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75 鎌倉街道御坂みち・若彦路・中道往還

鎌倉街道御坂みち

甲府盆地と富士山麓との境界をなす御坂山塊を南北に越える主な道は、東から鎌倉街道御坂みち、若彦路、中道往還、河内路が知られている。
東海道と東山道を繋ぐ道でもある。
頼朝挙兵に際して甲斐源氏が軍勢を通したと吾妻鏡に記載があり、古代から鎌倉時代においては官道だった。
富士道者や伊勢詣でなどの信仰の道でもあり、馬背による交易路でもあった。

古道を歩く

河口側から山梨に

「三つ峠入口」バス停で甲府駅行のバスを下車し、車道を反対側へ渡ると「御坂みち」の道標が見える。
三つ峠入口への道標に従って少し歩くとすぐに、御坂峠への道標があり、左手へ曲がる。
落葉広葉樹の林の中に、広くてゆるやかな、路面の比較的平らな道がくねくねと曲がりながらついている。

途中に何か所か石仏も見られ、背後に落葉した木々の間から河口湖がちらりと見えるが、富士山は残念ながら望めない。
斜面が急な部分もあるが、道はずっとくねくねと曲がって緩やかに続いているので牛や馬でも歩きやすかったろう。

やがて、道は平らとなり、ほどなく御坂峠に着く。
左へ黒岳・大石峠、右へ三つ峠・天下茶屋の道標が立ち、茶屋が閉ざされてその前が広場のようになっている。

御坂城跡の看板もあるが、文字がほとんど見えない。
峠から真っすぐに北側へ下っていくと、急斜面をジグザグに道がつき、石畳も一部に見られる。
馬頭観音の大きな石碑もある。

斜度がゆるやかになったころに行者平の道標があり、石仏が岩の上に鎮座している。

小川沢川を渡るともう細い林道となり、藤野木オオバボダイジュの看板と巨木を右に眺めつつ、ゆるやかに下って、三星神社を左に見るとすぐに国道137号線に出る。

左方に「藤ノ木」バス停がある。
137号線を越えると藤野木の集落があり、137号線に沿って道が続いている。
むかしからの道で、石仏などを見ることができる。

河口宿の御坂みち(鎌倉街道)

富士急行河口湖駅から北に向かう。
137号線で右折し、50mほど行ったところの坂を左折。
道なりに100mほど行くと分岐に手書きで「←鎌倉古道」と書かれた標識がある。
道はすぐに山にぶつかり、そのまま山に沿って左へ北へと伸びていく。

湖面から10〜20mの高さであろうか。
舗装された、車が1台やっと通れるほどの道である。
富士山を眺めるためだろうか、ベンチがしつらえ、地元の人の散歩道のようである。
すぐに天上山公園に行くための道と護国神社への階段がある。

さらに進むと旅館「楽游」の前を通り、「富士山パノラマロープウェイ」の下をくぐる。
少し上り坂となり、小曲岬の小曲展望広場の上の出て、そこから先は車が通れない草に覆われた道となる。

「←鎌倉街道」と書かれた標識から1km弱の距離である。
そこから白山神社までの400mほどは、木々が垂れた土の道となり、坂を下る。
白山神社からは浅川の町に入り、道は北に向かい、行き止まりを左折する。

そこから100mほど行き、137号線の1本手前の路地を右折。
鎌倉街道である。

やや勾配がある道を行くと「あさふじ」「美富士園」などの旅館の間を抜け、「グリーンレイク」からは土の道となる。
河口湖大橋がある産屋ヶ崎の湖に突き出た半島のようなところで急坂となって尾根を越える。

追坂峠である。
国土地理院にある交差する道や分岐はなくなっており、道は荒れている。

「グリーンレイク」から500〜600mほど行ったところで、道が消滅してわからなくなっている。
わずかな道跡をたどり進むと、137号線につきあたり、入口には、鎌倉街道の手書きの道標が下げられている。

そこから先は平野に直線の道路が北に向かっている。
古代道路であり、「鯉ノ水遺跡」の発掘場である。
古代道路らしきほぼ直線の道を進む700mほどで道にぶつかり、さらにその道を道なりに左に曲がり、突き当たりの二車線を北に進む。

集落が増え、ほどなく河口浅間神社の鳥居に出る。

このあたりは河口宿で、観光客も多い。
そのまま真っ直ぐ河口宿を抜け、西川沿いに道なりに北東に向かうと137号線にあたる。

民家の前に「右 山道 左 」と書かれた道標がある。
137号線のヘアピンカーブを上がると西川沿いの道があり、上へと続いている。
むかしの道はこのあたりを通っていたと思われ、さらに川に沿って数十m上流へ進めるが、砂防ダムがあり、その工事の道でもある。
そこから先、三つ峠入口バス停まで、道は消滅している。

この古道を歩くにあたって

・河口側から山梨にかけての御坂みちは、道標も道もわかりやすく、路面が平坦で斜度もゆるく歩きやすい。
4月上旬の踏査時に北側斜面の一部に雪が付いており、冬季は積雪に注意。
・河口湖に沿った御坂みちは、ほとんどが舗装されているが、道が消失している部分もあり、その部分はわかりづらく歩行困難。

古道を知る

古代からの道

甲府と富士山麓とをつなぐ道の中で、記録の上で最も古く登場するのがこの鎌倉街道であり、「延喜式」に奈良時代から平安時代の状況が記されている。
「甲斐国駅馬 水市・河口・加吉各五匹」すなわち、街道における駅は、水市(諸説あるが、起点である石和か)および河口(河口湖町)、加吉(加古の間違いで加古坂(籠坂)付近)で伝馬が置かれた。
御坂路は、東海道横走駅(御殿場市)から富士山麓を北西に進んで、加古坂峠(籠坂峠)を越えて甲斐国に入る。
山中湖西岸の加古駅(山中村)から上吉田村を通り、剣丸尾を横切り、河口湖東岸の狭い場所を北進して河口駅(河口村)に達する。
そして、御坂峠を越えて、金川に沿い、盆地をめざして下った。

中世から近世のにぎわい

鎌倉幕府、その後の室町時代も関東管領が鎌倉を治所としたため、地頭・御家人や僧侶などが鎌倉へ往復し、物資や文化も往来した。
甲州から鎌倉へ向かう他の道よりも東海道(御殿場)に近く、道筋に人家が多く危険度も低かったため、最も利用された。
弘安5年(1282年)、身延山久遠寺から東国へ向かった日蓮上人も、御坂峠を越えて、明見、横走、足柄を通り、武蔵国池上郷で病没している。
室町時代になると、富士山登拝の行者(道者)で街道は賑わい、船津・上吉田など各地に関銭徴収を目的とした関所が設けられ、河口村、上吉田村は御師の村として栄えた。
河口は、上吉田よりは富士山に対する御師の村としては古い。
江戸時代には五街道の一つとして甲州街道が整備されたため、利用者は減ったがそれでもなお、東海道、西日本へ赴く人や物資の往来は多かった。
鎌倉街道は東海道と甲州街道を結ぶ脇往還で、中世にみられた多数の関所は廃されて、改めて黒駒村と山中村加古坂に置かれた。
幕末から明治にかけて賑わったため、「鎌倉街道のようだ」という言い方が頻繁な往来について言われたという。
明治36年、甲府まで中央線が開通し、街道の往来は激減。
昭和6年に天下茶屋経由の国道が開通、昭和42年には新御坂トンネルが旧御坂峠の真下に通り、次々と変化の波が押し寄せている。

深掘りスポット

御坂城跡

御坂峠の部分が城のほぼ中央で一番低く、稜線に沿って端に行くほど高くなっている特長をもつ。
武田氏が築城したと言われているが、いつ築かれたかは不明。
天正10年(1582年)、武田氏が滅亡し、本能寺の変が起こると、甲斐・信濃を巡って北条氏直と徳川家康らが争うようになる。
徳川家康は中道往還から甲斐へ入り、北条氏忠は都留郡から鎌倉街道を通って前線基地として御坂城を修築した。
しかし、氏忠は御坂城から甲斐の黒駒村へ打って出て徳川軍に大敗した。
城は廃城となった。

子持石

御坂峠から北へ20分ほど下ったところに、小石が積まれたところがある。
この小石を持って股下から後ろ向きに投げて、積まれた山まで到達するかどうかで次に誕生する子の性別を占ったといわれる。

河口湖町の古代道路「鯉ノ水遺跡」

2013年に、富士河口湖町教育委員会による発掘調査で、東海道甲斐路の遺構と考えられる古代道路の遺構が発見された。
古代道路とは、律令制下において、大和朝廷が列島に張り巡らした大規模な官製道路のこと。
町道2101号(旧鎌倉街道)の地表から2mのところに幅6mほどの直線道路が出てきている。
出土品の年代から、8世紀以前に作られたと考えられている。
御殿場方面から山中湖を経て「老坂」、「追坂」を越えて河口湖の東岸に下り、河口浅間神社前の御師集落を抜けて御坂峠方向に進んでいることが推定される。

河口浅間(あさま)神社

平安時代、富士山の貞観(じょうがん)大噴火を鎮めるために、貞観7年(865年)に創祀されたとある。
貞観大噴火とは、貞観6年(864年)から貞観8年(866年)にかけて発生した富士山の大規模な噴火活動で、当時あった大きな湖(せの海)を流れ出た溶岩が埋めて西湖と精進湖を作った。
平安時代後期には修験道の道場となり、室町時代以降は富士に登拝する参拝者が多く訪れた。
境内には樹齢1200年以上の七本杉があり、「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産の一部として世界文化遺産に登録されている。

富士御室浅間(おむろあさま)神社

河口湖の南、勝山にある。
富士山二合目にあったが昭和になって、里宮があったいまの地に遷座した。
文武天皇3年(699年)に藤原義忠によって富士二合目に奉斉されたと伝えられ、富士山最古の社とされる。
富士山の噴火などにより幾度も再興や増設を繰り返している。
社名の由来は、祭祀を石柱をめぐらせた中で行っていたことによるとある。
「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産の一部として世界文化遺産に登録されている。

河口宿と御師

河口には、古代に御坂峠を越えて東海道と甲斐を結ぶ甲斐路が作られ、「河口」という駅家が置かれていた。
室町時代には、鎌倉街道の宿場町として、また富士信仰の拠点として栄えた。
登拝者の案内や宿泊、神事などを行う御師の集落となり、河口十二坊と言われ最盛期には140坊以上があったという。
しかし江戸時代になるとそれまでの船津登山道ではなく、吉田口からの参登拝者が増え、徐々に衰退していった。
現在でも、間口が狭く奥行きが長い間取りをもった、板葺きや茅葺きの家屋などが残されている。

ルート

三つ峠入口バス停
90分↓↑50分
御坂峠
120分↓↑150分
藤ノ木バス停

アクセス

富士急行河口湖駅から富士急バス甲府駅南口行きに乗り、三つ峠入口バス停で下車。次のバス停が下山してきて乗車する藤ノ木バス停。
峠をはさんでどちら側とも、登山者用駐車場はない。

参考資料

引用文献
*「山梨県歴史の道調査報告書第六集(鎌倉街道御坂路)」山梨県教育委員会文化課編 1985年3月
*「山梨県史 通史編2 中世」  山梨県  2007年3月 山梨日日新聞社

協力・担当者

《担当》
日本山岳会MCC
松本博子

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