single-kodo120selections

日本山岳会が選ぶ「日本の山岳古道120選」

30 八十里越え

縄文に遡る奥会津と越後を結んだ歴史の道

八十里越えは会津から越後中央部へ通じ、中世から大正初めまで使われた山岳街道でした。
八十里越えは中世までの一里の長さで、八十里の長さから呼ばれましたが、越後側では近世になると、険しさから八里の道を八十里と呼ばれるようになりました。
3本のルートと1本の間道が知られており、天保14年(1843)改修ルートを近年は「天保古道」と呼び、明治13年(1880)新設ルートは「明治中道」、明治27年(1894)再新設ルートは「明治新道」と呼ばれています。
加えて北側の間道が大谷真奈川線です。
歴史では治承4年(1180)に高倉ノ宮以仁王越後落ちの伝説があり、戊辰戦争の時は長岡藩や家老の河合継之助が会津へ越えています。
天保14年に改修されると物流が盛んになり、只見地方は会津より越後との交流が多くなるほどでした。
明治後期には明治新道が一等水準測量され、大正3年(1914)に陸地測量部の50000/1地形図に掲載されています。
岩越線(磐越西線)の開通により、荷駄の通行が激減し衰退することになりました。
昭和になっても人々の通行は見られましたが、昭和40年代の只見線の開通や、国道252号線六十里越の開通により通行が途絶えました。
しばらくは山菜採りの道としてしか使われませんでしたが、平成になると只見町などの古道調査も行われ、明治の道の踏破行が、只見側や三条側で行われるようになりました。
しかし平成23年の新潟福島豪雨災害で、多大な損害を受け通行不能になり、八十里越えから足音が途絶えました。
平成25年から只見側と三条側の有志による再調査が行われ、八十里越を国の史跡としてするための行政の調査も行われ、令和8年での指定と開通を目指しています。
※写真は、浅草岳の権左衛門ノ平(ブナ平)に遺る天保古道とブナの巨木林

Page Topへ