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65 中山道 碓氷峠

中山道 碓氷峠

古道を歩く

【横川】

横川駅舎を出ると、右手に信越本線碓氷峠で活躍した機関車の動輪が展示されています。
「峠の町 松井田」は、中山道や国道などの街道と共に鉄道でも長い間、峠越えの基地でした。
駅前から北に少し歩くと中山道に出ます。
左に折れてすぐ小さな矢ノ沢橋を渡りますが、その右奥に往時の建物が残る横川茶屋本陣跡があります。
碓氷峠越には難所や関所があったため、松井田宿と坂本宿の間の五料、横川に茶屋本陣(間(あい)の宿)が、坂本宿と軽井沢宿の間の刎石と山中に休憩施設(立場(たてば))が置かれていました。
更に行くと、右手が碓氷関所(元和2年(1616))跡で、復元された東門と資料館があります。
通関時に手をついておじぎをした「おじぎ石」も据えられています。
関所から西に下って行くと霧積川、川久保橋です。
往時は「碓氷御関所橋」と呼ばれ、軍事目的で刎橋でした。
橋を渡るとゆるい上り坂となります。
脇には薬師坂と刻まれた石碑、薬師堂があります。
その少し先には涌水があり、その冷水を利用してトコロテンを出す茶屋があったそうです。
上りあげると国道18号線旧道に合流します。

【原地区と坂本宿】

ゆるやかに上る直線道路となります。
この原地区は、律令官道「東山道」の駅家(うまや)があったと推定されています。
左手奥には白髭神社があり、参道に多くの石造物が並んでいます。
家並みが途切れた左手に水神様が祀られています。
頭上は上信越道です。
その先に公衆トイレがあります。
間もなく坂本宿で、復元された下木戸が建っています。
そしてその先には、これから上りあげる刎石山を望むことができます。


坂本宿は、近世慶長年間に計画的に造られ、上木戸まで700m余、道の両側に本陣、脇本陣、問屋、旅籠屋などが並んでいました。
佐藤本陣や旅籠「かぎや」のような往時の建物は少なくなっていますが、市と住民によって家屋や用水堀が大切に維持されています。

なお、用水堀は、往時には道の中央を流れていました。
上木戸には橋供養塔や常夜塔が建っています。
上木戸を出た右手に芭蕉句碑が立っています。「ひとつ脱てうしろに負ひぬ更衣」で、もともとはこれから上がって行く弘法の井戸の手前にあったものです。
明治に新道(現在の国道18号線旧道)ができ、中山道の通行者が激減したため、地元の篤志家がここへ下げたのです。
坂本宿は多くの文芸者も行き交ったことから、その影響を受け俳句をたしなむ本陣・旅籠の主人が多かったのです。
なお、芭蕉のこの句は、紀行文『笈の小文』(おいのこぶみ)の「吉野」の段に見えます。

右に八幡宮、左に阿弥陀堂があります。
阿弥陀堂には行き倒れた旅人、身売りされ坂本宿で働いていた婦女子なども眠っています。
この先で国道18号線旧道は右に大きくカーブしますが、中山道は直進です。
浄水場の脇を回り、林道の途中で右に折れ急坂を上りあげて国道18号線旧道に出ます。
正面に休憩舎があり、「中部北陸自然歩道」の看板が立っています。

【刎石坂(はねいしざか)】

杉林に入るときつい上りとなりますが、間もなく広い平らに出ます。
近世初期に設けられた堂峰番所跡です。
碓氷関所の遠見番所で、山中を忍び通る旅人がいないかと高見から目をくばっていました。
ここからは歩きやすい道になります。
「落石注意」の看板が現われ大きく左に折れると、柱状節理が眼前に迫り、板石を積んだケルンがあります。
植生も落葉広葉樹になり、いよいよ刎石坂の通過となります。
大日尊(天保2年(1831))、馬頭尊(文政8年(1825))、名号塔(文政3年(1820))などが現われます。
落石に注意してガレ場を通過します。


上って行くと、上り地蔵、下り地蔵入口です。
寄り道ですが下って行くと、線刻の地蔵尊が建っています。
上を向いた上り地蔵、下を向いた下り地蔵は、室町時代のものといわれ、旅人に微笑みかけるような美しさに驚きます。
徳川幕府が中山道として整備する前から道があったことを示しています。
道を戻り先に進むと傾斜は緩やかになり、南東側が開けた覗(のぞき)に出ます。
急坂と落石の心配から解放され、一息入れたい場所です。
眼下には通過してきた坂本宿が広がっています。
覗から右側に回り込むように進むと風穴があります。
また、左手に大きな馬頭観世音(天保7年(1836))が見えます。
この辺りに一里塚が置かれていたはずですが、形跡はありません。

再び杉林となり、なだらかな道を行くと弘法の井戸そして刎石茶屋跡に着きます。
4軒の茶屋があったことから四軒茶屋とも呼ばれました。
現在は、屋敷跡の石垣と、尾根近くに墓石を残すのみです。
なお、弘法の井戸入口を通って上って来る道は、茶屋で使う水を汲むための道でしたが、近道として歩かれることが常態化していたのでしょう。
本来の道は、弘法の井戸入口より少し手前で左に折れて茶屋に上がります。
道形は明瞭ですが、今は歩かれず倒木が通行を妨げています。
刎石茶屋跡からしばらくは、刎石山山頂域のなだらかな上り下りの杉林の道が続きます。
東屋がその途中にあります。
緩やかな下りにかかると掘切と呼ばれる鞍部になります。
小田原の北条軍と豊臣軍の古戦場で、北国勢が関東に攻め入るのを食い止めようと、道を切り取ったため、現在でも道幅が60~70cmしかありません。

ここを過ぎ、岩の露出した山腹の南面を行くと、右上に南を向いた馬頭観世音(寛政3年(1791))が建っています。
一方、左は急斜面が谷に落ちています。
右へ回り込むと大岩の上に北を向いた馬頭観世音(文化15年(1818))が建っています。
険しい道の続くこの辺りでの人馬の安全を願ったものでしょう。
標高が高くなり、北面にはイヌブナも見えます。
涸沢を横切って上って行くと座頭ころがしの滑りやすい道(小坂道)となります。
ここを過ぎると、再び南面の緩やかな上り道となります。
左は杉、右はカラマツなどの混合林で、時々カラマツの倒木を見受けます。
浅間山の噴出物が降り積もっているため、根の浅いカラマツは倒木しやすいのです。
道が平らになり、開けた鞍部に出ます。栗ヶ原です。
めがね橋から上がってきた道がここで合流します。

【中山茶屋へ】

栗ヶ原の辺りは美しい自然林です。
いよいよ入道久保まで「まごめ坂」と呼ばれた長い坂が始まります。
道は浸食が進んでV字状です。
碓氷峠越も往時には、原則四間(約7.2m)の道幅が維持されていました。
道はやや緩やかになり杉並木が続きます。
坂が終わると右手に線刻の馬頭尊が建ちその右奥が入道久保です。 
この辺りから山中茶屋迄は別荘地の工事によって中山道の道筋が消えています。
現在は擁壁を築きU字溝を伏せた道を下ります。


少し崩れた谷を渡ると山中茶屋跡に出ます。
山中茶屋は、慶安年間に峠の住人が開いた茶屋です。
寛文年間には十三軒の茶屋がありました。明治初期には学校があり、明治天皇御巡幸の折には25名の生徒がお迎えしました。
今は石垣と地蔵堂跡に延命地蔵や墓石が残されているだけです。
山中坂(飯食坂)が始まります。
ややきつい坂道で、別荘の廃屋などが散在しています。
一つ家跡を通過します。この辺りの一里塚は、浅間山の天明大噴火で降灰にうずもれ流れ落ちたと推測されています。

【陣馬ヶ原】

山中坂が終わると陣馬ヶ原の分岐です。
武田軍と上杉軍の古戦場は右奥です。
右への道は皇女和宮降嫁道で、今は作業道となっていて“安政遠足(とおあし)侍マラソン”のコースに使われています。
中山道は直進します。植林したカラマツと広葉樹の明るい道で、大変良い状態が維持されています。
少し坂道になり尾根筋を巻いて行くと傾城水(けいせいすい)(化粧水)です。
もう一度尾根筋を巻いて行くと水量の多い笹沢(碓氷川)で、文政年間に江戸の篤志家が無料の休憩所(人馬施行所)を設けました。
ここからは急な「長坂道」で、深く浸食した道を上ります。
途中、右に鋭角に折れる所で、左に分岐するかすかな踏み跡があります。
現在はほとんどのハイカーが直進しますが、近世の絵図では直進は「野みち」、「近道」と書かれています。
左に分岐する道は、山側が露岩、谷側が急斜面で、通過には注意が必要です。
近世の絵図でも“字小岩”と記されています。
ここを過ぎると道は広くなり、その先で右に折れ、境界杭を追いながら低木をぬって緩い坂道を行くと、墓地の辺りで左の林道に合流します。
その先で右から「近道」が合流し、間もなく思婦石(おもふいし)・神宮寺仁王門跡となります。
神宮寺は熊野神社の別当寺として創建されましたが、寛文2年(1662)に軽井沢宿に移されました。
ここは五方への分岐点です。
峠への道、皇女和宮降嫁道・霧積温泉への道、一つ家の数字歌碑(複製)への道、さらには鼻曲山に向かう登山道が交差しています。

【峠村・峠町】

峠・熊野神社へ向かいます。
途中、左に少し下ると碓氷川水源地です。
コンコンと水が湧き、心休まる場所です。
元の道に戻れば峠はすぐです。
茶屋、社家が並び、右手が県境に建つ熊野神社(神仏分離前までは碓氷権現、熊野権現)です。


参道と境内には狛犬(明徳元年(1390)、石の風車(明暦3年(1657))、石造多重塔(文和3年(1354))、古鐘(正応5年(1292))など歴史を遡るものを多く見ることができます。

また、境内にはみごとなシナノキの大木があります。
長野に多い科の木が「信濃国」の名の由来と言われています。
日本武尊が八咫烏に導かれてこの地に立ったとの由緒も紹介されています。
この峠には正徳3年(1713)の記録で茶屋、社家などが60軒もあり、信州の峠町と上州の峠村の2つの集落が隣り合っていました。
熊野神社に参拝し、茶屋で名物ちから餅と眺望を楽しむのもよいでしょう。

中央分水嶺を越えて長野側に下り始めるとバス停があります。
旧軽井沢と峠を往復する赤バスです。
その先の三叉路を左に折れて見晴台(砦(のろし台)跡)に寄ります。
門をくぐると左手に公衆トイレがあります。
気象条件がよければ関東平野北部と遠く筑波山を望むことができます。
振り向けば、浅間山が間近です。

【軽井沢宿へ】

三叉路まで戻り、「中山道」の小さな標識を確認して左に折れます。
石垣に沿って下るとすぐに町道「三度山線」に出ます。
車道を少し右に歩いて再び「中山道」の小さな標識にしたがって左に下ります。
踏み跡が薄いので、時々現れる国土調査杭を追いながら下り、涸れた聖沢を渡ります。
往時ここには石橋がありました(当時の工法で近代に造られた石橋がこの近くにあります)。


聖沢右岸を下って行くと、荒れた沢に出ます。
県道133号線の雨水をここに落としているのです。
敷設されたロープに沿って対岸に上り返します。
緩やかな下りとなり、また沢を横切ります。
ここを上がると町道に出ます。
少し行くと町道をそれて右に入る標識があります。
その道を下って行くと、左手に多くの馬頭観音が佇んでいます。判別できる二基は文化(1800年代初頭)、嘉永4年(1851)です。

再び町道に出ます。
下って行くと別荘地になります。
四差路はまっすぐ下ります。
大きく左にカーブする直前で小さな標識に従って右に入ります。
踏み跡の乏しい林の中を進むと沢に出ます。
水量は多くありません。
対岸に渡ると左に上る踏み跡があり、すぐに県道に出ます。県道は左へ下ります。
やがて左から来る遊覧歩道が合流して間もなく二手橋(にてばし)となります。
橋の手前に公衆トイレがあります。
この辺りにあった三面馬頭観世音菩薩は、この先の旧軽井沢ロータリーに移設されています。
橋を渡り、芭蕉句碑(天保14年(1843)「馬をさへ なかむる雪の あしたかな」こちらは、紀行文「野ざらし紀行」の中の一句です。

このすぐ先が近世の江戸方枡形跡で軽井沢宿の入口となります。
旧軽銀座は冬季を除きいつも賑やかです。
昔からの看板の掛かった御宿つるやを過ぎ、神宮寺に立ち寄ると、端正な本堂と寛政7年(1795)の宝塔が迎えてくれます。
軽井沢宿には本陣1軒、脇本陣4軒がありましたが、その脇本陣の屋号「江戸屋」を掲げているカフェがあり、今も昔も江戸(東京)はブランドなのだと得心します。
変則四差路の手前が京方枡形跡で、軽井沢宿の西端となります。
GPS端末を見ると横川駅から13.3km(三里十四町)で、近世の史料より少し長い道程でした。
四差路のロータリーにはバス停「旧軽井沢」があります。
また、四差路を左に折れて南に歩くと軽井沢駅に向かいます。中山道は直進です。

この古道を歩くにあたって

トイレ

JR横川駅、原地区、坂本に公衆トイレがあります。以後は碓氷峠見晴台入口の公衆トイレで、その間にはありません。旧軽井沢に下ると、二手橋脇に公衆トイレ、旧軽銀座の軽井沢町観光協会内に有料のトイレがあります。携帯トイレの持参をおすすめします。

給水

JR横川駅と旧軽井沢の周辺を除き、食べ物、飲み物等の売店はありません。道中で飲料水として使える涌水もありません。碓氷峠の茶店が開いている場合は購入できます。

休憩所

JR横川駅前、国道18号線旧道の中山道分岐の休憩舎、刎石茶屋跡の先にあるあずまや、碓氷峠の茶屋、見晴台のあずまや、旧軽銀座の6か所程度です。

野生動物

・碓氷峠から旧軽井沢の間は、クマの目撃情報が多いようです。
・栗ヶ原から碓氷峠の間ではサルの群れに出会うことがあります。「アプトの道」の遊歩道で食べ物を与えられたサルとキツネが餌をねだって近づいてくることがあり、そのサルが広く行動しているようです。
・登山道沿いでは、イノシシが掘り起こした箇所や、ヌタ場を見かけます。
・ニホンカモシカに遭遇することがあります。
・6~8月には大量の山ヒルが現われます。

倒木、枯れ枝

・カラマツ林では倒木が道をふさいでいることがあります。また、杉の植林地では、枯れ枝が落下して登山道に散乱しています。
落石注意;
・刎石坂から栗ヶ原にかけ、南面の登山道では落石を発生させないようにしましょう。急斜面の下は、国道18号線旧道と「アプトの道」の遊歩道です。
・刎石坂などでの上からの落石に注意しましょう。危険個所には立て看板があります。

古道を知る

1.中山道碓氷峠越

国土地理院などの現在の地図では、群馬・長野県境の国道18号線旧道に中山道と碓氷峠(960m)の名を付し、近世の中山道には道と峠の名称が与えられていません。
東山道が入山越から移行してきた時と同様に道と峠の名前が移っているのです。
碓氷新道(現国道18号線旧道)は、明治17年(1884)に落成し、翌年「東京より新潟港に達する国道」となりました。
形式上、中山道は、高崎までを現国道17号線が、高崎以降をこの碓氷新道が引き継ぎましたので、近世の中山道は、その時をもって“旧中山道”となったわけです。
ただしこの古道紹介は、近世の中山道碓氷峠を対象とするため、碓氷関所から峠を越えて軽井沢宿までを範囲とした“中山道碓氷峠越”としました。
その碓氷峠越ですが、幸い近世に歩かれていた時の状態がよく残されています。
新道が別の場所に新設されたためでしょう。
安中市では、「歴史の道百選」に選定されている碓氷峠越の一部約8kmについて、文化財(国史跡)指定をめざした整備計画を2021年3月に発表しています。
また、『中山道分間延絵図』(ぶんけんのべえず)、伊能忠敬の測量図や紀行文などの史料分析と現況調査によって、近世中山道の軌跡がごく一部を除き明確にされました。
碓氷峠越の長野県側については、明治11年に現県道133号線が御巡幸道として開通して以来廃道になっていましたが、1991年に軽井沢西部小学校の岡村知彦先生(当時)の調査によってそのルートが明らかになりました。
中山道は、はじめは中仙道と呼ばれていましたが、東山道の中筋の道ということで、享保元年(1716)に中山道と改められました。しかし今でも中仙道と表記されることが多いようです。
また、「碓氷峠」の名の由来については諸説あり収束していません。
上信国境付近では年間を通して霧の発生が多く、“薄い日差しの地がウスヒ”にという説が最も多く、実際に県境が雲海で覆われる日数は夏期と冬季には3割にもなります。
「霧積の湯(現霧積温泉) 」というもっと具体的な名前の例もあります。なお、標高1200mの碓氷峠まで上昇する雲海は少なく、南に延びた標高の低い県境から群馬側にあふれ出ているようです。

2.中山道碓氷峠越の脇往還や迂回路

徳川幕府によって中山道の通行が厳しく統制される一方で、近世中期頃から人々や物資の移動が増えてきました。
そのため、街道の険しさと通関の厳しさを嫌い、上州・信州の間には多くの脇往還、間道が発達しました(コラム1.「(仮題)下仁田道と十石街道」を参照)。
また、幕末の皇女和宮降嫁、明治初期の明治天皇御巡幸に際しては険しい道を避けるために中山道にも迂回路が造られました(コラム2.「存続した道と荒廃した道」を参照)。

3.群馬長野県境の交通事情

群馬から長野へ越える道路と鉄道のルート決定で、地形の険しい群馬側のどこを通過するかは、古代から現代まで難問であり続けました。
現在では、国道18号線バイパスが横川の霧積隧道を除けばトンネルなしで入山峠を越えています。
また、上信越高速道は多くのトンネルと高架を築いて入山峠の南、和美峠辺りの地中を通過しています。
信越本線も当初構想では入山峠越えの案が最有力でしたが、ヨーロッパに派遣された調査団が見つけた「アプト式」を採用することによって碓氷新道(現国道18号線旧道)に沿った急勾配のルートで通すことになりました。
北陸新幹線は、安中榛名駅を出ると、谷あいの3ケ所の高架を除いてすべてトンネルで、陣馬ヶ原の地下で碓氷峠越と交差して軽井沢駅に向かっています。この新幹線の開通に伴って信越本線は横川駅-軽井沢駅間の鉄道路線が廃止され、JRバスによる1日二便の運行になっています。

4.浅間山の噴火

浅間山(2568m)は、群馬・長野の県境にあり、ランクAの活火山です。
近世の300年間に56の噴火記録が残り、10回ほどは大被害を及ぼしています。
特に甚大な被害が発生したのは、天明三年(1783)の大噴火「浅間大焼」でした。
4月から7月にかけて大量の火山礫、砂、灰が降り、軽井沢宿で150cmを超え、坂本宿で50~60cm、松井田、安中、板鼻の各宿では20cm余と、特に東南方向で多くの降灰がありました。
流れ出た溶岩が堆積した“鬼押出”の出現や、火口から12kmに位置する鎌原村(当時)の全戸90軒が火砕流と泥流でことごとく流失し、村民の8割近い466人の死者を出すなど、「家残らず」が8村に及んだのがこの時でした。
碓氷峠越も砂礫や灰で埋まり、草木は焼け、所々で崩壊や出水がありました。
そのため通行が困難となり、参勤交代も含め一時的に和美峠や内山峠を越える脇往還に迂回する措置が取られました。
“鬼押出”及び鎌原の被害と奇跡に関しては、妻恋村公式ホームページで詳しく知ることができます。
URL;(嬬恋村Webサイト)https://www.vill.tsumagoi.gunma.jp/www/index.html

5.皇女和宮降嫁

徳川幕府の力が衰え、天下が勤皇と佐幕に分裂して世の中が動揺してきた幕末に、幕府と朝廷が異なる思惑を秘めながらも協調して混乱を収拾する動きがありました。
この一環で和宮親子(ちかこ)内親王が十四代将軍家茂のもとへ降嫁することになり、文久元年(1861)に京から江戸に下ったのが中山道です。
降嫁に反対する不穏な気配もありましたので、幕府と朝廷の双方が威信をかけた25日間の降嫁の旅は空前絶後の規模となりました。
碓氷峠越では、11月9日に軽井沢で昼食、刎石茶屋で小休、坂本宿本陣で宿泊でした。
花嫁行列だけでも2794人で、前々日、前日、当日(皇女和宮本隊)及び翌日と4日間に分けて通過していったのです。
これに付き添いの公家方1万人余とお迎えの武家方1万5千人余、通し人足4千人余を合わせると約3万人の大移動となりました。
そして碓氷峠越で徴発された伝馬(てんま)人足は、当日(皇女和宮本隊)だけでも約1万5千人でした。
8月の通過通知以降、街道の造成や施設の改築のため近隣の助郷だけでなく遠くの村々を含めて総動員し、過酷ともいえる準備が強いられたのです。
碓氷峠越では、一部迂回路が造られました。碓氷峠から霧積温泉に至る間道を拡幅し、その途中で分岐して南東方向に張り出した吊尾根に沿うように下り、陣馬ヶ原に出て中山道に合流する道です。
皇女和宮の翌11月10日の宿泊は、板鼻宿本陣でした。
和宮のために邸内に新設された書院は現存し、補修され資料館として公開されています。
URL;(安中市Webサイト)https://www.city.annaka.lg.jp/kanko_spot/itahana.html

深掘りスポット

熊野神社

碓氷峠に建つ熊野神社は、熊野神社(群馬県)、熊野皇大神社(長野県)の総称で、和歌山県熊野三社が勧請され、県境に建つ本殿、右群馬側の新宮、左長野側の那智宮の三社が並んでいます。この峠の国境には古くから祠なり神社なりが祀られていて、それが熊野三社の勧請につながっていったと考えられています。狛犬(明徳元年(1390))、石の風車(明暦三年(1657))、石造多重塔(文和三年(1354))、古鐘(正応五年(1292))など歴史を遡るものを多く見ることができます。特に古鐘は、熊野神社と神宮寺がこの地に祭られていた時代に松井田庄の12人によって奉納されたものであり、古道や東山道の変遷を研究するために貴重なものです。近世には「熊野権現」と呼ばれて親しまれ信仰を集めてきました。

ミニ知識

1.旅籠・茶屋経営からの転身

明治17年(1884)に碓氷新道が開通し、同21年(1888)に新道を走る碓氷馬車鉄道が開通したことによって中山道碓氷峠越とその周辺の人の流れが激変しました。
そのため、旅籠や茶屋の人たちは廃業や離村を与儀なくされ、新たな生業を模索することになったのです。
鉄道関係に従事する方が多かったのは自然の流れかもしれません。次の2例も広義の意味で“峠の町 松井田”ならではです。
(1)峠の釜めし
峠の釜めしで有名なおぎのやは、霧積温泉で旅館業を営んでいましたが鉄道の開通に合わせて横川駅でお弁当の販売を始めました。売れ行きは芳しくなく、女将が乗客に聞いて回ったそうです。
“家庭的で温かく、見た目も楽しめる弁当”だと確信し、偶然益子焼の器の売り込みがあって、1957年に今日見るような「峠の釜めし」を実現しました。
保温性に優れた小さな釜のふたを開けると宝石箱の中を見るようです。
当初から他の駅弁に比べて飛びぬけて高価だったものの、2022年7月現在の累積販売数は約1億8300万個になるそうです。


(2)峠のちから餅
ちから餅が提供されるようになったのは、碓氷峠越の山中茶屋と刎石茶屋が最初と言われています。
お伊勢参りで口にした「赤福餅」がヒントのようです。
刎石茶屋(四軒茶屋)の茶屋玉屋では、転身を余儀なくされると、開通した鉄道の熊ノ平駅(信号場)でちから餅を販売し始めたそうです。
汽車が水と石炭の補給で停車するため、待ち時間があったのです。
しかし鉄道が電化し、熊ノ平で停車しなくなります。
そこで新道(現在の国道18号線旧道)脇に店を構えてちから餅の販売を続けたのです。
モータリゼーションの波に合わせてドライブインに衣替えしながらも峠のちから餅の商品力を生かしたのです。
現在、人気はインターネットで拡散され、多くの若い人たちが立ち寄っています。

2.安政の遠足(とおあし)

安政二年(1855)五月(新暦では6月)に、時の安中藩主板倉勝明は、50歳以下の藩士に対し、数人ずつ組ませて城内から碓氷峠(熊野神社)まで五里二十四町(約22.7km)の遠足をさせました。
鍛錬のためでしょう。
『安中御城内御諸士御遠足着帳』には、城を朝出て巳ノ上刻(午前9時台)に到着とあります。
あるいは、辰ノ刻に到着した組では、巳ノ刻つまり他の遅い組と同じ頃着いたと記してほしいと頼んだとか。
この史実にちなんで毎年5月第2日曜日に「安政の遠足侍マラソン」と名付けたマラソンが催されています。
多くの参加者は、アイデアあふれる仮装姿で駆けています。
コースは安政二年の遠足と若干異なり、和宮降嫁道を経由しています。
URL;https://www.city.annaka.lg.jp/kanko_gyouji/tooashi/index.html

3.碓氷関所に関わる四話

(1)横川茶屋本陣の役割
松井田宿側から中山道を下ると碓氷関所のすぐ手前に二軒の茶屋本陣がありました。
ここでは、要人が休憩し、装束を平地用から山岳用に、あるいはその逆に着替えたということです。
また、一般の人に対しては、関所通過に関し助言・援助もしていたそうです。
この本陣で保管されていた文書の1つに、関所の掟破り刑罰が絵図入りで書かれたものがありますが、これも関所通過の指南に使われたのでしょう。
(2)関所破りの刑
関所破りの処罰である「其の所に於いて磔(はりつけ)」は、関所が廃止されるまで変わりませんでした。
碓氷関所の近くの「磔河原」で数例執行されています。
中には、すでに死亡している者の死体をここまで運び込んで磔にしたということです。
みせしめのために掟どおり行ったのでしょう。
ただし、大目に見て通過を黙認した例も多かったようです。
今「磔河原」を訪ねると、傍らには往時に建てられた小さな地蔵尊と、現代になってから建てられた大きな供養碑とが立っています。
(3)加賀百万石といえども
加賀藩の参勤交代は中山道が利用されていました。
参勤交代で通過する道中を絵巻物にした「下道絵図」が作られ、道の様子の他、宿場、寺社、関所なども写生的に描かれているため、街道の研究にとって価値ある史料と言われています。
その加賀藩の参勤交代に際しては、携えてきた鉄砲を坂本宿で預けて碓氷関所を通過して江戸に向かったそうです。
(4)関所と婚姻圏
碓氷関所は、関所を西に出る“出女”に対する審問が特に厳しかったのです。
そのため、関所の外側となる原地区や坂本宿などでは、結婚相手を関所の西側の地に求めることが多かったそうです。
実家との行き来等でその都度碓氷関所を通ることが煩わしかったためです。

まつわる話

1.射抜き穴

俳人小林一茶は、江戸から故郷柏原まで一日10里あまり、5泊6日で踏破する健脚で、坂本宿の「たかさごや」を定宿にしていました。
その一茶の句「五月雨や夜もかくれぬ山の穴」は、横川の手前辺りで、左手に見える妙義山系の星穴岳の2つの風穴を詠んだものです。
伝説では、百合若大臣が妙義に向かって矢を放って空いた穴が「射抜き穴(いぬきあな)」そして、周りの者たちが百合若大臣に対抗しておむすびを投げて空いた穴が「むすび穴」 だと言い伝えられています。
高崎方面から国道18号線を横川に向かい、横川の手前の交差点「小山沢」から中山道に入るとケヤキの大木があり、その下に「百合若大臣の足跡石」があります。
矢を射るときに踏ん張り、石に窪みができものだとか。
表妙義中之岳の石門巡りはハイキングコースとしてよく知られていますが、星穴岳の風穴探訪はクライマーが下降器を使って挑む難所です。

2.数字歌碑

碓氷峠越の山中茶屋を過ぎ坂道を上って行くと、「一つ家跡」の解説板があり、“ここには老婆がいて、旅人を苦しめたと言われている。”とあります(2022年10月時点)。
道の整備に合わせて、史料の裏付けのない標識は撤去されるようで、この解説板もその1つです。
この言い伝えは、数字歌碑が関わっているように思われます。
この一つ家跡は一里塚があった場所です。
ここに一軒の休み処があり、その庭先に数字歌碑が建てられていました。
その歌碑は、天明3年(1783)の浅間山大噴火によって流失してしまいました。
今は、これを模したものが思婦石・神宮寺仁王門跡から少し下った碓氷貞光神社の脇に立てられています。
歌碑には、「八万三千八三六九三三四七一八二四五十三二四六百四億四六」と刻まれ、“やまみちは寒くさみしな一つ家に夜ごと身にしむ百夜おく霜”と読みました。
休み処の老婆が、旅人にこの歌碑を読ませて悩ませ、休憩中の話題にしたのかもしれません。
なお、この初代の数字歌碑は、武蔵坊弁慶が爪で刻んだと伝えられています。
そのせいでしょうか、文献によっては“落書の碑”と名付けられています。
この休み処の数字歌碑をまねて、近代になって峠の茶屋に二基の数字歌碑が建てられました。
「みくにふみの碑」(昭和30年(1955))は、峠の社家に伝えられていたものを熊野神社が建てたもので、群馬側の茶屋の駐車場にあります。
「四四八四四 七二八奥十百 三九二二三 四九十 四万万四 二三 四万六一十」(よしやよし 何は置くとも み国書(ふみ) よくぞ読ままし 書(ふみ)読まむ人)
「渡辺重石丸(いかりまろ)の数字歌碑」(昭和53年(1978))は、長野側の茶屋の庭先にあります。
「四八八三十一十八五二十百万三三千二五十四六一八三千百万四八四」(世は闇と人は言ふとも正道(まさみち)に勤しむ人は道も迷はじ)
しかし、熊野神社を訪れる昨今の人たちは、これらの歌碑には興味を示さないようです。

ルート

【中山道碓氷峠越を歩くプランの提案】

中山道碓氷峠越(碓氷関所から軽井沢宿)は長距離で一部急坂があり、見所も多所あります。
また、入山口と下山口を連絡する公共交通手段が限られるため一日で全行程を踏破するには綿密な計画が不可欠です。
以下に示すプランを参考に、あなた自身の体力度を踏まえて、古代から連綿と歩かれてきたこの山域を越えてみてください。

プランA [碓氷峠越の全ルートを辿る]

行程;JR横川駅から中山道を辿り旧軽井沢駅へ(又はその逆方向)
所要時間;約7時間(逆方向では約6時間)
見どころ ;旧軽井沢、熊野神社、見晴台、碓氷川水源、坂本宿及び道中の石造物や眺望
グレーティング;難易度 A、体力度 3
アクセス ;(電車) 横川駅-軽井沢駅を結ぶJRバスの利用もしくは新幹線利用
(自家用車) 2台以上であれば下山口側に車をデポ
1台の場合は、中山道分岐と熊野神社間のみを往復し、他区間は別日程

プランB [碓氷峠越も、景色も]

行程   ;旧軽井沢から旧碓氷峠遊覧歩道で碓氷峠に上がり、中山道を辿って栗ヶ原からめがね橋へ
所要時間;約5時間
見どころ ;見晴台、熊野神社、碓氷川水源、めがね橋とアプトの道及び道中の若葉や紅葉
グレーティング;難易度 A、体力度 2
アクセス ;めがね橋-軽井沢駅を結ぶJRバスが夕方2便

プランC [碓氷峠越とその枝道すべてを辿る]

行程   ;1日目はJR横川駅から中山道を辿り旧軽井沢へ(旧軽井沢周辺で宿泊)
2日目は旧軽井沢から旧碓氷峠遊覧歩道経由で碓氷峠に上がり、皇女和宮降嫁道経由で栗ヶ原に出てめがね橋に下る。めがね橋からアプトの道を歩いて横川駅へ
所要時間;1日目は約6時間半、2日目も約6時間半
見どころ ;プランA、Bとアプトの道
グレーティング;難易度 A、体力度 3

【区間毎の所要時間と距離】

1.中山道碓氷峠越
JR横川駅
↓10分  0.4km  ↑10分
碓氷関所跡
↓1:10   2.8km  ↑1:00
中山道分岐(中山道と国道18号線旧道との分岐)
↓2:00   3.5km  ↑1:15
栗ヶ原分岐(御巡幸道の合流)
↓1:00   2.2km  ↑45分
陣馬ヶ原分岐(和宮降嫁道(林道)との分岐)
↓45分  1.3km  ↑30分
思婦石(仁王門跡・和宮降嫁道の合流)
↓ 5分  0.3km  ↑ 5分
碓氷峠(熊野神社・社家・茶屋)
↓35分  1.4km  ↑50分 (注1)
中山道と県道133号線との分岐
↓ 5分  0.4km  ↑10分
県道133号線と遊覧歩道との分岐
↓25分  1.0km  ↑25分
バス停「旧軽井沢」
↓35分  1.5km  ↑35分
軽井沢駅北口
合計: ⇓ 6時間50分  14.8km  ⇑ 5時間45分
(注1)碓氷峠と県道133号線分岐の間は、踏み跡が薄く、荒れた沢筋を横断する箇所があります。
迂回路として旧碓氷峠遊覧歩道又は県道133号線を利用できます。

(2)和宮降嫁道を辿る
軽井沢駅北口
↓35分  1.5km  ↑35分
バス停「旧軽井沢」 (中山道と同じルート)
↓1:30  3.1km   ↑1:10 (注2)
思婦石
↓15分 0.8km   ↑15分
ゲート
↓30分 1.2km   ↑40分
陣馬ヶ原分岐
↓3:10 8.9km   ↑4:20 (中山道と同じルート)
横川駅
合計: ⇓ 6時間00分  15.5km ⇑ 7時間15分
(注2)碓氷峠と県道133号線分岐の間は、踏み跡が薄く、荒れた沢筋を横断する箇所があります。
   迂回路として旧碓氷峠遊覧歩道又は県道133号線を利用できます。

(3)明治天皇御巡幸道を辿る
【林道経由コース】(注3)
JR横川駅
↓10分  0.4km  ↑10分
碓氷関所跡 (中山道と同じルート)
↓1:10   2.8km  ↑1:00
中山道分岐
↓20分  0.8km  ↑15分
林道入口
【めがね橋コース】  1:00   1.6km   50分
めがね橋(碓氷第三橋梁)
↓25分   0.8km  ↑20分
分岐
↓1:05   1.6km  ↑1:00
栗ヶ原分岐
↓1:00   2.2km  ↑45分 (中山道と同じルート)
陣馬ヶ原分岐
↓40分  1.2km  ↑30分
ゲート (和宮降嫁道と同じルート)
↓15分  0.8km  ↑15分
思婦石
↓ 5分  0.3km  ↑5分 (中山道と同じルート)
碓氷峠
↓1:00   3.1km  ↑1:15 (長野県道133号線)
バス停「旧軽井沢」
↓35分  1.5km  ↑35分
軽井沢駅北口
合計: ⇓ 5時間05分  11.5km ⇑ 4時間45分(めがね橋コース)
     ⇓ 7時間20分  16.3km ⇑ 6時間40分(林道経由コース)  
(注3)林道入口と分岐の間は、荒廃と落石の危険があるため、めがね橋コースをおすすめします。

(4) 旧碓氷峠遊覧歩道
軽井沢駅北口
↓35分  1.5km  ↑35分
バス停「旧軽井沢」
↓25分  1.0km  ↑25分
遊覧歩道分岐
↓35分  1.6km  ↑25分
歩道橋(陸橋)
↓35分  1.4km  ↑25分
碓氷峠
合計: ⇓ 2時間10分  5.5km  ⇑ 1時間50分

(5)アプトの道
信越本線アプト式鉄道時代の廃線敷を利用して、JR横川駅~熊ノ平駅跡の間の約6kmが遊歩道“アプトの道”として整備されています。国の重要文化財である旧丸山変電所をはじめ6つの橋梁と10のトンネルがあり、めがね橋など多くの鉄道遺産にふれることができます。
URL;https://www.city.annaka.lg.jp/kanko_spot/bunkazai_shiseki/index.html

アクセス

[横川(JR横川駅、坂本宿、めがね橋、熊ノ平)]
◆車
上信越道松井田妙義ICから国道18号線で、横川まで約5km、坂本宿まで約8km、
めがね橋まで約11km、熊ノ平まで約13km
◆電車
JR高崎駅から信越線でJR横川駅 約33分
JR横川駅からのタクシー利用は電話で依頼
◆JRバス関東
JRバスが横川駅-坂本宿-くつろぎの湯-めがね橋-熊ノ平-軽井沢駅の間を運行
運行本数と運転日に注意
(路線図)http://www.jrbuskanto.co.jp/local_guide/pdf/map_karuizawa.pdf
(時刻表)http://www.jrbuskanto.co.jp/bus_route/pdf/j0460031_1.pdf

[軽井沢(旧軽井沢)]
◆車
上信越道碓氷軽井沢ICから約13km
上信越道佐久ICから約20km
◆電車
北陸新幹線又はしなの鉄道線の軽井沢駅北口から
「町内循環バス東・南廻り線」で約8分又は徒歩約35分、もしくはタクシー利用
◆バス
JRバス関東が軽井沢駅と横川駅間を運行(横川の項を参照)
軽井沢駅北口から「町内循環バス東・南廻り線」で約8分

[旧碓氷峠(熊野神社)]
◆車
東京方面からは、上信越道碓氷軽井沢ICから約16km
長野方面からは、上信越道佐久ICから約23km
◆バス
軽井沢赤バス 
旧軽井沢と碓氷峠(見晴台)間を運行(季節限定の路線バス)
https://www.karuizawa-on.com/kkbc◆タクシー
JR軽井沢駅下車で約15分

参考資料

◆調査報告書関係
[群馬県]
『歴史の道調査報告書 中山道』(群馬県歴史の道調査報告書第十一集)(群馬県教育委員会 昭和57年3月31日発行)
『歴史の道調査報告書 東山道』(同第十六集)(同 昭和58年3月31日発行)
『歴史の道調査報告書 下仁田道』(同第十集)(同 昭和56年3月31日発行)
『歴史の道調査報告書 十石街道』(同第十二集)(同 昭和57年3月31日発行)
「歴史の道中山道碓氷峠越整備基本計画」(安中市教育委員会 2021年3月)
[長野県]
『歴史の道調査報告書 1 中山道』(長野県教育委員会 昭和59年2月20日発行)
『歴史の道調査報告書 41 女街道』(同 平成七年三月三十一日発行)
『歴史の道調査報告書 19 富岡道』(同 昭和62年12月10日発行)
『歴史の道調査報告書 34 余地峠道』(同 平成五年三月三十一日発行)
『歴史の道調査報告書 18 武州道』(同 昭和62年12月10日発行)
◆町村誌関係
[群馬県]
『下仁田町史』(下仁田町 昭和四十六年十一月三日発行)
『南牧村誌』(南牧村 昭和五十六年三月三十一日発行)
『上野村誌(Ⅷ)上野村の歴史』(上野村 平成17年3月31日発行)
『松井田町誌』(松井田町 昭和六十年十二月二十五日発行)
『安中市誌 第二巻通史編』(安中市 平成十五年十一月一日発行)
『安中市誌 第三巻民俗編』(同 平成十年十一月一日発行)
『安中市誌 第五巻近世資料編』(同 平成十四年三月三十一日発行)
[長野県]
『軽井澤町志 歴史遍』(軽井沢町 昭和二十九年八月二十日発行)
◆古文書、古地図関係
『中山道分間延絵図』(全二十巻之内第六巻解説編 昭和五十四年五月三十日 監修児玉幸多)
「伊能大図「碓氷峠」」(享和二年(1802))
「上野国碓氷郡坂本村堀切・釜場・栗ヶ原岬の図」(『碓氷郡官林簿』(明治14-15年)
「元禄上野国絵図」(前橋藩 元禄十五年 群馬県立文書館蔵)
『角川日本地名大辞典 10 群馬県』(1988年7月8日 角川書店)
『角川日本地名大辞典 20 長野県』(1990年7月18日 角川書店)
◆書籍・論文
山田忠雄編『街道の日本史 中山道 武州・西上州・東信州』吉川弘文館、平成13年11月10日
相葉伸(編集者代表)『中山道』みやま文庫、昭和45年5月10日 
相葉伸(編集者代表)『上州の諸街道』みやま文庫、昭和46年4月25日 
萩原進『歴史と風土 碓氷峠』有峰書店新社、昭和64年1月31日増補新装版
須田茂『群馬の峠』みやま文庫、平成17年8月10日発行
岸本豊『中山道 浪漫の旅 東編』信濃毎日新聞社、2016年7月27日
土屋郁子・平野勝重『軽井沢・佐久 中山道を歩く』郷土出版社、昭和61年8月5日
依田幸人『皇女和宮と中山道』信毎書籍出版センター、昭和60年4月15日
左方郁子「皇女和宮中山道降嫁の旅」 別冊歴史読本 第25巻1号 No.532
「日本史 地図を歩く」 新人物往来社、2000年1月14日
大角留吉「自然災害と農山村の再興-天明三年浅間山大噴火と農山村の再興の場合-」新地理 22(3-4),1-26,1975 日本地理教育学会)
◆紀行文
ウォルター・ウェストン著 黒岩健訳『日本アルプスの登山と探検』大江出版社、1982年10月10日 再版第一刷
◆登山、ハイキング関係
『山と高原地図19浅間山』(2022年版 昭文社)
『群馬の山歩きベストガイド』(2019年12月15日 上毛新聞社)

協力・担当者

《担当》
群馬支部
黛 利信
《協力》
岸本 豊(中山道69次資料館 館長)
佐藤芳明(安中市松井田町入山)
※敬称略

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