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63 善光寺古道 柄山峠
善光寺古道柄山峠越えの道は、白馬・小谷・糸魚川・富山方面からの、善光寺・戸隠神社への参詣道として重要な役割を果たしてきたと共に、地域の生活道路として日常的に行き来されてきた道でした。
他にも南に、柳沢峠越え・夫婦岩越えの二本の道がありました。
それぞれに険しい峠を越え、鬼無里村の西京で合流して、善光寺・戸隠神社方面に至ります。
この柄山峠越えの道は一番北に位置し、最も早くから開け、最も通行量の多い道であったと思われます。
ただ、いずれの道も難路であったため、昭和42年の国道406号線白沢トンネル開通によってその役目を終えました。
野平集落を登り切った山際に柄山峠登山口があります。
10分ほど登ると、右手のスギ林の中に「番屋跡」の木杭の表示があります。
この先は、ナラ・ブナ・シラカバ・カエデ等の急な樹林帯を行きます。
15分ほど登ると展望の開ける場所が有り、谷を挟んだ隣の菅の集落や白馬の町、そしてジャンプ台や奥に北アルプスの山並が見えます。さらに尾根をたどって登ります。
30分ほどで「茶屋跡」の平坦地に出ます。ここにも木の杭の表示が立っているのですが、熊にかじられてわからなくなっています。
この先は、所々にアップダウンや痩せ尾根が続きます。
15分ほど登ると風穴があります。苔むした岩の穴から、かすかに風を感じます。
更に10分ほど行くと道の脇に1212mの三角点が有ります。
この辺りの北側斜面は、春先にはピンクの花のイワウチワが群生して咲き乱れ、見事です。
更に10分ほどで「ねじかけ坂」という下り道になり、近くには戦国時代の物と思われる「堀切跡」もあり、両側は断崖になった天然の要害です。
ここから15分ほどで高圧線の鉄塔に出ます。
今は樹木が伸びて展望は望めませんが、樹木の葉の落ちたころには北方に雨飾山が遠望できます。広くなっているので休憩ポイントです。
さらに15分ほど登ると、北隣の尾根との分岐点に出ますが、峠から下ってくると真っすぐ行ってしまう間違いやすいポイントです。
この先急な登りを15分ほど行くと、道の左側のヤブの中に三角点があります。先程の鉄塔同様、落葉の頃には木の間越しに北アルプスの山々が透けて見えます。
まだ急なアップダウンは続きます。7分ほどで「駒休めの頭」に着きます。この辺りがこの峠道の一番高い所で、この先は下り道になります。周りはブナの明るく美しい林が続きます。
10分も行くとまた鉄塔に出ます。
さらに3分ほど下ると、柄山峠に到着します。かつてここからは北アルプスの大展望が望まれたそうですが、今は木々が生い茂り、落葉期に木の間越しに透けて見えるのみです。
小さな祠があり二体の石仏が祀られています。一体は大日如来像で、高さ56㎝、穏やかな面立ちの石仏。もう一体は延命地蔵で、高さ72㎝、錫杖を手にした石仏です。
この先の、鬼無里側登山口の落合集落に下る道は、白馬側の尾根筋の急な険しい道と違って、前半は割と広くて緩いトラバース道や尾根道です。
峠から7分も行くと「峠まで500m」の標識が木に取り付けられています。
更に10分ほどで鉄塔があり、その少し下に「峠まで1000m」の標識が木に取り付けられています。
10分ほど下った所に緩斜面が広がっていて、その一角に木地師の墓があります。上部が損壊していて、正面に「貴大姉位」側面に「木地師 小椋嘉」の文字が判別できるのみです。木地師が何代か住み続けた証でしょうか。
ここを過ぎると落合沢がだんだんと狭く、崩れやすい所になってきます。
20分ほど下ると、馬頭観音の石碑があります。この馬頭観音は昭和15年に建てられた比較的新しいもので、そのころにはまだ、牛馬の道として使われていたようです。
この辺りは落合沢でも一番危険な場所であったと思われます。
道は橋を渡り返す所や、渡渉する所も数か所あり、崩れやすいトラバース道もあって注意を要します。
馬頭観音の石碑から30分ほど下ると落合の登山口に着きます。
ここにはかつての旅籠が一軒、今は廃屋となって残っています。
この先は道幅の狭い舗装道路が根上まで1.7kmあります。車で5分程です。
右折して700m行けば鬼無里西京で、国道406号線に出ます。
白馬村野平からの道は尾根筋の道です。
急登・痩せ尾根・アップダウン等変化に富んだ山道で、脚力を必要とします。
熊の生息地なので、熊鈴等の着用が望ましいです。
柄山峠から鬼無里方面への道は、初めは割となだらかで広く穏やかですが、途中の木地師の墓を過ぎた辺りから谷が狭くなり、馬頭観音前後からは橋や渡渉を数回繰り返します。足場の悪いトラバースも有るので注意を要します。
善光寺の参詣路は、北国街道や、中山道から分かれて松本を経て長野に至る北国西街道等の表参道のほかに、白馬・富山方面からのいわば裏街道としての道があり、その歴史はかなり古い時代にまでさかのぼると考えられます。弥陀の浄土を信じ、その霊験を求めて、講を組織し、多くの人々が善光寺を目指して歩き訪れました。
白馬村と鬼無里村の繋がりは古い時代からかなり深いものが有り、婚姻等の縁組も多かったようです。峠を越えての牛馬の往来も多く、米・そば・麻・マユ・柿などの生活物資の運搬も日常的に行われていました。鬼無里の人が白馬村で田圃を借りて米作りに通ったり、白馬の人が冬になると飼っている馬を鬼無里に預けたりしていたようです。
善光寺平の田植えは特別に遅く、7月に入ってからでもできたので、田植えを早く済ませた人々は田植え田人(とうど)として出稼ぎに出ました。それは安曇地域をはじめ、越後・富山方面からもありました。ワラジ履きでゴザをタスキ掛けにして菅笠の出で立ちで、列をなして通った時は正に、越中早乙女街道の感があったと言います。鬼無里村落合に二軒あったうちの一軒は旅人宿で、これらの田人をはじめ、商売等で行き来する人や参詣の人が宿泊していたようです。
白馬村で柄山峠登山口に一番近い集落。柄山峠は松本藩と松代藩の境界であるため、野平集落の一番山際に千国番所の出張所である番屋が置かれていました。
今は杉林の中に埋もれていますが、ここで通行人改めをしていたということは、この道の重要性を物語っています。
西向きの高台にある緩斜面で、北アルプスの展望は素晴らしいです。
その、野平集落の緩斜面の中程にある桜の木です。
白馬村の桜の開花時期は4月末頃で遅く、北アルプス連峰の残雪期に当たります。その残雪と青空を背景にして咲く桜は春の喜びにあふれ見事です。
この古道沿いには何本かの鉄塔があります。1998年冬季オリンピック白馬大会時に、電力補充供給のため長野市から引かれたものです。ほぼこの古道沿いにあるため、保守点検の巡視路としての役割もあり、中部電力により、古道の整備・改修も行われています。
昭和の中頃までは、野平集落「番所跡」辺りから尾根を南に乗越して尾根南側中腹をトラバースして谷を詰め、「柄山十三曲り」という急坂をジグザグに登って柄山峠に至る道があったそうですが、災害等で崩れて今は通行不能になっています。
柄山峠登山口
↓約10分↑約6分
番所跡
↓約15分↑約10分
展望場所
↓約30分↑約20分
茶屋跡
↓約15分↑約10分
風穴
↓約10分↑約5分
1212m三角点
↓約10分↑約10分
ねじかけ坂
↓約3分↑約5分
堀切跡
↓約15分↑約15分
鉄塔
↓約15分↑約12分
分岐点
↓約15分↑約5分
三角点
↓約7分↑約5分
駒休めの頭
↓約10分↑約15分
鉄塔
↓約3分↑約4分
柄山峠
↓約7分↑約10分
峠まで500mの標識
↓約10分↑約14分
鉄塔
↓約1分↑約3分
峠まで1000mの標識
↓約13分↑約15分
木地師の墓
↓約21分↑約35分
馬頭観音
↓約32分↑約34分
柄山峠登山口(落合)
JR白馬駅から車で10分程で野平集落に着く。
公民館前と分校跡に駐車可。さらに上の登山口にも数台駐車可。
落合側の登山口は、国道406号線から水ばしょうラインに曲り、700mほど先の「根上」のバス停で左折して、道幅の狭い舗装道路を1.7㎞、車で5分ほど進んだところにある。
長野県教育委員会編「歴史の道調査報告書XI~XV」昭和60年6月30日発行
「白馬の歩み」編纂委員会「「白馬の歩み」白馬村誌」第二巻社会環境編上、平成12年3月10日発行
「北安曇誌」第三巻近世編、平成17年8月9日発行
《担当》
日本山岳会信濃支部
横田 明
《協力》
白馬町教育委員会
白馬村野平地区