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98 石見銀山街道 

石見銀山街道について

石見銀山(いわみぎんざん)は、鎌倉時代末期の延慶2年(1309年)に周防国の大内弘幸が発見したとする伝説があります。
当初は銀峰山(ぎんぷせん、大田市観光協会HPによる)と呼ばれ、地表に露出した銀鉱石が採掘されていたようですが、掘り尽くされて以降、約200年間は放置されていました。
その後、伝説では、大永7年(1527年)に博多商人の神屋寿禎(かみやじゅてい)が航行中に光る山を見つけ、鉱山を再発見したとされています。銀鉱石の採掘が始まると、この銀山をめぐり戦国大名による争奪戦が繰り広げられました。
当初、銀鉱石は博多の商人や中国(明)との貿易にとって重要な品物であり、主に鞆ケ浦港から船で運搬されていました。
江戸時代に入ると、銀山地内に物流の管理を行う奉行所が設けられました。この時代になると、危険な日本海の航路を取りやめ、陸路で山陽側(尾道)を経由し、京都銀座、さらには江戸銀座へと運搬されるようになりました。日本の銀の産出量は、最盛期であった江戸初期には、世界の産出銀の約1割を占めていたと言われます。その後、産銀量は減少し、大正12年(1923年)に閉山となりました。
石見銀山街道は、採掘した銀を各地へ運ぶために作られた街道の通称で、「銀の道」とも呼ばれています。採掘が始まった当初は、鉱石の運搬に最短であった鞆ケ浦港までの街道が整備され、その後、温泉津・沖泊港も使われるようになりました。
世界遺産「石見銀山遺跡とその文化的景観」の構成資産(文化の道)には、「石見銀山街道 鞆ケ浦道」と「石見銀山街道 温泉津・沖泊道」が指定されています。
銀を運搬する為に整備された石見銀山街道を、古い順に、「鞆ケ浦道」、「温泉津・沖泊道」、「尾道道」の3つに分けて紹介します。

古道を歩く

石見銀山は平成19年(2007年)に世界遺産に登録され、国内外から多くの人が訪れています。
江戸時代には奉行所が置かれ、鉱山の町として栄えました。
いまも整然とした町並みが保存されています。
石見銀山街道(鞆ケ浦道,温泉津・沖泊道,尾道道)は、この石見銀山を起点として3方向に伸びています。
自身で歩くことも可能ですが、途中、不明瞭な箇所もありますので、観光案内所へ立ち寄り、銀山ガイドと共に歩かれる事をお勧めします。
鞆ケ浦道(ともがうらどう):石見銀山公園駐車場から鞆ケ浦まで、約10km、約6時間の区間
温泉津・沖泊道(ゆのつ・おきどまりどう):石見銀山公園駐車場から沖泊港まで、約13km、6時間40分の区間
尾道道(おのみちどう)(やなしお道):約6.5km、2時間40分の区間
尾道道は、そのほとんどが一般道となってしまい、古道として「やなしお道」だけが整備され、歩けるようになっています。やなしお道は石見銀山から約9km離れた所から始まっているため、車での移動,あるいは送迎が必要になります。石見銀山ガイドによる案内もあります。

この古道を歩くにあたって

観光スポットとなっている石見銀山地区へは車両通行禁止になっていますので、入り口にある銀山公園駐車場(40台)に停めて下さい。
満車であれば、少し離れた世界遺産センター(400台)の駐車場へ停め、石見銀山までバスにご乗車下さい。
石見銀山遺跡は散策範囲が広く、徒歩では時間がかかるため、公園駐車場の前にある観光案内所で、レンタサイクルの利用もお勧めです。
観光案内所の隣で、銀山ガイドによる案内が行われており、説明を受けながらコースを散策する事もできます。
銀山ガイドの会 http://iwamiginzan-guide.jp/

2025年7月現在、温泉津・沖泊道の一部が崩落のため通行禁止になっています。

古道を知る

石見銀山の歴史と世界的な影響

石見銀山は、16世紀から17世紀初頭の「大航海時代」における世界経済と東アジア貿易に決定的な影響を与えました。
・灰吹法の導入と国際貿易への貢献
石見銀山は、鎌倉時代末期の延慶2年(1309年)に発見された伝説があり、後に博多商人、神屋寿禎(かみやじゅてい)によって大永7年(1527年)に再発見され、本格的な開発が始まりました。
石見銀山が世界史に登場するきっかけとなったのは、1533年に大陸から伝えられた高度な製錬技術である灰吹(はいふき)法の導入です。この技術により、日本は高純度の銀を大量生産することが可能になり、それまで銀の輸入国だった状況から一転、世界有数の銀輸出国へと変貌しました。
最盛期であった江戸時代初期(17世紀前半)には、石見銀山を含む日本全体の銀産出量は年間約20万kgに達し、これは当時、世界の銀産出量の約1割を占めたとも言われています。この膨大な量の銀が、世界経済の「潤滑油」として機能しました。
当時、中国の明王朝では銀本位の税制(一条鞭法など)への移行が進んでおり、銀に対する需要が非常に高まっていました。石見銀山の銀は、主にポルトガル商人(南蛮貿易)や後期倭寇と呼ばれる密貿易集団の手によって、中国へ大量に流入しました。
ポルトガル商人は、日本の銀を対価として、中国産の生糸や絹織物を購入し、その商品をヨーロッパへ運ぶという三角貿易を展開し、巨額の利益を得ました。石見銀の存在は、ポルトガルの海洋帝国がアジア貿易の主導権を握る上で不可欠な要素となり、当時のヨーロッパで作成された地図には、日本が「銀鉱山王国」と記されるほどでした。
江戸時代に入り、幕府の直轄領(天領)となった石見銀山は、銀山奉行所が置かれ、安定的な経営が図られます。しかし、幕府による鎖国政策や、鉱脈の枯渇、採掘の困難化などにより、銀の産出量は徐々に減少し、大正12年(1923年)に閉山となりました。

石見銀山街道の役割

石見銀山から採掘された銀は、当初、博多の商人や中国の明との貿易において重要な輸出品であり、その運搬のために石見銀山街道が整備されました。
鞆ケ浦道(ともがうらどう)
石見銀山で銀の採掘が始まった16世紀前半、最も早く整備されたのが鞆ケ浦道です。当時、銀鉱石を運搬するために最短のルートであり、博多へ向かう船に乗せるため、主に鞆ケ浦港まで銀が運び出されました。この街道は初期の銀山経営を支える主要な物流路でした。
温泉津・沖泊道(ゆのつ・おきどまりどう)
16世紀後半、銀山支配の拠点が置かれたり、外港として位置づけられたりした温泉津(ゆのつ)港や沖泊(おきどまり)港を利用するため、温泉津・沖泊道が整備されました。この道は銀の搬出だけでなく、鉱山開発に必要な物資を銀山へ供給するための物資補給路としての役割も担いました。人や牛馬の頻繁な通行を想定して整備され、道標や石仏などが往時の面影を残しています。
鞆ケ浦道と温泉津・沖泊道は、戦国時代における海上輸送ルートとしての役割を担い、「石見銀山遺跡とその文化的景観」を構成する要素として、世界遺産に登録されています。
尾道道(おのみちどう)
時代が下り、銀山が江戸幕府の天領(直轄領)となった17世紀以降、銀の運搬ルートは大きく変化します。危険な日本海の航路を避け、銀を幕府の財源とするために、採掘された銀は陸路で瀬戸内海側へ運ばれるようになります。
この上納銀の輸送路となったのが尾道道です。銀は石見銀山(大森)の御銀蔵に集められた後、尾道道を経て、山陽側の尾道港へと陸送されました。尾道で船に積み替えられた銀は、大阪、そして京都銀座・江戸銀座へと運搬されました。総延長は約130kmに及ぶ長大な街道であり、当時の大輸送隊は、牛馬300頭と人足400人からなる規模で、尾道まで3泊4日の行程で銀を運びました。
尾道道の一部で、美郷町を通るやなしお道や森原古道などは、江戸時代を通じて銀を運んだ道として、近年国史跡に指定されています。尾道道は、石見銀山が幕府財政を支えた「近世の銀の道」として、その歴史的な重要性を今に伝えています。

深掘りスポット

銀峰山 清水寺(ぎんぽうざん せいすいじ)

清水寺は真言宗の寺院で、延暦17年(798年)仙ノ山の中腹に移転された。以降、銀の採掘が行われていた時代を通して銀峰山中腹にあった事より、信仰を集めていた重要なお寺だったと思われる。明治時代に入ってから現在地に移された。

佐毘売山神社(さひめやまじんじゃ)

大森の町の中にあり、銀鉱石を採掘していた仙ノ山の麓にある古社。
15世紀中頃創建の鉱山の守り神、製錬の神「金山彦命(かなやまびこのみこと)」を祀っている。
この神社のすぐ横を仙ノ山への道が通っている事から、鉱脈が発見された当初から、人々の暮らしに深く関わってきた神社であると思われる。

龍源寺間歩(りゅうげんじまぶ)

大森の町の中にあり、坑道内へ入れる観光スポット。
壁面には当時ノミで掘り進んだ跡がそのまま残っており、また排水のために掘られた100mの垂直の竪坑を見ることができる。
石見銀山絵巻等の展示もあるなど、当時の石見銀山の姿を体感できる。

五百羅漢(ごひゃくらかん)

大森の公園駐車場の近くの道路沿いにある。銀山で亡くなった人々の霊と先祖の霊を供養するために25年もかけてつくられた石窟で、内部に五百羅漢を納め羅漢寺を建立した。
岩盤斜面に3つの石窟があり、中央窟に石造釈迦三尊仏を、左右両窟には五百羅漢像がそれぞれ250体ずつ、計501体の坐像が安置されている。

ミニ知識

戦に利用された石見銀山銀ほり人

戦国時代の尼子と毛利の松江の白鹿城の戦いや徳川家康が豊臣秀頼を攻めた大阪冬の陣などにおいて、城攻略のトンネルを掘らせるため石見銀山銀ほり人が動員された。
「石見銀山絵巻」にあるように、銀ほり人の間歩掘削技術は、地力が弱く、崩れやすい箇所でも木(栗などの堅い材木)または石で支えると留山という方法で、間歩を保護・維持しながら掘削していくもの。これは現在の都市土木の地下鉄トンネルなどに採用されるシールド工法に類似しており、城攻略のトンネル掘りには有効だったと考えられる。

石見銀山領西田のヨズクハデ

農村が実りの風物詩として稲を乾かすイネ架掛けが、機械化とともに衰退して久しい。
全国的には刈り取った稲束を横一列にかけ並べる「平ハデ」が普通であるが、西田地区においてはヨズクハデと言う高さ約5mの四角錐形の稲穂を乾かす独特の稲ハデがある。
ヨズクハデの特徴として、木材が平ハデの3分の1ですみ、三角構造で横の風に強く、狭い山間の場所でも短時間に作れ一基で5~7俵分の稲が架けられる。
ヨズクとはこの地方の方言でフクロウを言い、全体の形が木に止まって少し羽を開いている姿に似ていることから名がついたものである。

石見銀山代官碑(太田市大屋町)

石見銀山代官とは26代代官天野助次郎の事で1702年生まれで36歳で代官職に就き47歳で大森代官所に就き、その後佐渡奉行、御旗奉行まで勤め86歳まで長寿を全うした人である。
石見銀山時代の業績として、地役人の身分改革、俸禄改革、郷宿制・大屋などの年貢減免など他の代官がやれなかった行政改革を行い、有能な行政官であると共に人情味もあった。
代官が視察に来られ百姓達の甘藷堀りをみて大屋独特のネバ土に苦労をしている畑仕事の苦労をみて大屋の税金が安くなったといわれる。

アクセス

◉石見銀山公園駐車場(石見銀山地内)
山陰道 仁摩・石見銀山IC下車10分,普通車40台
営業時間 通年
駐車料金 無料

◉石見銀山世界遺産センター(石見銀山から約3km、徒歩40分)
https://ginzan.city.oda.lg.jp/access/
TEL 0854-89-0183
開館時間 8:30~17:30
休館日 毎月最終火曜日・年末年始
普通車400台
駐車料金 無料

◉世界遺産センターからバスで
大森代官所跡 240円 7分
大田市駅 760円 33分
仁万駅 590円 22分

参考資料

「史跡石見銀山街道保存活用計画」美郷町教育委員会 教育長 阿川俊治
高橋 悟「自然科学から見た世界遺産石見銀山史話―石見銀山と風土―」
田中博一「石見銀山史伝」
遠藤浩巳「銀鉱山王国 石見銀山」
太田市役所教育委員会

協力・担当者

《担当者》
日本山岳会山陰支部
伊澤寿高
小村和彦

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