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98 石見銀山街道
鞆ケ浦道(ともがうらどう)は、石見銀山公園駐車場から出発し、日本海に面した鞆ケ浦港までの約10km、約6時間の区間を指します。
16世紀前半、石見地方(島根県)を治めていた大内氏は、中国、朝鮮との貿易を許され、博多の商人を使って大きな利益を上げていました。日本からは銀や銅を輸出し、中国からは生糸、絹織物、朝鮮からは綿布を輸入していました。
博多の商人、神屋寿禎は、出雲大社の北側にある鷺銅山を目指して日本海を航海中、ふと南の方に光る山を見ました。船頭に聞くと、それは銀峯山(仙ノ山)と言って、かつて多くの銀が取れたと聞くが、既に掘り尽くされたといいます。
神屋寿禎が試しに採掘場を調べてみたところ、銀鉱脈が残っている事がわかったため、1527年(大永7年)から、本格的な採掘が始まりました。
当初は鉱石をそのまま博多などへ運搬し、製錬していました。
鉱山労働者は、仙ノ山で採掘された鉱石を背負い、又は、牛馬に乗せて最寄りの港まで運ぶため、一番近い鞆ケ浦港までの道がつくられました。
1533年(天文2年)灰吹法と呼ばれる製錬法が導入されると、高純度の銀を現地で製錬できるようになり、産銀量は大幅に増加しました。銀を港まで運ぶ街道沿いには、鉱山に関わる労働者・商人などが増えていきました。
銀山の領主となった戦国大名大内氏と隣国の尼子氏との間で争奪戦が繰り広げられました。
1562年(永禄5年)、毛利氏が大森へ攻め入り、尼子氏から銀山を奪い、直轄地としましたが、この年まで、鞆ケ浦道が使われていたと伝わります。
石見銀山ガイドの会の事務所がある銀山公園駐車場を出発し、大森の町を巡りながら、町の奥の方へ向かって進みます。
舗装道路に四方を示す標識があり、北へ向かう方角に山吹城登山口と書いてありますので、入って行きます。
*ここからは山道になりますので登山靴が必要です。
登り坂を登って行くと、峠付近に「牛の首地蔵」、それから山吹城へ向かう分岐があります。
山吹城へは、急な階段を30分程度、ひたすら登って行きますが、今回は、鞆ケ浦港へ向かうため、山吹城へは登らず、そのまま峠を越えて下って行きます。
坂道を下って行くと河原付近に、レンガで作られた永久精錬所跡があります。
これは明治時代に入ってから藤田組によって作られたものですが、見栄えのする建造物です。周辺にも、精錬所跡が残っています。
すぐ前方に柑子谷川があり、細い橋を渡ると、舗装道路に出ます。
右へ(下流側)折れ、舗装道路を川沿いに進みます。
約1km進むと左手に「横畑の題目塔」がありますが、そのまま直進します。
注)題目塔の横に、鞆ケ浦道を示す標識がありますが、それを入ると藪道になり、進めなくなりますのでご注意下さい。
T字路を左へ折れて道なりに進みます。
250mくらい進むと右手の草むらに、引き返す方向へ細い山道がありますので、それを登って行きます。
*ここから「胴地蔵」までの区間は、コースガイドに「歩行困難」とありますので、ご注意ください。
左手に石切場跡を見て、更に、つづら折れの坂を登って行きます。
山道に入ってから約1km進むと舗装道路に出ますが、それを横切り、民家の横を50mほど進むと再び舗装道路へ行き当たります。その角に「胴地蔵」があります。
「胴地蔵」の先を左へ折れ、舗装道路を約100m進むと、標識があり、右へ向かって山道に入ります。
約500m進むとまた舗装道路に出ますので、そのまま進行方向へ向かって緩い坂を登って行きます。
舗装道路のコーナーを過ぎたあたりに標識があり、右へ下って行く山道に入るとすぐの木の根元に「祓井戸」があります。
*ここから国道9号線までの区間は、コースガイドには、歩行困難とありますのでご注意ください。
1kmほど進み、地図上、原井戸という地名辺りで、少しだけ舗装道路になりますが、そのまま進むとすぐに標識があり、左へ向かって山道へ入ります。
約200m進んだ辺りに石垣が散見し、それを過ぎて少し行くと、舗装道路に出ます。
道路を渡った所に再び標識があり、民家の宅地内を通るように表示されています。(地図参照)
注)古道は宅地内を通っていますが、ここを通過する際には、予め通行の許可を取って下さい。
*宅地内を横切り、家から北へ向かう山道になります。
*宅地の畑に番犬がいます。
*この辺りから道が不明瞭になりますが、道なりに慎重に進んでください。
民家から約800m進むと、道の両サイドを掘ってつくられた峠を越えます。そのあと約500mで、高速「仁摩・温泉津道路」の上を通過します。
さらに900mくらい進むと国道9号線の手前辺りで木段となり、それを下ると、国道9号線に出ます。
国道9号を渡り、西へ150mほど進むと、右側(海岸方向)に細い舗装道路がありますので、下って行きます。
約400m下った右側に、「才の神地蔵」(さいのかみじぞう)があります。「才の神」とは道祖神の別名で、村の守り神の事です。
道なりに進み、鉄道(山陰本線)を渡り、約50m進みます。
左手の斜面に、引き返す方向へ狭い道がありますので、それを登って行きます。
鞆ケ浦の集落の中を約400m進み、路地を下って行くと、鞆ケ浦港に出ます。
先端の防波堤に向かってコンクリート道を進んで行くと、右側の崖に、かつて船を係留していた鼻ぐり岩があります。
防波堤の先端から、鵜の島へ向けて橋が架かっていますが、2025年7月時点では通行止めとなっており、鵜の島にある厳島神社まで行く事はできません。
漁港の入り口まで戻り、トンネルを抜け海岸を少し進むと、車20台程度停められる駐車場があります。
防波堤の途中から海岸へ降り、鳴き砂で有名な琴ヶ浜を散策できます。
キュッキュッと音を出すには、砂をかかとで蹴るように踏むのがコツです。
*石英を多く含む綺麗な砂浜を維持する為に、清掃活動などが行われている海岸です。
石見銀山公園駐車場の横に銀山ガイド案内所があり、ガイドの案内に従って歩かれる事をお勧めします。
鞆ケ浦道は、その途中で宅地内を通過させて頂く所があります。
居住者様は、鞆ケ浦道が宅地内を通っており、石見銀山街道として紹介されている事をご存じですが、予め通行許可を得ておくために、銀山ガイドの案内に従う事をお勧めします。
連絡先:大森観光案内所
住所 大田市大森町イ824-3
営業時間 8:30 ~ 17:00
定休日 年末年始
電話 0854-88-9950(大田市観光協会仁摩本部)
※電話受付 9:00~17:00
室町時代、周防国を拠点としていた大内氏は、博多から中国(明)との貿易を行っていました。
当時は、銅が主要な輸出品でしたので、出雲の国にある鷺銅山へ向かって、博多の商人、神屋寿禎は日本海を航海していました。
ふと見ると、輝く山があったため、船頭に尋ねると、「それは銀峯山(仙ノ山)と言って、かつて多くの銀が取れた山だがすでに銀は掘りつくされたと伝わっている」と言います。
神屋寿禎は、「それは200年も昔の事、今は採掘技術も向上しているし、もう一度鉱山を確かめてみよう。」と思い、山師の三島右衛門と共に古い採掘場を調べたところ、銀鉱脈が残っている事が分かりました。
「銀山旧記」によれば、
「寿禎船子に南山のあかるくあきらかなる光あるは何故やと問いければ、船郎答えて申すけるは是は石見の銀峯山なりと語り伝う。彼の峯銀を出せしが今は絶えたり、唯観音の霊像のみありて此の山を鎮護し、寺を清水寺と申す。」とあります。
偶然発見したかのように思われますが、当時の鉱床の発見方法は、遠くから山を眺める「最初遠見の法」でした。
江戸時代に著された「山相秘録」によれば、
「季節は567月、朝、北側から山を見る。青緑の中に宝から発する精気のように他の山とは異なる所があれば、それは諸金属を含んだ山の姿。」と解説してあります。
室町時代、国内で銀は一部の装飾品で使われるくらいで、それほど需要はありませんでした。
しかし、神屋寿禎は銀を必要としていた中国(明)に目を付け、貿易によって銀の代価として大陸から貴重な品物を持ち帰ろうと考えたのです。
銀を採掘するには領主の許可が必要でした。
寿禎は、領主である大内義興へ、銀山開発の上申を行ったところ、あっさりと許可されました。
尼子配下でもある鷺銅山の山師(三島右衛門)が採掘を行う件にも同意がなされました。
大内氏は、博多からの日明貿易をほぼ独占しており、領地の東の果てに当たる銀山に、最初は興味を示さなかったと思われます。
1527年(大永7年)から、仙ノ山で銀鉱石の採掘が始まりました。
山師である三島右衛門は大量の鉱石を採掘し始めました。
鉱石に含まれる銀の量は0.1%程度に過ぎず、鉱石30kgから卵半個分30gの銀しか採取できなかった事になります。
製錬によって純度を上げるのですが、博多や朝鮮半島に鉱石を運んで製錬しなければならず、大量の鉱石を港へ運搬する最短ルートとして、鞆ケ浦までの道が整備されました。街道筋には多くの人が往来し、採掘労働者,商人,寺社,など、我も我もと人が増え始め、家は積み重なるように建ち、集落は無秩序化していきました。中には採掘した鉱石をくすね取る者もいたと思われます。
この頃、既に創建されていた佐毘賣山神社(さひめやまじんじゃ)へは、参拝者が多く訪れました。
大内義興は銀が大量に採掘される事を知ると、1528年(大永8年)、銀山を守る為に矢滝城を築城しましたが、同年、尼子経久に攻略され奪われてしまいました。
大内義興は、銀山を奪回すべく部下に命じるも翌年あえなくこの世を去り、新たに大内家の当主となった大内義隆は、石見の領主であった小笠原長隆に銀山の奪還を命じると瞬く間に矢滝城・高城を落とし、1531年(享禄4年)、再び大内配下の小笠原氏が銀山を領有する事となります。
大量の鉱石を運ぶ手間を省けないかと考えた寿禎は、1533年(天文2年)、博多から技術者を2人呼び寄せ、灰吹法と呼ばれる精錬法を導入しました。
それによって産銀量は大幅に増加し、高純度の銀を現地で精錬出来るようになると、多くの人が採掘に携わるようになりました。
以降、鉱石を発掘した現地で精錬出来るように、仙ノ山の中腹に精錬施設や集落ができていったと思われます。
1542年(天文11年)大森の町内、昆布山谷において、大水が発生し1300人が流されたという記録があります。
乱開発により木々が伐採され、保水力が低下し、無秩序に建てられた家屋によって水路がせき止められ、鉄砲水が発生したものと思われます。
1551年(天文20年)、大内家の内乱により、大内義隆は、家臣の陶晴賢の謀反に遭い自害させられます。
その陶晴賢も1555年(天文24年)、厳島の戦いにおいて毛利元就に敗れて自害し、大内家は滅亡してしまいます。
1555年(天文24年)、尼子氏は大軍を派遣し、銀山を手に入れました。
山吹城を守っていた小笠原氏は、尼子氏に鞍替えしました。
尼子氏は、鞆ケ浦までの街道を整備し、銀の輸送に使う重要な街道に制限し、税を取りました。
1562年(永禄5年)、毛利元就は尼子氏から銀山を奪い、直轄地としました。
毛利軍はそのまま尼子陣地(月山富田城)へと進軍し、1565年(永禄8年)、尼子の重要な拠点でもあった白鹿城を落とし、兵糧の補給路を絶ったため、翌年、尼子氏はついに降伏しました。
以降、毛利氏が中国地方の大部分を領有し、鞆ケ浦道に変えて、隣の温泉津・沖泊港への道を整備し街道として利用する事になります。
典型的な鐘状火山であり、中国地方では大山と並び称される名山です。
男三瓶、女三瓶、子三瓶など複数の峰で成り立ちます。
山麓には広い裾野が広がり、西の原、東の原、北の原と呼ばれる草原は、野外のレクリエーションの適地です。
春はワラビ取り、夏はキャンプや避暑、秋は紅葉、冬は雪遊びなど、一年を通して楽しめます。
温泉も多く湧き出ます。
石見銀山の銀の積み出し港だった鞆ケ浦から出港し、その美しい自然景観と、歴史ロマンを巡る。
https://www.kankou-shimane.com/experience/73258
鞆ケ浦港の近くの海岸線、歩くと、キュッキュッっと音の鳴る砂浜
https://www.kankou-shimane.com/destination/20516
6基の総ガラス張りのピラミッドが並ぶ砂をテーマにしたユニークな博物館です。
世界最大の1年砂時計「砂暦」が建物の中心にあり、鳴き砂保全のシンボルです。
https://www.sandmuseum.jp/
山陰道 仁摩・石見銀山I.C.を降りたところにあり、ここから石見銀山へは近い。
https://goise.jp/
近くの観光サイトについての案内
https://www.ginzan-wm.jp/
鞆ケ浦は銀山開発の初期(十六世紀前半~中期)に銀鉱石を積み出した最初の港です。
石見銀山柵内の仙ノ山から直線距離で6.6kmと、銀山から最短距離の港にあたりました。
銀山の歴史などをまとめた江戸時代の「石見銀山日記」には、「石見国馬路村の瀬古柳鞆岩の浦へ売船多く来たり」とあり、鉱石を買い付ける船で賑わった様子が描かれています。
入り江には船の係留用の綱を結んだと伝える自然の岩盤をくり抜いた「鼻ぐり岩」が数カ所残っています。
湾港集落は、地形に制約された地割(宅地の区画)をよく留めており、港と密接に関連した番屋跡、共同井戸、鉱石を貯蔵したと伝えられる洞窟跡等が残っています。
また現在は、伝統的な工法による家屋を含む25棟の建築物等が良好な集落景観を形成しています。
港の北側の小島には銀山を開発した神屋寿禎(かみやじゅてい)が1535年(天文4年)に勧請したと伝えられる弁財天を祀る「鵜島厳島神社」があります。
付近一帯はリアス式海岸で深い入り江や洞窟、奇岩等が多く、特に鞆ケ浦から、今は無人の幻の港とされる古龍までの間1kmには、手つかずの自然が多く残っていて、その眺望は素晴らしく、往時を偲ばせます。
鞆ケ浦が銀の積み出し港でなくなった後も、この地の集落は残りました。
江戸時代初期には半農半漁の暮らしがあったことが記録にあり、現在は魚礁が営まれ、漁港集落の景観を今に伝えています。
集落では、吹き続ける強い潮風を避けるために、壁で囲むように家の出入り口を設ける特徴があり、海岸部の谷間に続く細い路地とあわせて、独特の家並みが形作られています。
採掘した後の銀や銀鉱石を各地へ輸送するために用いられた道を、石見銀山街道と呼んでいます。
銀山開発初期には鞆ケ浦に至る道が利用されていました。
その後、支配者の返還に伴い、温泉津へ続く温泉津沖泊道や尾道(広島県)に至る尾道道へと移りました。
鞆ケ浦道は、大森の仙ノ山から山吹城の東側の尾根を抜け、柑子谷(こうじだに)と呼ばれる地域から鞆ケ浦に至る全長約7kmの街道です。
道幅は1mほどで、街道沿いには祓井戸(はらいど)などの古来から伝わる地名や道標、ほこらなどが残ります。
「永久坑」は御直山(あじきやま)として元泉山に採掘された間歩ですが、当初は龍源寺間歩の水抜きとして開発されました。
また、1693年(元禄6年)から1787年(天明7年)にかけて手掘りで1400m掘られるなど石見銀山でも屈指の坑道跡です。
1778年(安永7年)には「永久稼所」と呼ばれる精錬所も稼働するなど、江戸時代を通じて開発が行われましたが、1887年(明治20年)には合名会社藤田組「大森鉱山」として近代的な操業を開始します。
1899年(明治32年)に優良な胴鉱脈「内中瀬鉉」(うちなかせつる)が発見され、これ以後最盛期を迎えますが、1923年(大正12年)に採掘条件の悪化等により、休山となりました。
戦国時代、30年あまりに及ぶ石見銀山の激しい争奪戦の間、毛利氏が銀山を支配する1562年(永禄5年)、大久保長安が銀山奉行となる1600年(慶長5年)などを大きな節目として、山吹城は何度か改修されながら、石見銀山支配の軍事的な重要拠点としての役割を果たしました。
山吹城の施設は山の全体に広がり、特に山頂部には主郭を中心に竪土塁(たてどるい)空堀(からぼり)石垣などが集中しています。
主郭は長方形で南北52m、東西32m、主郭の南北に郭(くるわ)と呼ばれる平坦地が階段状に連続しています。
空堀は幅10mで主郭と掘との高低差が6mと深く、掘りには木橋がかけられていた可能性があります。
南側の斜面にある連続竪掘は19本以上あり、戦国大名尼子氏が銀山と山吹城をおさえたときに築き、北側の郭にある虎口には石垣を設け、周りからも城の存在が目立つようにしています。
16世紀前半の銀山開発以来の大規模な集落跡です。
銀の露頭堀跡、坑道跡、選鉱・精錬施設、寺院跡など、遺構が良好な状態で保存されています。
1527年(大永7年)に博多の豪商神屋寿禎(かみやじゅてい)が出雲国の鷺銅山へ向かう航海の途中、日本海の沖からこの山の輝きを見て石見銀山を本格的に開発したと伝えられています。
山頂近くの石銀地区、竹田地区、於紅ヶ谷地区などの発掘調査により、この山には採掘から精錬という銀生産の跡と、人々の生活の跡が豊富に残されていることが明らかとなりました。
石見銀山公園駐車場
↓ 35分 1.2km
山吹城登山口
↓ 20分 600m
牛の首地蔵
↓ 40分 1.2km
永久精錬所跡
↓ 3分 100m
柑子谷川を細い橋で渡る
↓ 30分 1km
横畑の題目塔
↓ 3分 100m
T字路を左折
↓ 5分 250m
山道へ入る
↓ 3分 100m
石切場跡
↓ 30分 1km
胴地蔵
↓ 3分 100m
山道への分岐
↓ 15分 500m
舗装道路に出る
↓ 20分 800m
祓井戸
↓ 30分 1km
道の分岐
↓ 5分 200m
舗装道路にある標識
↓ 25分 800m
峠
↓ 15分 500m
高速の上を通過する
↓ 25分 900m
国道9号線に出る
↓ 4分 150m
分岐
↓ 10分 400m
才の頭地蔵
↓ 2分 50m
鞆ケ浦への分岐
↓ 10分 400m
鞆ケ浦港
◉石見銀山公園駐車場(石見銀山地内)
山陰道 仁摩・石見銀山IC下車10分,普通車40台
営業時間 通年
駐車料金 無料
◉石見銀山世界遺産センター(石見銀山から約3km、徒歩40分)
https://ginzan.city.oda.lg.jp/access/
TEL 0854-89-0183
開館時間 8:30~17:30
休館日 毎月最終火曜日・年末年始
普通車400台
駐車料金 無料
*石見銀山まで接続するバスが出ており、石見銀山までの料金は、240円、7分で到着します。
◉鞆ケ浦港へのアクセス,駐車場について
場所:島根県大田市仁摩町馬路
JR馬路駅より徒歩15分
山陰道 仁摩・石見銀山I.C.から車で10分
海岸道路沿い、鞆ケ浦港へ入るトンネルの手前に駐車場があります。
「史跡石見銀山街道保存活用計画」 美郷町教育委員会 教育長 阿川俊治
高橋悟「自然科学から見た世界遺産石見銀山史話―石見銀山と風土―」
田中博一「石見銀山史伝」
遠藤浩巳「銀鉱山王国 石見銀山」
太田市役所教育委員会
《担当者》
日本山岳会山陰支部
伊澤寿高
小村和彦