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90 鯖街道

鯖街道 針畑・丹波越え

古道を歩く

小浜から遠敷・針畑越えを経て小入谷

福井県小浜いずみ町にある「鯖街道起点」のプレートから第一歩を踏み出して、最初の目的地である遠敷根来坂へと向う。
上根来までは舗装道路であり、タクシ―利用なら小浜から上根来までは20分ほどで着く。
「若狭神宮寺」や「鵜の瀬」の見学も可能である。

上根来の集落には市営の牛舎跡がある。
少し登ると鯖街道の立派な石碑が据えられており、4台ほどの駐車スペースがある。
ここから一旦車道を離れて古道が始まる。石板から尾根道をジグザグに一息で登れば緩やかな尾根に出て視界は一気に広がり、やがてゴザ石に着く。
ここから見る百里ヶ岳は美しい。

林道に出て20分程進むと鯖街道の標識が有り、左の山道に入る。5分で池の地蔵に着く。
地蔵の傍には井戸があり、旅人達が喉を潤したのであろうと想像は尽きない。
根来坂の登りも後半に入り、吹き抜ける風に冷たさを感じだすと針畑越え(根来坂峠)である。

下りもU字形に踏み刻まれた道を辿り、小入(おにゅう)林道に出たところが焼け尾地蔵である。

10mほど林道を歩いて古道に戻る。
下り続ければ滋賀県朽木小入谷である。
この集落で一日目の行程を終える。(小入谷:泊)
小入谷の宿は一軒だけで『くつき源流のお宿・古民家 COCCO小入谷』である。
※同じ峠だが、若狭側は遠敷と書き滋賀では小入と書く、ともに「おにゅう」と読む。

小入谷針畑川から久多へ

この日は県道781号線の舗装道路を歩く。
この間は高島市営のマイクロバスが2時間に1本通っているが歩き通そう。
小入谷を発ち針畑川の流れに添って久多へと向かう。
最初に出会うのが、石の大鳥居を構え厳かに鎮座する大宮神社である。
続いて現在は児童3名となった朽木西小学校、大勢の村人がいた昔が懐かしい。

平屋だがひときわ目立つ新しい建物は古谷簡易郵便局。
針畑川の流れに添って南下して行くと、針畑桑原の橋が右手に見える。

この橋を渡れば経ケ岳登山口で綺麗なトイレがある。
その先には地蔵堂があり、道標に従い登山道を登ると旧鯖街道の十兵衛茶屋跡に至る。

※本来の旧鯖街道は針畑川流域の桑原から久多川流域へは「丹波越」で越すのであるが、経路不明の個所が多いため、今回の調査では桑原から久多まで県道781号線を辿ることになった。
針畑桑原からの「丹波越」は、桑原の地蔵堂の横から登り久多に至る道である。
地蔵堂からの尾根を辿れば茶店跡に着く。
この茶店跡を久多側に超えれば久良谷である。
ここから南の経ヶ岳と見後越えまで、つまり久良谷と見後谷の間の久多側の斜面には、古道が存在したのは間違いない。
[消えた古道の区間]参照。
新鯖街道は桑原の橋まで戻り、鄙びた思古淵神社を過ぎ、平良(ヘラ)の集落をやり過せば渓流釣りセンター分岐である。

久多川に掛る橋を渡ればT字路で、東に行けば梅ノ木で西に行けば久多である。この下手で針畑川と久多川とが合流する。
久多までは久多川に添って緩やかな登り降りが何度か続くが、一踏ん張りすればやがて久多の集落に着く。明日の行程は疲れも出てくる頃で、久多泊まりで身体を癒すことを勧める。
※久多には宿泊可能な民宿が数軒ある。

久多からオグロ坂峠、大見坂、花背峠、鞍馬を経て出町

※後半の花背峠から交通機関が使えるが、自力でゴールの出町まで歩き通すなら久多を早発ちしなければならない。
久多の交番所の前に掛る橋を渡り、左方向に700mほど進むとそのままオグロ坂の林道に入る。

谷に添って進むとやがて荒れた林道となる。
オグロ坂三十三曲がりの取り付き点に着く。

U字に窪んだ心地よい古道から振り返れば、どっしりとした経ヶ岳が間近に見える。
あと少し登ればオグロ坂峠である。
峠には地蔵が祀られている。

ここから緩やかな六尺道を下れば八丁平の高層湿原である。
数十年前、この八丁平も無粋な林道が建設されるところであったが、大規模な保護運動のお蔭で救われた場所でもある。
八丁平湿原からフノ坂に向かう。

フノ坂を降りて一旦林道と合流。
ニノ坂を下りきればニノ谷管理舎のゲートがありトイレもある。

ここから花背峠までは車の通る地道を辿る。
廃村となった尾越を過ぎ、前坂峠を越えれば大見集落に着く。
この集落の入り口を右に辿り大見尾根を登る。一つ目の分岐は直進。

林道の所々には古道の痕跡が残っている。
和佐谷峠、百井と花背を繋ぐ峠である。稜線から遠く東には琵琶湖が望める。

山道もいつか林道となれば杉ノ峠。
京都バスが通る花背峠はもう直ぐであるが、バスの本数は少ないので、もうひと頑張り鞍馬まで歩こう。

鞍馬から出町柳までは叡山電鉄が通っている。
鞍馬寺から府道38号を南下し市原に出ると市内も近い。
ルートからは外れるが、そのまま鞍馬街道を市内に向かい、上賀茂神社に出て加茂川の河川敷を歩くのも楽しい(5㎞弱でゴールの出町に着く)。
鯖街道を出町まで忠実に歩き通すならば、鞍馬から12㎞程を歩くことになるが、その内の8㎞は京都市営バスや地下鉄が通る町の中を歩くことになる。
鞍馬寺から出町までのコースガイドは『鯖街道 針畑越え〈根来坂〉ガイドマップ』(鯖街道歴史研究会)に詳しい。
鞍馬寺山門を右に見て、市原・二軒茶屋を過ぎ更雀寺・円通寺へと向かう。
府道は38から40号に変わり深泥ヶ池からまっ直ぐ南下して北大路に出る。
下鴨中通りの細い道を歩き通せば下鴨本通りと合流し、葵橋を渡るとゴールの出町に着く。
京は遠ても十八里(76㎞)の行程を終える。
(時間が有れば、京都七口の一つ「鞍馬口」に寄るのも良い)

消えた古道区間の調査

ここでは、県道781号線の針畑川から久多へ辿るルートを紹介しているが、県道781号線が出来る以前はこのルートが枝道であったと考える。
この県道が出来る以前の丹波越えは、針畑桑原から経ヶ岳の稜線上手前の「十兵衛茶屋」跡を経て見後谷か久良谷の何れかを降りて久多に出ていたようだ。
県道781号線が出来る前の状況や歴史、又、参考にした文献などに出てくる諸先輩の調査記録などから見ても妥当であると考える。
なお、小入から梅ノ木の区間が正式に開通したのは昭和33年7月。同月に県道「麻生・古屋・梅ノ木線」として県道781号の認定記録がある(滋賀県土木事務所道路計画課の池野氏による)。
丹波越えの久良谷(クラ谷)と見後谷(ミゴ谷)ルートは、使われなくなって年月が経ち過ぎたようだ。
これまでにも多くの諸先輩方が調査されてきたが、未だに確定するには至っていない。
我々も鯖街道をまとめるにあたって無視できない道である。
茶店跡もあり、かつてはあったはずの丹波越えの道であることには間違いはない。
針畑桑原から久多に抜ける丹波越えは、泊まりを含めて6回の調査を行った調査区間であった。
桑原の針畑川に掛る橋を渡れば直ぐに地蔵堂がある。
その手前に綺麗なトイレがある。そこが丹波越えの取り付きであり、巨木の立つ尾根を辿れば茶店跡に着く。この茶店跡は、代々引き継がれてきた西沢家「十兵衛茶屋」の跡である(今は針畑平良(ヘラ)からの林道で抉られている)、そこから谷筋を少し登ればコルにでる、西側は緩やかな広い斜面になっている。
ここを少し下れば谷筋は狭まり水が流れはじめて小滝に行きあたる、久良谷である。
ここから北に向かって尾根を巻くように幅の広い水平道が現れるが、10分も歩かないうちに道は消える。
我々は丹波越えの一つのルートとしてこの久良谷を上下から調査した。

3回目の調査では、久良谷の末端から遡上調査をした。
京都府立大学演習林小屋の手前に地蔵が祀られている、そこから岩屋谷を渡り久良谷に取り付く。幾つかの炭焼き跡を過ぎると幻想的な風景が目に映る。
登り続けると650m辺りで滑りそうな7mほどの滝にぶつかる。
しかたなく右岸の急な尾根を藪漕ぎをして登りきって出た台地が前回見つけた水平道であった。
この辺りの斜面は緩やかで経ヶ岳の主稜線までを高度を変えて何度かトラバースをし、開けた台地では生木用と思える粗目の古い鋸や酒瓶を見付けた。
木を降ろすためのウィンチ跡ではないかと思う。その後しばらくして経ヶ岳の主稜線に出た。主稜線に道はあるが、新しく残念ながら古道跡では無さそうだ。(この主稜線を下れば見後谷の出合に出る)。

もう一つは見後越えルートである。
久多から岩屋谷に向かい、見後谷の出合いから見後越えを目指した。
(今は無いが、以前はここにも地蔵が祀られていた。見後谷の道が寂れたので信心されていた村の方が下に降ろされたそうが、今は行方不明だと言う)
見後谷も久良谷と同様で、幾つかの炭焼き跡がある。
その辺りまでは何とか道らしきものはあるが、上部に行くにつれ不明瞭になる。
谷の水も細くなり歩き辛くなったので右岸を20~30分の藪漕ぎをして、経ヶ岳から見後越えに続く稜線の中間に出た。
日を改めて、経ヶ岳から見後越えに向かい、そこから見後谷を下降したが、やはり上部で道は見付けられず、前回に藪漕ぎをはじめた地点に着く。
針畑平良から見後越えを経て見後谷を下る道は、久良谷よりも上部まで道が続いており久良谷よりも後に消えた道であると思える。
久良谷上部から経ヶ岳の主稜線700m位から800m位までの区間は、立て横に歩き調査したが、顕著な古道跡と思える跡は見いだせなかった。
北は久良谷で南は見後谷で終わるこの間の斜面の古道は、使われなくなってから年月が経ち過ぎたようだ。
古道の形跡らしきものは認めたが、伐採索道に利用されてしまったのか判別は付き難い。
経ヶ岳山頂から久多側に向かって西南西に延びる尾根に道は有るが、全体的に新しさを感じる。
我々の結論は「かつてはあった古道だが、使われなくなって今は見当たらない」である。
この区間は鯖街道で唯一消えた魅力ある古道「丹波越え」の区間であり、登山者魂を擽られるかつて古道であることには間違はないと思う。

※このルートの走破は、地形読図に熟知され、露営の経験も豊かな登山者のみに許される。
《このルート図は、後日会員ページに掲載します》

この古道を歩くにあたって

①『この古道を歩くにあたって』
この街道はネーミングに魅かれて来る人がいる。大半の人は部分的にチョイスして歩いているようだ。
特に高層湿原の八丁平は訪れる登山者も多く、必然的に間違った踏み跡も多く見受ける。
低山では森林開発の林道を多く見かけるが、この街道も例外ではない。
登山道から林道を歩き、登山道に戻ることもしばしばある、降り口や登り口を通り過ぎないように注意が必要だ。
体力的な難易度は低い方だと思うが、読図だけは確かな技術が必要である。

②「古道を歩く」の「消えた古道区間の調査」で紹介した久良谷と見後谷ルートをはじめとするすべてのルートは、地形読図に熟知し、露営の経験も豊かな登山者のみに許される区間である。

古道を知る

鯖街道の歴史

古代・中世

福井県西部にあった若狭国は、志摩国、淡路国などとともに「御食国(みけつくに)」と呼ばれ、京都や奈良にいた皇室や朝廷に海産物などの食料を貢いだ国だった。
『古事記』や『日本書紀』をはじめとして多くの文献に若狭の名が登場する。
『延喜式』には、旬料(10日ごと)として上下旬七担ずつの「雑魚」、節料として正月三節に一〇担ずつの「雑鮮味物」を、年料として「生鮭・山薑(ワサビ)・稚海藻(ワカメ)・毛都久(モズク)・於己(おご)」を贄として貢進することが定められている。
また、調としては塩が収められていた。
藤原京や平城京の遺跡から出土した荷札(木簡)には若狭からの海産物を納品した記録が多くみつかっている。
食料だけではなく、大陸に面している若狭国には外からの文化が持ち込まれ、それを都に運ぶ役目も担っていた。
また、日本海側では、国の税物が敦賀の湊に運ばれていた。
若狭と都とも道を通して様々な文化の行き来があり、若狭には古代に建てられた古刹が残され、また祭りなどが都から伝わり、京では廃れてしまったものが若狭で受け継がれている。
『延喜式』によると当時の租税は、九里半街道(熊川、保坂)で勝野津や木津(高島町)に運び、そこから舟で大津に運んでいた。
若狭を代表するもっとも栄えた港町が福井県西部の小浜である。
小浜は外国や日本沿岸とつながる「海の道」と都へつながる「陸の道」の起点だった。
室町時代の連歌師・宗祇の著書にも「若狭国ハ京ヨリ北ナリ、小浜ト云フ処マデ十八里アリ」とある。

近世

若狭の海でとれた代表的なものが鯖で、この道を通って京へ運ばれたことから「鯖街道」と呼ばれるようになった。
竹かごに笹の葉を敷き、それに塩をした鯖を積んで、オオカミに襲われないように数人で運んだという。
しかし、「鯖街道」という呼び方は近年になってからのことで、運ばれたのは海産物だけではなく、北前船などによって若狭に下ろされた物質も多く運ばれていた。
司馬遼太郎『菜の花の沖』の主人公である高田屋嘉平衛の北前船も寄港していた湊である。
近江と日本海文化圏のメインルートで若狭と繋がり、通商文化繁栄の基盤となっていた。
古代からもっとも物資が運ばれたのは、小浜から熊川宿を通り、京へ抜ける若狭街道である。
江戸時代には市場も整備され、この道では大きな荷物を馬借という馬による輸送を行っていた。
市場では魚の加工も行い、水揚げされた鯖は塩漬けされ長期に保存が効くよう工夫され鯖街道を通って都に運ばれた。
ちなみに鎌倉時代から江戸時代前期の若狭の漁業は先駆的で、大敷網を使った網魚や沖魚が行われていた。
「夏山や通ひなれたる若狭人」と与謝蕪村に詠まれているが、それほど日常的に多くの物が京へと運ばれてきたのだろう。

一本ではない鯖街道

小浜の材木商、板屋一助が明和4年(1767)に著した『稚狭考(わかさこう)』には、「小浜より京にゆくに、丹波八原通に周山をへて長坂より根来・久田・鞍馬へ出る道あり。其次八原へ出すして渋谷より弓削・山国に出て行道あり。また遠敷より根来・久田・鞍馬へ出るもあり。此三路の中にも色々とわかるる道あり。朽木道、湖畔の道、すべて五つの道あり。」とあり、さらに道は分岐合流して多くあったと書かれている。
また、寛延2年(1749)に小浜藩によってまとめられた『若狭国志』には、官道として3本、間道7本が記載されており、そのうち、以下が京への道としては利用されていた。
《官道》
丹後道(京道)(大杉-熊川-小浜-高浜-犬石-吉坂)
《間道》
甘木峠越(上林越)(小浜-久坂-納田終)
棚坂越(坂本越)(小浜-久坂-坂本)
血坂越(小浜-久坂-堂本)
五波越(小浜-久坂-堂本-志見谷)
針畑越(小浜-遠敷-神宮寺-上根来)
ただ、若狭と京を結ぶルートは、山中に枝道が数多くあり、歴史上密な交通が行われていたことが伺える。
江戸初期の医師・歴史家である黒川道祐は『雍州府志』(ようしゅうふし)に「枚挙ニ遑(いとま)アラズ」とも記している。
なお、地図や文献によって表記が異なっていることが多い。
針畑峠は滋賀県側の呼び名、根来坂峠は福井県側の呼び名である。
杉峠と杉ノ峠、大見坂と大見尾根、知井坂と血坂など。

若狭街道

鯖街道でもっとも盛んに利用されたのが若狭街道である。
小浜から熊川宿から水坂峠を越え、朽木村を通って花折峠を越え、大原から出町に出る道で、現在の国道27号や国道367号に相当する(大見坂を経由したり、バイパスがあるため、異なっている部分はあるが)。

九里半街道

小浜から熊川宿から水坂峠を越え、保坂から今津や木津に出て、琵琶湖の水路を使って大津経由で京や奈良に運んだ。
小浜から今津までは9里半の道のりである。
豊臣秀吉が伏見城をつくるときに資材の運搬にも使用されたという。
また、西国三十三所の札所巡りの順礼者が多く利用していた。

針畑越え

京への最短距離をとる峠道として今回調査した針畑越えがある。
小浜から遠敷を通り、針畑峠を越えて、久多を通り、花背峠を越えて鞍馬街道から出町柳に至る。
距離は短いものの険しい山道で、急ぎの荷物を運ぶ人びとが利用した。
『京は遠ても18里』と言ってこの道を進んだという(18里=72km)。
この針畑越えは鯖街道の中でも最も古い道といわれ、奈良時代まで遠敷が行政の中心地だった。
周辺には若狭国分寺跡をはじめ、古い寺院、神社が多数残っている。
また、織田信長の朝倉攻めの際、浅井長政の背反にあって、信長は朽木を越えて帰京したが、当時家臣であり、しんがりをつとめた徳川家康は針畑峠を越えて戻っている。

高浜街道

西の鯖街道といわれ高浜から名田庄、堀越峠、原峠、周山を経て周山街道で鷹峯へ出る約70kmの道で、若狭でもっとも西側に位置する丹波高地を挟むため険しい山道を越える。
また、篠山へも高浜などからの魚介類が運ばれていた。

そのほかの街道

小浜や高浜から、久坂、知井坂、深見峠を越えて、上弓削を経て高浜街道に合流する道。
同じく久坂から五波峠、ソトバ峠、祖父谷峠を越えて雲ヶ畑街道で出町に至る道。
また、九里半街道で今津から琵琶湖の西岸を、勝野、堅田、大津に抜ける西近江路があった。

鞍馬街道

鞍馬街道は京都七口のひとつに至る主要街道で、針畑越えにつながり鯖街道となる。
平安京と丹波国や若狭国を結ぶ道で、鞍馬寺と貴船神社に向かうための参詣道でもあった。
また参拝のための宿泊も必要であったことから、鞍馬の町は門前町の役割を持っていた。
鞍馬寺は、牛若丸(源義経)が修行をした地として知られ、能の『鞍馬天狗』にも描かれている。

深掘りスポット

熊川宿

熊川はもともと40戸あまりの小さな寒村だったといわれている。
室町時代、足利氏直属の沼田氏の山城の遺構が残っている。
その後、小浜城主であった浅野長政が「諸役免除」のお墨付きを与えて、町づくりをしたため商業の町として発達した。
魚介類だけではなく、小浜で陸揚げされた北前船の物資の中継地として鯖街道でもっとも栄えた宿場町となった。
熊川宿では多くの商人や牛、馬が行きかい、荷物を扱う業者や牛や馬の世話をする人たちでにぎわったといわれている。
平成8年に文化庁の重要伝統的建造物群保存地域に指定され、また平成27年には日本遺産認定を受けている。

若狭神宮寺と鵜の瀬のお水送り

遠敷にあり、若狭神宮寺は和銅7年(714)に創建されたといわれる天台宗の寺院。
お水送りで知られる。
本堂は室町時代末期、天文22年(1553)越前守護朝倉義景が再建したもので、木造男神・女神坐像は、国の重要文化財に指定されている。
毎年3月2日に境内の閼伽井(あかい)で汲んだ水(お水汲み)を、山八神事(やまはちしんじ)、修二会(しゅにえ)、弓打ち神事、大護摩法要などを経て、寺を出て松明行列で約2km離れた鵜の瀬に運び、鵜の瀬では、竹筒に入った「香水」を奈良に向かって流す神事、「お水送り」が行われる。
奈良と小浜は地下でつながっていると信じられ、その閼伽水を汲み上げ、本尊にお供えする儀式が東大寺二月堂の「お水取り」である。
このように古来から奈良と若狭は深いつながりがあったといわれている。

若狭彦神社と若狭姫神社

若狭国一宮。上社が若狭彦(わかさひこ)神社、下社が若狭姫(わかさひめ)神社。
若狭姫神社は遠敷にあり、遠敷川を遡った龍前に若狭彦神社がある。
『古事記』や『日本書紀』にある海彦山彦を祀る神社で、若狭彦神社は山幸彦である彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)を祀り、若狭姫神社は豊玉姫尊(とよたまひめのみこと)を祀る。
和銅7年(714年)に若狭彦と若狭姫が白石に示現し、若狭彦神社が創建された。
翌年の霊亀元年(715年)に遠敷に遷座した。
若狭姫神社は、養老5年(721年)に若狭彦神社より分祀して創建された。
詔戸次第(のりとしだい)や三条宗近宗近の太刀は、重要文化財である。

岡津製塩遺跡

若狭の海岸では塩が生産され、岡津製塩遺跡だけでなく、阿納塩浜遺跡など70か所以上の製塩遺跡がある。
海水を煮詰めて水分を蒸発させて塩を取り出す製法で、大量に作るために使ったとされる大型の製塩土器も発掘されている。
岡津製塩遺跡は古墳時代から奈良時代にかけての遺跡で奈良の都へ税(調塩)として納められていたことが藤原宮や平城京から出土された木簡に書かれている。
若狭の調の品目は塩に限定されており、律令体制のもとで若狭が塩貢進国として重視されていたことがわかる。

ミニ知識

若狭もの

海から遠い都では魚はとても貴重だった。
「若狭かれい」「若狭ぐじ」など京料理にはかかせない食材である。
特に傷みやすい鯖は、塩漬けにされたり米糠に漬け込んで運ばれた。
夜明け前に若狭を出発すると夕方には京都に着いたといわれ、その頃には丁度よい塩加減になっている鯖を使って棒寿司を作ったといわれている。
若狭湾のほぼ中央にある小浜は古くから港町として栄えていたが、江戸時代には市場も整備され、その市場で軽く塩をふり「若狭もの」とよばれる加工をしていた。
現在でも、しめ鯖、へしこ、なれずし、むし鰈は名物である。
小浜の北東にある三方五湖(みかたごこ)にはそれぞれの湖の塩分濃度が違うため、いろいろな種類の魚が獲れたという。
こうしていろいろな種類の魚が鯖街道を通って京の町に運ばれていった。

松上げ

京都の北部、山城には「松上げ」という行事がある。お盆の8月24日(地域によって前後する)、河原に組まれた櫓に長い竹竿が夜の空無に向かって立てられる。
その穂先には大きな鳥の巣の様な籠があり、そこをめがけて荒縄に括られ火がつけられた松明を上に向かって投げる。
先の籠には枝葉が入れられており、火がついた松明は穂先をめがけて籠に火がつくまで人々は投げ続ける。
夜空に引く幾筋もの炎は綺麗な神事で見応えがある。

ルート

《コ―スタイムと距離》
注1(距離の表示は、スタートから歩いた距離の積算である)
注2(時間の表示は、区間のごとの表示で/で分け、積算距離と時間を同じ場所に示した)

【一日目:25㎞】
いづみ町
↓15㎞/4時間
上根来
↓20㎞/2時間
針畑越え
↓25㎞/1時間30分
小入谷
【二日目:16㎞】
★山間部の舗装道路歩き
(41㎞/4時間30分)
小入谷

大宮神社

古屋簡易郵便局

朽木小川(コガワ)

川合橋

久多
【三日目:35㎞】
久多
↓(47㎞/2時間)
オグロ坂峠
↓(54㎞/5時間)
大見坂経由で花背峠
↓(64㎞/1時間30分)
鞍馬
↓(76㎞/3時間)
京都出町
★歩き通すか交通機関を使うかで、鯖街道の楽しみ方は変わる。
なお、コースタイムは「鯖街道ガイドマップ」のものを参照させて頂いた。

アクセス

福井県のJR小浜駅から海側に5分ほど歩けば、若狭小浜のいづみ商店街の『鯖街道ミュージアム』に着く。そこを起点とし京の出町まで歩き通せば十八里を完歩したことになる。
しかし遠敷上根来までは舗装されている道であり、タクシ-の利用をすすめる。
途中で下車して、お水送りの神事が行われる「若狭神宮寺」や御水を汲む「鵜ノ瀬」に立ち寄ることも出来る。

【宿の問い合わせ】
・「くつき源流のお宿・古民家 COCCO小入谷」
住所:滋賀県高島市朽木小入谷283
TEL:080-5345-7128 廣清乙葉
・京都市左京区久多
久多に民宿は数軒ある。休業中の民宿もあり、問い合わせは必要。

【交通機関の問い合わせ先】
☆タクシ―
小浜市 三福タクシ- TEL:0770-52-1414
☆バス
高島市市営バス針畑線 朽木支所 TEL:0740-38-2331
京都バス(花背~出町柳) TEL:075-871-7521
☆電車
叡山電鉄(鞍馬~出町柳) TEL:075-781-5121

参考資料

『若狭国志』小浜市
『小浜市史』小浜市
金久昌業 『北山の峠 上・下』ナカニシヤ出版
黒川道祐『雍州府志 近世京都案内』岩波文庫
斉藤清明『京の北山ものがたり』松籟社
司馬遼太郎『菜の花の沖 〈二〉』文藝春秋
上方史蹟散策の会編 『鯖街道』向陽書房
服部文祥 『百年の山を旅する』東京新聞出版部
中庄谷 直『関西・山越えの峠 下』ナカニシヤ出版
藤井譲治『近江・若狭と湖の道 街道の日本史31』吉川弘文館
『根来坂』小浜山の会
鯖街道歴史研究会・御食國若狭倶楽部 『鯖街道 針畑越え〈根来坂〉ガイドマップ』
日本遺産連盟『日本遺産 地域の歴史と伝統文化を学ぶ』(協力・文化庁)ポプラ社、2019.1
植條則夫『街道を歩く 京への道』淡交社、2004.4
こどもくらぶ編著『ふしぎがいっぱい!ニッポン文化2 東海・北陸地方のふしぎ文化』旺文社 2010.1
後藤真樹、小泉武夫監修『未来へ伝えたい日本の伝統料理 日本の食を考える』小峰書店 2016.8

協力・担当者

《担当》
日本山岳会京都・滋賀支部
 村上正
《協力》
鯖街道歴史研究会:杉谷長昭
京都トライアスロンクラブ:橋詰彬
宿COCCO小入谷代表:廣清乙葉
滋賀県土木事務所道路計画課:池野
日本山岳会マウンテンカルチャークラブ:高間晃子
(※敬称略)

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