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65 中山道 碓氷峠

入山越え(東山道)、皇女和宮降嫁道、明治天皇御巡幸道、旧碓氷峠遊覧歩道

中山道碓氷峠越えとその枝道や脇往還の盛衰の様子を見ると、道が持つべき普遍的な特性を知ることができます。
道は、将来にわたって不変ではなく、ルートが変わったり、歩かれなくなったりすることがしばしばあります。
その中で、寿命が長い道と、短期間で忘れ去られてしまう道との差異があることを、この碓氷峠越えの脇往還である入山越、枝道(迂回路)である明治天皇御巡幸道と皇女和宮降嫁道を例に紹介します。

古道を歩く

1.皇女和宮降嫁道を辿る

大筋では中山道碓氷峠越を旧軽井沢から坂本、横川に向かう道筋ですが、思婦石分岐から陣馬ヶ原分岐までの間は急坂の「長坂」を避けるために造られた迂回路が利用されました。
思婦石分岐で中山道から分かれ「坂本宿・霧積温泉」方向に向かいます。
ほぼ平らな歩きやすい林道です。
途中で右に分岐してゲート跡を通過し、陣馬ヶ原に下って行きます。
この迂回路は、「安政遠足(とおあし)侍マラソン」のコースになっています。なお、道中に和宮降嫁に関わる記念碑等の古跡は見当たりません。

2.明治天皇御巡幸道を辿る

明治天皇御巡幸に際しては、難所を避けるために皇女和宮降嫁時に造られた迂回路の他に、刎石坂の迂回路及び峠から軽井沢に下る迂回路が造られ利用されました。
刎石坂の迂回路は、国道18号線旧道のカーブ「R19」辺りで右の林道に入ります。
林道は国土地理院地図に図示されています(2022年末時点)。チェーンが張られた入口から約500mが林道で、終端から先は荒廃しており、荒れた沢筋をいくつも横断します。


途中2ケ所に鉄道用送電線の鉄塔が建っていますので、その保全のために立ち入ることがあるようです。
1.7kmほど行くとめがね橋から上がってくる道と合流し、その先の栗ヶ原に向かいます。
林道入口から1kmほどの区間の左斜面下には国道18号線旧道や「アプトの道」が並走しているため、落石を発生させると非常に危険です。
事故防止のため、めがね橋から上がるルートの利用をおすすめします。
峠から軽井沢に下る迂回路は、現在の長野県道133号線です。
なお、道中に御巡幸に関わる記念碑等の古跡は見当たりません。

●めがね橋ルート
めがね橋(碓氷第三橋梁)のレンガ造りの橋脚をくぐって碓氷川右岸の舗装された道を川上に進み、標識にしたがって碓氷川を渡渉し対岸に渡ります。
増水時は少し川上の堰堤を渡ると良いでしょう。つづら折れの道を上がって、荒廃化した道を合わせると山腹を進むなだらかな道になります。
右手には樹間越しに“屏風岩”の断崖が続きますが、それが尽きると道は尾根筋の“七曲りの急坂”を上りあげて山稜に出ます。
やがて栗ヶ原に出て中山道に合流します。

3.旧碓氷峠遊覧歩道

旧軽井沢の市街地から長野県道133号線を峠方面に向かい、二手橋(にてばし)を過ぎて間もなく右に分岐して峠まで上りあげるハイキングコースです。
中山道は廃道となって道が不明瞭であること、県道は舗装の車道であることからこの遊覧歩道がよく歩かれています。
桟道橋、吊橋、歩道橋など整備が行き届き、歩きやすい道です(写真65)。
なお、このコースは、中部北陸自然歩道「軽井沢木洩れびの道」の一部となっています(写真66)。
(https://www.env.go.jp/nature/nationalparks/pick-up/long-trail/chu_hoku/)

この古道を歩くにあたって

【「中山道 碓氷峠」と同じ内容です】

トイレ

JR横川駅、原地区、坂本に公衆トイレがあります。以後は碓氷峠見晴台入口の公衆トイレで、その間にはありません。旧軽井沢に下ると、二手橋脇に公衆トイレ、旧軽銀座の軽井沢町観光協会内に有料のトイレがあります。携帯トイレの持参をおすすめします。

給水

JR横川駅と旧軽井沢の周辺を除き、食べ物、飲み物等の売店はありません。道中で飲料水として使える涌水もありません。碓氷峠の茶店が開いている場合は購入できます。

休憩所

JR横川駅前、国道18号線旧道の中山道分岐の休憩舎、刎石茶屋跡の先にあるあずまや、碓氷峠の茶屋、見晴台のあずまや、旧軽銀座の6か所程度です。

野生動物

・碓氷峠から旧軽井沢の間は、クマの目撃情報が多いようです。
・栗ヶ原から碓氷峠の間ではサルの群れに出会うことがあります。「アプトの道」の遊歩道で食べ物を与えられたサルとキツネが餌をねだって近づいてくることがあり、そのサルが広く行動しているようです。
・登山道沿いでは、イノシシが掘り起こした箇所や、ヌタ場を見かけます。
・ニホンカモシカに遭遇することがあります。
・6~8月には大量の山ヒルが現われます。

倒木、枯れ枝

・カラマツ林では倒木が道をふさいでいることがあります。また、杉の植林地では、枯れ枝が落下して登山道に散乱しています。
落石注意;
・刎石坂から栗ヶ原にかけ、南面の登山道では落石を発生させないようにしましょう。急斜面の下は、国道18号線旧道と「アプトの道」の遊歩道です。
・刎石坂などでの上からの落石に注意しましょう。危険個所には立て看板があります。

古道を知る

1.入山越

入山峠を越えていたと推定される東山道が現碓氷峠越に移っていった後も入山越えは脇往還として利用され続けました。
上州側では「入山越」、信州側では「入山道」と呼ばれていました。
近世には中馬街道として人馬が盛んに行きかいました。
中山道の険しさに比べ、人馬にとっては歩きやすい道だったのです。
もともとは宿場の問屋が配備する伝馬で宿間ごとに運ぶ方法(継立・継ぎ送り)が制度化されていました。
しかし、流通経済が拡大する近世中期頃になると、信州から米穀や紙・砂糖等の商荷が入山峠や少し南の和美峠などを越えて松井田宿や下仁田方面など遠くの目的地まで付け通しで運び、帰りには上州から麻や茶等の産品を運ぶことが増えました。
これを「中馬」と呼びました。

律令体制下の官道であった東山道を踏襲していると推定されている入山越(中馬街道)ですが、今その入山越を横川から軽井沢まで歩くと、入山川と支流の遠入川に沿ったなだらかな道が山懐まで続いたのちに急斜面をジグザグに上る道となり、すぐに大きな馬頭観世音菩薩の建つ峠に出ます。


峠では旅の安全を道の神に祈念するためと推定される古代祭祀跡の遺物が発見されています。
峠から扇平まで緩やかに下ると中山道はすぐそこです。
信州の追分、沓掛、軽井沢の各宿から横川や松井田宿までの距離は、碓氷峠越より1kmほど長いものの、峠の標高は約130m低く、峠付近の道の勾配がゆるかったため、多めの荷駄を積んで信州側と上州側の松井田宿などとの間を1日で往復できたのです。
この入山越では、人馬の安全を願って建てられた多くの馬頭尊を見ることができます。
群馬県の馬頭観音の多さは全国でも屈指ですが、ここは特に多くなっています。
馬と言えば、群馬県(上毛野国(かみつけの/かみつけぬ))では古墳時代から有力豪族によって馬が飼育され、10世紀初頭の史料によれば9箇所の官営牧場「御牧」があり、毎年50頭を朝廷に献上しています。
この馬も、官人の往来や租・調の献納などと同じく東山道を上って行ったのです。
また、この峠は、別離の場でもありました。万葉集巻十四「東歌」には、遠い地に向かう防人と残される者の別離の歌が収められています。
日の暮に うすひの山を こゆる日は せなのが袖も さやにふらしつ
 (巻14) よみ人知らず
ひなくもり うすひの坂を こえしだに いもが恋しく わすらえぬかも
 (巻20) 他田部子磐前(おさだべのこいわさき)
◆道の特徴
この入山越は、人馬にとって歩きやすい道でした。
・県境の比較的標高が低い所を越えていること
・川沿いに点在する集落をつなぐように続くなだらかな道を辿ること
・峠間際では広い尾根をジグザグに切って勾配を少なくしていること
・急峻な崖やガレた箇所を避けていること
・かなり奥まで水場があること
◆ルートの重要性と保全
土木技術や道具などが乏しかった律令時代に、未開の地でこのルートを探し当てた人々の“目利き”の的確さに全く感心してしまいます。
この最初のルートが近代・現代においても道路や鉄道の通過地として有力候補であり続けているのです。
この川沿いの道の難点は、水害に対する保全です。
現地では、落葉広葉樹の自然林を残す努力、小形の砂防堰堤をこまめに設ける配慮、地域住民による雑草の刈払いや側溝の掃除を続ける協力などが積極的に行われているように見受けられます。

2.皇女和宮降嫁道

皇女和宮が降嫁のために京から江戸に下った中山道の碓氷峠越では、一部迂回路が造成されました。
碓氷峠から霧積の湯(現霧積温泉)に至る間道を拡幅し、その途中で分岐して南東方向に張り出した吊尾根を下って陣馬ヶ原で中山道に合流する道です。
距離は中山道の長坂を通過するより800mほど長くなりますが、人馬施行所まで20~30%の勾配が続く長坂に比べ、造成した道は10~15%の勾配で徐々に下ることができます。
◆道の特徴
この迂回路は、道に関する既知の考え方が実践された道でした。
・既にあった間道を拡幅したこと
・新たに延伸した道は尾根に付けたこと
◆必要性に合致
8月の下命から3か月間の工期しかありませんでしたが歩きやすい道を造ることができました。
間道を拡幅した道は、現在でも碓氷峠と霧積温泉をつなぐ道(林道)として利用されています。
また、延伸した道は、現在では中山道の補修や国有林の間伐等の作業道として利用されています。
さらに、この林道と作業道は、「安政の遠足侍マラソン」のコースとしても活用されています。

3.明治天皇御巡幸道

明治天皇は、明治11年(1878)9月に北陸・東海御巡幸のため碓氷峠を越えられました。
峠道のあい路を避けるため、新たに二か所に迂回路が造られました。刎石坂の迂回路は、山腹南面を徐々に高度を上げて栗ヶ原に出る道です。
陣馬ヶ原から峠までは、明治天皇の叔母にあたる皇女和宮の降嫁時に造られた道が使われました。
峠からは、中山道に沿う形で旧軽井沢に下る道(現在の長野県道133号線)が造られました。
このうち、刎石山南面の道は、沢筋と尾根筋を繰り返しながら、山腹をほぼ均一の勾配で上がって行く道です。
沢筋の桟道跡には現在も切石で築かれた石垣の一部が残っています。


法面の崩壊を防ぐ石垣などはなかったようで、今では土砂の流失が進み、沢は岩盤が露出しています。
明治天皇のご通行に際しても、前夜の雨で道がぬかるんで滑るため、天皇は御輿からお降りになられ、徒歩で通過されました。
断崖から水しぶきがほとばしる所があり、天皇がお濡れにならないようにと、お付きの方々が両手をかざす場面もありました。
そこを越え、再び御輿にお乗りになり栗ヶ原に到着されました。
明治17年(1884)碓氷峠に新道(現国道18号線旧道)が開通、また明治21年(1888)に新道を利用した碓氷馬車鉄道が開通し、中山道の峠越えは激減しました。
『巡幸日誌』で「凸ヲ削リ凹ヲ填メ、或ハ旧道ヲ廃シ新路ヲ作リ、衆庶ヲシテ永ク行路ノ沮難ヲ免カレシム」と期待され、「明治の中山道」と言われることもあるこの迂回路は、極めて短期間に使命を終えてしまいました。
現在は、めがね橋(碓氷第三橋梁)から栗ヶ原に至るハイキングルートとして一部分が復活し「御巡幸道」と呼ばれています。
◆道の特徴
この刎石坂の迂回路は、出水対策が十分ではなかったと言えるでしょう。
刎石山は溶岩台地で、東西に伸びる稜線には6つのピークがあり、その間のギャップが沢となって南北に下っています。
通常は涸れていても、大雨による出水が沢を荒らします。
今では、すべての沢筋で桟道がそれを支える石垣ごと流されてしまっていて形跡すらありません。
また、急斜面を切削して造成した道は、山側の法面が崩れやすいものです。
特に浅間山の噴出物が堆積している場所では雨水による浸食が進みます。これを防ぐ工事もなされていなかったようです。

◆利便性と堅牢性
刎石坂を上がるルートに比べ、この迂回路は、距離は約600m長く、上りでは25分ほど余分にかかります。
一方、勾配は10~20%のコンスタントな坂道であり、刎石坂コースの30%前後の坂道があったり平坦や下りがあったりという道に比べて歩きやすいとは言えます。この迂回路は、御輿で安全に通過するには優位だったはずでしたが、あいにく天皇の御通過が秋霖の季節で、ぬかるみに足を取られ水しぶきを浴びてしまうことになってしまいました。
近世の古道は、総じて“より近い道”が支持されています。
中山道でも水呑道や野道の利用が常態化していたようです。そのような事情もあり、この迂回路が中山道に代わる地位にはつけませんでした。
現代でも自然保護の面から問題になるように、山の中腹を走る道の建設は、広い面積の斜面を切り取り、上下に堅牢な擁壁を築くことが不可欠で、この迂回路造成ではそれを講じる時間的余裕がなかったのです。

深掘りスポット

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熊野神社

碓氷峠に建つ熊野神社は、熊野神社(群馬県)、熊野皇大神社(長野県)の総称で、和歌山県熊野三社が勧請され、県境に建つ本殿、右群馬側の新宮、左長野側の那智宮の三社が並んでいます。この峠の国境には古くから祠なり神社なりが祀られていて、それが熊野三社の勧請につながっていったと考えられています。狛犬(明徳元年(1390))、石の風車(明暦三年(1657))、石造多重塔(文和三年(1354))、古鐘(正応五年(1292))など歴史を遡るものを多く見ることができます。特に古鐘は、熊野神社と神宮寺がこの地に祭られていた時代に松井田庄の12人によって奉納されたものであり、古道や東山道の変遷を研究するために貴重なものです。近世には「熊野権現」と呼ばれて親しまれ信仰を集めてきました。

ミニ知識

【「中山道 碓氷峠」と同じ内容です】

1.旅籠・茶屋経営からの転身

明治17年(1884)に碓氷新道が開通し、同21年(1888)に新道を走る碓氷馬車鉄道が開通したことによって中山道碓氷峠越とその周辺の人の流れが激変しました。
そのため、旅籠や茶屋の人たちは廃業や離村を与儀なくされ、新たな生業を模索することになったのです。
鉄道関係に従事する方が多かったのは自然の流れかもしれません。次の2例も広義の意味で“峠の町 松井田”ならではです。
(1)峠の釜めし
峠の釜めしで有名なおぎのやは、霧積温泉で旅館業を営んでいましたが鉄道の開通に合わせて横川駅でお弁当の販売を始めました。売れ行きは芳しくなく、女将が乗客に聞いて回ったそうです。
“家庭的で温かく、見た目も楽しめる弁当”だと確信し、偶然益子焼の器の売り込みがあって、1957年に今日見るような「峠の釜めし」を実現しました。
保温性に優れた小さな釜のふたを開けると宝石箱の中を見るようです。
当初から他の駅弁に比べて飛びぬけて高価だったものの、2022年7月現在の累積販売数は約1億8300万個になるそうです。


(2)峠のちから餅
ちから餅が提供されるようになったのは、碓氷峠越の山中茶屋と刎石茶屋が最初と言われています。
お伊勢参りで口にした「赤福餅」がヒントのようです。
刎石茶屋(四軒茶屋)の茶屋玉屋では、転身を余儀なくされると、開通した鉄道の熊ノ平駅(信号場)でちから餅を販売し始めたそうです。
汽車が水と石炭の補給で停車するため、待ち時間があったのです。
しかし鉄道が電化し、熊ノ平で停車しなくなります。
そこで新道(現在の国道18号線旧道)脇に店を構えてちから餅の販売を続けたのです。
モータリゼーションの波に合わせてドライブインに衣替えしながらも峠のちから餅の商品力を生かしたのです。
現在、人気はインターネットで拡散され、多くの若い人たちが立ち寄っています。

2.安政の遠足(とおあし)

安政二年(1855)五月(新暦では6月)に、時の安中藩主板倉勝明は、50歳以下の藩士に対し、数人ずつ組ませて城内から碓氷峠(熊野神社)まで五里二十四町(約22.7km)の遠足をさせました。
鍛錬のためでしょう。
『安中御城内御諸士御遠足着帳』には、城を朝出て巳ノ上刻(午前9時台)に到着とあります。
あるいは、辰ノ刻に到着した組では、巳ノ刻つまり他の遅い組と同じ頃着いたと記してほしいと頼んだとか。
この史実にちなんで毎年5月第2日曜日に「安政の遠足侍マラソン」と名付けたマラソンが催されています。
多くの参加者は、アイデアあふれる仮装姿で駆けています。
コースは安政二年の遠足と若干異なり、和宮降嫁道を経由しています。
URL;https://www.city.annaka.lg.jp/kanko_gyouji/tooashi/index.html

3.碓氷関所に関わる四話

(1)横川茶屋本陣の役割
松井田宿側から中山道を下ると碓氷関所のすぐ手前に二軒の茶屋本陣がありました。
ここでは、要人が休憩し、装束を平地用から山岳用に、あるいはその逆に着替えたということです。
また、一般の人に対しては、関所通過に関し助言・援助もしていたそうです。
この本陣で保管されていた文書の1つに、関所の掟破り刑罰が絵図入りで書かれたものがありますが、これも関所通過の指南に使われたのでしょう。
(2)関所破りの刑
関所破りの処罰である「其の所に於いて磔(はりつけ)」は、関所が廃止されるまで変わりませんでした。
碓氷関所の近くの「磔河原」で数例執行されています。
中には、すでに死亡している者の死体をここまで運び込んで磔にしたということです。
みせしめのために掟どおり行ったのでしょう。
ただし、大目に見て通過を黙認した例も多かったようです。
今「磔河原」を訪ねると、傍らには往時に建てられた小さな地蔵尊と、現代になってから建てられた大きな供養碑とが立っています。
(3)加賀百万石といえども
加賀藩の参勤交代は中山道が利用されていました。
参勤交代で通過する道中を絵巻物にした「下道絵図」が作られ、道の様子の他、宿場、寺社、関所なども写生的に描かれているため、街道の研究にとって価値ある史料と言われています。
その加賀藩の参勤交代に際しては、携えてきた鉄砲を坂本宿で預けて碓氷関所を通過して江戸に向かったそうです。
(4)関所と婚姻圏
碓氷関所は、関所を西に出る“出女”に対する審問が特に厳しかったのです。
そのため、関所の外側となる原地区や坂本宿などでは、結婚相手を関所の西側の地に求めることが多かったそうです。
実家との行き来等でその都度碓氷関所を通ることが煩わしかったためです。

まつわる話

【「中山道 碓氷峠」と同じ内容です】

1.射抜き穴

俳人小林一茶は、江戸から故郷柏原まで一日10里あまり、5泊6日で踏破する健脚で、坂本宿の「たかさごや」を定宿にしていました。
その一茶の句「五月雨や夜もかくれぬ山の穴」は、横川の手前辺りで、左手に見える妙義山系の星穴岳の2つの風穴を詠んだものです。
伝説では、百合若大臣が妙義に向かって矢を放って空いた穴が「射抜き穴(いぬきあな)」そして、周りの者たちが百合若大臣に対抗しておむすびを投げて空いた穴が「むすび穴」 だと言い伝えられています。
高崎方面から国道18号線を横川に向かい、横川の手前の交差点「小山沢」から中山道に入るとケヤキの大木があり、その下に「百合若大臣の足跡石」があります。
矢を射るときに踏ん張り、石に窪みができものだとか。
表妙義中之岳の石門巡りはハイキングコースとしてよく知られていますが、星穴岳の風穴探訪はクライマーが下降器を使って挑む難所です。

2.数字歌碑

碓氷峠越の山中茶屋を過ぎ坂道を上って行くと、「一つ家跡」の解説板があり、“ここには老婆がいて、旅人を苦しめたと言われている。”とあります(2022年10月時点)。
道の整備に合わせて、史料の裏付けのない標識は撤去されるようで、この解説板もその1つです。
この言い伝えは、数字歌碑が関わっているように思われます。
この一つ家跡は一里塚があった場所です。
ここに一軒の休み処があり、その庭先に数字歌碑が建てられていました。
その歌碑は、天明3年(1783)の浅間山大噴火によって流失してしまいました。
今は、これを模したものが思婦石・神宮寺仁王門跡から少し下った碓氷貞光神社の脇に立てられています。
歌碑には、「八万三千八三六九三三四七一八二四五十三二四六百四億四六」と刻まれ、“やまみちは寒くさみしな一つ家に夜ごと身にしむ百夜おく霜”と読みました。
休み処の老婆が、旅人にこの歌碑を読ませて悩ませ、休憩中の話題にしたのかもしれません。
なお、この初代の数字歌碑は、武蔵坊弁慶が爪で刻んだと伝えられています。
そのせいでしょうか、文献によっては“落書の碑”と名付けられています。
この休み処の数字歌碑をまねて、近代になって峠の茶屋に二基の数字歌碑が建てられました。
「みくにふみの碑」(昭和30年(1955))は、峠の社家に伝えられていたものを熊野神社が建てたもので、群馬側の茶屋の駐車場にあります。
「四四八四四 七二八奥十百 三九二二三 四九十 四万万四 二三 四万六一十」(よしやよし 何は置くとも み国書(ふみ) よくぞ読ままし 書(ふみ)読まむ人)
「渡辺重石丸(いかりまろ)の数字歌碑」(昭和53年(1978))は、長野側の茶屋の庭先にあります。
「四八八三十一十八五二十百万三三千二五十四六一八三千百万四八四」(世は闇と人は言ふとも正道(まさみち)に勤しむ人は道も迷はじ)
しかし、熊野神社を訪れる昨今の人たちは、これらの歌碑には興味を示さないようです。

ルート

【「中山道 碓氷峠」と同じ内容です】

【中山道碓氷峠越を歩くプランの提案】

中山道碓氷峠越(碓氷関所から軽井沢宿)は長距離で一部急坂があり、見所も多所あります。
また、入山口と下山口を連絡する公共交通手段が限られるため一日で全行程を踏破するには綿密な計画が不可欠です。
以下に示すプランを参考に、あなた自身の体力度を踏まえて、古代から連綿と歩かれてきたこの山域を越えてみてください。

プランA [碓氷峠越の全ルートを辿る]

行程;JR横川駅から中山道を辿り旧軽井沢駅へ(又はその逆方向)
所要時間;約7時間(逆方向では約6時間)
見どころ ;旧軽井沢、熊野神社、見晴台、碓氷川水源、坂本宿及び道中の石造物や眺望
グレーティング;難易度 A、体力度 3
アクセス ;(電車) 横川駅-軽井沢駅を結ぶJRバスの利用もしくは新幹線利用
(自家用車) 2台以上であれば下山口側に車をデポ
1台の場合は、中山道分岐と熊野神社間のみを往復し、他区間は別日程

プランB [碓氷峠越も、景色も]

行程   ;旧軽井沢から旧碓氷峠遊覧歩道で碓氷峠に上がり、中山道を辿って栗ヶ原からめがね橋へ
所要時間;約5時間
見どころ ;見晴台、熊野神社、碓氷川水源、めがね橋とアプトの道及び道中の若葉や紅葉
グレーティング;難易度 A、体力度 2
アクセス ;めがね橋-軽井沢駅を結ぶJRバスが夕方2便

プランC [碓氷峠越とその枝道すべてを辿る]

行程   ;1日目はJR横川駅から中山道を辿り旧軽井沢へ(旧軽井沢周辺で宿泊)
2日目は旧軽井沢から旧碓氷峠遊覧歩道経由で碓氷峠に上がり、皇女和宮降嫁道経由で栗ヶ原に出てめがね橋に下る。めがね橋からアプトの道を歩いて横川駅へ
所要時間;1日目は約6時間半、2日目も約6時間半
見どころ ;プランA、Bとアプトの道
グレーティング;難易度 A、体力度 3

【区間毎の所要時間と距離】

1.中山道碓氷峠越
JR横川駅
↓10分  0.4km  ↑10分
碓氷関所跡
↓1:10   2.8km  ↑1:00
中山道分岐(中山道と国道18号線旧道との分岐)
↓2:00   3.5km  ↑1:15
栗ヶ原分岐(御巡幸道の合流)
↓1:00   2.2km  ↑45分
陣馬ヶ原分岐(和宮降嫁道(林道)との分岐)
↓45分  1.3km  ↑30分
思婦石(仁王門跡・和宮降嫁道の合流)
↓ 5分  0.3km  ↑ 5分
碓氷峠(熊野神社・社家・茶屋)
↓35分  1.4km  ↑50分 (注1)
中山道と県道133号線との分岐
↓ 5分  0.4km  ↑10分
県道133号線と遊覧歩道との分岐
↓25分  1.0km  ↑25分
バス停「旧軽井沢」
↓35分  1.5km  ↑35分
軽井沢駅北口
合計: ⇓ 6時間50分  14.8km  ⇑ 5時間45分
(注1)碓氷峠と県道133号線分岐の間は、踏み跡が薄く、荒れた沢筋を横断する箇所があります。
迂回路として旧碓氷峠遊覧歩道又は県道133号線を利用できます。

(2)和宮降嫁道を辿る
軽井沢駅北口
↓35分  1.5km  ↑35分
バス停「旧軽井沢」 (中山道と同じルート)
↓1:30  3.1km   ↑1:10 (注2)
思婦石
↓15分 0.8km   ↑15分
ゲート
↓30分 1.2km   ↑40分
陣馬ヶ原分岐
↓3:10 8.9km   ↑4:20 (中山道と同じルート)
横川駅
合計: ⇓ 6時間00分  15.5km ⇑ 7時間15分
(注2)碓氷峠と県道133号線分岐の間は、踏み跡が薄く、荒れた沢筋を横断する箇所があります。
   迂回路として旧碓氷峠遊覧歩道又は県道133号線を利用できます。

(3)明治天皇御巡幸道を辿る
【林道経由コース】(注3)
JR横川駅
↓10分  0.4km  ↑10分
碓氷関所跡 (中山道と同じルート)
↓1:10   2.8km  ↑1:00
中山道分岐
↓20分  0.8km  ↑15分
林道入口
【めがね橋コース】  1:00   1.6km   50分
めがね橋(碓氷第三橋梁)
↓25分   0.8km  ↑20分
分岐
↓1:05   1.6km  ↑1:00
栗ヶ原分岐
↓1:00   2.2km  ↑45分 (中山道と同じルート)
陣馬ヶ原分岐
↓40分  1.2km  ↑30分
ゲート (和宮降嫁道と同じルート)
↓15分  0.8km  ↑15分
思婦石
↓ 5分  0.3km  ↑5分 (中山道と同じルート)
碓氷峠
↓1:00   3.1km  ↑1:15 (長野県道133号線)
バス停「旧軽井沢」
↓35分  1.5km  ↑35分
軽井沢駅北口
合計: ⇓ 5時間05分  11.5km ⇑ 4時間45分(めがね橋コース)
     ⇓ 7時間20分  16.3km ⇑ 6時間40分(林道経由コース)  
(注3)林道入口と分岐の間は、荒廃と落石の危険があるため、めがね橋コースをおすすめします。

(4) 旧碓氷峠遊覧歩道
軽井沢駅北口
↓35分  1.5km  ↑35分
バス停「旧軽井沢」
↓25分  1.0km  ↑25分
遊覧歩道分岐
↓35分  1.6km  ↑25分
歩道橋(陸橋)
↓35分  1.4km  ↑25分
碓氷峠
合計: ⇓ 2時間10分  5.5km  ⇑ 1時間50分

(5)アプトの道
信越本線アプト式鉄道時代の廃線敷を利用して、JR横川駅~熊ノ平駅跡の間の約6kmが遊歩道“アプトの道”として整備されています。国の重要文化財である旧丸山変電所をはじめ6つの橋梁と10のトンネルがあり、めがね橋など多くの鉄道遺産にふれることができます。
URL;https://www.city.annaka.lg.jp/kanko_spot/bunkazai_shiseki/index.html

アクセス

【「中山道 碓氷峠」と同じ内容です】
[横川(JR横川駅、坂本宿、めがね橋、熊ノ平)]
◆車
上信越道松井田妙義ICから国道18号線で、横川まで約5km、坂本宿まで約8km、
めがね橋まで約11km、熊ノ平まで約13km
◆電車
JR高崎駅から信越線でJR横川駅 約33分
JR横川駅からのタクシー利用は電話で依頼
◆JRバス関東
JRバスが横川駅-坂本宿-くつろぎの湯-めがね橋-熊ノ平-軽井沢駅の間を運行
運行本数と運転日に注意
(路線図)http://www.jrbuskanto.co.jp/local_guide/pdf/map_karuizawa.pdf
(時刻表)http://www.jrbuskanto.co.jp/bus_route/pdf/j0460031_1.pdf

[軽井沢(旧軽井沢)]
◆車
上信越道碓氷軽井沢ICから約13km
上信越道佐久ICから約20km
◆電車
北陸新幹線又はしなの鉄道線の軽井沢駅北口から
「町内循環バス東・南廻り線」で約8分又は徒歩約35分、もしくはタクシー利用
◆バス
JRバス関東が軽井沢駅と横川駅間を運行(横川の項を参照)
軽井沢駅北口から「町内循環バス東・南廻り線」で約8分

[旧碓氷峠(熊野神社)]
◆車
東京方面からは、上信越道碓氷軽井沢ICから約16km
長野方面からは、上信越道佐久ICから約23km
◆バス
軽井沢赤バス 
旧軽井沢と碓氷峠(見晴台)間を運行(季節限定の路線バス)
https://www.karuizawa-on.com/kkbc
◆タクシー
JR軽井沢駅下車で約15分

参考資料

【「中山道 碓氷峠」と同じ内容です】
◆調査報告書関係
[群馬県]
『歴史の道調査報告書 中山道』(群馬県歴史の道調査報告書第十一集)(群馬県教育委員会 昭和57年3月31日発行)
『歴史の道調査報告書 東山道』(同第十六集)(同 昭和58年3月31日発行)
『歴史の道調査報告書 下仁田道』(同第十集)(同 昭和56年3月31日発行)
『歴史の道調査報告書 十石街道』(同第十二集)(同 昭和57年3月31日発行)
「歴史の道中山道碓氷峠越整備基本計画」(安中市教育委員会 2021年3月)
[長野県]
『歴史の道調査報告書 1 中山道』(長野県教育委員会 昭和59年2月20日発行)
『歴史の道調査報告書 41 女街道』(同 平成七年三月三十一日発行)
『歴史の道調査報告書 19 富岡道』(同 昭和62年12月10日発行)
『歴史の道調査報告書 34 余地峠道』(同 平成五年三月三十一日発行)
『歴史の道調査報告書 18 武州道』(同 昭和62年12月10日発行)
◆町村誌関係
[群馬県]
『下仁田町史』(下仁田町 昭和四十六年十一月三日発行)
『南牧村誌』(南牧村 昭和五十六年三月三十一日発行)
『上野村誌(Ⅷ)上野村の歴史』(上野村 平成17年3月31日発行)
『松井田町誌』(松井田町 昭和六十年十二月二十五日発行)
『安中市誌 第二巻通史編』(安中市 平成十五年十一月一日発行)
『安中市誌 第三巻民俗編』(同 平成十年十一月一日発行)
『安中市誌 第五巻近世資料編』(同 平成十四年三月三十一日発行)
[長野県]
『軽井澤町志 歴史遍』(軽井沢町 昭和二十九年八月二十日発行)
◆古文書、古地図関係
『中山道分間延絵図』(全二十巻之内第六巻解説編 昭和五十四年五月三十日 監修児玉幸多)
「伊能大図「碓氷峠」」(享和二年(1802))
「上野国碓氷郡坂本村堀切・釜場・栗ヶ原岬の図」(『碓氷郡官林簿』(明治14-15年)
「元禄上野国絵図」(前橋藩 元禄十五年 群馬県立文書館蔵)
『角川日本地名大辞典 10 群馬県』(1988年7月8日 角川書店)
『角川日本地名大辞典 20 長野県』(1990年7月18日 角川書店)
◆書籍・論文
山田忠雄編『街道の日本史 中山道 武州・西上州・東信州』吉川弘文館、平成13年11月10日
相葉伸(編集者代表)『中山道』みやま文庫、昭和45年5月10日 
相葉伸(編集者代表)『上州の諸街道』みやま文庫、昭和46年4月25日 
萩原進『歴史と風土 碓氷峠』有峰書店新社、昭和64年1月31日増補新装版
須田茂『群馬の峠』みやま文庫、平成17年8月10日発行
岸本豊『中山道 浪漫の旅 東編』信濃毎日新聞社、2016年7月27日
土屋郁子・平野勝重『軽井沢・佐久 中山道を歩く』郷土出版社、昭和61年8月5日
依田幸人『皇女和宮と中山道』信毎書籍出版センター、昭和60年4月15日
左方郁子「皇女和宮中山道降嫁の旅」 別冊歴史読本 第25巻1号 No.532
「日本史 地図を歩く」 新人物往来社、2000年1月14日
大角留吉「自然災害と農山村の再興-天明三年浅間山大噴火と農山村の再興の場合-」新地理 22(3-4),1-26,1975 日本地理教育学会)
◆紀行文
ウォルター・ウェストン著 黒岩健訳『日本アルプスの登山と探検』大江出版社、1982年10月10日 再版第一刷
◆登山、ハイキング関係
『山と高原地図19浅間山』(2022年版 昭文社)
『群馬の山歩きベストガイド』(2019年12月15日 上毛新聞社)

協力・担当者

《担当》
群馬支部
黛 利信
《協力》
岸本 豊(中山道69次資料館 館長)
佐藤芳明(安中市松井田町入山)
※敬称略

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