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98 石見銀山街道 

尾道道(やなしお道)

尾道道(やなしお道)は、石見銀山から約9km離れた地点から始まり、約7kmに及ぶ整備された古道です。
世界遺産石見銀山がある大田市大森から広島県尾道市につながる旧街道は「石見銀山街道 尾道道」と呼ばれています。 この銀山街道の中で、美郷町小松地から湯抱にかけては「やなしお道(みち)」と呼ばれており、その由来には様々な憶測があり定かではありませんが、やな(たくさんの)塩を運んでいた道だからという説が有力とされています。
やなしお道は、今から約600年以上前から山陰と山陽を結ぶ主要な道として、そして、江戸時代以降は銀を運ぶ要路として利用されていました。
1996年(平成8年)に文化庁の「歴史の道百選」に指定され、一部は中国自然歩道として整備されています。
街道沿いには、茶屋屋敷跡、一里塚、大名石などがあり、当時の面影を残しています。
歩道の終点となる「やなしお坂」の急勾配のつづら道は、往来する人々や牛馬を苦しめました。
この坂を通る荷役には割増賃金が認められていたと言われ、この坂が銀山街道の大難所であったことが想像できます。
石見銀山地内で銀含有率約80%に精錬された灰吹銀は、尾道道を通って、京都の銀座あるいは江戸銀座へ運ばれ、銀の含有率に応じて買い取り価格が定められました。
当初、年に数回運ばれていましたが、採掘量が減ると年一回、10月下旬から2月上旬にかけて輸送されました。
やなしお道は、クチナシグサなどの希少種をはじめ、イカリソウ、ショウジョウバカマなどの山野草、コナラ、オオウラジロなどの落葉樹や多種多様なキノコ類等、季節に応じて様々な表情を見せてくれます。

古道を歩く

尾道道の出発点は、石見銀山の代官所跡とされていますが、今回は古道「やなしお道」だけを歩く事にします。
公園駐車場、又は、世界遺産センターから、やなしお道の入り口までの約9kmを車で移動します。

登山口に駐車場はありませんので、後述の古道へのアクセス方法のところを参照下さい。

舗装道路のすぐ横に、中国自然歩道入り口があり、ここからやなしお道に入ります。
200mほど先の竹藪の中に、十王堂と茶屋跡があります。
約2km先の鉄塔を目印として、右折し木立の中へ入った辺りが、七本槙(しちほんまき)です。

約1km歩くと、一里塚跡の案内標識がありますが、一里塚は見当たりません。
さらに1km先に、大名が休んだと言われる石と、大名石の案内標識があります。
約500m先が湯抱別れで、湯抱温泉(ゆがいおんせん)に入る自然歩道との分岐点です。
やなしお道は右の道を直進します。
再進坂峠がやなしお道の最高地点で標高は約290m。
やなしお道は、ここから徐々に下り始め、約800m先には街道の崩落を防ぐための人為的な石組みが見られます。

ここからもう少し行くと、やなしお坂にさしかかります。
やなしお坂の途中に古い墓標があります。
謂われは定かではありませんが、古い時代のもので、南無阿弥陀仏と刻まれております。
つづら折れの坂を下って行くと舗装道路に出ます。

この古道を歩くにあたって

起点でもある石見銀山代官所跡から、陸路を(広島県)尾道市まで続いている道ですが、その距離は長く、しかも、当時古道であったルートは整地され埋もれてしまい、現存していません。
古道として残されている「やなしお道」だけが、歩けるように整備されています。
銀山公園駐車場から、やなしお道のスタート地点まで約9kmあり、車での送迎、又は、後述する駐車場からの徒歩となります。

古道を知る

尾道道

尾道道が使われるようになったのは江戸時代に入ってからである。
1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦い後、銀山は徳川家康の支配下となった。
家康は、江戸幕府を開くと、全国の都市や鉱山、森林資源など重要な箇所を直轄地(天領)とした。
石見銀山も貨幣の原料を確保するための直轄地(天領)となった。
17世紀以降、銀の運搬ルートは大きく変化する。
危険な日本海の航路を避け、銀を幕府の財源とするために、採掘された銀は陸路で瀬戸内海側へ運ばれるようになる。
この上納銀の輸送路となったのが尾道道である。
銀は石見銀山(大森)の御銀蔵に集められた後、尾道道を経て、山陽側の尾道港へと陸送された。
尾道で船に積み替えられた銀は、大阪、そして京都銀座・江戸銀座へと運搬されました。
総延長は約130kmに及ぶ長大な街道であり、当時の大輸送隊は、牛馬300頭と人足400人からなる規模で、尾道まで3泊4日の行程で銀を運んだという。
尾道道の一部で、美郷町を通るやなしお道や森原古道などは、江戸時代を通じて銀を運んだ道として、近年国史跡に指定されている。

大久保長安と石見銀山

1601年(慶長6年)、初代銀山奉行として大久保長安が任じられた。
長安は甲斐国の出身だが、徳川家康に見いだされ、石見奉行・佐渡奉行・伊豆金銀山奉行を兼ねていた。
1603年(慶長8年)の春、大森地区で大火が発生し、三千軒もの家屋が焼失した。
これまでは多くの人々が制限なく大森に入り、無秩序に家を建てていたので、一気に燃え広がったと思われる。
長安は大火の後、銀山操業を一時停止し、領民の救済用の救護所を設置した。
一旦救護所へ避難させ、大森の町から人がいなくなると、焼失した建物・区画等を全て打ち壊し大規模な区画整理を行った。大森地区では、新たに引かれた道路、排水路、それから番所・奉行所・武家屋敷などの区画が割り当てられ、建設が始まった。
銀山で働く人々の居住区画も、もちろん別に割り当ててあった。
救護所から戻ってきた人々はこれに驚いたが、抗議しようにも従うしかなかった。
長安が次に指示したのは、銀山の周囲に柵を張り巡らせることだった。
柵の高さは人の背丈を超え、加えて横板も張ったので向こう側は見えない壁となった。
街道から柵の中へ入る所に口留番所が設けられ、役人から審査を受け、銀の持ち出しを管理するようになった。
毛利が支配していた頃に働いていた人は、長安のやり方に反発し、大森の地を去った人も多いという。
石見銀山では有名な長安だが、生涯を通して大森へは6回しか来ていない。
大森銀山は戦国時代の後期には採掘量が減少したが、長安が銀山奉行となった直後から、急激に採掘量は増加していった。
江戸時代になると、大森銀山も他の石見国内の鉱山とともに石見銀山と呼ばれるようになった。
全国の金銀山の統轄、交通網の整備、一里塚の建設など、一切を任せられていた長安であったが、全国鉱山からの金銀採掘量が減ると、不正蓄財の疑いをかけられ、代官職を次々と罷免されていく。
そして1613年(慶長18年)、卒中のため69歳の生涯を閉じた。
長安の死後、謀反を企んでいたという理由で、妻と7人の男児と腹心は全員処刑され、その家財は残らず没収された。しかし、長安が不正蓄財を行っていたという証拠は見当たらない。

銀の運搬ルートについて

1607~1608年以後、天候に左右される日本海を船で運搬するルートをやめ、陸路で尾道まで、そして船で瀬戸内を航行するルートに変更された。
大森から粕淵、九日市、酒谷、赤名をへて尾道へ続く街道は、江戸時代を通じて銀の輸送路となり、銀山街道と呼ばれた。
それまで使用されていた温泉津・沖泊道は、日本海側から船で往来する拠点として、毛利時代に引き続き使われ、温泉津港は北前船の寄港地でもあった。

銀の運搬方法について

石見銀山で産出した銀は、約40kg入りの木箱に収められ、藁で編んだ菰包みにしたものを二箱ずつ馬に負わせ、その上に小旗を立て銀山街道を通って尾道まで運ばれた。
街道沿いに宿場が置かれ、徳川幕府公用の荷物を次の宿場まで送り届ける役目があった。
また、その宿場の近郷の村々にはこれを補助するために無償で労働力や馬を提供する「助郷」という役目が課せられていた。
銀山街道沿いの宿場や村人も、この役目に従い石見銀山の銀を尾道まで、次々に荷継して行かなければならなかった。人馬を提供しなければならない助郷の村々は、耕作もままならず経済的に苦境に陥るなど、大変な負担を強いられた。
また、大森から粕淵に抜ける「やなしお道」や広島県境の赤名峠は街道の難所中の難所といわれ、助郷の村人を苦しめたといわれる。

銀産量の減少

江戸初期にピークを迎えた銀産量は次第に減少していく。
良鉱が乏しくなる一方、さらに良鉱を求めて深く掘り進むも排水など多くの経費もかかり、採算に合わない間歩は休山となる。
幕末頃の銀産量は最盛期に比べ、わずかとなっていた。
明治維新後しばらくは江戸時代と同じ状況で経営が行われていた。
1887年(明治20年)大坂の藤田組が経営に着手し、巨額の資金を投入して清水谷製錬所を建設したが、成果が上がらずわずか1年で操業が停止された。
そして1923年(大正12年)に休山となった。以降、採掘は行われていない。

深掘りスポット

代官所跡

江戸時代に入り、精錬された灰吹銀は代官所を出発し、尾道(広島県)へと陸路で運ばれた。
代官所は、石見銀山と周辺地域を支配するために、江戸幕府が代官を派遣して現地に置いた役所である。
1800年(寛政12年)に起こった大火の後に建築されたもので、当時の棟札が現存するほか、1841年(天保12年)制作の古絵図にも描かれている。
敷地の中央部にあった母屋は1879年(明治12年)に解体され、その後1902年(明治35年)に邇摩郡役所が建てられた。現在、この建物は「石見銀山資料館」として利用され、石見銀山に関する調査研究、資料の保存管理、公開展示、ガイダンス機能の一端を担っている。

五百羅漢

石見銀山の石工技術をよく表しており、石造物文化を代表する貴重な信仰遺跡。
1766年(明和3年)創立、真言宗。
18世紀中頃、銀山で亡くなった人々の霊と先祖の霊を供養するために25年かけて代官や代官所役人、領内の人々の援助、協力により石橋などを築き、石窟内に石造の五百羅漢を納め羅漢寺を建立。
岩盤斜面に3つの石窟があり、中央窟に石造釈迦三尊仏を、左右両窟には五百羅漢像がそれぞれ250体ずつ、計501体の坐像が安置されている。

ルート

やなしお道入口
↓ 5分 200m
十王堂
↓ 60分 2km
七本槙
↓ 30分 1km
大名石
↓ 15分 500m
湯抱別れ
↓ 15分 500m
再進坂峠
↓ 20分 800m
石組み
↓ 20分 800m
古い墓標
↓ 20分 800m
やなしお坂終点

アクセス

自動車
・小松地:大田市駅から国道375号を美郷町方面へ南下し、県道186号(美郷大森線)との交差点を右折すると県道横に大型案内板があり、民家横の橋を渡って山道へ入る。
別府公民館駐車場に駐車可能。
・やなしお坂登山口:美郷町役場から国道375号を大田市方面へ進み、県道40号(川本波多線)を川本方面へ進み、すぐに右折して林道に入る。
自家用車は、美郷町役場の駐車場(建物の裏側)に停めさせてもらえますが、事前に役場への連絡が必要です。
理由を聞かれたら、やなしお道を歩く目的を伝えて下さい。
歩き終え、バスに乗ってスタート地点まで戻る時は、国道に出た所にあるバス停「灰屋」からご乗車下さい。
バスの便は少ない(13時台、15時台、17時台、18時台に1本ずつ)ので、ご注意下さい。バスの時刻表は、(石見交通 粕淵線)を参照の事。

公共交通
・小松地:JR大田市駅から石見交通粕渕線で君谷別府バス停下車。(バス約30分、バス停から徒歩約10分)
・やなしお坂登山口:JR大田市駅から石見交通粕渕線で灰屋バス停下車。(バス約40分、バス停から徒歩約10分)

参考資料

「史跡石見銀山街道保存活用計画」 美郷町教育委員会 教育長 阿川俊治
高橋悟「自然科学から見た世界遺産石見銀山史話―石見銀山と風土―」
田中博一「石見銀山史伝」
遠藤浩巳「銀鉱山王国 石見銀山」
島根県美郷町石見銀山街道「やなしお道」パンフレット

協力・担当者

《担当者》
日本山岳会山陰支部
伊澤寿高
小村和彦

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