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58 相州大山古道

大山参詣道

 江戸の庶民も登った相州大山

大山寺の開山、阿夫利神社の成立により信仰の地としての姿が整えられた大山は、江戸時代に入り、御師による布教活動が進められると庶民による大山参詣が盛んにおこなわれるようになり、参詣者は麓の宿坊に泊って山頂の石尊大権現に詣でました。
大山以東の参詣者は表参道を、以西の参詣者は裏参道を通り山頂の石尊権現に詣でました。
この「大山詣り」は2016年文化庁により日本遺産に認定されました。
現在、表参道にはケーブルカーも開通し、両参道ともハイカーや登山者に親しまれています。

古道を歩く

(1)表参道

◎大山ケーブルバス停→男坂→阿夫利神社下社→16丁目→20丁目(富士見台)→大山山頂→阿夫利神社下社→女坂→大山寺→大山ケーブルバス停 《歩行 4時間30分》

宿坊や土産物店が並ぶこま参道から男坂を通り阿夫利神社下社へ

伊勢原駅北口バス停から大山ケーブル行バスに乗り、終点で下車、公衆トイレをすぎて参詣道に入ります。
宿坊や土産物店、食事処が両側に並ぶこま参道に入り、階段を登ります。
階段は360段ほどあり、踊り場ごとにこまの絵の平板が敷かれていて踊り場の数がわかるようになっています。
参道の土産物店では、大山名物の「大山こま」も売られていますが、木地職人の数も減ってきたようです。

ケーブルカー「大山ケーブル駅」の上にある追分社前で、道は二手に分かれます。
左は、比較的緩やかな女坂、右は急な男坂への道です。
女坂は、帰路に使いますが、「女坂七不思議」や大山寺等の名所があります。
男坂は、急な石段で始まります。男坂にはかつて数十か所の末社があったといいます。
追分社から階段を百段余登ったところに、「男坂三十三祠 其の六」と表示されている祠の跡を見つけることができますが、かつての末社の跡なのでしょうか。
この後、阿夫利神社下社までは、常緑樹林に囲まれた薄暗い石段を登りますが、急な石段の道が続きますので注意して登ります。

阿夫利神社の秋の例大祭では、神輿を下社から下の宿坊街までこの急な階段を担ぎ下ろすといいます。
この後、鉄製の階段2か所を経てさらに石階段を登ると石垣が見えてきますが、その上はかつての大山寺別当八大坊上屋敷跡です。
この先で女坂からの石段の道を合わせると阿夫利神社はすぐそこです。
公衆トイレを左に見て階段を上がると茶店のある平地に出ますが、江戸時代までは大山寺の各院があったところです。
正面にある御影石の石段を登ると阿夫利神社下社前で、振り返れば房総半島から伊豆諸島に至る見事な景色が広がります。
まさに「ミシェラン・グリーンガイド・ジャポン」に2つ星として紹介された眺望であることが頷けます。
下社拝殿右下の地下巡拝道には、御神水が引かれており、江戸時代に奉納された「大山詣り」の木太刀も展示されています。
水場はこれが最後となるので御神水を満たしていきましょう。

阿夫利神社下社から本社(頂上)へ登る

拝殿前を左に進むと登山口となる登拝門がありますが、門前左には裏参道である蓑毛越方面へ続く道があります。
かつて女性の参詣はこの登拝門までとされ、ここから大山山頂方向に向かい遥拝したといいいます。
門の右横には、「1丁目」と記された石柱があります。頂上の28丁目まで石柱があるので登る際の良い目印となるでしょう。
登拝門をくぐると百段を越える見上げるような石段です。
石段を登り終わった平坦な場所には白山神社跡があり、大山修験でも重要な地とされていました。
ここからは、大きな石が行く手を阻むようなジグザクな急登が始まります。
8丁目には樹齢500~600年といわれる夫婦杉があり、10丁目付近は、大きな杉の木を多く見ることができます。

さらに急坂を登ると14丁目には東丹沢でよくみられる「ボタン石」(タマネギ石)が現れ、すぐに大きな岩にドリルで穴をあけたような「天狗の鼻突岩」という名所があります。
この先でベンチのある16丁目となり、蓑毛越からの裏参道を合わせます。
ここは蓑毛追分といい、江戸時代中期初建の高さ3.6m程の石柱があります。
1トンを超える石材を下から運び上げた信心の深さに頭が下がります。
また、この石柱の側面には、「従是右富士浅間道 小田原まで七里十丁、〇走り十里」とあり、裏参道を富士浅間道と呼び、小田原や富士山麓まで繋がり、大山、富士信仰の関連性を感じさせられます。
16丁目からの木道の道を過ぎると明るい尾根状の道となり、20丁目の富士見台までひと頑張りです。
参詣者は、ここ20丁目、富士見台で初めて富士山を望むことができました。箱根の山々や丹沢表尾根の先にみえる富士山の姿に江戸時代の参詣者も思わず手を合わせたのではないだろうかとの思いが浮かびます。
ここ富士見台は、「来迎谷」とも言われ、1852年(嘉永5年)頃に歌川広重が「不二 三十六景・相模大山来迎谷」と題するに浮世絵に書かれた場所と言われています。
一方、この上にも「来迎谷」と記された石柱がありますが、ここからは、東側はひらけているのですが西方にある富士山を仰ぐことは難しいと思われます。
標高1000mを越えるこのあたりから樹木の様相も変わり、中低木の落葉広葉樹に囲まれた緩やかな明るい尾根道になります。

25丁目でヤビツ峠からのイタツミ尾根の道を合わせます。ヤビツ峠バス停からここまでは、1時間程度で登ってくることができます。
金属のグレーチング階段を過ぎると銅製と思われる鳥居があります。
明治34年銅器職講、神田細工人の文字が見えます。
また、近くに立っている石柱には、「御中道」と刻まれており、富士山と同じように大山にも「御中道巡りの道」があったようです。
現在、東側は、鹿柵で遮断されていますが、西側は、山頂下まで進むことができます。
ここから、大山山頂直下の常夜灯前を通るとすぐ大山山頂(1252m)です。
山頂には、「御神木」といわれるブナの古木が枝を張っており、上社として摂社前社、本社、摂社奥社が鎮座しています。
大山からの眺望は素晴らしく関東平野、相模湾、三浦半島、伊豆半島までのパノラマが広がります。

山頂本社から下社、そして女坂を下り大山寺経由で大山ケーブルバス停へ

頂上からの景色を楽しんだら登って来た道を下ります。
下社までは急な下り坂で事故も起きているので気を付けて下ります。
下社からは、女坂を通り大山寺からケーブル駅に向かいます。
女坂入口の階段から大山寺の手前までは、急な石段の坂が続き、「これでも女坂か」と思うほどです。
途中、何カ所かでケーブルカーの軌道に近いところを通り、木々の間からケーブルカーを眺めることができます。
大山寺が近づくと「女坂七不思議その七」が現れます。
「七不思議その五の無明橋」を渡ると大山寺本堂です。
大山寺は江戸時代まで今の阿夫利神社下社がある場所にありました。
この寺は、奈良東大寺初代住職の良弁僧正が建立したとされ、3代目の住職が弘法大師だったと伝えられています。
また、ここは紅葉の名所であり、シーズンにはライトアップされ多くの観光客で賑わいます。この後は、女坂七不思議を見ながら緩やかな谷沿いの道を下り、追分社下で男坂の道を合せ、コマ参道を通って大山ケーブルバス停に出ます。

(2)裏参道

裏参道の起点である蓑毛から蓑毛越を経て大山山頂を目指します。この裏参道は、蓑毛越から「大山南尾根」(浅間尾根)を通り、直接、表参道16丁目に合流する参詣道と蓑毛越から阿夫利神社下社を経由する参詣道とがあります。
これらの参道は、前者を「石尊道」や「富士浅間道」と言い、後者を「御拝殿道」等とも言われてもいたようです。
◎蓑毛→蓑毛越→表参道16丁目(追分)  《歩行 1時間55分 》

蓑毛から蓑毛越へ

蓑毛からの裏参道登山者数は、伊勢原側の表参道からの登山者に比べ、10分の1にも満たず、静かな古道歩きが楽しめます。
秦野駅前からヤビツ峠もしくは蓑毛行きのバスに乗り、蓑毛で下車します。
ヤビツ峠行きと蓑毛行きのバスは、同じ乗り場からの出発ですが、蓑毛行きの列に並びます。
蓑毛で下車すると金目川(春岳沢)を渡る橋があります。
橋の先右側には、蓑毛大日堂仁王門があり、その奥に大日堂があります。
大日堂石段下左横には、「従是不動石尊道」と記されてあり、ここがかつての大山古道、蓑毛裏参詣道の入口であったことがわかります。
大日堂からは、金目川を渡り、千元院前の常夜灯まで行くことができますが、ここでは、バス停から橋の手前を道標に従って右に入り、金目川左岸沿いの道を上流方向に進みます。
マス釣り場の先を進むとわずかで千元院下で、常夜灯のある二俣です。
ヤビツ峠方面への道を分け、右の蓑毛越方面の山道に入ると登山者はさらに少なくなります。
この先、登山道は、少し薄暗い樹林の道を進みます。林道と2度交錯しながら進む植林帯の中の道は、砕石が敷き詰められているなどよく整備されています。

やがてゲートのある林道に突き当たります。ゲート脇を抜け、林道が右カーブするところに道標があり、左の山道に入ります。
少し急な登り道を10分程登ると「関東ふれあいの道」の石柱があり、モミジやモミの木が見られるようになります。ここからは少し急な登りとなりますが、10分足らずで「新栄講」の石碑のある二俣に着きます。
左は蓑毛越をショートカットして蓑毛越の先で合流する道、右は蓑毛越への道です。
ここから右へ石垣のある平坦な道を進むと15分ほどで大きなケヤキの木とテーブル、ベンチのある蓑毛越に到達します。
蓑毛越は、十字路で正面の道は、阿夫利神社下社方面の「御拝殿道」、右は浅間山方面、左は大山南尾根経由大山方面です。蓑毛から登ってきた参詣者は、ここで阿夫利神社下社方面か左の大山方面かに分かれました。

蓑毛越えから表参道16丁目(追分)へ

蓑毛越からは、大山を目指して左の道を16丁目に向かいます。
植林帯と自然林が入り混じった尾根道を2~30分ほど登っていくと首のないお地蔵さん「賽の河原地蔵あるいは六地蔵」が立っています。
この石地蔵には「西坂本」と彫られてあることから蓑毛の人々が建立したことがわかります。
この先は、傾斜が緩やかになり長さ200m以上はあろうかという木道の上を進みます。
ここから更に5分ほど進むと左側に「従是女人禁制」と書かれた「女人禁制の碑」があり、碑には「弘化二年」(1845年)と記されています。
かつて裏参道から登ってきた女性はここまでしか来られず、ここから大山方向を遥拝したとのことですが、今は、植林された樹木により、大山方向を望むことができません。

この先は、ちょっとした鞍部「西の峠」で右からかごや道を合わせます。
かごや道は、下社からの道で、名前の通り少し穏やかな道で、モミの巨木などに囲まれた静かな山道です。
ここから石や岩交じりの急登と丸太の階段の急登を頑張ると明るく開けた表参道の16丁目の石碑前に出ます。

◎蓑毛→蓑毛越→阿夫利神社下社  《歩行 1時間30分》

蓑毛越から趣ある「御拝殿道」を通り阿夫利神社下社へ

蓑毛越の十字路から道標に従い、阿夫利神社下社に進みます。
ここから下社までは、「大山南尾根」の東側面を等高線とほぼ平行に進む比較的平坦な道で所要時間は、30~40分程度です。
石垣のある静かな歩廊のような道は、まさに「山の中の参道」といったところで登山者、ハイカーも少なく静かなハイキングが楽しめます。
途中に短い鎖場がありますが、注意して進めば問題ありません。
阿夫利神社寄りの参道周辺は、「神奈川協定水源林」で杉、モミ、カシ類の大木やモミジなどの木々、植林された杉などの混合林です。
この道の中を進むと「かごや道」分岐を過ぎ、2~3分で下社登拝門横に到達します。かつての参詣者は、かつてここにまつられていた不動尊にお参りして頂上の石尊権現を目指しました。

下社から「かごや道」を通り「西の峠」を経て表参道16丁目へ

表・裏両参道に関連する道として阿夫利神社下社から表参道16丁目までの急登を駕籠で通過するためのバイパス道で「かごや道」といわれる道があります。この道は、名前の通り少し穏やかな道で、モミの巨木などに囲まれた静かな山道で、かつて下社からかごを使って登ったという道です。
かごやは、3人1組だったといい、昭和30年頃までは「かごや道八丁」とも言われていたといいます。
下社の登拝門前を左の蓑毛越方面へ進むと2分程で分岐点となり、右方向の「かごや道」へ入ります。
ここから、1時間足らずで大山南尾根、「女人禁制の碑」から数分大山山頂寄りの鞍部である「西の峠」に出ます。ここから表参道16丁目までは、前掲「蓑毛越えから表参道16丁目(追分)」を参照してください。

この古道を歩くにあたって

表参道:大山ケーブルバス停(310m)から山頂(1252m)まで標高差約950mで傾斜も大きいため、レベル3の中級。ケーブルを利用すれば阿夫利神社駅(678m)から山頂まで約570mの登降。
裏参道:頂上へはレベル3程度だが、蓑毛越から下社へはハイキングレベル。4月初旬~10月下旬までは、蓑毛越周辺までヒル対策が必要。

古道を知る

◎大山参詣道の歴史

古代の大山―古の大山信仰の道

大山は、その均整の取れた山容もあり、古くから神仏が宿る霊峰として人々に崇められてきた。
また別名を「雨降山」とも言われ、農民たちからは、雨乞いの神としても崇められてきた。
大山山頂では、埋葬時期ははっきりしないものの、発見された土器、磁器、遺物等から、かなり古くから人々が登っていたと推察される。
また、大山寺は、755年(天平勝宝7年)良弁により開山され、阿夫利神社は927年(延暦5年)の延喜式にその存在が明記されていることからこの時代には、すでに山頂や中腹ある寺社等に向かう人々が少なからず存在していたと思われる。
その後、大山の山岳信仰と修験道的な信仰が融合し、大山の頂きにあった巨石はご神体「石尊権現」とされ、この大山石尊信仰の形成に伴い山上への道も形成されてきた。

中世の大山―大山修験道の形成

大山寺は、鎌倉時代、室町時代には幕府から庇護を受けていたが、次第に外部勢力の侵入や寺内の武力修験勢力により、学僧による一山維持は困難となってきた。戦国時代に入ると小田原北条氏は、山岳修験者の武力と情報収集能力を得るため富士、箱根、神縄、丹沢、大山、日向、八菅等の修験集団を支配下に置いた。
大山修験は、北条方として箱根峠の南にある山中城に籠城、豊臣方と対峙したが城は陥落している。
この時代には、大山周辺を拠点とする大山、日向、八菅等の修験者たちにより丹沢各地に修験の行者道が拓かれ、現在の登山道の礎になったと考えられる。

近世の大山―大山詣りの隆盛による参詣道の確立

江戸時代に入ると幕府は、武力を持った修験勢力の一掃等大山寺改革に着手、下山を命じられた修験勢力は現在の大山町や蓑毛に下り、御師として信者獲得活動に踏み出した。
その結果、大山門前町と関東一円に及ぶ大山講の信仰圏が形成された。
江戸時代中期(18世紀中頃)になると庶民の間に大山参詣が流行し、旧暦の6月27(26)日(新暦7月27日)から7月17日(新暦8月17日)までの20日間、頂上への参詣登頂が許された。
これにより、参詣道が整備され、現在の登山道がほぼ形成されたと思われる。
東からの参詣者は、伊勢原から表参道を、一方、西からの参詣者は、裏参道である蓑毛から蓑毛越を通り山頂あるいは中腹の大山不動(現阿夫利神社下社)に向かった。
これらの「山詣り」に対応するため、山麓には宿坊、土産物店等などの門前街が発展したほか大山に通ずる道には大山道標、鳥居、灯篭などが設置された。

明治以降の大山―登山対象としての大山へ

江戸時代末期になると大山寺は、その支配体制に陰りが出、さらに明治政府の神仏分離令により山上の大山寺、不動堂を引き払い、現在の大山寺所在地である場所に移転した。
大山不動堂跡地には阿夫利神社下社が建立された。
1927年(昭和2年)小田急電鉄が開通すると、最寄り駅も今までの平塚停車場から伊勢原停車場に変わり、1931年(昭和6年)大山ケーブルカーが開業すると更なる活況を呈し、登山者に人気の山となった。令和3年度の大山登頂者数が約13万人といわれているが、その多くが、当時の参詣道を利用している。

深掘りスポット

大山阿夫利神社

大山阿夫利神社は、第十代崇神天皇の御代に創建されたと伝えられている。 古くから相模国はもとより関東総鎮護として崇敬を集めてきた。奈良時代以降は神仏習合の霊山として栄え、延喜式にも記される国幣の社となった。そして、武家の政権が始まり、源頼朝を始め、徳川家等の代々の将軍は当社を信仰し、そして武運長久を祈った。庶民からの崇敬も厚く、人々は「講」という組織を作り大山へ参拝した。他にも一年の天候を占い農作物の豊凶を占う筒粥神事、天地の魔と穢れを祓う引目祭、夏の山開き、火祭薪能などの多種多様な神事が現在も行われ、三百年以上の伝統を誇る大山固有の大山能、そして巫女舞、倭舞も今に継承されている。また、ここからは、相模湾、伊豆の島から東京方面まで見渡せ、ここからの眺望は、ミシェラン・グリーンガイド・ジャポンに2つ星として掲載された。

大山寺

大山寺は、奈良の東大寺を開いた良弁僧正が755年(天平勝宝7年)に開基したと伝えられ、「大山のお不動さん」として親しまれており関東三大不動の一つに数えられる古刹である。
大山寺は一時衰退期を迎え荒廃した時期もあったが、13世紀半ばには伽藍を再興され、現在に残る国指定の重要文化財「鉄造(くろがね)不動明王」が鋳造されている。
その後、別当八大坊をはじめとする僧坊十八ケ院末寺三、御師三百坊の霊山として栄えたが、明治新政府の神仏分離令により、現阿夫利神社下社のある場所から現在の女坂中間点付近に移転した。
大山寺本堂前階段の紅葉は見事であり、シーズンにはライトアップと大山ケーブルカーが夜間運行されている。

宿坊街 ―山を下った修験僧たちが御師として宿坊等を経営―

伊勢原駅からバスで大山ケーブルに向かう途中、「鳥居前」というバス停がある。ここには第三鳥居があり、ここから先が大山山内で「宿坊街」である。
大山川沿いの道路の両側には、宿坊が建ち並び江戸時代の宿坊街にいるのではとの錯覚に陥いる。
ここでは、大山詣が盛んになるにつれ参詣者を案内する御師が活躍した。
江戸時代に入り様々な圧力によって山を下った修験僧たちは御師となり、その規模は百五十余りに至るほどであった。御師の地道な活動もあり、石尊権現信仰は関東周辺に広がり、大山詣のための講が組成された。
大山講は相模・武蔵を中心に甲斐、信濃、越後、遠江、駿河、伊豆に及び、総講数1万5700、総檀家数約70万軒にも達したとのことである。
これらの檀家への今でいう営業活動は、御師の重要な仕事となっていた。また、各宿坊は、講・檀家から奉納された玉垣で囲まれているが、神社仏閣以外の宿坊が玉垣で囲まれている姿は珍しいとのこと。
また、宿坊の内部には大きな神棚も備えられている。
その他石尊権現に参詣する前に身を清めた水垢離の滝は、良弁滝、禊の大滝、愛宕滝等があり、そのいくつかはバス通り沿いに見ることができる。

蓑毛の街並み

秦野駅から蓑毛行きのバスに乗り、蓑毛の4つほど手前の小蓑毛バス停で下車するとかつて参詣者を迎えた石の鳥居と常夜灯がある。
この常夜灯は、夏、登拝門が開扉されている期間は火が灯されていたという。
ここ蓑毛は、江戸時代初期、表参道と同様、修験僧が山を下り、御師として宿坊などを経営していた。
蓑毛の宿坊は、主に駿府、伊豆、小田原また足柄峠を越え矢倉沢往還を通ってくる甲信越、富士講の参詣者に対応していた。
金目川(春岳沢)に沿ってヤビツ峠方面へ10分ほど登ったところに建物があったとおもわれる跡が残っており、ここは「元宿」といわれ、元禄年間には宿坊が十五軒程あったという。
明治10年頃の絵地図によると元宿には、家屋が画かれておらず、地番だけが記されていることから、明治の初めには、何らかの理由で宿坊は既になくなり、今の「御師の里」あるいは他の場所へ移転したと思われる。
現在、「御師の里」といわれている街なみは、「かながわのまちなみ100選」に選ばれているが、現在は当時の面影がかなり薄れ、庭に講中の石碑や常夜灯がある家が何軒か見受けられる程度である。
宿坊の数も表参道大山町の1割程度だったうえに、1927年(昭和2年)小田急が開通し、伊勢原停車場が大山への玄関口になったためだと考えられる。
また蓑毛宝蓮寺の境内には、仁王門、大日堂、不動堂や御嶽神社等の寺社建物もあり、中には国登録有形文化財(建造物)や秦野市指定重要文化財に指定されている建物、仏像もある。これらの寺院なかには資料も少なく不明な点も多いものの山岳信仰の密教寺院として整備されたものもあるといわれている。

ミニ知識

阿夫利神社秋季例大祭

明治時代初期から毎年8月27日から3日間おこなわれている。
27日遷幸祭(お下り)神輿が下社から社務局まで男坂を担がれ下られる。
28日祭典倭舞、巫女舞、能狂言の奉納。
29日還幸祭(お上り)神輿が社務局から下社までお戻りになる。

大山の豆腐料理

農閑期には宿坊の恩師による檀家廻りがおこなわれていた。
恩師からは、お札、お守り、木工品等が配られ、檀家からは初穂料として金子のほか農産物が納められたという。このうち大豆は大山に持ち帰り大山詣の客に精進料理の一品として提供されることになったとのことである。
加えて豆腐作りに適した大山の環境もあり、今でも宿坊街では豆腐料理の看板が掲げられ、観光客、登山者に提供されている。

「大山詣り」と大山夏山開き

大山御師の布教活動により関東一円に及ぶ大山講の信仰圏が形成され、最盛期には百万戸を超える檀家があった。
江戸時代中期(18世紀中頃)になると庶民の間に寺社参詣を兼ねた物見遊山が流行となり、江戸から近く、手形が不要な大山は、人気を博し、講を組織して大山を目指した。
大山参詣の期間は、旧暦の6月27(26)日(新暦7月27日)から7月17日(新暦8月17日)までの20日間であり、この期間のみ男性に限り頂上への登頂が許された。
当時の江戸の人口百万人の時代に20万人の参詣者が訪れたと伝えられている。
現在も新暦の7月27日に、夏山開きの儀式が行われているが、この儀式は元禄年間以来、日本橋小伝馬町のお花講の人々の手によって行われている。

各地に残る大山道

江戸時代、大山詣が盛んになると各地で組織された講から送り出された参詣者が大山に向かって移動した。
当時、夏山の20日間に20万人が参詣したと伝えられているように街道はかなりの賑わいだったと思われる。
当時の街道の様子や山内の水垢離また来迎谷から見える富士山の姿は多くの浮世絵に描かれ、大山詣を題材とした落語もある。
また、大山詣は、伊勢、富士山詣に比べて日数も少なく、手形も不要で参詣の帰りには江の島に寄るなど一種の物見遊山の要素もあった。
大山への参詣道は、東側からの参詣道と西側からの参詣道があり、これらは伊勢原の表参道、秦野蓑毛の裏参道へと集約された。
房州、伊豆等からの海路での参詣者はそれぞれ横浜、小田原で陸上の道に合流することになる。
当時、主な参詣道は、8ルートといわれており、例をあげれば、東海道を藤沢で別れ、相模川の田村の渡しを使う田村通り大山道、赤坂御門から矢倉沢往還を通り、厚木の渡しを使う青山通り大山道、小田原から酒匂川の渡しを使い秦野、蓑毛に至る六本松通り大山道等がある。
これらの参詣道には鳥居や、道標としての石柱が設置され、今でもその多くが残っており、「いせはら文化財サイト」によれば、伊勢原市だけでも102基について現物確認されている。
参詣者は、これらの道を通り大山山頂へと向かった。

まつわる話

女坂の七不思議

表参道の女坂には、「女坂の七不思議」といわれる場所があります。それぞれの場所には説明板がある。
①弘法水 ②子育て地蔵 ③爪切地蔵 ④菩提樹 ⑤無明橋 ⑥潮音洞 ⑦眼形石

ルート

【表参道】
大山ケーブル駅バス停
↓ 15分   ↑ 10分  0.6km
ケーブル駅
↓ 45分   ↑ 30分  0.9km
阿夫利神社下社
↓ 45分   ↑  30分  0.8km
16丁目
↓ 35分   ↑ 30分   0.7km
25丁目
↓ 15分   ↑ 10分   0.3km
大山山頂
↓ 10分   ↑ 15分   0.3km
25丁目
↓ 30分   ↑ 35分   0.7km
16丁目
↓ 30分   ↑ 45分   0.8km
阿夫利神社下社
↓ 20分    ↑ 25分   0.8km
大山不動
↓ 15分    ↑ 20分   0.5km
ケーブル駅
↓ 10分   ↑  15分   0.6km
大山ケーブルバス停

【裏参道】
蓑毛バス停
↓ 50分    ↑ 35分   1.4km
蓑毛越前分岐
↓ 10分    ↑ 10分   0.2km
蓑毛越
↓ 55分    ↑ 40分   1.4km
表参道16丁目

【裏参道・御拝殿道】
蓑毛バス停
↓ 50分    ↑  35分   1.4km
蓑毛越前分岐
↓ 10分    ↑ 10分    0.2km
蓑毛越
↓ 30分    ↑  30分   1.2km
阿夫利神社下社

アクセス

◎公共交通機関
・表参道:小田急小田原線 伊勢原駅下車  神奈中バス「伊勢原駅北口」「大山ケーブル」行乗車、終点下車(25分)
・裏参道: 小田急小田原線秦野下車、 神奈中バス秦野駅北口4乗り場ヤビツ峠、蓑毛行き乗車 「蓑毛」下車(22分)
◎マイカー
・第2東名高速・伊勢原大山ICから 県道611号線→ 大山方面
・東名高速・秦野中井IC から県道71号線→県道70号線 →蓑毛方面
◎駐車場
・大山ケーブル駐車場(公営・民営)
・蓑毛自然観察の森駐車場(緑水庵) 5台程度

参考資料

・川島敏郎「大山詣り」 有隣新書
・阿夫利神社HP
・神奈川県伊勢原市「日本遺産ガイドブック」
・「大山」小田急電鉄発行
・秦野市HP
・伊勢原市HP「いせはら文化財サイト」
・松尾俊郎「集落地名論考―登山口集落としての大山町とみの毛 」昭和38年
・宮崎武雄「相州大山今昔史跡めぐり」 風人社
・明治初期の古地図(はだの歴史博物館所蔵)

協力・担当者

《担当》
日本山岳会神奈川支部
葉上徹郎
《協力》
一般社団法人伊勢原市観光協会専務理事・事務局長
志村 功
秦野市 はだの歴史博物館館長
大倉 潤
(敬称略)

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