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79 大日古道
登山口の口坂本まで乗用車を利用する場合は、静岡市営口坂本温泉浴場の駐車場を利用することができる。
バスを利用する場合は、終点の上落合バス停から約5kmの車道歩きになるため一般的ではない。
口坂本温泉は1977年(昭和52年)に開業した共同浴場で、静岡市街地から近いため休日は入浴客で賑わっている。
大日古道登山口に行くには市営浴場玄関脇の小道に入り、その先にある階段を登って車道に出る。
車道を大日峠方面にしばらく歩くと、左手に「歴史と文化の街道・大日古道」という大きな案内板がある。
ただしここに記されている「峠まで6km」の6kmは井川までの距離であり、峠までは3kmが正しい。
案内板の向かい側、古道の入口左手に「大日古道登山口」という小さな案内標識が民宿看板の下に架けられている。
口坂本から大日峠まで2時間ほどを要する。
民家に沿って坂道を登り、大日古道の案内標識に従って左手の登山道に入るとすぐに一番観音像があり、その標識が立っている。
口坂本から大日峠まで現存する観音像は五体で、その中には原型を留めていないものもある。
山腹に沿った山道をしばらく登り、五番観音像跡の標識を過ぎるとほどなく車道に出る。
本来の大日古道は荒れた樹林帯の中に続いていたものと思われる。
現在は車道を大きくカーブした先までしばらく歩いたあと、擁壁脇に付けられた山道に入るのだが、標識が朽ち果て分かりにくい。
樹林帯の山道を登るとマンホール蓋があるコンクリート製の貯水槽があり、ここから尾根沿いの急登がしばらく続き再び車道に出る。
車道を渡った正面の急坂を案内標識に従って登ると、十五番観音跡の標識があり、樹林帯の九十九折の急登がさらに続く。傾斜が緩くなった先の広い場所が茶店跡で、付近の古い石垣は水田があった痕跡である。
かつてこの茶店では、大日峠越えの通行人にうどんなど食事を提供していた。
この辺りに十六番観音跡の標識があり、ここが口坂本から大日峠までの中間地点にあたる。
概ねここまで1時間の道程になる。
ここから九十九折の急登がしばらく続き、二十番観音跡の標識を過ぎる頃には倒木が多くなり、この先は山道が荒れている。
荒れた山道を登り切ると林道に出て、その先の不明瞭な踏み跡を辿ると緩やかな山道となり、二十五番観音跡の標識を過ぎしばらく登ると再び林道に出る。
広場には湧き水の水場があり、そこに二十六番観音跡の標識がある。
1955年(昭和30年)頃まで水吞茶屋があったようだが、湧き水の小さな池が残っているだけでその痕跡は見当たらない。
ここから緩やかな山道を20分ほど登れば、標高1,160mの大日峠に到着する。
峠の入口には大日如来之碑が立っており、その先は大日高原ピクニック広場になっている。
大きな芝生の広場にはトイレ、屋根付きの休憩所があり、復元された徳川家康公の御茶壺屋敷がある。
井川湖の渡船場に下るには広場から小道を下り、車道を横切って案内標識に従って山道に入る。
井川側の大日古道は、大正時代に三十三体の観音像が新たに設置されており、その標識と観音像を見ながら樹林帯の急な山道を下ることになる。
南アルプスユネスコエコパーク井川少年自然の家の横を通り、さらに急坂を下ると十七番観音跡の標識を過ぎて林道に出る。
案内標識に従って林道から山道に入ると、十六番観音跡の標識があり、渡船場方面の標識に従って下り続け、七番観音跡の標識の先で枯れ沢に架かった鉄の小橋を渡る。
六番観音跡の標識を過ぎ、しばらく下ると道中観音の説明板と大日古道の大きな案内板がある。
ここには三番観音跡の標識だけでなく、二番観音跡、一番観音跡の標識が同じ場所に立っている。
おそらく、かつてあった観音像の場所が正確に分からないため、この場所に一緒に立てたものと思われる。
このあたりから井川湖の水面が見え始め、ほどなく宮向渡船乗場という看板がある湖岸に下り立つ。
大日古道は井川ダム湖に水没したかつての井川集落まで続いていたが、現在はこの渡船場で終了ということになる。
渡船に乗船するには静岡市役所の井川支所に事前予約するか、看板に書かれた渡船待合所に電話して待つことになる。
乗船すれば5分ほどで対岸の井川本村地区に着岸する。
1954年(昭和29年)、大日峠越えの林道が整備されて以降、かつての大日峠越えの山道は地元民も歩かなくなり歩道は荒れていた。
その後、NPO法人「大日倶楽部」が修復活動を行ったが、最近は案内標識も朽ち果て、山道と林道が交差するあたりは分かりにくい箇所がいくつかある。
全体的には危険箇所もなく比較的歩きやすい山道だが、倒木で荒れた箇所が一部にあり、また大日峠直下は林道が拓かれたことで山道が分かりにくくなった。
小さな案内標識を見落とすことなく歩けば、大日峠を越えて問題なく井川湖岸に下りることができる。
静岡市みどりの道(小冊子)にも紹介されているため、静岡市山岳連盟が毎年草刈りを行っているが、荒れた山道の整備や案内標識の立て替えまでは行われていない。
渡船に乗船するには静岡市役所井川支所に事前連絡して、大まかな乗船日時を知らせておくと間違いない。
なお、口坂本から大日峠を越え渡船で井川に渡ると帰路の手段がないため、運転手を手配して車を井川に回送する方が望ましい。小型マイクロバス程度の車両までなら口坂本から大日峠を越え井川に向かうことができる。
車を回送できない場合は大日峠までの往復となる。
バスは口坂本まで運行されていないので公共交通機関の利用は一般的ではない。
大日古道とは静岡市葵区口坂本から大日峠を越え、二本松を経由し井川湖岸の船着場に至る距離約6km、道幅60cm~90cmほどの山道のことである。
1954年(昭和29年)、井川ダム建設工事の開始に伴い、大日峠を越える林道が整備されるまで、水没したかつての井川集落へ向けて徒歩で越える生活道であった。
林道開通以降、口坂本から井川湖岸に至る大日峠越えの山道はいつしか忘れ去られ、歩道は朽ち果てた。
近年になってNPO法人「大日倶楽部」により大日峠越え歩道の修復活動が行われ、古の道が復活した。
いまでは「歴史と文化の街道・大日古道」として紹介され、時折ハイカーが訪れている。
大日峠越えの林道が整備されるまで陸の孤島であった井川の歴史は古く、田代地区の割田原で縄文時代の竪穴式住居が発見されていることから、およそ五千年前にはこの地に人が住んでいたことになる。
大日古道の生い立ちは井川に住む人々の歴史であり、江戸時代初期まで遡る。
16世紀初頭、戦国時代の落人が信州や甲州から険しい山を越え、この地に移り住んだとも伝えられている。
元禄年間、駿府城下との交易、生活物資運搬のため井川から口坂本まで拓かれた山道である。
当時、大日峠を越える通行人の安全と無事を願って、一町(約109m)ごとに三十三体の観音像を地主や地元の有力者が寄進したと言われ、中継地であった口坂本は大変賑わったと推定される。
1889年(明治22年)、安倍郡井川村が制定された頃は、静岡の街中から井川に行くには口坂本から大日峠を歩いて越えていた。この大日峠越えは昭和の時代まで続き、井川に行くためには静岡市街地から路線バスとオート三輪を乗り継ぎ、口坂本から大日峠を歩いて越えるため一日がかりだった。
1936年(昭和11年)、荷物運搬のため口坂本から井川の西山平まで大日索道が建設され、長らく続けられた人力による生活物資運搬から解放された。
大日峠という名称は、峠や直下の冷水が湧く休息地に大日堂を建て、大日如来を祀ったことに由来していると言われているが、大日という地名がそれより以前に井川側にもあることから定かではない。
大日峠の大日堂は1959年(昭和34年)の台風で崩壊し、水吞茶屋の大日堂もおそらくこの時期に崩壊したものと思われる。そこに大日堂があった証として、大日峠に大日如来之碑が立っている。
大日古道は井川湖まで続き、渡し船で井川本村地区の船着き場まで無料で乗船することができる。
なぜ乗船料が無料かというと、本来歩いて行けた井川までの道のりが、ダム建設により絶たれたという意味合いがある。
かつて口坂本から下流4kmまでが井川校区であり、口坂本に住む子供たちは山道の大日峠を越え、その先の開拓集落から通学バスで井川小学校まで通学していた。井川ダム完成後も大日峠越えの通学は続き、通学バスに乗れないときは井川湖岸の船着き場から手漕ぎ舟で対岸の井川に渡ったと地元住民から聞いた。
大日古道は元禄時代から続く歴史的発見が期待できるだけでなく、山間に隔絶された人々の生活の営みが、厳しい環境の中に息づいていたことを知る貴重な古道と言える。
宝永年間、大日峠に井川海野家の当主信武により石造りの大日如来が奉納され、それを安置する大日堂が建てられた。
大日堂は東向き四間四面造りで、秋には口坂本側の玉川、井川の人々が盛大なお祭りを行ったと伝えられている。
1959年(昭和34年)の台風で崩壊したため、本尊と脇侍は井川本村地区の御堂山大日院に奉還されている。
その後、大日堂跡地付近には大日如来之碑が建立されている。
口坂本から大日峠まで現存する観音像は五体だが、それ以外三十体余りの観音像も同じく大日院に移され、大切に保管されている。1918年(大正7年)頃、井川側に三十三体の観音像が新たに設置され、その頃に口坂本側と井川側の観音像は大日院に移されたものと思われる。
徳川家康は1607年(慶長12年)、将軍職を徳川秀忠に譲り江戸城から駿府城に移って隠居した。
家康は駿府城で茶会を催すため、当時の安倍郡井川の名主、海野弥兵衛と柿島の名主、朝倉六兵衛に、風味を損なわないよう新茶を茶壺に詰めて保管と管理を命じた。
命じられた両名は茶壺を保管するのに最適な土地を求め領内を巡り、1612年(慶長17年)に夏でも冷涼なこの地、現在の大日峠に御茶蔵を建設した。
念入りに吟味されたお茶は口坂本の海野屋敷において茶壺に詰められ、5月になると茶葉は蔵に入れられた。保管は長いもので一年余りに及び、駿府代官所の御茶蔵へと運ばれ家康の茶会に用いられた。
口坂本
↓ 60分(1.5km)
茶屋跡(十六番観音跡)
↓ 60分(1.5km)
大日峠
↓ 90分(3.3km)
井川湖岸渡船場
【GPS】
N35°11’43’’ E183°15’21’’
↓
N35°12’44’’ E183°14’44.7’’
静鉄バス上落合バス停から車道を5km歩く
乗用車の場合、口坂本温泉駐車場を利用
・「みどりの道」静岡市役所・静岡総合事務所・スポーツ振興課編集発行、静岡市山岳連盟協力、平成14年12月改定
・静岡市ホームページ「大日古道」
https://www.city.shizuoka.lg.jp/s6347/s001563.html
《担当》
日本山岳会 静岡支部
出利葉義次
《協力》
静岡市山岳連盟