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65 中山道 碓氷峠
横川駅舎を出ると、右手に信越本線碓氷峠で活躍した機関車の動輪が展示されています。
「峠の町 松井田」は、中山道や国道などの街道と共に鉄道でも長い間、峠越えの基地でした。
駅前から北に少し歩くと中山道に出ます。
左に折れてすぐ小さな矢ノ沢橋を渡りますが、その右奥に往時の建物が残る横川茶屋本陣跡があります。
碓氷峠越には難所や関所があったため、松井田宿と坂本宿の間の五料、横川に茶屋本陣(間(あい)の宿)が、坂本宿と軽井沢宿の間の刎石と山中に休憩施設(立場(たてば))が置かれていました。
更に行くと、右手が碓氷関所(元和2年(1616))跡で、復元された東門と資料館があります。
通関時に手をついておじぎをした「おじぎ石」も据えられています。
関所から西に下って行くと霧積川、川久保橋です。
往時は「碓氷御関所橋」と呼ばれ、軍事目的で刎橋でした。
橋を渡るとゆるい上り坂となります。
脇には薬師坂と刻まれた石碑、薬師堂があります。
その少し先には涌水があり、その冷水を利用してトコロテンを出す茶屋があったそうです。
上りあげると国道18号線旧道に合流します。
ゆるやかに上る直線道路となります。
この原地区は、律令官道「東山道」の駅家(うまや)があったと推定されています。
左手奥には白髭神社があり、参道に多くの石造物が並んでいます。
家並みが途切れた左手に水神様が祀られています。
頭上は上信越道です。
その先に公衆トイレがあります。
間もなく坂本宿で、復元された下木戸が建っています。
そしてその先には、これから上りあげる刎石山を望むことができます。
杉林に入るときつい上りとなりますが、間もなく広い平らに出ます。
近世初期に設けられた堂峰番所跡です。
碓氷関所の遠見番所で、山中を忍び通る旅人がいないかと高見から目をくばっていました。
ここからは歩きやすい道になります。
「落石注意」の看板が現われ大きく左に折れると、柱状節理が眼前に迫り、板石を積んだケルンがあります。
植生も落葉広葉樹になり、いよいよ刎石坂の通過となります。
大日尊(天保2年(1831))、馬頭尊(文政8年(1825))、名号塔(文政3年(1820))などが現われます。
落石に注意してガレ場を通過します。
栗ヶ原の辺りは美しい自然林です。
いよいよ入道久保まで「まごめ坂」と呼ばれた長い坂が始まります。
道は浸食が進んでV字状です。
碓氷峠越も往時には、原則四間(約7.2m)の道幅が維持されていました。
道はやや緩やかになり杉並木が続きます。
坂が終わると右手に線刻の馬頭尊が建ちその右奥が入道久保です。
この辺りから山中茶屋迄は別荘地の工事によって中山道の道筋が消えています。
現在は擁壁を築きU字溝を伏せた道を下ります。
山中坂が終わると陣馬ヶ原の分岐です。
武田軍と上杉軍の古戦場は右奥です。
右への道は皇女和宮降嫁道で、今は作業道となっていて“安政遠足(とおあし)侍マラソン”のコースに使われています。
中山道は直進します。植林したカラマツと広葉樹の明るい道で、大変良い状態が維持されています。
少し坂道になり尾根筋を巻いて行くと傾城水(けいせいすい)(化粧水)です。
もう一度尾根筋を巻いて行くと水量の多い笹沢(碓氷川)で、文政年間に江戸の篤志家が無料の休憩所(人馬施行所)を設けました。
ここからは急な「長坂道」で、深く浸食した道を上ります。
途中、右に鋭角に折れる所で、左に分岐するかすかな踏み跡があります。
現在はほとんどのハイカーが直進しますが、近世の絵図では直進は「野みち」、「近道」と書かれています。
左に分岐する道は、山側が露岩、谷側が急斜面で、通過には注意が必要です。
近世の絵図でも“字小岩”と記されています。
ここを過ぎると道は広くなり、その先で右に折れ、境界杭を追いながら低木をぬって緩い坂道を行くと、墓地の辺りで左の林道に合流します。
その先で右から「近道」が合流し、間もなく思婦石(おもふいし)・神宮寺仁王門跡となります。
神宮寺は熊野神社の別当寺として創建されましたが、寛文2年(1662)に軽井沢宿に移されました。
ここは五方への分岐点です。
峠への道、皇女和宮降嫁道・霧積温泉への道、一つ家の数字歌碑(複製)への道、さらには鼻曲山に向かう登山道が交差しています。
峠・熊野神社へ向かいます。
途中、左に少し下ると碓氷川水源地です。
コンコンと水が湧き、心休まる場所です。
元の道に戻れば峠はすぐです。
茶屋、社家が並び、右手が県境に建つ熊野神社(神仏分離前までは碓氷権現、熊野権現)です。
三叉路まで戻り、「中山道」の小さな標識を確認して左に折れます。
石垣に沿って下るとすぐに町道「三度山線」に出ます。
車道を少し右に歩いて再び「中山道」の小さな標識にしたがって左に下ります。
踏み跡が薄いので、時々現れる国土調査杭を追いながら下り、涸れた聖沢を渡ります。
往時ここには石橋がありました(当時の工法で近代に造られた石橋がこの近くにあります)。
JR横川駅、原地区、坂本に公衆トイレがあります。以後は碓氷峠見晴台入口の公衆トイレで、その間にはありません。旧軽井沢に下ると、二手橋脇に公衆トイレ、旧軽銀座の軽井沢町観光協会内に有料のトイレがあります。携帯トイレの持参をおすすめします。
JR横川駅と旧軽井沢の周辺を除き、食べ物、飲み物等の売店はありません。道中で飲料水として使える涌水もありません。碓氷峠の茶店が開いている場合は購入できます。
JR横川駅前、国道18号線旧道の中山道分岐の休憩舎、刎石茶屋跡の先にあるあずまや、碓氷峠の茶屋、見晴台のあずまや、旧軽銀座の6か所程度です。
・碓氷峠から旧軽井沢の間は、クマの目撃情報が多いようです。
・栗ヶ原から碓氷峠の間ではサルの群れに出会うことがあります。「アプトの道」の遊歩道で食べ物を与えられたサルとキツネが餌をねだって近づいてくることがあり、そのサルが広く行動しているようです。
・登山道沿いでは、イノシシが掘り起こした箇所や、ヌタ場を見かけます。
・ニホンカモシカに遭遇することがあります。
・6~8月には大量の山ヒルが現われます。
・カラマツ林では倒木が道をふさいでいることがあります。また、杉の植林地では、枯れ枝が落下して登山道に散乱しています。
落石注意;
・刎石坂から栗ヶ原にかけ、南面の登山道では落石を発生させないようにしましょう。急斜面の下は、国道18号線旧道と「アプトの道」の遊歩道です。
・刎石坂などでの上からの落石に注意しましょう。危険個所には立て看板があります。
国土地理院などの現在の地図では、群馬・長野県境の国道18号線旧道に中山道と碓氷峠(960m)の名を付し、近世の中山道には道と峠の名称が与えられていません。
東山道が入山越から移行してきた時と同様に道と峠の名前が移っているのです。
碓氷新道(現国道18号線旧道)は、明治17年(1884)に落成し、翌年「東京より新潟港に達する国道」となりました。
形式上、中山道は、高崎までを現国道17号線が、高崎以降をこの碓氷新道が引き継ぎましたので、近世の中山道は、その時をもって“旧中山道”となったわけです。
ただしこの古道紹介は、近世の中山道碓氷峠を対象とするため、碓氷関所から峠を越えて軽井沢宿までを範囲とした“中山道碓氷峠越”としました。
その碓氷峠越ですが、幸い近世に歩かれていた時の状態がよく残されています。
新道が別の場所に新設されたためでしょう。
安中市では、「歴史の道百選」に選定されている碓氷峠越の一部約8kmについて、文化財(国史跡)指定をめざした整備計画を2021年3月に発表しています。
また、『中山道分間延絵図』(ぶんけんのべえず)、伊能忠敬の測量図や紀行文などの史料分析と現況調査によって、近世中山道の軌跡がごく一部を除き明確にされました。
碓氷峠越の長野県側については、明治11年に現県道133号線が御巡幸道として開通して以来廃道になっていましたが、1991年に軽井沢西部小学校の岡村知彦先生(当時)の調査によってそのルートが明らかになりました。
中山道は、はじめは中仙道と呼ばれていましたが、東山道の中筋の道ということで、享保元年(1716)に中山道と改められました。しかし今でも中仙道と表記されることが多いようです。
また、「碓氷峠」の名の由来については諸説あり収束していません。
上信国境付近では年間を通して霧の発生が多く、“薄い日差しの地がウスヒ”にという説が最も多く、実際に県境が雲海で覆われる日数は夏期と冬季には3割にもなります。
「霧積の湯(現霧積温泉) 」というもっと具体的な名前の例もあります。なお、標高1200mの碓氷峠まで上昇する雲海は少なく、南に延びた標高の低い県境から群馬側にあふれ出ているようです。
徳川幕府によって中山道の通行が厳しく統制される一方で、近世中期頃から人々や物資の移動が増えてきました。
そのため、街道の険しさと通関の厳しさを嫌い、上州・信州の間には多くの脇往還、間道が発達しました(コラム1.「(仮題)下仁田道と十石街道」を参照)。
また、幕末の皇女和宮降嫁、明治初期の明治天皇御巡幸に際しては険しい道を避けるために中山道にも迂回路が造られました(コラム2.「存続した道と荒廃した道」を参照)。
群馬から長野へ越える道路と鉄道のルート決定で、地形の険しい群馬側のどこを通過するかは、古代から現代まで難問であり続けました。
現在では、国道18号線バイパスが横川の霧積隧道を除けばトンネルなしで入山峠を越えています。
また、上信越高速道は多くのトンネルと高架を築いて入山峠の南、和美峠辺りの地中を通過しています。
信越本線も当初構想では入山峠越えの案が最有力でしたが、ヨーロッパに派遣された調査団が見つけた「アプト式」を採用することによって碓氷新道(現国道18号線旧道)に沿った急勾配のルートで通すことになりました。
北陸新幹線は、安中榛名駅を出ると、谷あいの3ケ所の高架を除いてすべてトンネルで、陣馬ヶ原の地下で碓氷峠越と交差して軽井沢駅に向かっています。この新幹線の開通に伴って信越本線は横川駅-軽井沢駅間の鉄道路線が廃止され、JRバスによる1日二便の運行になっています。
浅間山(2568m)は、群馬・長野の県境にあり、ランクAの活火山です。
近世の300年間に56の噴火記録が残り、10回ほどは大被害を及ぼしています。
特に甚大な被害が発生したのは、天明三年(1783)の大噴火「浅間大焼」でした。
4月から7月にかけて大量の火山礫、砂、灰が降り、軽井沢宿で150cmを超え、坂本宿で50~60cm、松井田、安中、板鼻の各宿では20cm余と、特に東南方向で多くの降灰がありました。
流れ出た溶岩が堆積した“鬼押出”の出現や、火口から12kmに位置する鎌原村(当時)の全戸90軒が火砕流と泥流でことごとく流失し、村民の8割近い466人の死者を出すなど、「家残らず」が8村に及んだのがこの時でした。
碓氷峠越も砂礫や灰で埋まり、草木は焼け、所々で崩壊や出水がありました。
そのため通行が困難となり、参勤交代も含め一時的に和美峠や内山峠を越える脇往還に迂回する措置が取られました。
“鬼押出”及び鎌原の被害と奇跡に関しては、妻恋村公式ホームページで詳しく知ることができます。
URL;(嬬恋村Webサイト)https://www.vill.tsumagoi.gunma.jp/www/index.html
徳川幕府の力が衰え、天下が勤皇と佐幕に分裂して世の中が動揺してきた幕末に、幕府と朝廷が異なる思惑を秘めながらも協調して混乱を収拾する動きがありました。
この一環で和宮親子(ちかこ)内親王が十四代将軍家茂のもとへ降嫁することになり、文久元年(1861)に京から江戸に下ったのが中山道です。
降嫁に反対する不穏な気配もありましたので、幕府と朝廷の双方が威信をかけた25日間の降嫁の旅は空前絶後の規模となりました。
碓氷峠越では、11月9日に軽井沢で昼食、刎石茶屋で小休、坂本宿本陣で宿泊でした。
花嫁行列だけでも2794人で、前々日、前日、当日(皇女和宮本隊)及び翌日と4日間に分けて通過していったのです。
これに付き添いの公家方1万人余とお迎えの武家方1万5千人余、通し人足4千人余を合わせると約3万人の大移動となりました。
そして碓氷峠越で徴発された伝馬(てんま)人足は、当日(皇女和宮本隊)だけでも約1万5千人でした。
8月の通過通知以降、街道の造成や施設の改築のため近隣の助郷だけでなく遠くの村々を含めて総動員し、過酷ともいえる準備が強いられたのです。
碓氷峠越では、一部迂回路が造られました。碓氷峠から霧積温泉に至る間道を拡幅し、その途中で分岐して南東方向に張り出した吊尾根に沿うように下り、陣馬ヶ原に出て中山道に合流する道です。
皇女和宮の翌11月10日の宿泊は、板鼻宿本陣でした。
和宮のために邸内に新設された書院は現存し、補修され資料館として公開されています。
URL;(安中市Webサイト)https://www.city.annaka.lg.jp/kanko_spot/itahana.html
碓氷峠に建つ熊野神社は、熊野神社(群馬県)、熊野皇大神社(長野県)の総称で、和歌山県熊野三社が勧請され、県境に建つ本殿、右群馬側の新宮、左長野側の那智宮の三社が並んでいます。この峠の国境には古くから祠なり神社なりが祀られていて、それが熊野三社の勧請につながっていったと考えられています。狛犬(明徳元年(1390))、石の風車(明暦三年(1657))、石造多重塔(文和三年(1354))、古鐘(正応五年(1292))など歴史を遡るものを多く見ることができます。特に古鐘は、熊野神社と神宮寺がこの地に祭られていた時代に松井田庄の12人によって奉納されたものであり、古道や東山道の変遷を研究するために貴重なものです。近世には「熊野権現」と呼ばれて親しまれ信仰を集めてきました。
【安中市】
(1)五料の茶屋本陣
安中市松井田町五料にある近世の茶屋本陣で、中山道を通行する大名や公家などが休息しました。
屋内を参観し、往時の高札、文書や調度品あるいは峠道に関する展示物を見ることができます。
所在地;安中市松井田町五料564-1
URL;(安中市Webサイト)https://www.city.annaka.lg.jp/kanko_spot/goryou.html
(2)横川茶屋本陣
安中市松井田町横川にある近世の茶屋本陣2軒のうち古くから「矢の沢の家」と呼ばれた武井家の建物が群馬県指定史跡として維持されています。
所在地;安中市松井田町横川609
URL;https://www.guntabi.com/annaka/yokohon.html
(3)碓氷関所跡、碓氷関所史料館、碓氷関所史料展示室
碓氷関所跡に東門が復元され、隣接地に関所史料館も建てられました。
また、関所跡の南にある「麻苧茶屋(あさおちゃや)」内に展示室が設けられ、関所や近世交通に関する史料が展示されています。
関所跡所在地;安中市松井田町横川乙573
展示室所在地;安中市横川441
URL;(安中市Webサイト)https://www.city.annaka.lg.jp/kanko_spot/usui_sekisho.html
(4)皇女和宮資料館
板鼻宿の本陣は、現在の板鼻公民館近くにありました。
皇女和宮の降嫁の旅に際しこの本陣の邸内に建てられた書院が寝室にあてられました。
当時の構造を損なわないよう補強したうえで資料館として公開しており、建物内部の構造や各種資料とともに駕籠と本陣の間で使用した草履などを見ることができます。
所在地;安中市板鼻一丁目6番20号
URL;(安中市Webサイト)https://www.city.annaka.lg.jp/kanko_spot/itahana.html
(5)碓氷峠鉄道文化むら
碓氷峠の鉄道の歴史を展示する鉄道資料館、碓氷峠専用機関車などを展示する鉄道展示館、野外展示ゾーンには旧国鉄時代からの蒸気機関車や電気機関車などがずらりと並んでいます。
所在地;安中市松井田町横川407-16
URL;https://www.usuitouge.com/bunkamura/
(6)おぎのや資料館
「峠の釜めし」の歴史を見ることができます。
「峠の釜めし」は、1958年に誕生した益子焼の土釜に入った駅弁です。
所在地;安中市松井田町横川399
URL;https://tripnote.jp/annaka-shi/place-oginoya-museum
【軽井沢町】
(7)中山道69次資料館
中山道69次に関する文献、写真、浮世絵や往時の旅のツールなどが展示されています。
また、庭には中山道を模した散策路があり、途中、追分宿から本物の中山道に出ます。
峠道の詳細情報や中山道完歩などの相談もできます。
所在地;長野県北佐久郡軽井沢町追分140-29
URL;http://nakasendo69.sakura.ne.jp/
(8)軽井沢町観光協会
観光案内所や休憩スペース、軽井沢の観光名所を紹介する視聴覚スペース、有料トイレがあります。
二階は周期的に企画展などが催される展示室や、鉄道に関する展示を行っています。
所在地;軽井沢町軽井沢739
URL;https://karuizawa-kankokyokai.jp/
(1)アプトの道ハイキング
信越本線アプト式鉄道時代の廃線敷を利用した、横川駅~熊ノ平駅の間の約6kmが遊歩道として整備されています。
アプトの道は国の重要文化財である旧丸山変電所をはじめ6つの橋梁と10の隧道があり、めがね橋をはじめ多くの鉄道煉瓦構造物群などの碓氷峠鉄道遺産にふれることができます。
碓氷第三橋梁(通称「めがね橋」)は、明治25年12月に完成し、芸術と技術が融合した美しいレンガのアーチ橋です。
国道18号線旧道沿いにあり、近くに駐車場・トイレがあります。
また、横川駅と軽井沢駅を結んでいるJRバス(めがねバス)の停留所があります。
中山道の栗ヶ原から分岐してめがね橋に下山し、めがね橋に上がってアプトの道を通って横川駅に向かうこともできます。また、所々で国道18号線旧道との出入りが可能です。
URL;https://www.city.annaka.lg.jp/kanko_spot/files/tougezi.pdf
(2)碓氷峠と見晴台
碓氷峠周辺には、熊野神社、碓氷川水源地、見晴台などがあります。
行きかう人々を見守ってきた神社や中央分水嶺から始まる碓氷川の静寂な源、雄大な眺望と「サンセットポイント」の名で知られる見晴台などとともに、茶屋で名物「ちから餅」をいただくこともできます。
なお、軽井沢駅からタクシー、旧軽井沢市街地から赤バス、又は自家用車で峠まで上がることができます。
あるいは、旧軽井沢から峠へは、よく整備された旧碓氷峠遊覧歩道がハイキングコースとしておすすめです。
URL;https://www.town.karuizawa.lg.jp/www/sp/contents/1001000000736/index.html
(3)紅葉
「秋の夕日に照る山もみじ・・・」で始まる唱歌『紅葉(もみじ)』は、作詞家高野辰之が碓氷峠にある信越本線熊ノ平駅(現在は廃線)から紅葉を眺め、その美しさに惹かれてこの詞を作ったといいます。
周辺の山裾は、鉄道や国道に対する土砂災害を防ぐために、涵養林・保安林として保護されてきた落葉広葉樹の自然林です。
若葉も紅葉もあるいは落葉した立木の個性ある木肌も見ものです。
国道18号線旧道沿いの「熊ノ平入口」から徒歩で上がります。旧道の脇に駐車場があります。
また、横川駅と軽井沢駅を結んでいるJRバス(めがねバス)の停留所があります。なお、熊ノ平駅跡は、横川駅を起点とする「アプトの道」の終点でもあり、「遊歩道アプトの道 熊野平往復一日コース」としてコース化されています。
URL;https://www.city.annaka.lg.jp/kanko_spot/aputonomiti.html
明治17年(1884)に碓氷新道が開通し、同21年(1888)に新道を走る碓氷馬車鉄道が開通したことによって中山道碓氷峠越とその周辺の人の流れが激変しました。
そのため、旅籠や茶屋の人たちは廃業や離村を与儀なくされ、新たな生業を模索することになったのです。
鉄道関係に従事する方が多かったのは自然の流れかもしれません。次の2例も広義の意味で“峠の町 松井田”ならではです。
(1)峠の釜めし
峠の釜めしで有名なおぎのやは、霧積温泉で旅館業を営んでいましたが鉄道の開通に合わせて横川駅でお弁当の販売を始めました。売れ行きは芳しくなく、女将が乗客に聞いて回ったそうです。
“家庭的で温かく、見た目も楽しめる弁当”だと確信し、偶然益子焼の器の売り込みがあって、1957年に今日見るような「峠の釜めし」を実現しました。
保温性に優れた小さな釜のふたを開けると宝石箱の中を見るようです。
当初から他の駅弁に比べて飛びぬけて高価だったものの、2022年7月現在の累積販売数は約1億8300万個になるそうです。
安政二年(1855)五月(新暦では6月)に、時の安中藩主板倉勝明は、50歳以下の藩士に対し、数人ずつ組ませて城内から碓氷峠(熊野神社)まで五里二十四町(約22.7km)の遠足をさせました。
鍛錬のためでしょう。
『安中御城内御諸士御遠足着帳』には、城を朝出て巳ノ上刻(午前9時台)に到着とあります。
あるいは、辰ノ刻に到着した組では、巳ノ刻つまり他の遅い組と同じ頃着いたと記してほしいと頼んだとか。
この史実にちなんで毎年5月第2日曜日に「安政の遠足侍マラソン」と名付けたマラソンが催されています。
多くの参加者は、アイデアあふれる仮装姿で駆けています。
コースは安政二年の遠足と若干異なり、和宮降嫁道を経由しています。
URL;https://www.city.annaka.lg.jp/kanko_gyouji/tooashi/index.html
(1)横川茶屋本陣の役割
松井田宿側から中山道を下ると碓氷関所のすぐ手前に二軒の茶屋本陣がありました。
ここでは、要人が休憩し、装束を平地用から山岳用に、あるいはその逆に着替えたということです。
また、一般の人に対しては、関所通過に関し助言・援助もしていたそうです。
この本陣で保管されていた文書の1つに、関所の掟破り刑罰が絵図入りで書かれたものがありますが、これも関所通過の指南に使われたのでしょう。
(2)関所破りの刑
関所破りの処罰である「其の所に於いて磔(はりつけ)」は、関所が廃止されるまで変わりませんでした。
碓氷関所の近くの「磔河原」で数例執行されています。
中には、すでに死亡している者の死体をここまで運び込んで磔にしたということです。
みせしめのために掟どおり行ったのでしょう。
ただし、大目に見て通過を黙認した例も多かったようです。
今「磔河原」を訪ねると、傍らには往時に建てられた小さな地蔵尊と、現代になってから建てられた大きな供養碑とが立っています。
(3)加賀百万石といえども
加賀藩の参勤交代は中山道が利用されていました。
参勤交代で通過する道中を絵巻物にした「下道絵図」が作られ、道の様子の他、宿場、寺社、関所なども写生的に描かれているため、街道の研究にとって価値ある史料と言われています。
その加賀藩の参勤交代に際しては、携えてきた鉄砲を坂本宿で預けて碓氷関所を通過して江戸に向かったそうです。
(4)関所と婚姻圏
碓氷関所は、関所を西に出る“出女”に対する審問が特に厳しかったのです。
そのため、関所の外側となる原地区や坂本宿などでは、結婚相手を関所の西側の地に求めることが多かったそうです。
実家との行き来等でその都度碓氷関所を通ることが煩わしかったためです。
中山道碓氷峠越(碓氷関所から軽井沢宿)は長距離で一部急坂があり、見所も多所あります。
また、入山口と下山口を連絡する公共交通手段が限られるため一日で全行程を踏破するには綿密な計画が不可欠です。
以下に示すプランを参考に、あなた自身の体力度を踏まえて、古代から連綿と歩かれてきたこの山域を越えてみてください。
行程;JR横川駅から中山道を辿り旧軽井沢駅へ(又はその逆方向)
所要時間;約7時間(逆方向では約6時間)
見どころ ;旧軽井沢、熊野神社、見晴台、碓氷川水源、坂本宿及び道中の石造物や眺望
グレーティング;難易度 A、体力度 3
アクセス ;(電車) 横川駅-軽井沢駅を結ぶJRバスの利用もしくは新幹線利用
(自家用車) 2台以上であれば下山口側に車をデポ
1台の場合は、中山道分岐と熊野神社間のみを往復し、他区間は別日程
行程 ;旧軽井沢から旧碓氷峠遊覧歩道で碓氷峠に上がり、中山道を辿って栗ヶ原からめがね橋へ
所要時間;約5時間
見どころ ;見晴台、熊野神社、碓氷川水源、めがね橋とアプトの道及び道中の若葉や紅葉
グレーティング;難易度 A、体力度 2
アクセス ;めがね橋-軽井沢駅を結ぶJRバスが夕方2便
行程 ;1日目はJR横川駅から中山道を辿り旧軽井沢へ(旧軽井沢周辺で宿泊)
2日目は旧軽井沢から旧碓氷峠遊覧歩道経由で碓氷峠に上がり、皇女和宮降嫁道経由で栗ヶ原に出てめがね橋に下る。めがね橋からアプトの道を歩いて横川駅へ
所要時間;1日目は約6時間半、2日目も約6時間半
見どころ ;プランA、Bとアプトの道
グレーティング;難易度 A、体力度 3
1.中山道碓氷峠越
JR横川駅
↓10分 0.4km ↑10分
碓氷関所跡
↓1:10 2.8km ↑1:00
中山道分岐(中山道と国道18号線旧道との分岐)
↓2:00 3.5km ↑1:15
栗ヶ原分岐(御巡幸道の合流)
↓1:00 2.2km ↑45分
陣馬ヶ原分岐(和宮降嫁道(林道)との分岐)
↓45分 1.3km ↑30分
思婦石(仁王門跡・和宮降嫁道の合流)
↓ 5分 0.3km ↑ 5分
碓氷峠(熊野神社・社家・茶屋)
↓35分 1.4km ↑50分 (注1)
中山道と県道133号線との分岐
↓ 5分 0.4km ↑10分
県道133号線と遊覧歩道との分岐
↓25分 1.0km ↑25分
バス停「旧軽井沢」
↓35分 1.5km ↑35分
軽井沢駅北口
合計: ⇓ 6時間50分 14.8km ⇑ 5時間45分
(注1)碓氷峠と県道133号線分岐の間は、踏み跡が薄く、荒れた沢筋を横断する箇所があります。
迂回路として旧碓氷峠遊覧歩道又は県道133号線を利用できます。
(2)和宮降嫁道を辿る
軽井沢駅北口
↓35分 1.5km ↑35分
バス停「旧軽井沢」 (中山道と同じルート)
↓1:30 3.1km ↑1:10 (注2)
思婦石
↓15分 0.8km ↑15分
ゲート
↓30分 1.2km ↑40分
陣馬ヶ原分岐
↓3:10 8.9km ↑4:20 (中山道と同じルート)
横川駅
合計: ⇓ 6時間00分 15.5km ⇑ 7時間15分
(注2)碓氷峠と県道133号線分岐の間は、踏み跡が薄く、荒れた沢筋を横断する箇所があります。
迂回路として旧碓氷峠遊覧歩道又は県道133号線を利用できます。
(3)明治天皇御巡幸道を辿る
【林道経由コース】(注3)
JR横川駅
↓10分 0.4km ↑10分
碓氷関所跡 (中山道と同じルート)
↓1:10 2.8km ↑1:00
中山道分岐
↓20分 0.8km ↑15分
林道入口
【めがね橋コース】 1:00 1.6km 50分
めがね橋(碓氷第三橋梁)
↓25分 0.8km ↑20分
分岐
↓1:05 1.6km ↑1:00
栗ヶ原分岐
↓1:00 2.2km ↑45分 (中山道と同じルート)
陣馬ヶ原分岐
↓40分 1.2km ↑30分
ゲート (和宮降嫁道と同じルート)
↓15分 0.8km ↑15分
思婦石
↓ 5分 0.3km ↑5分 (中山道と同じルート)
碓氷峠
↓1:00 3.1km ↑1:15 (長野県道133号線)
バス停「旧軽井沢」
↓35分 1.5km ↑35分
軽井沢駅北口
合計: ⇓ 5時間05分 11.5km ⇑ 4時間45分(めがね橋コース)
⇓ 7時間20分 16.3km ⇑ 6時間40分(林道経由コース)
(注3)林道入口と分岐の間は、荒廃と落石の危険があるため、めがね橋コースをおすすめします。
(4) 旧碓氷峠遊覧歩道
軽井沢駅北口
↓35分 1.5km ↑35分
バス停「旧軽井沢」
↓25分 1.0km ↑25分
遊覧歩道分岐
↓35分 1.6km ↑25分
歩道橋(陸橋)
↓35分 1.4km ↑25分
碓氷峠
合計: ⇓ 2時間10分 5.5km ⇑ 1時間50分
(5)アプトの道
信越本線アプト式鉄道時代の廃線敷を利用して、JR横川駅~熊ノ平駅跡の間の約6kmが遊歩道“アプトの道”として整備されています。国の重要文化財である旧丸山変電所をはじめ6つの橋梁と10のトンネルがあり、めがね橋など多くの鉄道遺産にふれることができます。
URL;https://www.city.annaka.lg.jp/kanko_spot/bunkazai_shiseki/index.html
[横川(JR横川駅、坂本宿、めがね橋、熊ノ平)]
◆車
上信越道松井田妙義ICから国道18号線で、横川まで約5km、坂本宿まで約8km、
めがね橋まで約11km、熊ノ平まで約13km
◆電車
JR高崎駅から信越線でJR横川駅 約33分
JR横川駅からのタクシー利用は電話で依頼
◆JRバス関東
JRバスが横川駅-坂本宿-くつろぎの湯-めがね橋-熊ノ平-軽井沢駅の間を運行
運行本数と運転日に注意
(路線図)http://www.jrbuskanto.co.jp/local_guide/pdf/map_karuizawa.pdf
(時刻表)http://www.jrbuskanto.co.jp/bus_route/pdf/j0460031_1.pdf
[軽井沢(旧軽井沢)]
◆車
上信越道碓氷軽井沢ICから約13km
上信越道佐久ICから約20km
◆電車
北陸新幹線又はしなの鉄道線の軽井沢駅北口から
「町内循環バス東・南廻り線」で約8分又は徒歩約35分、もしくはタクシー利用
◆バス
JRバス関東が軽井沢駅と横川駅間を運行(横川の項を参照)
軽井沢駅北口から「町内循環バス東・南廻り線」で約8分
[旧碓氷峠(熊野神社)]
◆車
東京方面からは、上信越道碓氷軽井沢ICから約16km
長野方面からは、上信越道佐久ICから約23km
◆バス
軽井沢赤バス
旧軽井沢と碓氷峠(見晴台)間を運行(季節限定の路線バス)
https://www.karuizawa-on.com/kkbc◆タクシー
JR軽井沢駅下車で約15分
◆調査報告書関係
[群馬県]
『歴史の道調査報告書 中山道』(群馬県歴史の道調査報告書第十一集)(群馬県教育委員会 昭和57年3月31日発行)
『歴史の道調査報告書 東山道』(同第十六集)(同 昭和58年3月31日発行)
『歴史の道調査報告書 下仁田道』(同第十集)(同 昭和56年3月31日発行)
『歴史の道調査報告書 十石街道』(同第十二集)(同 昭和57年3月31日発行)
「歴史の道中山道碓氷峠越整備基本計画」(安中市教育委員会 2021年3月)
[長野県]
『歴史の道調査報告書 1 中山道』(長野県教育委員会 昭和59年2月20日発行)
『歴史の道調査報告書 41 女街道』(同 平成七年三月三十一日発行)
『歴史の道調査報告書 19 富岡道』(同 昭和62年12月10日発行)
『歴史の道調査報告書 34 余地峠道』(同 平成五年三月三十一日発行)
『歴史の道調査報告書 18 武州道』(同 昭和62年12月10日発行)
◆町村誌関係
[群馬県]
『下仁田町史』(下仁田町 昭和四十六年十一月三日発行)
『南牧村誌』(南牧村 昭和五十六年三月三十一日発行)
『上野村誌(Ⅷ)上野村の歴史』(上野村 平成17年3月31日発行)
『松井田町誌』(松井田町 昭和六十年十二月二十五日発行)
『安中市誌 第二巻通史編』(安中市 平成十五年十一月一日発行)
『安中市誌 第三巻民俗編』(同 平成十年十一月一日発行)
『安中市誌 第五巻近世資料編』(同 平成十四年三月三十一日発行)
[長野県]
『軽井澤町志 歴史遍』(軽井沢町 昭和二十九年八月二十日発行)
◆古文書、古地図関係
『中山道分間延絵図』(全二十巻之内第六巻解説編 昭和五十四年五月三十日 監修児玉幸多)
「伊能大図「碓氷峠」」(享和二年(1802))
「上野国碓氷郡坂本村堀切・釜場・栗ヶ原岬の図」(『碓氷郡官林簿』(明治14-15年)
「元禄上野国絵図」(前橋藩 元禄十五年 群馬県立文書館蔵)
『角川日本地名大辞典 10 群馬県』(1988年7月8日 角川書店)
『角川日本地名大辞典 20 長野県』(1990年7月18日 角川書店)
◆書籍・論文
山田忠雄編『街道の日本史 中山道 武州・西上州・東信州』吉川弘文館、平成13年11月10日
相葉伸(編集者代表)『中山道』みやま文庫、昭和45年5月10日
相葉伸(編集者代表)『上州の諸街道』みやま文庫、昭和46年4月25日
萩原進『歴史と風土 碓氷峠』有峰書店新社、昭和64年1月31日増補新装版
須田茂『群馬の峠』みやま文庫、平成17年8月10日発行
岸本豊『中山道 浪漫の旅 東編』信濃毎日新聞社、2016年7月27日
土屋郁子・平野勝重『軽井沢・佐久 中山道を歩く』郷土出版社、昭和61年8月5日
依田幸人『皇女和宮と中山道』信毎書籍出版センター、昭和60年4月15日
左方郁子「皇女和宮中山道降嫁の旅」 別冊歴史読本 第25巻1号 No.532
「日本史 地図を歩く」 新人物往来社、2000年1月14日
大角留吉「自然災害と農山村の再興-天明三年浅間山大噴火と農山村の再興の場合-」新地理 22(3-4),1-26,1975 日本地理教育学会)
◆紀行文
ウォルター・ウェストン著 黒岩健訳『日本アルプスの登山と探検』大江出版社、1982年10月10日 再版第一刷
◆登山、ハイキング関係
『山と高原地図19浅間山』(2022年版 昭文社)
『群馬の山歩きベストガイド』(2019年12月15日 上毛新聞社)
《担当》
群馬支部
黛 利信
《協力》
岸本 豊(中山道69次資料館 館長)
佐藤芳明(安中市松井田町入山)
※敬称略