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93 京から近江への峠道 白鳥越・如意越
近江・山城間の本道は東海道であり、間道として京都市左京区の鹿ヶ谷(霊鑑寺)から如意岳を経て、滋賀県大津市の長等山園城寺(俗称三井寺)に至る道を、如意越(如意古道)と言う。
如意越は平安京と三井寺を繋ぐ最短路でもあり、平安時代中期には途中の如意岳山麓に三井寺別院として「如意寺」が建てられた。
如意寺は応仁の乱で焼亡したが、現在も大規模山岳寺院としての遺跡が残っている。
如意越は平安後期から戦国時代の中世動乱期に、都への進入路あるいは都からの脱出路として数々の記録が残っている。
戦乱の世が治まり江戸時代になると、庶民の行き交う京都から三井寺への参拝道として栄えたが、近代において東海道、山中越等の整備に伴い、その役割は終焉し現在はその片鱗も残っていない。
如意越の京都側の起点は鹿ヶ谷(霊鑑寺)、終点は大津市の長等山園城寺(俗称三井寺)とする。
起点である霊鑑寺直近の交通機関として、京都市バス真如堂前停留所からの道筋を案内する。
真如堂前停留所で下車し道路対面に横断する。
白川通りを北に向かいコイン駐車場のある辻を右折して小路の坂道を登る
「鹿ケ谷通り」のT字路に出ると右の信号を渡り「ノートルダム女学院」「哲学の道」方面に進む。
琵琶湖疎水の橋に出会うが、疎水横の通りが「哲学の道」で左に行くと銀閣寺である。
橋を渡り、直進すると霊鑑寺門前に出る。ここから京都一周トレイルに合流する。
霊鑑寺門前右の坂道を直進する。舗装道路終点の「波切不動尊」まで高度差は70m程だが、歩き始めのかなり辛い登りだ。波切不動ではトイレも借用出来る。
京都一周トレイル標識45にしたがって舗装道路終点から左に入り、直ぐに右折し山道を「談合谷」に入る。
直進は作業道である。谷通しの道になるが一部で倒木を避ける場所では足元に注意が必要。
斜度が強くなり紅葉の疎林に入ると楼門の滝である。
急な石段の登山道を滝の上部に登れば、京都一周トレイル標識46で、「俊寛僧都忠誠之碑」がある。
傍には俊寛僧都鹿ケ谷山荘跡碑もあるが碑文は読みにくい。
ここからしばらくはなだらかな道で付近は「四季・彩の森」といい、前年に台風で荒れた森林を復活する整備が行われている。
この辺り如意寺別院が建っていた形跡がある平地が多い。
植林帯に入り大きな岩を見ると急坂になる。
急坂乗り越せば「大文字山四辻」となり、京都一周トレイル標識45がある。
左の急坂を登れば5分ほどで好展望の「大文字山頂上465.3m三角点」に行くことができる。
更に展望の良い大文字送り火の火床へは800m、高度で100m程降る必要がある。
如意古道は標識から直進し、下の広い林道と交差する。
林道を横断し東に向かう尾根道に入る。谷道を降りると山科に出てしまうので注意が必要。
500m程行けば左下に「雨社」の祠が見えてくる。
左に雨社に降りる分岐があり、直ぐに山科方面への分岐がある。
地図では直ぐに離れるようだが、実際は暫時並行していく。
古道の次の分岐は如意ケ岳への分岐で、如意寺址は右の道に入る。
並行していた山科方面への分岐が右に離れていく。
次の分岐は十字路状になっているが、真ん中を直進し谷に降りる道に入る。
※この辺りは、迷いやすいので標識に十分注意が必要。
尾根裾をトラバースするが道幅が狭いのでスリップに注意する。広範囲の倒木処理地に出る。
この辺りが如意寺本堂跡のようで、建物の基台らしき平石もあちこちに残っている。
倒木が処理されて山科方面の景観がすこぶる良い。
山裾には近年に祀られたと聞く「おねがい観音」がある。
如意寺本堂跡の平地を抜け、林道に出会うと標識にある右方面の「三井寺、上空送電線通過地点東入」に向かう。
※この分岐から「灰山庭園遺跡」手前までは、本来の古道とは異なるようである。
大きく回り込む林道を約1km進む。上空の送電線に注意し真下に来れば山側に細い山道が入っている。
山道の上部は倒木でトレースがはっきりしないが強引に抜け出すと、関電巡視路の赤い「火の用心」の標識のある削平地に出る。
ここからは右下に向かって山道がついている。
植林帯のトラバース道になると、如意ヶ岳航空標識所管理道路への分岐標識がある。
※三井寺からの逆コースの場合は、赤い「火の用心」の標識のある削平地付近が一番迷い易いので注意が必要。
上空の送電線を目安に南方向を探ると、倒木の中を下の林道に降るトレースが見つかる。
如意ヶ岳への分岐を過ぎ、起伏はないが倒木の多い道を辿ると、比叡山を借景に見事な巨石が配置された「灰山庭園遺跡」で「灰山城跡」でもある。
次に京都滋賀府県境でもある鉄柵に囲まれた送電鉄塔を過ぎ、P408を越え急坂を降った峠状地形を左に降ると「千石岩」方面に向かう。
峠状地形を越すと長等山(ながらやま)への分岐がある。
長等山は「三井寺」の山号でもある。
ベンチがあり視野は狭いが琵琶湖が見える。
分岐に戻り砂地で滑り易い道を降る。
※右側下のアンテナ鉄塔がある大きな建物は、直下を通過するR161長等山トンネルの換気設備である。
道路建設時に「三井寺の聖なる山域に穴を開けるとは」と問題になった場所である。
下りの途中に児石(ちごいし)という地蔵様が祀ってある。
途中の右への分岐は雨裂で歩き難い本道を避ける砂地のルートで、直ぐに基の本道に合流する。
尾根道を降りきると坊越(ぼうこえ)峠である。
三井寺へは林道を越え東の谷道を降る。降り口に三井寺境内入場志納金の看板がある。三井寺境内に入るには原則的に志納金を納める必要がある。
狭い山道は砂防堰堤を2ヶ所越えると林道になり、古い墓標や供養塔を見ると三井寺境内である。三尾影向石を過ぎると園城寺総門受付で、受付の前方の角に「如意越起点」の標柱と、如意越の説明板がある。
園城寺総門を出て右方に行けば、珍しい「兎」を神紋とする三尾(みお)神社があり、「兎」の歳の初詣には大勢の参拝者で賑わう。
三尾神社参道を出れば右手の滔々と水の流れる堀割が「琵琶湖疎水」で、疎水に架かる鹿関橋を渡り直進すると京阪石坂線三井寺駅である。
難易度は軽登山レベルで特に危険な個所はないが、林道や間道が多く迷い易いので標識に注意して行動すること。
京と近江を隔てる府県境の比叡山系は、北部の梶山、水井山、横高山、大比叡と南下し、皇子山からは如意ヶ岳から大文字山と長等山から続く長柄山へと別れる。
京から近江へ抜ける比叡山系の古道としては、北から「迎木越」「雲母越・唐櫃越」「無動寺道」「白鳥越」「志賀越」「山中越」「如意越」「小関越」があり、長柄山南麓の旧東海道の「逢坂越」に至る。
鞍馬から大原を経る仰木越は、元三大師堂への参詣道でもあり、大原から仰木雄琴へ抜ける通商路でもあったが、現在、近江側は倒木等で通れる状態ではなく、大原側は東海自然歩道ないし京都一周トレイル道を利用して元三大師参詣道としては利用できる。
「雲母(きらら)越・唐櫃(からひつ)越」「無動寺道」は現在も比叡山回峰行者の修行道であり、「山中越」「小関越」「逢坂越」は現役の県道・国道である。
「志賀越」は現状「山中越」にとって変わられ廃道に近く。「如意越」は近世に三井寺参詣道として利用されたが、現状は「白鳥越」と同様に古道ハイキング道として利用されている。
如意越の道は、京と近江間の近道であり、大津から京都へ出る山越えの間道として、三井寺の僧侶などによく利用されていたとのことである。
また、源平争乱、南北朝の内乱等では軍勢が行き交う戦場になったことが『平家物語』や『太平記』などに見られ、内乱の際には京都からの脱出路ともなったといわれている。
例えば、保元の乱(1156年)で敗れた崇徳上皇が三井寺へ逃れようとして「如意山」へ入ったものの、険しい山道により山越えを断念したことが記されているとのことである。
さらに平家物語では、後白河天皇第三皇子である以仁王が平家打倒の令旨を出した後、平清盛側の追手から如意越で三井寺に逃れたともある。
鎌倉から室町時代にかけて三井寺は延暦寺とならび僧兵の武力を誇る寺で、如意越はいわば僧兵の道でもあったようだが、内乱の時代が終わると静けさを取り戻し、京都から三井寺への参詣道の一つとなった。
如意越の名の由来は、三井寺の別院で、智証大師の開創といわれる「如意寺(廃寺)」による。
その伽藍は、広大で東は長等山、西は鹿ヶ谷、南は藤尾にかけての山中に広がっていたという。
(文化庁「びわ湖大津歴史百科 如意越」からの抜粋あり)
臨済宗南禅寺派の尼門跡寺院。
「谷御所」「鹿ケ谷比丘尼御所とも言われ、全国13寺ある皇室関連の女性が代々住職をされたという格調高い寺院である。
200体程の御所人形を所蔵。100種類ほどの椿が植栽され「椿の寺」とも言われる。
椿の開花時期と紅葉時期の年2回一般公開される。
如意寺の楼門(月影門)があったとされる場所から楼門の滝と呼ばれる。
この谷は「桜谷川」というが、「平家物語」によると「楼門の滝」近辺の俊寛僧都の山荘で、俊寛僧都と藤原成経、平康頼等が平家打倒の謀議を行った場所というので「談合谷」とも呼ばれる。
この事件は能では「俊寛」、人形浄瑠璃や歌舞伎「平家女護島」などで伝えられている。
「俊寛僧都鹿ケ谷山荘址碑」は昭和になって建てられた。
滝の上部の平地には、如意寺関連の楼門の滝を那智の滝になぞらえた熊野三所跡、寶厳院跡などが残っている。
社殿前には、かつては大きな池があり竜神を祀る「雨乞い信仰」の地であった。
如意ケ岳南山麓の平地で以前は植林帯であり、展望も無く跡地は確定しずらかったが、前年の台風で植林が倒壊、近年に倒木が整理されたので展望も良くなり全貌が見渡せるようになった。
灰山庭園跡に築かれた室町時代の山城跡でもある。
如意越は白鳥越・志賀越と並ぶ京と近江を繋ぐ重要な軍道でもあり、室町時代から戦国時代にかけて近江から京に攻め入る際に度々利用された。
天台宗は妙法蓮華経を根本仏典とするため天台法華宗とも呼ぶ。
園城寺は天台宗「寺門」派総本山、対し比叡山延暦寺を「山門」派と呼ぶ。
園城寺境内地に天智・天武・持統の三天皇が産湯を使った井戸があったため、「三井寺」と呼ぶようになったという。
天台宗は993年に座主の座を巡る争いから分派、「山門」と「寺門」に分派し近世まで相争う歴史を持つ。
時の勢力あるいは反対勢力により焼き討ちを受けたのは、延暦寺は信長によるものだけであったが、円城寺は平安時代から南北朝時代にかけて、平家や南朝勢力、比叡山延暦寺から23回も焼き討ちを受けており、秀吉からも寺の闕所処分を受けている。
その都度に復興したという不屈の歴史を持っている。
毎年8月16日、京都市の北側半分をとり囲む山々の斜面では精霊送りの火が焚かれる。
これは「五山の送り火」として広く知られている。
この送り火は、左京区大文字山の「大」の文字が午後8時に点火された後、反時計回りで5分おきに最後の「鳥居形松明」に至るまで五山で炎が上がる。
この最初に点火される「大」の文字の火床が如意ヶ岳(472m)の西側前峰にあたる大文字山(465.4m)中腹の斜面にある。
火床は75か所あり、毎年浄土院檀家による保存会の人々により守り伝えられている。
この火床は、銀閣寺から蹴上南禅寺に至る「大文字山ハイキングコース」にあり、京都市街の展望にも優れている。
小関越は大津と京を結ぶ古道で、山科で東海道と分かれ、大津の西近江路(旧北国街道)までの約8kmの近道である。
東海道が通る逢坂の関を大関と呼んだのに対して小関と呼ばれた。
また観音巡礼の札所三井寺から京都の今熊野への巡礼道でもあった。
芭蕉も通っており、貞享2年(1685年)2月、京から伏見を経て大津へ向かう小関越えの途中、次の句を詠んでいる。
山路きて何やらゆかしすみれ草
初級ハイキングコースとして人気があり、とくに春には長等公園や山科疏水の桜見物におとずれる人も多い。
真如堂前
↓(約0.4km:15分)
霊鑑寺
↓(約0.5km:20分)
波切不動
↓(約0.6km:30分)
楼門の滝
↓(約0.7km:30分)
大文字四辻
↓(約0.9km:20分)
雨社「如意岳分岐経て」
↓(約0.6km:20分)
如意寺跡
↓(約0.2km:5分)
林道支線
↓(約0.9km:20分)
送電線下分岐
↓(約0.8km:25分)
灰山遺跡
↓(約0.9km:35分)
長等山
↓(約1.7km:40分)
三井寺起点
合計=約8.2km:4時間20分(休憩は含まない)
JR京都駅発京都市営バスで真如堂前下車。京都駅からは5号系統岩倉行に乗車が便利。
中庄谷直『関西 山越の古道 中』ナカニシヤ出版、平成7年
木村至宏『近江の峠道』サンライズ出版、2007年
「如意越の道」パンフレット、OH!山讃クラブ
《担当》
日本山岳会京都・滋賀支部
村上正
岡田茂久
《協力》
日本山岳会MCC
(敬称略)