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6 岩木山古道

岩木山古道

津軽にそびえる岩木山は、古くから津軽地方での信仰の対象でした。
中世以前からお山参詣が行われていたと伝えられ、4本の古道があります。
山麓の南東にある百沢口(ひゃくざわぐち)、北東の大石口(おおいしぐち)北西の長平口(ながだいぐち)、南西にある嶽口(だけぐち)からの参拝道です。
中世にはこれらの山麓から登拝が行われていましたが、近世には津軽藩によって百沢口からの登拝に絞られていました。
明治以降は神道化しましたが、いまも伝統的な「お山参詣」が続けられています。

古道を歩く

長平口参詣道

長平口(ながだいぐち)から山頂へ登ります。
公共交通機関もなく距離も長いため、あまり利用する登山者はいません。
岩木山環状線北西部から2kmほど山の方へ上がると、青森スプリングスキーリゾートの広い駐車場があり、その南側奥に長平コースの林道入り口があります。長平コースの案内板があります。
案内板には、「比較的勾配が緩やかで山頂までは約4時間半で登頂できます」と記載されていますが、登山道の所々に笹が生い茂り行く手を遮るため、刈払いが行われていない場合は想定以上の時間がかかります。
また「長平コースは昭和30年代まではお山参詣や薪炭作業道に利用されてきた地区の重要な里道です。岩木山北斜面のスキー場と大鳴沢の稜線を登れば、眼下に日本海、津軽平野、遠くに北海道、西には白神山地を望むことができます」ともあり、距離は長いものの、魅力的な山道です。

入口からは砂利の林道が続きます。
10分ほど進んだところで二手に分かれますが、左折し、東へと進み、ブナの森の中、なだらかな尾根道を行くと、15分ほどして右手に苔むした姥石らしき石とその前に祠があります。
さらに15分ほどですすきの原の石神神社に着きます。
といっても、石神神社の木製の祠は倒壊しており、石塔や石像、「石神様」の看板や石柱が立っているだけでした。
(途中の羽黒清水は不明)

古道は石神神社の前をまっすぐ進みます。
(右手の大きな石の山側に道があり、その急登を上がると祠が残っていますが、こちらは鍋森山の道で岩手山山頂への道ではありません)
10分ほど行くと山籠所が建つ長平八十八ヶ所に到着します。
西側に折れる道を上がっていき、十数分ほど歩くとスキー場に出ます。
ここは鰺ヶ沢の街やその先の日本海が見えるビューポイントです。しばらくスキー場の中を歩きます。

10分ほどで遭難の石碑(大館鳳鳴高校慰霊碑)があります。
さらに20分ほど上がったところ、スキー場の南東の端から登山道に入ります(スキーリフト鉄柱の脇に道がありますが、ややわかりづらい)。
急登を10分ほど行くと神様の池(種蒔苗代)です。
池と言っても実際は水が少なく、水芭蕉が生い茂っているのでそれと気付かされます。ここからは山頂が望め、祠のすこし上流には清水があっておいしい水が汲めます。

ここを過ぎると古道は徐々に笹と灌木帯に変わり、さらに急登を40分ほど行くと森(西法寺森)から出て視界が開けますが、再び深い森の中に戻る、という行程をさらに30分間ほど繰り返します。
その後苔むした岩の急登を、熊笹をかき分けながら1時間ほど進むと山頂へ向かう岩木山スカイライン八合目駐車場からの登山道と合流し、岩場の左端(北側)に出ます。
山頂付近は、右側通行になっているので下山する登山者に注意して進むとやがて山頂に到着します。岩木山神社奥宮の祠が鎮座しています。

百沢口参詣道

岩木神社から山頂に向かう百沢参拝道は下りに利用しました。
岩木山神社に通じているため交通の便が良くて登山者も多く、いまも「お山参詣」の道として利用されています。
このコースの下りは、焼止まりヒュッテまで沢沿いに大小の石が点在して急な下りが続くので注意が必要です。中腹の焼止まりヒュッテを越えると樹林帯で比較的良好な道になります。

山頂の岩場から長平コースの分岐点の道標を過ぎ、さらに二の御坂を下ると鳳鳴ヒュッテという避難小屋があり、ここから右はリフトを経て八合目駐車場への道となり、左手が百沢ルートになります。
この先に種蒔苗代という池が見えます。風穴、御倉石、鳥ノ海は岩陰のため見えません。
大きな岩をまいてリフトのある方に行くのは嶽ルート(一の御坂)です。
百沢ルートは池の先を下り、百沢の町を眼下に見ながら沢沿いの岩場を下ります。

20分ほどで「錫杖清水」です。水が勢いよく出ていておいしく飲めます。
そのまま沢沿いの岩場を20分ほど下ったところに「坊主ころがし」と呼ばれる急坂があり、その先が焼止まりです。
引き続き大小の岩がゴロゴロした道を下り、沢を渡り、右に曲がると焼止まりヒュッテ(避難小屋)に到着します。
ここからは樹林帯となり1時間ほど下ると姥石です。
山の中腹はブナの森が深くなり周囲の見通しはきかなくなります。鼻こくりという急坂、カラスの休場を経て、姥石から40分ほどで七曲からスキー場にぬけます。

スキー場の下、桜林公園の真ん中にまっすぐの道が通っていて、周囲には石碑や石像が点在しています。

さらに道を下ると杉林となり、灯篭を過ぎた左手側を登ると岩木山神社社殿に通じます。
一の鳥居まで来てふりかえると、鳥居越しに岩木山が鎮座しているように見えるのが確認できます。

大石口参詣道

大石赤倉登山道を登るコースです。
距離が長いためか利用者が少ない登山道です。
所々に観音像が祀られ、信仰の痕跡が数多く残る道です。
山の中腹まで石段があり、風雪にさらされて傷んだ像を修復した跡、寒さをしのぐ服を着せた像なども見て取れ、地元の人々の信仰の篤さが感じられます。
このルートには水場がありません。登山時間は3時間半程とされますが、傾斜のきつい登り道のため更に時間を見込むことが賢明です。

岩木山環状線から大石神社方面への細い道を1kmほど上がると、広い駐車場があります。タクシーはこの辺りまでです。大石神社の1km先、赤倉コースの登山道手前にも駐車場はありますが、そこまでの道が砂利の悪路です。
大石神社駐車場の先には竜神信仰を示す龍が絡みついた特徴的な鳥居があり、それに連続して赤い鳥居が立ち並んでいます。また馬を祀った社が驚くほど多数あります。

そこから15分ほど登ると、赤倉大山神社の鳥居があります。鳥居の右手には八十八か所巡りの石像が置かれています。
古道は神社左手を進み、そこを抜けて川を渡ると本格的な登山が始まります。ひと登りで尾根に到着します。
ここには寛永通宝を括り付けた後生車の木柱が何本も立つほか様々な石像が置かれています。

ここを通り過ぎてしばらくはブナの森をほぼまっすぐ登ります。
道の端や時には真ん中に、三十三観音の番号が刻まれた石仏があり、これらの石仏は山頂近くまで置かれています。

1時間半ほど行くと九番観音像と伯母石があります。ここから先は苔むした大きな岩をよじ登りながら進みます。
40分ほどで森から抜けて、十五番観音像を過ぎると鬼の土俵に到着です。

この辺りからは背の低い木に植生が変わって、時々ふもとのほうが望めます。
「大開き」は地図と違って少し上のほうにあり(鬼の土俵から40分ほど)、赤倉沢の谷が見えます。さらに1時間ほど急登をいくと赤倉山、そのあたりから巌鬼山までは石仏や岩の間を抜けていく、いくらか緩やかな登りとなり、やがて聖観音に到着します。
最後に再び岩のわきにある草をつかみながら登るような急登をぬけると、岩木山山頂です。

嶽口参詣道

嶽コースは下りに利用しました。
鳳鳴ヒュッテの前が分岐点で、左に行けば百沢ルートですが、右が嶽コースです。
岩場を少し登り下りする登山道脇には、雪解け後の時期にはミチノクコザクラを観ることができます。
鳥の海噴火口を左に見て回り込めばリフト乗り場との分岐点です。
まっすぐ行くとリフト乗り場ですが、右に行く登山道を下ると20分もかからずに八合目駐車場に着きます。

リフト乗り場を左に見て回り込めば嶽コースへの登山道があります。
急な階段状の登山道を下ると間もなくブナの樹林帯に入り、1時間ほど下ると巨木の森との分岐点に出ます。
ここから登山道は少し広くなり40分ほどで羽黒温泉との分岐です。
さらに10分ほどで赤い鳥居をくぐれば嶽温泉に下山します。

嶽登山道は、標高560mの嶽温泉から登るので他のコースに比べると比較的楽なコースです。8合目までブナの樹林帯で展望はありませんが標高800m付近までは広くて歩きやすく森林浴を楽しみながら登られます。その後は少し急登になりますが、8合目は岩木山スカイラインの駐車場でバスが運行しているので非常時には利用できます。

この古道を歩くにあたって

長平登山道はスキー場駐車場からの取り付き点が分かりづらいので注意が必要です。また刈払いが行われていない場合は想定以上の時間が必要です。
百沢登山道は焼止まりヒュッテから上は沢沿いに大小の石が点在して急な登りが続くので注意が必要です。また残雪時は雪の状態によってはアイゼンを使用した方が安全です。
大石赤倉登山道のコースタイムは3時間半程と記載されていますが、長く傾斜のきつい登り道のため更に時間を見込む必要があります。
また、下りが心配な場合は岩木山スカイラインを使って嶽温泉に下山した方が賢明です。
嶽温泉からのバス便も少ないので要注意です。

古道を知る

中世もご神体として崇められていた

津軽平野の独立峰でまわりに山はなく、長い裾野を引いて立ち上がり、頂きは3つに分かれて漢字の山に似ている岩木山。富士山に似た山容の美しさから、津軽富士ともよばれ、山そのものがご神体と崇められ、「御山(おやま)」「お岩木様」と尊称され、山岳信仰の対象となった。岩城ともいわれるように、頂上部は石の城のような景観となっている。
3つの山頂の最高峰が中央の岩木山で、南は鳥海山、北は巌鬼山(がんきさん)(別名、赤倉山)という外輪山からなる。山頂には岩木山神社の奥宮(オムロともいう)、南麓の百沢にはその里宮である下居宮(おりいのみや)があり、主祭神は顕国魂神(うつしくにたまのかみ)・多都比姫神(たつひひめのかみ)・宇迦能売神(うかのめのかみ)など五柱。
もともとは北麓の十腰内(とこしない)にあった下居宮から登る参詣者が異変に遭遇することを避けるため、寛治5年(1091年)に百沢へと遷宮したと言われている。山上に憩う山神が下に居り社に常在したのが下居宮で、神仏習合の時代、真言宗百沢寺の僧侶が包摂し、密教の道場だった。

近世は津軽藩の影響下

近世には幕藩権力との結びつきを強くする祈祷寺として真言五山の筆頭であり、藩主家と藩国家の守護神であり、祖霊のこもる山でもあった。ただし、怪異の頻発する霊域のために武家の登山は禁止されていた。
出羽三山のような広域な信仰圏は持たず、講や代参講の存在もみられないが、旧津軽領の集落で「お山参詣」を行わない町村は一つもないとされ、男性の成人儀礼の対象となってきた。
岩木山の3合目あたりに水の湧出地が多数存在し、その多くは岩木川に注ぎこみ、弘前平野の有力な水源地となっている。その中で北東麓の「鬼沢」あたりは、涸れ沢の末端に位置するため水不足に悩み、巖鬼山の3合目水源地から8kmの水路を引く灌漑事業が天文12年(1543年)に行われた。鬼神堰と言われるこの堰によって、鬼沢は弘前市で最も農業生産の高い穀倉地帯になった。水が下から上に流れているように見える箇所がいくつもあるため、「逆さ堰」ともいわれている。

近代も続く伝統的参詣

明治2年(1869)に神仏分離が行われ、権威を誇ってきた百沢寺は翌年別当職を罷免され、下居宮は下居神社(岩木山神社)となった。それまで「境内」だった岩木山全体の所有も官有地に編入された。
同時に岩木山は民に開放され、明治6年旧暦7月15日、女人禁制を破って兼平亀綾(60歳、弘前市親方町)という歌人・画家が女性として初めて登っている。
男性の通過儀礼である「お山参詣」(ヤマカゲ)は、現在もなお途絶えることなく続けられている。

深掘りスポット

岩木山神社と百沢寺

百沢登山道は、岩木山神社の参道を通って拝殿の左手を抜けていく。現在の境内は、江戸時代、神仏習合の時代は下居宮の境内であり、下居宮の事務を司る別当寺院として真言宗の百沢寺があった。現在の本殿が下居宮、拝殿が大堂、楼門は山門。大堂には中央に阿弥陀如来、右に観世音菩薩、左に薬師如来、さらに四天王像が、そして山門の上には観世音菩薩と五百羅漢が安置されていたと考えられている。
明治3年(1870年)に百沢寺・十坊・社家が廃され、3年後には下居宮であった岩木山神社が国幣小社とされ、山頂の本尊や各堂内の仏像は神像へと交替していった。お山参詣以外の時期でも山頂に向かえるようになり、女人禁制が解かれた。明治時代に鉄道が弘前を通ると、鉄道を使う参詣者が増えた。
弘前市西茂森の長勝寺(ちょうしょうじ)境内の「蒼龍窟(そうりゅうくつ)」にある阿弥陀如来・観世音菩薩・薬師如来が百沢寺にあったものといわれている。五百羅漢の一部もある。
現在の社務所は百沢寺の書院で、その奥に本堂があった。
参道両脇には神官安倍氏と神官山田氏の屋敷、そして百沢寺の脇坊にあたる十坊の屋敷があったが、現在は土塁のみとなっている。十坊の僧侶は10人とも還俗し、一般人となった。
近世に民衆へ参詣が広がった理由のひとつとして、百沢寺や配下の十の寺庵(十坊)らが、津軽ほぼ全域へ「引札」を配布するなどの布教活動をしていたこともあげられる。当時の参詣はリーダーである「先達」が参詣者「導者」たちを率いて登拝し、旅籠や木賃宿の賄料を集めた。藩政時代に主に使われていた百沢コースでは、「姥石」「錫杖清水」「体内くくり」「風穴」「種まき苗代」などの名所があり、水・茶菓子・果物が売られており、「枝松」「けたて」「せんふり」を採取して売るものがいたこと、御幣の紙を盗み取る者がいたとの記録もある。
岩木山神社境内にある歌碑「富士見ずば富士とや言はん みちのくの 岩木山の雪のあけぼの」は、詠み人知らず、一説には西行法師・藤原定家の作とも言われる。

求聞寺

百沢の岩木山神社に向かって右手の標識を入っていくとほどなく山門への石段がある。
寛永2年(1625年)津軽2代藩主信牧が津軽家と領民の安泰、子孫長久、国土豊穣を祈願して求聞持法の荒行を行い、寛永6年に念願成就したために虚空蔵堂(求聞持堂)を建立したことに始まる。丑寅生まれの一代様、津軽33霊場の第3番札所としても知られる。

大石神社と赤倉神社

赤倉沢はゴミソ(巫女)の修行場で、今でも地元で「カミサマ」と呼ばれて霊能を修行する女性が集まる。
大石神社周辺は草刈り場で、山火事の多い場所だった。ご神体は2つの巨岩でその前に平らな磐石があり、子授けや縁結びにご利益がある。石馬、木の馬が祀られた馬小屋が多く建つ。慶長年間に弘前藩祖津軽為信が勧請した十一面観音が残る。
赤倉神社の祖とされる宝泉院は200m山頂側の谷間にあり、1000年前の礎石が残る。

巌鬼山神社(がんきさんじんじゃ)

観音林(かんのんばやし)の中に広大な神域(130ha)をもつ。巖鬼山縁起書(延暦15年(796年)草創)によると、本尊は巖鬼山大権現、すなわち観世音菩薩で旧十腰内(とこしない)観音堂。大同2年(807年)蝦夷地征討に下向した坂上田村麻呂が霊験をこうむって津軽鎮護に祀ったことによると伝える。近江国篠原の領主、花輪某(年代不明)が、敦賀から深浦に上陸し、山麓に占拠して人民を悩ました魑魅を、山中に籠って山神に加護を祈ったところ託宣を受けて征討できたため、観音院を建立して祀ったという。文安5年(1448年)山火事で焼失後、寛正4年(1463年)再建。慶長9年(1604年)、津軽信近が十一面観世音像を寄付して本尊とした。青銅製の鰐口は現在も残る。二本の大杉は県天然記念物に指定されている。

鬼(き)神社

赤倉山の鬼・山人・大人(やまひと・おおひと)を祭神にし、彼らが使った蓑・笠・鍬を御神体にして鬼沢地区に創建された神社。鬼神太夫を名乗る刀鍛冶がかつて住んでおり、彼の打った剣を祀りこめたのが鬼(き)神社とも伝わる。妖怪変化の鬼というより山に住む異人と理解されている。旧暦1月15日には、七日堂(なぬかどう)祭りにて、相撲のまわしをしめただけの裸の若者ら十数名が、重さ70kg、長さ20mの注連縄をかつぎ、雪を踏みしめて神社の鳥居に奉納する。大きな餅や供え物をかついで拝殿に供えて豊年と無事息災を祈願する。おみやげはにんにく。集落の節分には豆まきはせず、端午の節句に軒にしょうぶをささないという風習がある。宝物は、鉄製鍬形・扁額木製・鏡鉄製丸型・小太刀鉄製・矢竹及鉄製矢の根桝葉、鬼面、陣太鼓。

百沢街道

弘前城下から岩木川を越えて、百沢にある下居宮(現在の岩木山神社)への参詣道として発達したのが百沢街道で、現在の県道3号、弘前岳鰺ヶ沢線とほぼ重なっている。鰺ヶ沢町にあり南部光信が本拠とした種里城と、光信の跡を継いだ大浦盛信の居城である大浦城を結ぶ鰺ヶ沢街道をもとにしたと考えられる。百沢の西にある嶽温泉は延宝8年(1680年)、弘前藩4代藩主津軽信政により開かれ、湯治にも使われた。元禄年間(1688~1704年)から植樹がはじめられた杉並木が部分的に今でも残っている。樹高8~18mのアカマツとアイグロマツ併せて63本で樹齢150年から300年と推定される。平成11年(1999年)、「百沢街道および高岡街道の松並木」として青森県指定天然記念物とされている。

ミニ知識

お山参詣(ヤマカゲ)

旧暦7月25日から8月15日の間(特に旧暦8月1日)に、男性が岩木山神社奥宮に参詣し、五穀豊穣を祈願するという風習。津軽地方で男性が成人になるための通過儀礼の意味を持つ重要な行事。
参詣に先立って集落内の神社や宿に籠って精進潔斎を行う。
その期間は地域によって異なるが、遠方ほど長期間に及んだ。
そして、山頂をめざすときは、白装束、鉢巻は白か赤、大幟(おおのぼり)、御幣(ごへい)・供物(鏡餅・野菜など)を担いでサイギ、サイギと唱えながら登り、供えた。
下山の折には五葉の松を一枝とって帰る。門口にさしておき、雷除けの呪いとするといわれるが、神の憑代としての意味がある。集落に戻るとオブスナ神へ参拝し、村人全員で神社または宿へ集まり、無事を祝って酒盛りをしたあと、五葉の松の枝とお供えを刻んで各戸に配る。
岩木山から半径15km以内では5歳以下の男児が「氏子入り」の目的もあってお山かけを行い、岩木山を産土神として崇めている。半径15~30kmでは10歳前後の少年、それ以遠の地域では15~20歳と年齢層が上昇した。
現在の「お山参詣」のイベントは3日間を通して行われ、初日の向山(むかいやま)は各村を出発した日で、弘前市岩木事務所から岩木山神社までを歩いたり、神社周辺には露店が立ち並ぶなど、様々な催しが行われている。
二日目の宵山(よいやま)では白装束に身を包んだ参拝者が岩木山神社でお祓えを受け、登拝安全の祈願をし、御幣や大幟を掲げて練り歩く。
三日目の朔日山(ついたちやま)では、参拝者は岩木山の山頂を目指して未明に出発する。登拝者は暗いうちに山頂に着き八甲田山からのご来光を待って柏手を打ち拝礼する。下山後は精進落としとなる。
お山参詣は国の重要無形民俗文化財に指定されている。

岩木山碑と模擬岩木山

東北地方では飯豊山碑、湯殿山碑など、山岳信仰に基づく石碑を多数確認できるが、岩木山では山麓の里宮以外で末社や石碑が少ないといわれている。津軽地方のどこからでも眺めることができるからとも、民衆の自発的意思によって参詣され、御師の介在がないことによるとも考えられる。津軽藩の庇護があるために別当の百沢寺(現岩木山神社)が御師の活動を行わなかったという政治的背景もある。末社は少数ながらも存在し、また岩木山に見立てた小山や丘(模擬岩木山)も津軽半島にかけて知られている。お山参詣も本山の代わりに行われる。

赤倉信仰

「赤倉山(岩鬼山)」を神体として鬼神である「赤倉大神」を崇拝する信仰。
「瑞穂教 赤倉山神社」のホームページには、赤倉山神社を霊場として「津軽地方でカミサマと呼ばれる人たちの修行場、霊地として知られています」とある。
近代以降,修行の場所として赤倉を起点にし,昭和初期頃に堂や小屋等が造られた。
一時期、津軽の人びとの間に広まり、岩木山信仰の一大勢力となった。

岩木山の地理

富士山をはじめ、羊蹄山・岩手山・開聞岳など○○富士を呼ばれる火山はみな、第Ⅰ期の成層火山で、岩木山もその仲間である。過去数十万年間かけて大規模な溶岩流や溶岩ドームの形成によって成層火山を形成し、また、岩屑なだれの発生を伴うような山体崩壊も数十万年間隔で経験してきた。岩手山は歴史時代の噴火は規模が小さく、顕著な火山噴火の兆候がみられないにもかかわらず、日本の中でもいち早くハザードマップを作成した火山の一つである。
昭和50年(1975年)8月5日から7日にかけての寒冷前線の南下に伴う豪雨災害によって、土石流が発生し、百沢地区で死者22名という被害が発生した。

まつわる話

山椒大夫と丹後日和

説教節という江戸時代初期に人気を博した民衆芸能があります。その一つに「さんせう太夫」という話があります。
岩城判官政氏(いわきのはんがんまさうじ)は、讒言によって失脚したため、その子安寿姫、姫の弟の厨子王、二人の母と下女ともに彷徨します。母と下女は佐渡ヶ島に売られ、安寿姫と厨子王は丹後国の由良の長者である山椒大夫に売られます。安寿姫は山椒大夫に迫害され責め殺されます。厨子王は逃げのびてのちに立身出世し、山椒大夫に報復する
という物語です。森鴎外の小説「山椒大夫」でご存じの方も多いかもしれません。
津軽地方では、ここに登場する安寿姫を岩木山の神として祀っています。これは安寿姫と厨子王の父が岩城判官正氏という名前であるため、岩城が岩木山と結びついたことから言われています。そして、丹後出身者が岩木山に近づくと悪天候になるという伝承「丹後日和」が伝えられています。津軽藩はこれを重視して、悪天続きになると領内で丹後の船や人物を探し出し、領地外に追放という通達を出すこともありました。
岩木山の神となった安寿には別の話も伝わっています。安寿と厨子王丸は、どちらが岩木山の神になるかを決めるため、岩木山の山頂まで競争することにしましたが、途中にある大坊の熊野神社で神楽を見物しているうちに厨子王丸が眠ってしまい、そのすきに安寿が山頂に到着して岩木山の神になりました。そのため、大坊の人たちは厨子王丸に同情して岩木山には登らないといわれています。
「岩木山考」(著者・成立年代不詳)によると、丹後日和がさらに肥大化して丹後人にかかわるこまかな禁忌まで生じています。海を隔てた松前藩の役人も宿改めに利用していました。逆に、南部地方では、丹後日和は知られていません。

岩木山の怪火

長平の巳之助は、秋に隣近所の人たちと山へ草刈りに出かけました。仕事が進まず、山の中で野宿し、明け方4時頃に仕事にとりかかろうとした時、突然大きな火の玉が飛んできて、向こうの峰にぶつかったと思うと大音響とともに砕け散り、山の中は真昼のごとく明るくなりました。火の玉は再び一つに固まって北東の空へ飛び去って行きました。
文化2年7月に実際にあった話で、火の玉を見たのは巳之助だけではないとのこと。

岩木山のコブ

東岳と八甲田山がけんかをして、八甲田山が刀で東岳の首をはねました。首は西に飛んでいき岩木山の肩に落ちてくっついてしまいました。いま岩木山の肩にコブがあるのはその首とのこと。

鬼のお話

岩木山にある「あそべの森」で鬼がすんでいたことが都に伝わり、篠原の国司、花の長者の子である花若麿が奥州勢を集め卍と錫杖を旗印として鬼神を退治した。麓に下ると100歳の老婆がひとりの娘を連れて現れ「これからは人間に決して悪さをしませんので、娘だけは助けてほしい」と懇願した。そこで誓約書を書かせて山中の赤倉に住まわせたとさ。
赤倉山の鬼神・山人・大人(きじん・やまびと・おおひと)は相撲好きで鬼沢集落の弥十郎と相撲を取って交流を深め、弥十郎の従事する農耕の手伝いをして、水不足に悩む弥十郎の願いを聞いた鬼神らは巨大な鍬を用いて一晩で堰をつくったという。

ルート

長平口参詣道

長平登山口
↓60分 2.3km ↑ 50分
石上神社
↓80分 2.3km ↑ 60分
神様の泉
↓120分 1.9km ↑ 90分
岩木山山頂

百沢口参詣道

岩木山神社
↓70分 3.5km ↑ 125分
姥石
↓40分 1.3km ↑ 50分
焼止まりヒュッテ
↓60分 1.2km ↑ 90分
鵬鳴ヒュッテ
↓20分 0.5km ↑ 30分
岩木山山頂

大石口参詣道

赤倉神社駐車場
↓25分 0.8km ↑ 20分
行者小屋
↓70分 1.7km ↑ 50分
伯母石
↓40分 0.6km ↑ 30分
鬼の土俵
↓80分 1.3km ↑ 60分
聖観音
↓50分 0.8km ↑ 40分
岩木山山頂

嶽口参詣道

嶽温泉
↓50分 2.2km ↑60分
巨木の森分岐
↓60分 1.6km ↑ 90分
八号目駐車場
↓25分 1.2km ↑ 40分
鵬鳴ヒュッテ
↓20分 0.5km ↑ 30分
岩木山山頂

アクセス

長平登山口:弘前駅から車で約30km、利用できる公共交通機関なし
岩木山神社:弘前駅から車で約15km、弘南バスで弘前駅から約55分
赤倉神社:弘前駅から車で約33km、利用できる公共交通機関なし
嶽温泉:弘前駅から車で約22km、弘南バスで弘前駅から約60分
弘南バス《岩木山線》
弘南バス《岩木シャトルラインスカイバス》

参考資料

弘前市史編纂委員会「弘前市史 藩政期」名著出版 1973年
長谷川成一監修「新編 弘前市史 通史編 岩木地区」弘前市岩木総合支所 2011年
鰺ヶ沢町史編纂委員会「鰺ヶ沢町史 第二巻・第三巻」鰺ヶ沢町 1984年
小館恵三「岩木山信仰史(青森県の文化シリーズ 2)」北方新社 1980年2月
長谷川成一「津軽藩の基礎的研究」国書刊行会 1984年
金子直樹「岩木山の宗教景観について」
和歌森太郎「津軽の民俗」吉川弘文館 1970年
山上貢「新編 津軽三十三霊場」陸奥新報社 1973年7月
桜井冬樹「鰺ヶ沢・深浦町史こぼれ話」青森コロニー印刷 2007年3月
畠山篤「岩木山の神と鬼」北方新社 2016年
品川弥千江「岩木山」東奥日報社 1968年12月
刊行会編「岩木山を科学する」「岩木山を科学する2」北方新社 2014年 & 2015年
西海賢二・時枝務・久野俊彦「日本の霊山読み解き事典」柏書房 2014年
とよだ時「日本百霊山」ヤマケイ新書 2016年
坂本大三郎「山の神々」エイアンドエフ 2019年

協力・担当者

《担当者》
日本山岳会青森支部
須々田秀美 中山慶治 遠藤智久 鈴木幹二
日本山岳会山岳古道調査プロジェクト本部
谷島綾子 高橋潤一

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