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64 上高地みち
上高地へのみちは島々谷道、尾根道(峰道)、水殿川を遡り、いずれも徳本(とくごう)峠を越えるルートが3つあった。
島々谷本道が今も使われている。ここは遠い戦国の世の落人悲話を秘めた、歴史の道でもある。三木秀綱の奥方一行は徳本峠を下った島々谷で郷民の手に掛かり非業の最期を遂げた。
明治の頃までは木材の切り出しや炭焼き、牛の放牧などの仕事場として生活を支えた道だった。
また槍ヶ岳、穂高岳に登る人たちの唯一の道だった時代があり、日本の登山史を担った重要な峠道であった。徳本峠の名を世界に紹介した英国人宣教師ウォルター・ウエストンはこの道、この峠を11回も越えている。
この峠から見る穂高岳の眺望の素晴らしさは、ここを越える登山者に大きな感動をあたえる。
島々-上高地20km強の道のり。
上高地みちは、昭和10年に乗り合いバスが河童橋まで延長すされるまでさかんに利用された道である。
コースは全長20km強と長く、日本アルプス登山の歴史を語るみちである。
島々宿・安曇支所前のバス停からスタート。左手に進み交番前を横切ると島々谷川に沿った道に出る。
遡ること、約500mでフェンスに出くわす。野生動物から農作物を護るフェンス。
中に入ると「徳本峠道案内図板」がある。
右岸、左岸と進み右岸に発電所変電所の施設がある。
右手に石像、朽ちかけた祠を見ながら進むと、右手前に砂防ダムが見える。少し進むとゲートがある。
左岸、右岸と進み、前方右手にトンネルが見えるが、左の林道へと進むと二股である。
手前に「戦国落人悲話」の説明板があり、横に折口信夫(釈迢空)が秀綱夫人の非業の最期に思いを馳せた歌碑がある。トイレ、電気設備もあり、「信濃路自然歩道案内図」(上高地ルート)がある。左手へ登山道を進む。
あがりこサクラの説明板あり、急登となる。
三木秀綱夫人の受難の石碑がある。朽ちた説明板あり。
往き橋、戻り橋と渡り、炭焼き窯の跡を左手、山側に見ながら進む。
崩落箇所を気をつけて通過。二股と岩魚留小屋の中間点ベンチで休憩。
瀬戸下橋、離れ岩、瀬戸上橋と進む。
橋を渡り右岸を進むと、左手に岩壁がある木道を通り、苔むした道を進むと少し高巻きになり左手から山葵沢、その橋を渡り、少し進むと岩魚留の橋、渡りきると眼前に朽ちそうな岩魚留小屋。その横に歴史を見守るように桂の大木。
岩魚留の滝を見ながら行く、岩魚留沢、中ノ沢、障子川瀬沢と渡り、右岸、左岸、右岸とつめ、最期に橋を渡り左岸、南沢本谷からはなれる。
峠沢を右手にみながら、急坂を登り、峠沢を横切る。最期の水場、力水で喉を潤す。
ジグザクと急登をつめると視界が開け、岳樺の横木がみえたら、徳本峠小屋だ。
小屋から霞沢岳方向に展望台あり。穂高岳連峰が一望できる。
峠からは西側に下りる。樹林の中をジグザグ道を進む。
黒沢の右岸を下る。林道にでる。
ウエストン祭の時期は右手に二輪草のお花畑が広がる。
白沢と合流し、白沢出合(徳本峠入口)に出る。出合の少し手前、右手斜面にはシャクナゲの群落があり、これもウエストン祭の時期の前後で楽しめる。
島々谷川、二股から島々谷南沢、峠沢を登るルートであり、雨の前後には特に注意が必要です。
つねに斜面の状態を確認し、岩場や急斜面もあり、滑落や転倒にも注意、河原では適切なルートファインディングが必要。
峠越え前には天気予報を確認し、必要に応じて装備、計画を見直すことも必要
古来、徳本峠は上高地との往来を切り離すことはできない。
峠は人々に密着していたため、峠越えには幾多の悲喜こもごもの物語りや民話が生まれた。
奈良時代には上高地から中尾峠を越えて飛騨にいたる道があったというが、どこを越えて上高地に入ったかは定かでない。
戦国時代から安土桃山時代には1585年(天正13年)、豊臣秀吉に反抗した飛騨松倉城主、三木秀綱の奥方が逃げる途中、徳本峠を越え、二股の手前で地元の木こりたちに殺された悲劇の場所としても有名である。
また元禄時代(1688年から1704年)には既に田代、明神、徳沢、横尾ほか12カ所に木こり小屋があり、明神(徳郷)に常駐する藩役人が材木の検閲を行っていた記録が有る。
江戸時代前期に始まった松本藩による上高地での伐採事業は江戸末期まで続き、200人余りの杣人が往来したのはこの徳本峠道であった。
また上高地に温泉が発見され、文政年間(1818年から1830年)には湯屋が開業、入湯客も通った。
江戸時代後期の文政3年(1820年)に飛騨新道として安曇郡小倉村から鍋冠山、大滝山を越えて上高地へ、また上高地から岐阜県吉城郡へと至る道の開発が着手された。
岩岡伴次郎、中田又重らによる。天保8年(1837年)に完成し両山の稜線には牛も通れるほどの道があき、万延元年(1860年)に自然災害によって破壊され、廃道となった。
明治維新により伐採事業は廃止され、上高地は静寂を取り戻し、それなりに自然をとりもどした。
1877年(維新から11年後)には”日本アルプス“の名付け親であるウイリアム・ガーランドがウォルター・ウエストンに先駆けて徳本峠にやって来た。
1893年の夏、ウエストンは嘉門次を引き連れ、徳本峠を越え穂高に登った。
ウエストンは延べ11回も徳本峠を往復している。
「日本風景論」を出版した志賀重昂もこの道を通って峠を越えている。
登録有形文化財 平成23年(2011年)10月28日登録 建造物 大正時代
大正12年(1923年)上高地温泉ホテルが徳本峠の頂上に借地をして開設したもので、上高地とその周辺の山小屋の中でも早期のもの。
平成21・22年に大がかりな改築が行われたが、当初の建物の範囲は保存され、現在は休憩所として活用されている。
平屋建てだが内部は3層となっており、より多くの登山者が泊まることが出来るように工夫がなされている。
木造平屋建て、桁行5.4m、梁間5.1m、屋根は切り妻造の石置板葺。
内部は板敷きで、―部を土間としている。
近代登山初期から歴史を伝え、また山小屋建築の初期の様相を示す建物として貴重である。
戦国武将三木秀綱を祭った社
飛騨高山の松倉城主三木秀綱が落城に際して、奥方と別々に落ち延びようとしたが、共に非業の死を迎えた。その三木秀綱と夫人の霊を慰めるために造られた社。
国道158号「安曇支所前」の信号から200mほど松本側に行った交差点に神社の入口がある。
なお、秀綱神社は中尾峠越えにもある。
上高地は大正時代に入ると文化人の来訪者がふえた。
大正15年(1926)上高地を訪れた折口信夫は案内人から奥方の悲話を聞き歌を5種詠んだ。
その1句、「をとめ子の心さびしも清き瀬に 身はながれつつ人恋ひにけむ」を刻んだ歌碑を、昭和49年、島々の有志は、奥方の霊を慰めるために島々谷二股に建てた。
この歌碑は奥方が亡くなった場所から約500m下った場所にあり、梓川産の硬砂岩を使用、裏側には奥方が亡くなるまで物語が刻まれている。この歌碑の手前に横山篤美氏の「戦国落人悲話」の案内板がある。
秀綱と奥方の遺品の展示
〒390-1520 長野県松本市安曇3480-2
TEL:0263-94-2134
https://matsu-haku.com/azumishiryo/
明治3年(1870年)、稲核村の人たちが3月7日にとりかかり「水殿川新道」を開通させた。
この道の開削は相当の人数と日数をかけての大事業であった。
稲核の杣衆が上高地に入山する場合、いったん島々まで下って島々谷を上がるか、慶応2年(1866年)以降なら風久保から尻平山尾根道にでて徳本峠に入るしかなかった。
大変遠まわりになり、徳本峠までで2里(約8km)の違いが出ると言うことで新道の開発にふみきった。
この道は藤橋を渡って水殿川に入り(現在は水殿ダムの上をわたる)池ノ沢、桂立沢を通り、大東沢、小東沢からオリノボリの屈折した道を通って徳本峠へでる。
オリノボリの道はずっとギョウドを打った道が続き谷側には低い石垣も築いてあり、小嵩澤山の尾根に道跡があり、幅も1.5m。上高地に牧場があった頃、島々から牛を引いた道だとも聞いている。
島々谷道は大水が出る毎にいくつかの橋が流され、道が崩れて大変であった。
松本藩の援助もわずかとなり、地元島々村の負担は大変であった。
慶応元年(1865年)に島々の市兵衛・万次郎らのはからいによって風久保を上り、奥樽沢(尻平沢)-小嵩沢山-徳本峠への尾根を通る牛道(峰道ともいわれた)を開いた。
この道は日向向きで、土は深く柔らかでしかも平坦であった、谷道のように崩れることもなかったので、杣衆も利用したが、明治23年(1890年)農商務省山林局が島々谷道の大改修を行ったので風久保からの尾根道は自然に廃道となった。
安曇野支所
45分 ↓ 3km
砂防ダム
45分 ↓ 2.5km
二股
45分 ↓ 2.6km
中間ベンチ
↓
岩魚留小屋
↓
本谷分岐
60分 ↓ 1.4km
徳本峠
90分 ↓ 2.7km
白沢出会い
自家用車利用の場合
国道158号松本市安曇支所、駐車場安曇支所。
公共交通機関の場合
松本電鉄新島々駅下車-安曇支所:徒歩約50分(3.7km)または、バス所要時間5分
「信州峠百科」
横山篤美「上高地物語」信州の旅社、昭和56年
朝日新聞松本支局編「秘録・北アルプス物語」郷土出版社
安曇村誌編纂委員会「安曇村誌1,2,3,4」安曇村
《執筆者》
日本山岳会 信濃支部
東 英樹