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75 鎌倉街道御坂みち・若彦路・中道往還

中道往還

中道往還(なかみちおうかん)は、東海道と甲府とをほぼ直線で結び、御坂山塊を阿難(あなん)坂峠(女坂峠)で越え、より東方の若彦路と西方の河内路との間にあるゆえに、中道と名付けられました。
最短距離のため、東海道吉原宿にあがった駿河湾の生魚は丸一昼夜かけてこの道で運ばれて、翌日の早朝には甲府の魚市場に届いたと文献にあります。
また、徳川家康による武田氏滅亡後の甲斐国への入国や、その後の織田信長の富士遊覧の際にも使われ、家康が念入りに道や宿場を整備しました。
今は甲府精進湖道路が中道往還に沿ってつくられ、利用されています。

古道を歩く

精進湖の北にある精進集落に入ってすぐ、左手に精進諏訪神社があります。
境内には、精進の大スギと呼ばれる巨木がそびえています。

さらに北方へのまっすぐな舗装道路を上がると、山道となり、ゆるやかに広葉樹の林を登っていきます。
途中に、崩落を防ぐ石垣や石碑も見られます。
馬も通れそうなくらい広くてゆるやかな道を50分ほど登ると、阿難坂峠(女坂峠)に着きます。

西の三方分山と東の五胡山との稜線と交差しており、樹木で見晴らしはききませんが、石祠や石碑が複数あり、山口素堂の句碑「生魚の二十里走る不如帰」も立てられています。

古地図によると、南から峠を越える道はそのまままっすぐに北へ伸びていたのですが、探しても昔の道の痕跡は見出せず、現在の道は東方へトラバース気味に下っていきます。
途中から道跡が消失している急坂をジグザグに下りていくと、国道358号線(甲府精進湖道路)精進湖トンネル出口の西側に出ます(国土地理院地図では、ジグザグに下る途中、標高1000m付近で斜面をトラバースして北東へ伸びる水平の道が記されていますが、道型は不明瞭で、消失しているところが多々あります)。

そのあとは、国道歩きですが、トラックも多く走り路肩が狭いため、注意が必要です。
国道をトンネルから1時間、4.5kmほど歩くと「拓道栄郷」と彫られた石碑があり、そこから100mほどで集落に下りる道が左にあります。
左に下り、田畑の間の舗装道路を西へ1kmほど行くと、寺川に出ます。
川を渡ったところに、「石尊さん」があります。
相模国雨降山大山寺の石尊大権現を勧請したもので、看板には、その謂れや「呪文」が書かれています。
中道往還は、「石尊さん」から寺川沿いに上がり、さらにザドウ沢に沿って精進湖トンネル出口のところに伸び、阿難坂峠からの道とつながっていました。
「石尊さん」から寺川沿いに道らしきものはありますが、洪水やそれに伴う護岸整備などで、消失したものと思われます。
「石尊さん」から道なりに100mほど北に行くと「古関関所跡」の看板があります。
この道は古道跡だと考えられます。

その先に「旧上九一色村郵便局」の木造建築が見え、建物沿いに左へ細い道を進むと吉詳寺の広場があります。
徳川家康が休息した場所と伝わります。

来た道を戻り、丸石が置かれた道祖神を右に見て道なりに少し下り、宮川橋で宮川を渡り、再び国道358号線に出ます。
国道358号線沿いには民家や商店がならび、西に1.5kmほど歩くと、右の斜面の上に梯神社があり、県道に入ります。
県道をさらに1kmほど行くと、右の斜面一面に崩壊防止のコンクリートが打たれたところがあり、一段高いところに、庚申塚、地蔵菩薩像、馬頭観音像が並んでいます。
そばに階段があり、中道往還の迦葉(かしょう)坂(柏尾坂)への入口です。

迦葉坂は標高300mほどを一気に上がり、それからは広くてゆるやかな道となり、平坦な場所を過ぎると木々に覆われた迦葉坂峠に到着します。
道は右左口宿歴史文化村推進会の方々によって手入れがされ、ひとつひとつの石仏や石碑には名が記された立て札が埋め込んであります。

 

峠を越えて東方へまっすぐトラバース気味に進むと、右左口峠との分岐に道標が立っています。
そこからは右左口宿のある北北西の方角へ下り、右へ左へと曲がるたびに千手観音像や馬頭観音像に出会います。
「台座のみ」という掲示もあります。

 

 

 

 

右左口宿歴史文化村推進会の方々が昔の石畳を掘り起こした箇所を過ぎて少し行くと、甲府精進湖道路右左口トンネル出口の東側に出ます。
国道を渡ってそのまま西にまっすぐに行き、沢を渡って尾根を巻き、そのあと道なりに北へと進みます。

生い茂った木の間の細い山道を進むと舗装道路に出ます。
さらにまっすぐに北へと坂を下っていくと右左口宿です。

【迦葉坂の石仏ガイドブック】

この古道を歩くにあたって

精進湖から阿難坂峠(女坂峠)までの部分と、迦葉(かしょう)坂峠入口から迦葉坂峠を越えて甲府精進湖道路右左口(うばぐち)トンネル出口の東側に出るまでの部分は、路面も比較的平坦でジグザグに斜面を切っているため、無理なく上り下りできる。
一本道で道標もしっかりしている。しかし、女坂峠から北へ下る途中、トラバースに入る部分の道が不明瞭となっていて、標高1000mを目安にして北東方向へ水平に斜面を進むといずれは、はっきりとした平坦な道が見えてくる。
ただし、崩落個所が多く、沢近くは特に道が途切れているため、国土地理院地図にある、国道358号線の東側上方を並行に走る点線の道の方へと進まずに、精進湖トンネル出口へと下ることをおすすめする。
また、国土地理院地図の「右左口トンネル」の「口」の文字のあたりに存在する迦葉坂峠の北側には、地図に道は書かれていないが、実際にはゆるやかでわかりやすい道があり、石碑・石仏も多い。
ただし、右左口トンネル出口の東側まで下ってきて、国道を渡って一旦西へ、沢を渡って北へと向かう道は藪の中や不明瞭な箇所があるため、注意が必要。

古道を知る

中道往還

中道往還(なかみちおうかん)は、甲斐(山梨県)と駿河(静岡県)を結ぶ古くからの街道の1つです。
江戸後期に編さんされた地誌『甲斐叢記(かいそうき)』によりますと、右左口宿(うばぐちじゅく)という宿場町を通ることから右左口路(うばぐちじ)ともいわれました。甲斐と駿河を結ぶ街道のうち若彦路と河内路との間にあるために「中道(なかみち)」と呼ばれたようです。その道すじは、甲府から南へ向かい、右左口宿を経て精進湖の西側から本栖湖そばの関所を通過。そこから駿河に入り、上井出で若彦路と合流し、大宮の村(現在の静岡県富士宮市)を経て東海道の吉原宿(現在の富士市)までです。約20里(約78km)の街道です。

軍用道路

中道往還は、戦国時代には「軍用道路」として使われました。甲斐と駿河の国を最短距離で結んでいたからです。
今から400年以上も前の1582年(天正10年)のこと。甲斐の武田信玄が亡くなって武田勝頼が家督を継ぐと、織田信長とその同盟者の徳川家康は武田家を滅亡させるために武田家の本国・甲府に入りました。その時、徳川家康が通ったのが「中道往還」だと、江戸中期の地誌『甲斐国志(かいこくし)』にあります。
徳川家康は、織田信長が武田家を滅亡させて甲府から安土に戻る際には中道往還の整備を行い、特に右左口宿と本栖宿は入念に普請を行った、と織田信長の一代記『信長公記』に記されています。

魚の道

しかし江戸時代になると、中道往還は軍用道路としての役割が低くなって、「魚の道」と変化しました。富士山麓のひんやりとした気候が、駿河湾でとれた魚を「海なし県」の山梨県に運ぶのに適していたのでしょうか。マグロなどの海産物が中道往還を使って人や馬の背で甲府まで運ばれました。中道往還は「魚の道」になったのです。
山梨県上九一色村古関(現在の甲府市)で生まれ育った土橋驚堂は、明治時代の自らの記憶をもとに次のように記録しています。
「(中道往還は)河川も少なく水害の患いもなく、常に富士の景色を仰ぎつつ、早き魚荷はその日のうちに甲府市場に届くので一番近道である。駿河湾の漁師が早朝捕獲した魚を沼津の問屋へ持ち寄り、集めて午後3時ごろに吉原の荷受け問屋に送り、それを甲府からの馬方が待っていて、午後4時頃に吉原を出発する。人穴付近で暗くなり、右左口あたりで夜明けを迎えて朝7時ころ甲府の問屋へ着く。」
「中道往還に馬子は80人、馬は100頭。1人で2、3頭の馬をひく者もいる。マグロ1本10貫目を背負って女坂や右左口(うばぐち)坂を越したものだ。」
「鮮魚を運ぶ馬を『いさば』という。道中には馬糞が高く盛り上がり、沿道民は悪臭に悩んだ。担ぎ屋は夜多く歩くので松明を使用するため、沿道の草ぶきの民家はボヤを出した。」

鉄道が開通

昭和の時代になると、富士駅(静岡県富士市)と甲府駅(山梨県甲府市)とを結ぶ鉄道が敷かれました。私鉄の富士身延鉄道です。しかし運賃が高かったために沿線住民から国有化を求める声が上がり、昭和16年(1941年)に国有化されました。これが現在のJR身延線となっていったわけです。
身延線の開通によって、中道往還は「魚の道」という役割を名実ともに終えたのです。

また、県もこの道を重要視し、右左口坂、女坂をトンネルにし、甲府精進湖間を平地として1時間くらいで自動車で走れる設計としました。
女坂を阿難坂、右左口坂を迦葉坂とよぶのは、上九一色と下九一色の境界にまたがる釈迦像が東向きで、その右手の山が阿難尊者、左手の山が迦葉尊者との意味から来たものと思われます。右左口坂に南面した平地を駒場といい、家康が通過する際、駒を休めたところです。少し下って、強清水という清水湧く所があり、家康公も飲んだと伝わっています。右左口の敬泉寺には今も、家康公が使用した葵のご紋付のお椀が保存されています。

深掘りスポット

右左口(うばぐち)宿

織田信長の甲府入府のために、徳川家康が整備した中道往還の宿場町で、今でも往還のまっすぐな道と、それに対して直角に、間口が4間2尺(7.7m)ずつに区切られた町割りが残っています。
往還を行き交う人々のために道沿いに水路や池(井戸)があります。
敬泉寺の門前にある宝蔵倉の瓦には、徳川の家紋が見られ、「徳川家康朱印状」「県指定右左口浄瑠璃人形」や徳川家康使用の葵の御紋付きのお椀などが保存されてきました(現在は、県立博物館にて保管)。

【右左口宿ガイドブック】

敬泉(きょうせん)寺

浄土宗。右左口宿の南端にあり、1612年の建立といわれるも、平安時代の十一面観音があります。

東照神君御殿場跡

天正10(1582)年、徳川家康甲斐入国の折、右左口宿に滞在したときの仮御殿跡。
このときの右左口衆の活躍により、「朱印状」による諸役免除・関所通行自由化などの特権が与えられました。

精進湖から南

中道往還は精進湖と本栖湖の間を抜けて、根原から人穴、上井手で若彦路と合流し、大宮で東海道へ合流して吉原に至る道です。
精進湖の南にある城山の麓には、国道139号線に沿って中道往還の道が残っています。

ミニ知識

山崎方代(ほうだい)

大正3(1914)年、右左口にて生まれた放浪の歌人。
昭和12年に母を亡くし、昭和13年に横浜にいる姉に父と共に引き取られる。
戦争で片目の視力をなくすなどさまざまな苦しみの中で望郷の「うた」をつくり、やがて鎌倉に住む。
歌集「方代」「右左口」「こおろぎ」「首」、エッセイ「青じその花」などを出版する。
平成8年度高等学校国語教科書「現代文」に短歌が掲載された。

甲州名物

煮あわびがこの道を運ばれている間に、味が良くしみて、甲州名物となった。
また、沼津近辺の駿河湾で捕獲されたマグロがこの道を運ばれていたためか、甲府人はマグロ好き。
マグロ購入量は、静岡市に次いで全国第2位となっている。

まつわる話

家康に名を与えられた吉川さん

武田氏滅亡後、徳川家康が駿府からこの中道往還を通って甲府へ入る途中、富士山西麓の上井出村根原で雨にあい、木こり小屋で雨宿りをした。
その小屋の屋根が檜皮でできているのをみて、「その屋根は何でふいたものか」と問い、木こりが「木皮である」と答えた。
「しからば、お前の苗字は木皮とするがよい」と命名した。
以降、根原村(約25戸)住民は、木皮を苗字としていたが、木皮が吉川となまり、今でも全村が吉川の苗字といわれている。

ルート

右左口バス停
30分↓↑20分
迦葉坂入口
110分↓↑90分
迦葉坂峠
40分↓↑60分
迦葉坂峠入口
130分↓↑120分
女坂入口
60分↓↑50分
女坂峠
40分↓↑50分
精進湖北側の精進諏訪神社

アクセス

精進湖へは、富士急行河口湖駅からバス。駐車場は、精進諏訪神社近辺。
右左口宿へは、JR身延線南甲府駅から上九・中道地区コミュニティバス(富士急バス)右左口バス停で下車。迦葉坂入口、右左口トンネル出口付近、女坂トンネル出口付近には、整備された駐車場はなく、公共交通機関の便もない。

参考資料

引用文献
*『山梨県歴史の道調査報告書第三集(中道往還)』山梨県教育委員会文化課編、1984年3月
*『中道町史 上』中道町史編纂委員会編、1975年
*『中道往還のむかしといま』山梨県企業局編集・発行、昭和49年4月
*『右左口宿歴史文化村ガイドマップ』右左口宿歴史文化村推進委員会編、2005年12月

協力・担当者

担当:
松本博子 (日本山岳会 マウンテンカルチャークラブ)
協力:右左口宿歴史文化村推進会の皆様
渡辺様
山下様
○右左口宿歴史文化村推進会のブログ
https://ameblo.jp/akirayamaubaguchi/

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