナの大木の根元に小さなお堂があり、お地蔵さんが数体見えますが、残念ながら六体揃っていません。
付近の林道開削の際に、誤ってブルドーザーが破潰したと言われています。
写真は、昔の六体地蔵です。

③六体地蔵⇒一体地蔵(約1時間)
六体地蔵から展望所(標高490m)までは急な登りで、約15分を要します。
展望所からは障子山(しょうじさん)が綺麗に見えます。
ここからネマガリダケの生えている道を進んでいくと、約30分で大尽山の山頂が見えてきます。
さらに40分ほどで峠(標高600m)の一体地蔵です。

ここは、大尽山山頂(828m)への3コース(宇曽利山湖(うそりやまこ)からの大尽沢コース、角違コース)の合流地点です。
ここから山頂までは往復80分で、頂上付近は急登です。
山頂からは眼下にハート形の宇曽利山湖が見え、360度の展望を楽しむことができます。
また、一体地蔵(峠)から稜線を西に進むと丸山、その西隣に朝日奈岳があります。この稜線は以前は参詣道として利用されていました。
なお、一体地蔵から八木沢登山口までの所要時間は約2時間30分です。

④一体地蔵⇒大尽山登山口(1時間)
一体地蔵からは大尽沢に沿ってカルデラ内壁を下っていきます。
この辺りは、「恐山山地森林生態系保護地域」に指定されていて、ブナやヒバの大木を見ることができます。
恐山山地は、ヒバの優占が著しい森林やヒバとブナの混交する森林が発達するとともに、標高が高くなるにつれてブナの純林に移行するという下北半島や津軽半島に広がる森林帯の典型的な姿を呈しています。
森林生態系保護地域は、保存地区(原生的な姿の森林で、原則として人手を加えない森林)と保全利用地区(保存地区に外部の環境変化が直接及ばないよう緩衝の役割を担う森林)から成っている地域です。
写真は、ブナとヒバの混交林とヒバの巨木です。
一体地蔵から約60分で「大尽山登山口」に着きます。

⑤大尽山登山口⇒恐山菩提寺(1時間20分)
大尽山登山口から湖畔(宇曽利山湖)の自然歩道(小川で酸性度の強い湖に棲むウグイを見かけることもあります)を東廻り(西廻りも可能ですが、砂利道と後半の湿地のために歩きにくいコースです)で進みます。この歩道では、4月下旬から5月上旬にかけてミズバショウの大群落が現れ、秋にはトリカブトの花が見られます。約60分進むと自然歩道入口(駐車場)に着きます。
自然歩道入口から歩いて約10分のところに恐山菩提寺(地獄と極楽を含む霊場全体)があります。途中にある「鬼石」の辺りや北岸(恐山側)では、ハクサンシャクナゲやイソツツジなど硫黄や噴気に影響されない植物を見ることができます。

熊野川越え

(板子塚地蔵堂⇒四体地蔵⇒恐山菩提寺)
「熊野川越え」は、「四体地蔵」で「八木沢越え」及び「高野川越え」と合流する道で、歩行距離が長く往時を偲べる古道です。
川内方面からのメインルートで、最も楽で多くの人が利用したようです。独峰山(どつぽうざん)経由のコースも考えられますが、現在不明です。
スパウッド観光ホテル(むつ市川内町)の隣にある板子塚地蔵堂を見学したら衣川林道を進みます。
途中で「路傍の地蔵尊」が出迎えてくれます。
明治時代の廃仏毀釈の影響か頭部が破損していています。
人通りの少ない場所なのですが、訪れた時には生花が供えてありました。

高倉山の下から高倉山へ伐採斜面を登っていくと、大尽山や釜臥山が綺麗に見えてきます。
高倉山から四体地蔵までは緩やかな傾斜の尾根道で、四体地蔵から先は「八木沢越え」と同じです。

なお高倉山の南西に独峰山(177m)があります。中腹には泉龍寺(曹洞宗)が管理する社(愛宕大権現を祀る)があり、甲冑を身に着け馬にまたがった将軍地蔵(本地仏)も祀られています。
写真は、その近くにある六地蔵です。
また頂上には「経石塚」があり、「享保十八年(1733年)六月廿四日」と刻まれています。
「経石」は経文を記した小石で、死者の追善・現世利益・未来往生を願って土中に埋められたといわれます。

川内口の5つのルート

恐山参詣道である川内口には、上記の2つのルートを加え、5つのルートがありました。
西の方から、①湯野小川越え、②和白沢越え、③八木沢越え、④熊野川(くまのがわ)越え、⑤高野川(こうやがわ)越えです。
各ルートは以下のようになっています。
①「湯野小川越え」
湯野川温泉から湯野小川沿いに登り、朝日奈岳の南に出て外輪山稜線を南下し、円山を経てからカルデラ内壁を下り、湖畔に出たら西回りで恐山菩提寺に至る17㎞のコースです(昭和40年頃から、廃道に近い状態)。
②「和白沢越え」
川内川中流の大滝付近から和白沢(V字谷)沿いに登り、稜線で「湯野小川越え」と合流するコースです。主に畑集落の人たちが利用したようです。
和白沢林道入口から稜線まで7㎞弱、稜線から「賽の河原」まで約6㎞、円山付近から一体地蔵まで約3㎞あります(昭和40年頃から、廃道に近い状態)。
③「八木沢越え」
現在、川内口コースとしてよく利用されているルートです。道もよく管理されていて歩きやすくなっています。
④「熊野川越え」(川内口のメインルート)
地元の庶民が道端のお地蔵様に手元の水や野の花を捧げた道で、多くの人が利用したようです。往時を偲べる古道です。
熊野川に沿って進み、高倉山から稜線をゆっくりと登っていくと、四体地蔵の手前で「八木沢越え」及び「高野川越え」参道と合流します。
四体地蔵脇の「後生車(ごしょぐるま)」(輪廻車・念仏車)を下から上に回して往生を願ったら、六体地蔵、さらに一体地蔵へと向かいます。
一体地蔵からは下りとなり、その途中で「湯野小川越え」および「和白沢越え」のルートへ向かい、合流して湖畔に着いたら西廻りで地蔵殿を目指したようです。
⑤「高野川越え」
高野川の流路は約10㎞。沢沿いの道筋500mに千代ヶ岡という原野があり、ここで小学校の運動会が行われたとのことです。
さらに2.5㎞程進むと縄文遺跡の中に石倉集落があります(廃道に近い状態です)。

1937年(昭和12)頃、田名部-恐山間にバス路線が開通すると、田名部口以外の参詣道は廃れていきました。
中でも一番遠くにあった川内口は、その影響をもろに受けたと思われます。
1990年代に地元有志が復活の活動をはじめ、その後2010年代に「むつ山岳会」が再度復活をめざして参詣道整備を行っています。

この古道を歩くにあたって

むつ山岳会によって刈り払いが行われ、よく整備されている。
「大尽山登山口」(湖畔)から自然歩道入口までのコースは歩きやすいが、西廻りは砂利道で最後の200mが湿地になっている。

古道を知る

恐山菩提寺の歴史

(1)江戸前期(1603~1680)
17世紀以前の史料がほとんど確認されていないため、恐山信仰の始まりは不明です。
17世紀の恐山は、釜臥山の神である釜臥山嶽大明神を祭祀する場として発展しました。

吉田家を通じて同大明神に朝廷から正一位の神階が授与され、円通寺が同大明神の正当な祭祀者であることを朝廷から保証されていたようです。

(2)江戸中期(1681(天和元年)~1780)
18世紀に入ると凶作や飢饉が多くなり、特に後半から幕末までの約100年間は飢饉(宝暦・天明・天保)や地震が相次ぎ、多くの命(特に社会的弱者の子ども)が失われました。
このような厳しい時代のなかで、恐山ではそれまでの釜臥山嶽大明神への信仰に代わって地蔵信仰が盛んになりました。
境内には賽の河原や血の池地獄などの様々な地獄や極楽浜などの浄土が再現され、延命地蔵菩薩の恩恵としての温泉(湯治)も流行しました。

『むつ市史(民俗編)』によれば、恐山菩提寺は以下のようにして整えられていったようです。
宝暦11年(1761)の『宇曽利山(恐山)由緒』には、博奕打ちの地獄、猟師の地獄、酒屋地獄、血の池地獄等の多くの地獄と並んで、明神堂、骨堂、佉(伽)羅陀山(きやらだせん)(地蔵菩薩が住む浄土)地蔵堂、姥堂、食堂、薬師堂、三仏堂、五智如来、十王堂等の堂社の名が記され、利用できる湯壺には四つの温泉(滝の湯、冷の湯、薬師の湯、花染の湯)が記載されています。
これらの堂舎・地獄・温泉名から、1700年ころの恐山には地蔵尊しかありませんでしたが、約60年後には現存する恐山の堂宇や仏たちがほとんど整えられていたようです。

しかし、『宇曽利山(恐山)由緒』の頃には「賽の河原」の名称もなく、また賽の河原の地蔵尊(死者供養の対象)も造立されていませんでした。

(3)江戸後期(1781(天明元)~1868)
やがて1792年(寛政4)になると「賽の河原」が登場してきます。
また、「賽の河原の地蔵尊」(1793~1862年間に造立)、そして「卒塔婆供養堂の地蔵尊」(死者供養の対象)が19世紀中ごろ(推定)建立されて、恐山における重要な三つの地蔵尊が整いました。

この時代は、日本海交易の活発化を背景に、日本各地の裕福な廻船問屋の円通寺へ寄進により、境内が整備されていきました。
しかも「延命地蔵菩薩経」では「延命地蔵は海難事故から救ってくれる」と説いていたため、大坂や江戸と蝦夷地を往来する商船の船主による恐山への海上安全祈願が盛んとなりました。

さらに幕末の1861年(文久元)には、慈覚大師の開山一千年祭を記念して、安渡村(大湊)の信者たちによって参詣道(大湊口)に三十三の観音像が建立されました。
同じく一千年祭に備えて安政6年より文久2年までの間に諸国の信者により丁塚石が建立されました。
そして1862年(文久2)に一千年の大供養が行われました。

文久2年(1862)に円通寺で印刷した「奥州南部宇曽利山之絵図」(不動明王の御堂が見える)を見ると、恐山山門に鳥居があります(当時は神仏習合の時代なので、修験が参加していた恐山の堂舎の中に鳥居があっても不思議ではない時代でした。現在はありません)。
おそらく1868年(明治元年)の神仏分離令(神仏習合禁止令)によって取り除かれたものと思われます。
現在、夏の大祭には円通寺を中心とする曹洞宗の寺院がこれに参加していますが、江戸時代には修験の大覚院(修験)も加わっていました。
1868年(明治元)の神仏分離令(神仏習合禁止令)によって恐山菩提寺の姿も大きく変わっていったようです。

深掘りスポット

恐山菩提寺の現在

恐山菩提寺(地獄と極楽を含む霊場全体)の本尊は釈迦如来(以前は阿弥陀如来だったようです)で、その中心になっているのは地蔵堂(本尊は延命地蔵菩薩) です。
恐山菩提寺の開山期間は毎年5月1日~10月末日となっています。
総門をくぐると、正面に山門と地蔵山、そして左側に本堂が見えます。
さらに山門をくぐって進むと地蔵山と地蔵殿です。

そして地蔵殿の左側から地蔵山の方へ登っていくと不動明王像があります。
この不動明王像(山岳の明王。密教の教主である大日如来の化身)は現在露座の状態ですが、江戸時代の絵図には不動堂が見えます。

総門を入って右手(東方)にある稲荷山に登ると、農業神(漁業神)である稲荷大明神、八大龍王善神(仏教の守護神)を安置する龍神堂、そして治病の仏である薬師如来(が鎮座しています。
龍神は、天地を自由に動き回り海流や地熱の流れを司る神、薬師如来は病気平癒の仏とされたので、両者は延命地蔵菩薩の恩恵である「恐山温泉」を守る神仏だったのかもしれません。温泉場でよく見かける神仏です。
そして、この稲荷山の南東に江戸時代の名所「鬼石」があります。

また南方には、大日如来(密教の教主)を中心とした五智如来が鎮座しています。
その近くにある「林崎(山門の南にある丘のこと)大明神」は慈覚大師の袈裟を埋めたところといわれ、女人禁制の地になっていました。
これらの多様な神仏像のなかで主な信仰対象となっているのは、地蔵殿の地蔵尊と死者供養の中心となっている賽の河原の地蔵堂八角円堂の地蔵尊、そして塔婆供養堂の地蔵尊です。
地蔵殿の地蔵尊の前で行われる儀礼は、春、夏、秋の祭典を通じて現世祈祷(大漁祈願や豊作祈願など)です。

西方に行くと、穴が塞がってしまった「たいない胎内くぐり」、賽の河原の地蔵尊(八角円堂)、妊婦(難産)が堕ちるとされた「血の池地獄」、「金掘地獄」、「重罪地獄」などの様々な地獄と極楽があり、冥界のエリアになっています。

大王石(閻魔大王)から始まる地獄巡りを終えたら、境内にある温泉で疲れを癒してください(無料)。
写真は総門近くの六地蔵で、後方は若い登山者に人気のある大尽山です。

以上のように、恐山菩提寺には、仏教だけではなく修験(密教)や山岳(山の神)信仰に関係するものも多くあります。

延命地蔵菩薩・十王

(1)恐山
「恐山」は、もとは「宇曽利山(うそりやま)」と呼ばれていました。「宇曽利」を「恐」と解し、「恐山」という名称が定着するのは恐山信仰が確立する江戸後期以降と思われます。
恐山とは特定の峰をもった山ではなく、本殿地蔵堂を中心とする多くの堂社や地獄、極楽浜や背後の山々を含めた恐山菩提寺周辺のことをいいます。

(2)延命地蔵菩薩
恐山菩提寺にある地蔵殿の本尊は延命地蔵菩薩で、境内には延命地蔵尊が建立されています。
「延命地蔵菩薩」とは、地蔵菩薩のはたらきのうち、寿命を延ばし福利を与える面を特に強調した呼称です。
そのご利益を説いたものが、「延命地蔵菩薩経」です。
この延命地蔵菩薩経は、地蔵菩薩のご利益を説いたもので、平安末期に日本で撰述されました。
地獄救済、十種福徳、代受苦が説かれる比較的短い経典ということもあって民間に流行し、平安末期には地獄の救済者として民間に広まっていったと推定されます。
そこには、「寿命をつかさどる仏」である地蔵菩薩は、衆生を救うため毎朝禅定に入り、六道(地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人間道・天道)の世界に身を現して衆生の苦しみを除いて楽を与えると説かれています。
三途(地獄堂・餓鬼道・畜生道)で地蔵の姿を見たり名前を聞いた者は、天か浄土に生まれ変わるとされていました。
また、地蔵の「十種の福」が記されています。具体的には、〇女性の安産、〇身体健康、〇病気平癒、〇寿命が延びる、〇聡明な知恵を得る、〇財宝にあふれる、〇人々に好かれる、〇五穀豊穣、〇神々に守護される、〇悟りを得る、の十種です。
やがて鎌倉時代にかけて、新たに阿弥陀信仰が入り込み、阿弥陀如来を念じて極楽往生を願う阿弥陀信仰が優位になっていったようです。
このあたりについては、「ミニ知識(菅江真澄と恐山)」の地蔵会(恐山大祭)の様子を参考にしてください。

(3)十王
延命地蔵菩薩経が日本で撰述された平安時代の末期には、平安中期以降移入された「十王信仰(じゆうおう)」(中国の唐代末に道教の影響で成立)が広く浸透していました。
10世紀に中国で書かれた『預修十王生七経』及びそれを受けて日本で成立した『地蔵菩薩発心因縁十王経』には、冥土で死者の罪を裁く10人の王や追善(死者の苦を除き冥福を祈るために、法会など善事を行うこと)供養のことが説かれています。
死者は秦広王(しんこうおう)から転輪王まで10回の審査を受け、一般には七七日(49日)にあたる7回目の審判で転生するというものです。
閻魔大王(本地仏が地蔵菩薩)は、5回目の五七日(35日)を担当する地獄の王で、源信の『往生要集』にも記されています。
また恐山菩提寺には閻魔大王石があります。
それぞれの仏事に割り当てられた如来や菩薩がおり、日本ではさらに三仏が加わり、十三仏事とも呼ばれています。
追善供養の法要(十三仏事)は、以下のように変遷し今日に至っているようです。
初七日から七七日(四十九日)までの中陰(ちゅういん)(次の生を受けるまでの期間)法要は、古代インドの死者儀礼が原型で、その後中国で儒教に基づいて百ヶ日・一周忌・三回忌がもうけられたとあります。
さらに日本において、七回忌・十三回忌・三十三回忌が加えられて十三仏事となったようです。

賽の河原

(1)恐山の地獄の景観
恐山は硫黄の山で、明治以前には沢山の噴出口から蒸気・熱湯が噴出し、鳴動が激しく、硫黄の臭気が漂っていたようです。
『東奥沿海日誌』(松浦武四郎)にも、「硫黄の氣甚し」とか「硫黄の燃る處有」と記されています。
1793年(寛政5)の地蔵会(恐山大祭)の日に、菅江真澄が恐山を訪れています。
地獄のような風景にも関心があったようで、『牧の冬枯』では「恐山には百三十六もの地獄があり、鬼石付近の臭気は耐えがたい」と八大地獄(八熱地獄)の136部署にも触れています。
このころ、恐山の西のエリア(冥界)で、大王石、血の池地獄を始めとする数多の地獄、そして「賽の河原」など「地獄の景観」が整っていったようです。
ところが明治に入ると、古来の霊場に硫黄業者(特に三井物産会社)が入山し、大規模な発掘をしたために、地獄を思わせるような鳴動や噴出が著しく弱まったり停止したりしたようです。
この硫黄採掘作業で宇曽利山湖の落口を三尺余り切り下げたため、水位の低下にともなって湖底の亜硫酸ガスの発生が増大して、周辺の樹木が枯死して山内の風致が著しく損なわれたといいます。

(2)賽の河原
中世の初めまでは、七歳くらいまでの子どもが死んだ場合、貴族社会でも仏事を行わず、無縁仏として遺体を山野や河、村境、墓地の入口などに捨てるのが通例だったようです。
そこには、「7歳までは神の領域に属するもの」として「子どもを神に返す」という古来からの観念があったといいます。
その後中世後期から近世初期にかけて幼児の死についての観念が変化していったようです。
それは、『御伽草子』(室町時代~近世初期)に「賽の河原」が初めてあらわれ、江戸時代に定着していったことです。
夭折し追善を受けなかった子どもたちの霊は「三途の川」の手前にあるという「賽の河原」に集まり、地蔵がそれを守護するとの信仰が形成されました。
そして、葬式仏教が発達する15世紀(室町時代)ころになると、幼児についても大人に準じて追善すべきだとの観念が生じ、子どもの位牌が現れはじめました。
江戸時代以前は、大家族の中で未婚のまま過ごす者が少なくなく、また都市における未婚率も高かったようです。
やがて、江戸時代(前半)になると、太閤検地による「一地一作人制」の導入や新田開発による耕地の拡大を背景に、大半が結婚し直系家族等、親子を中心とする世帯(「家」)を形成するのが常態化していきました。
それに伴って「家」の後継者を始めとする「子ども」への関心が高まっていったようです。
一方、江戸時代後期(人口停滞期)に入ると、相次ぐ凶作や飢饉などを背景に「まびき間引き(生まれたばかりの子を殺す)」や堕胎、捨子が多くなっていきました。
亡くなった子ども(水子)と地蔵菩薩の物語に「賽の河原地蔵和讃」があります。これは平安中期に念仏を広めたとされる空也(くうや)(903~972)が書いたのではないかといわれています。
それは、親よりも先に亡くなり、「親を悲しませる」という罪を背負った子どもたちは、三途の川を渡ることができず、「一つ積んでは父のため」・「一つ積んでは母のため」と残された父母や兄弟たちの幸せを願って石を積み供養します。しかし、そこに鬼が現れ、せっかく積んだ石を崩してしまいます。また、次の日同様に石を積みますが、やはり鬼に崩されてしまいます。そんな日が何日も続いていきます。そんなところへお地蔵さまが現れて、その子どもたちを鬼から護り、あの世(浄土)へ導いてくださるという物語です。

(3)恐山の賽の河原
恐山の場合、1792年(寛政4)に「賽の河原」の記事が登場します。宮本袈裟雄、高松敬吉『山と信仰 恐山』(佼成出版社)によると、『恐山本坊円通寺誌』の中の「覚」に、「一、西院の川原石仏、地蔵尊」とあります。賽の河原には石尊の地蔵尊だけが建立されていて、堂宇はなかったようです。
その後、1862年(文久2)の『奥州南部宇曽利山之図』になると賽の河原に地蔵堂が描かれているので、70年(1792~1862)の間に賽の河原の地蔵堂が建立されたものと思われます。
現在、鶏頭山山麓に八角円堂の「賽の河原地蔵堂(本尊は延命地蔵菩薩)」が建立されています。
ここでの死者供養に僧侶は関与せず、ただ供養者たちが小石を積んで地蔵堂に賽銭を上げ、幼くして死んだ子どもへの供養をするのです。
この賽の河原付近では、淋しい音をたてて回っている風車をよく見かけます。
恐山境内の西側に広がる賽の河原から八角円堂に向かうと「血の池地獄」があります。
この血の池地獄は、家族の中に死亡した妊婦がある場合、恐山のお寺から守り札をいただき、それをこの地獄に投げて、お札が水の中に沈むと妊婦の霊は成仏したと信じられたといいます。
ここにはかつて後生車(ごしょぐるま)が建立されていたといいます。
後生車(地蔵車・念仏車)は、昭和初期までは「別れ道」や村境の辻などにありました。これを下から上の方に廻して往生を祈ったり、道中が安全で災難や疫病が集落に入ってこないように祈念しました。
現在は、卒塔婆供養堂の横と恐山古道(川内口)の「四体地蔵」脇にあります。

恐山温泉

恐山菩提寺の境内にある温泉で、病気の治療に効果があるとされ、古くから利用されていました。
入山料だけで自由に入浴できる質素な木造の湯小屋が4ヵ所あります。
男湯、女湯、男女入替制、混浴があり、冷抜(ひえ)の湯、古滝の湯、薬師の湯、花染(はなぞめ)の湯(混浴)があります。いずれも少し熱め。うっすらと緑がかったお湯の底には、湯花が溜まっています。
江戸時代の資料にも、温泉の効能や薬湯が紹介されています。
幕末の探検家として有名な松浦武四郎の『東奥沿海日誌』には、4ヵ所の湯壺、「瀧の湯」・「花染の湯」・「古瀧の湯」・「ひゑ腹湯」が記載されています。
また、江戸後期の旅行家、菅江真澄の 『奥の浦うら』(東洋文庫、平凡社)には「ふる滝の湯、ひえの湯、めの湯、花染の湯、しんたきの湯といって、湯桁が五ヵ所あり、病人がそれぞれに集まっている。湯浴みをするには、女は紺の湯まきをして大ぜいならび、頭に手拭をかけ、大きなかいけ(手桶)というもので湯をさかんにすくい、これをかぶるといって、百度も千度も頭にうちかけるので、たいそう長い髪のかたちはくずれてぬれ乱れ、あるいはそれを櫛けずるのに、みな目をふさいでいる有様は、ところもところとて、十戒の仏画などを見るように、まるで地獄のふるまいをしていた。」と描写されています。
(データは「お勧めスポット」参照)

ミニ知識

テラコと修験

恐山信仰は、異様な自然環境と、下北の人々の生の儀礼(豊作や豊漁を祈る現世祈祷)と死の儀礼(死者供養)とが結びついて形成された信仰です。
祭りの本尊は、「延命地蔵尊」と「賽の河原の地蔵尊」、「塔婆供養堂の地蔵尊」で、信仰者は主として恐山周辺に居住している下北の人々です。
現在の恐山は曹洞宗の寺院である円通寺の管理下に置かれていますが、その信仰集団は宗派に関係がないそうです。

『恐山史料の再発見』(青森県立郷土館研究紀要-第46号-)に、テラコ(地蔵講の活動拠点)と恐山信仰について次のようにあります。
「楠正弘は、昭和期以降の恐山信仰には、現世利益と死者信仰の二つがみられるとしたうえで、恐山信仰を支える集団は、直接、円通寺檀家や大覚院が支配する神社の氏子ではないことを指摘した。さらに、恐山に参拝する地蔵講の分布は、近世末期の大覚院の霞とほぼ一致しており、それに大畑の大行院の霞と川内地区の修験の霞をあわせたものが、昭和期の恐山の春・秋の祈祷(農耕に関する祈祷。現世利益)に参拝する地蔵講の分布地域であるとした。
それらの各集落の地蔵講の活動拠点がテラコである。下北半島では僧侶が常住しない寺が多く、それらはテラコと呼ばれて、住民達が自ら死者の弔いや供養をする場となってきた。その際、講中が最初に唱えるのが恐山に関する念仏である。そのことは、集落の死者供養と恐山の地蔵信仰とが直結することを意味する。」
講中が最初に唱える恐山に関する念仏については、『山と信仰 恐山』(宮本袈裟雄・高松敬吉)に紹介されています。

修験の宗教活動の一つに仏事法要や仏事講がありました。修験道廃止冷(1875年)は、地域の地蔵講やテラコおよび恐山信仰に影響を及ぼしたと思われます。

イタコ

菅江真澄の紀行文には、死者の口寄せを行うイタコの記述がないので、当時は恐山にイタコがいなかったようです。
イタコが恐山大祭に参加するようになったのは、国鉄大湊線開通後の大正末・昭和初期ころからといわれています。
そして、戦後マスコミによって取り上げられるようになると、夏の恐山大祭に数十人ものイタコが集まるようになったようです。
例えば、1964年(昭和39)の祭典に参加したイタコは21名でした。
イタコの数には昭和26~27頃から大きな増減はなく、恐山祭典に参加するイタコの大半は津軽在住者または津軽出身者でした。
『最後のイタコ』(松田弘子 扶桑社)によれば、イタコは円通寺(恐山菩提寺本坊)から許され、夏と秋のお祭り(夏の大祭、秋詣り)の期間だけ滞在し、口寄せを行っていました。
1980年代に300人はいたといわれるイタコも、高齢化が進み、現在活動しているイタコは10名以下(2013年)になったそうです。
また、2005年(平成17)頃には「オトコ(男性)イタコ」もいて、廃業となった「しやくなげ石楠花そう荘」(不動明王の石像付近)の横で口寄せをしていたといいます。
なお、この旧石楠花荘の不動明王像(石像)は、下北全域の中で最も古い(1672年)とされています。この石像近くの小高い場所には、江戸時代の名所であった「鬼石」と「百面ブナ」(巨木)があります。

菅江真澄と恐山

天明年間(1781~1789)は、毎年のように飢饉が東北地方を襲い過酷な時代でした。
江戸後期の旅行家菅江真澄(1754~1829)の『外が浜風』には、1784(天明4)8月10日に見た現青森県蓬田村の街道沿いのおびただしい餓死者の屍や、人肉を食らった人の話などが記されています。
東北地方といっても、被害の程度には差がありました。
1785年(天明5)、真澄は飢饉に苦しむ津軽から南部を経て現在の岩手県奥州市に移りました。
ここで約4年過ごし、天明8年6月に南部領に入りました。
菅江真澄は少なくても5回は恐山に登っているようです。
地獄の様相を呈する恐山の景観と、恐山信仰の世界に関心を抱いていたようで、1793年(寛政5)の紀行文『奥の浦うら』には次のようにあります。
「六月二十三日 夜が明けると地蔵会(恐山大祭)があると、昨日から仮小屋を建てて、あれこれと用意している。午未(正午~午後二時)ごろから村里の人々が集まってきて、国々の修行者は鉦太鼓を打ち鈴を振り鳴らして阿弥陀仏を唱えている。
卒塔婆塚の前には、いかめしい棚を作り、それに薄を刈って敷き、……御堂からまさ柾ぼとけ仏(檜の柾板に先祖の名前を書いたもの)といって、仏名を書いてもらった薄いそぎ板を、一本六文の銭で求め、老若男女が手ごとに持ってきて、この棚に置き、水を汲んであげ、「ああはかないものだ、我が愛し……我が兄弟、我が妻子よ」と、あまたの亡き魂を呼ぶ泣き声、念仏の声が山にこたえ、こだまに響いている。(『奥の浦うら』)」
「二十四日 夜が明けてゆくころ、たくさんの人が『「南無伽羅陀山の延命地蔵菩薩、六つのちまたにおわしますならば、我が黄泉の苦しみを除き、楽を与え給え。十種の幸賜い給う御誓いのあな尊さよ』」と言って、並んで数珠をおしもみ、額にあてて伏し、頭の冠り物の落ちるのも知らず、我が子、我が孫の亡き魂を数え上げては涙を落としている。また柱や板戸に寄りかかって寝ていた者も、夜がすっかり明けると連れだって集まり、円通寺のだいとく大徳(高徳の僧)が払子(料金)をとって、伽羅陀山の御前から地獄の隅々まで、残らず御誦経をしてまわり、この魂棚にもこられると、みな寄り集まってきた。こうしたあと、人がみな帰っていった午未ごろ、田名部から馬をひいて迎えが来たので、私たちも帰った。
「阿弥陀仏」、「念仏の声」、「延命地蔵菩薩」、「六つのちまた(六道)」、「十種の幸(延命地蔵菩薩の十種の福)」、「伽羅陀山(地蔵山)」、「地獄の紹介(有料)」など、江戸時代後期の恐山信仰を理解するうえで参考になる点が多々あります。

松浦武四郎と恐山

1843年(天保14)、北海道の名付け親として知られる松浦武四郎は、ロシア人(赤蝦夷)が蝦夷地に南下してくるとの噂を長崎で聞き、蝦夷地のことを初めて知ったそうです。
その後彼は肥前平戸(長崎)の千光寺住職を辞めて郷里の伊勢に帰り、還俗して蝦夷地探検を計画しました。
翌1844年(弘化元)、蝦夷地を目指しましたが実現できず、竜飛岬から尻屋崎をへて、南部領を通って江戸へ引き返しました。弘化2年の3月に再度挑戦し、江差に渡ったのは28歳のときでした。
彼は、1844年(弘化元1)11月に恐山に出かけています。著書『東奥沿海日誌』には、山役銭(やまやくせん)を壹(壱)文とって「地獄廻り」を案内しているようすや、鍛冶屋地獄、女郎地獄、客地獄、血の池地獄(女性が堕ちる地獄)、農人地獄、博打打地獄、酒屋地獄、妾地獄、豆腐屋地獄、油屋地獄、本妻地獄、漁師地獄など27の地獄が紹介されていて、「地獄必定」の様子がうかがえます。
これらの地獄に対して松浦武四郎は、「地蔵菩薩の垂迹の霊地を汚しているように思われる」と書いています。
彼は釜臥山登山も計画したようですが、すでに入山期間(6月~7月)を過ぎていたので実現しませんでした。

大尽山(おおづくしやま)

「尽し」とは、三角錐や杭を意味した言葉だといわれます。
厳父のような釜臥山(かまふせやま)とともに太平洋からも見えるこの山は、大畑方面の漁師や航行する船の目印になっていたようです。
恐山の「賽の河原」から眺めた大尽山(828m)は美しく、まるでトグロを巻いている蛇のようにも見える恐山のランドマークです。
古代日本人は、亡くなった人の魂は次第に浄化されてこのような山(山上他界)へ上り、やがて祖霊になると信じていたといわれます。
この地域の人々も、賽の河原や極楽浜で慈母のような大尽山を仰ぎ、極楽への往生を信じていたのかもしれません。
江戸後期の旅行家菅江真澄(1754~1829)は、恐山を度々訪れています。
雪まだ深い二月(旧暦)に、檜(ヒノキアスナロ=ヒバ)の伐採・搬出作業を見学するため、恐山に宿泊し翌日大尽山・小尽山のヒバ山を訪れました。
紀行文『奥の手ぶり』には、木樵たちが鳥が飛ぶような速さで材木をソリで運び出す様子が描かれています。
大尽山までは、湖畔の「自然歩道」入り口から約6時間で往復できます。春には水芭蕉の群落、秋はトリカブトの花、そしてヒバやブナの巨木を観察することができます。
頂上からは眼下にハート形の宇曾利山湖が見え、その奥に太平洋を望むことができます。

下北のヒバ

南部藩(江戸時代)は、日本三大美林として知られる下北のヒバ(檜)を、田名部代官所に2名の御山奉行を置いて厳重に管理し、その保全に努めました。
例えば、川内川支流で最も奥行きのある八木沢流域は、銀杏木集落の里山や外輪山稜線を帯状に包む広葉樹林を除けば広大なヒバ林でした。水量が豊かでくだ管なが流しに適し、北前船時代には杣夫で賑わいをみせた流域です。
和白沢流域もヒバの産地で、明暦3年(1657)の江戸大火(江戸城本丸、大名屋敷約500、寺社約300焼失。焼死者10万人余)の際には、復興材として大量に伐採流送(V字谷は、その流送の名残)されました。
この流域も八木沢同様、山守、山師、杣夫の入下山が多く、藩の留山、運上山として厳しい管理のもとにおかれました。
なお恐山山地の森林は、ヒバの優占が著しい森林やヒバとブナの混交する森林が発達するとともに、標高が高くなるにつれてブナの純林に移行していきます。

まつわる話

【恐山古道共通】

霊場恐山の由来

《『恐山と下北(ほっつきある歩き記)』(森本守)より》
名僧慈覚大師(円仁)が唐の五台山で修行のある夜、夢の中に一人の聖僧が現れ、日本の都の東方に地獄のさまを呈し、しかも万病に効く温泉が湧いている霊山がある。
帰国後は此の地を訪れ、地蔵尊一体を刻して、お堂を建て仏事に励むようにと告げて消え去った。
目を醒ました大師が辺りを見廻すと、室内に香気が立ち込め、不思議なことに机上には一巻の地蔵経が置かれていたという。
帰国後、教えに従って東北地方に霊場を尋ねた大師は、山野を歩いて、ついに本州最北の地に到った。
ある日、道に迷っていると、一羽の鵜が魚をくわえて飛びゆくのが見えた。
必ずや水があると思って奥へと進むと満々と水をたたえた宇曽利山湖を発見したのであった。
附近の荒涼たる様子は、さながら地獄を見るようであり、また豊かに湧く温泉は、これこそ捜し求めた霊山であったのだった。
大師はお告げに従い、その中に地蔵尊一体を刻し、その中に持ち帰った地蔵経を納めて一宇を建立して祀り、今日の地蔵堂の基を開いたのであった。
時に貞観四年(862)のことであったという。
(むつ市役所資料より引用)

優婆寺の伝承

《優婆寺案内板にある「正津川橋と優婆寺」より》
昔(今から約1200年前)恐山「三途の川」の橋のたもとに天台宗の名僧慈覚大師円仁作と伝えられる優婆夷像がお堂に安置されてあった。その優婆様のお堂が、湖の大洪水のため正津川の橋まで流されて着くこと3度もあり、そのつど恐山に返しましたが、又も若木の松の木と一緒に流されて来たので村人は集まり優婆様を拾い上げて、お寺に安置し、若木の松は「うばの松」として近くの民家の畑に植えられました。

ルート

1.八木沢越え
(1)八木沢(登山口)~四体地蔵~恐山菩提寺 (合計13㎞)
①八木沢(登山口)
↓(1.2㎞、50分)
四体地蔵
↓(50分、2㎞)
六体地蔵
↓(1時間40分、2.5㎞)
一体地蔵
↓(1時間、3.5㎞)
大尽山登山口
↓(1時間10分、3.5㎞)
自然歩道入口
【徒歩5時間30分】
一体地蔵から大尽山往復(80分)
②恐山菩提寺

四体地蔵

八木沢(登山口)
自然歩道入口
↓(1時間10分)
大尽山登山口
↓(1時間20分)
一体地蔵
↓(3時間)
八木沢登山口
【徒歩5時間30分】

2.熊野川越え
【板子塚地蔵像~四体地蔵~恐山菩提寺 (合計19㎞)】
板子塚地蔵堂
↓(4.5㎞)
高倉山
↓(4㎞)
四体地蔵
↓(2㎞)
六体地蔵
↓(2.5㎞)
一体地蔵
↓(3.5㎞)
大尽山登山口
↓(3.5㎞)
自然歩道入口

アクセス

(1)八木沢口
川内町から県道46号を北上し、銀杏木集落の近くにある「銀杏木の大イチョウ(樹齢約500年)」が目印です。
ここから川内町方面に約500m進むと左側に標柱「八木沢林道」があります。
この林道をオフロード車で4㎞進むと登山口(駐車場:約10台)です。
(2)自然歩道入口
鉄道・バス(往路・復路)
JR大湊線下北駅から下北交通バスで「太鼓橋前」バス亭下車し、「自然歩道」入口へ。
マイカー
むつ市から県道4号で恐山方面へ。太鼓橋手前にある自然歩道入口の駐車場(無料、30台)へ。

参考資料

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『青森県史(資料編 近世4)』2003年
『むつ市史(民俗編)』昭和61年
『むつ市史(近世編)』昭和63年
『大畑町史』1992年
『川内町史(民俗編・自然Ⅰ)』1999年
『川内町史(近・現代、林野、教育)』2001年
『脇野沢村史(民俗編)』昭和58年
『東通村史(民俗・民俗芸能編)』平成9年
森嘉兵衛『岩手県の歴史』山川出版社、1972年
とよだ 時『日本百霊山』山と渓谷社、2016年
宮本 袈裟雄・高松 敬吉『山と信仰 恐山』佼成出版社、平成7年
月光 善弘編『東北霊山と修験道』名著出版、昭和52年
速水 侑『観音・地蔵・不動』講談社、1996年
西海賢二・時枝務・久野俊彦『日本の霊山読み解き事典』柏書房、2014年
青森県高等学校PTA連合会下北文化誌編集委員会『下北文化誌』青森県高等学校PTA連合会下北文化誌編集委員会、1990年
九学会連合下北調査委員会『下北-自然・文化・社会-』平凡社、1970年
楠 正弘『庶民信仰の世界-恐山信仰とオシラサン信仰-』未來社、1984年
小松 和彦『鬼と日本人』角川文庫、平成30年
飯倉 義之『鬼と異形の民俗学』ウェッジ、2021年
森本 守『恐山と下北(ほっつきある歩き記)』昭和63年
森本 守『下北半島(四季のうつろい)』平成2年
東奥日報社『あおもり県の鳥とけものウォッチング』東奥日報社、平成2年
速水 侑『地蔵信仰』塙書房、1975年
「大正三年測圖(昭和4年修正測圖)」(内務省)
松田広子『最後のイタコ』扶桑社、2013年
内田武志・宮本常一編訳『菅江真澄遊覧記3』平凡社ライブラリー、1968年
東通村教育委員会『奥州南部小郡田名部目名村不動院』東通村教育委員会発行
下北の歴史と文化を語る会編『下北半島の歴史と民俗』伝統と現代社、1978年
柴田 純『日本幼児史』吉川弘文館、2013年
森山茂樹、中江和恵『日本子ども史』平凡社、2002年
『下北地方史話』(富岡一郎、青森コロニー印刷)(1981年)
支倉 清、伊藤時彦『お稲荷様って、神様?仏様?』築地書館、2010年
多賀康晴『立山における地蔵信仰』富山県[立山博物館]研究紀要第23号
安田喜憲『山岳信仰と日本人』NTT出版、2006年
小泉武栄『日本の自然風景ワンダーランド』ベレ出版、2022年
下北ジオパーク推進協議会『みんなの下北ジオパーク』下北ジオパーク推進協議会、2022年
宮家 準『霊山と日本人』講談社、2016年
合田一道『松浦武四郎 北の大地に立つ』北海道出版企画センター、2017年
中村博男『松浦武四郎と江戸の百名山』平凡社新書、2006年
松浦武四郎『東奥沿海日誌』時事通信社、昭和44年
田口昌樹『菅江真澄読本3』無明舎出版、1999年
石井正巳『菅江真澄が見た日本』三弥井書店、平成30年
司馬遼太郎『菜の花の沖(4)』文藝春秋、2000年(新装版)
圭室諦成『葬式仏教』大法輪閣、1963年
『恐山史料の再発見(宇曽利山由緒)』青森県立郷土館研究紀要<第46号>、2021年
梅原 猛『地獄の思想』中公新書、昭和42年
清水邦彦『お地蔵さんと日本人』法藏館、2023年
村上義千代『あおもり110山』東奥日報社、1999年
縄田康光『立法と調査 No260「歴史的に見た日本の人口と家族」』2006年
畑中徹『恐山の石仏』名著出版、1977年
笹澤魯羊『下北半島町村誌(上巻<復刻>)』名著出版、1980年
下泉全暁『密教の仏がわかる本』大法輪閣、2019年
藤沢周平『春秋山伏記』新潮社、昭和59年
『うそりの風(第9号)』(うそりの風の会 会長 祐川清人)

協力・担当者

【原稿作成】
遠藤智久
【ルート図作成】
鈴木幹二
【協力者】
田中武男(国立研究開発法人・海洋研究開発機構むつ研究所前所長)
むつ山岳会(会長 前田惠三)
酒井嘉政(郷土史研究家)
佐藤衞(むつ市教育委員会川内公民館)
若松通(むつ市立図書館大畑分館)
鈴木久人(泉龍寺住職)
新井田定雄
(敬称略)

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