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天正18年(1590年)6月、 豊臣秀吉が小田原城北条氏を攻め滅ぼしたあと、奥州仕置のため石田三成をはじめとする多くの軍勢を引き連れて白河から会津若松に入域した道が「太閤の道」といわれるようになりました。
天下統一を目指す秀吉は、領地を侵略し続ける奥州の伊達政宗に対して道作御法度7ヶ条を発し「会津までの街道を三間幅に広げよ」と奥州仕置のための道づくりを命じました。
勢至堂峠には政宗構築の石畳の道が今も残されています。
また、猪苗代湖西岸から山道を登った山頂に「関白平」があります。
地元ではこの山一帯を「背あぶり山」と呼び、戦国時代、葦名氏が砂鉄から鋼(たまはがね)を作ることを広め、精製された鉄がこの山道を越えて会津城下まで運ばれました。「鉄の道背炙峠」といわれる所以もここにあります。
朝、背中に朝陽を浴び、夕、背中に夕陽を受け往来したことでその名で呼ばれ、城下町と農村の物流を支えてきましたが、今は廃道の波が押し寄せています。
※写真は、勢至堂峠。