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戦国時代の末期、毛利輝元が廣嶋城を築城するために、新たな幹線道を造りました。
祖父の毛利元就の居城であった郡山城から新たに廣嶋湾頭に新城を築くにあたり、資材の運搬に適した平坦かつ最短距離の道です。
郡山城(安芸高田市)~向原町~白木町井原~白木町三田~狩留家町~上深川町~馬木町~温品町~廣嶋城(広島市中区)約50㎞の築城の道です。
毛利輝元は、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍の総大将となり、東軍(徳川家康)に敗れ、廣嶋城築城後わずか10年足らずで、防長2州に転封となりました。
徳川政権では福島正則が芸備地方を治めていましたが、元和5年(1619年)に改易となり、代わって安芸国を治めたのが浅野長晟でした。以来明治まで浅野家の統治が250年続きました。
その間周辺の街道の整備が進み、かつての築城の道は市井の人の生活道へと変遷していきました。
※写真は、白木山と鷹ノ巣山の中間くらいにある神ノ倉山(561m)からの撮影。手前が三篠川で向側の山裾を一直線走る道が中郡古道です。