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57 鹿野山古道
《西粟倉への東参道》
神野寺前から東に続く県道93号をたどり、道が右にUターンする地点を横切り側道に入ると、清和市場の芭蕉句碑があります。
ここから市宿方面に向かう久留里・市宿からの道は採石のため道が失われてしまっています。
句碑から南に西粟倉の方に向かう山道に入ると、秋元浅間山、秋元城址を通り、西粟倉に下り着き、この道が西粟倉からの東参道と同一かどうかの確証はありませんが、ほぼむかしのルートに沿っていると思われます。
県道93号もこの山道の西側山腹を下って、西粟倉に通じています。
日東バス猪原バス停または君津市コミュニティバスの粟倉バス停から西粟倉の秋元城址入口に行きます。
入口から10分ほど登ると虎口となり、さらに10分ほどで広々とした秋元城址の千畳敷と称する曲輪や、西向三段と称する曲輪に出ます。
曲輪から一旦下り、北に登り返すと清和市場方面から登ってくる尾根上に出ます。この尾根を西に少し登ると、秋元浅間山に到着。
頂上には古い祠が安置されています。
ここから北に向きを変え尾根上を進むと清和市場の芭蕉句碑に出て、県道93号に出ます。
そのまま県道を西に進んでも、県道の南斜面に付けられた山道を進んでも、30分ほどで白鳥神社と九十九谷展望公園の前に出ます。
西粟倉から秋元城址までは近年整備されて、案内表示等も設置されている。
秋元城跡から秋元浅間山までは踏み跡程度であるが、比較的分かり易い。秋元浅間山からは尾根が広く、なだらかになって歩き易くなる。
県道93号に出たら、そのまま舗装道路を登って行けば九十九谷展望公園の前に出る。
一旦県道93号を下って西に向かう整備された森林内の歩道を進めば、九十九谷展望公園の少し手前で再び県道93号に合流する。
【北参道・東参道共通】
鹿野山は清澄山、鋸山と並んで房総の名山として昔から多くの人の信仰を集めてきました。
鹿野山は標高400mにも満たない低い山ですが、千葉県内では2番目の高さです。東西に長く、東から白鳥峰、熊野峰、春日峰という三つの峰に分かれています。
白鳥峰の頂上には日本武尊を祀る白鳥神社があります。
西峰の春日峰には春日神社が祀られていて、頂上には国土地理院鹿野山測地観測所があり、建物の裏には一等三角点が設置されています。
真ん中の熊野峰の直下には鹿野山神野寺という関東最古の古刹が建っています。
神野寺は昔から多くの信仰を集め、江戸時代には神野寺に参詣する道を鹿野山道と称し、周辺の各方面から道があったということです。鹿野山道は君津市の「20世紀遺産」に指定されています。
鹿野山神野寺の前に鹿野山道の案内板があり、これによると、鹿野山に登る道は六つあったといわれています。
(1)福岡からの北参道
(2)西粟倉からの東参道
(3)上総湊からの南参道
(4)佐貫からの西参道
(5)久留里・市宿からの道
(6)六手からの道
(1)の福岡からの北参道が最も知名度が高く、利用が多かったといわれています。これは江戸から船運を使い木更津を経てのアプローチが一番近かったためだと思われます。
(2)西粟倉からの東参道は昔の道型は不明ですが、ほぼ現在の県道93号の東半分に沿っていたと思われます。今回の調査では県道93号の東側の秋元浅間山を通るルートを踏査しました。
(3)上総湊からの南参道はほぼ県道93号の西半分であると思われます。途中桜井の駒場集落の辺りには、古い道標や昔の道型らしきものが残っていますが、確証は得られません。
(4)佐貫からの西参道はほぼ県道163号沿いだと思われます。
(5)久留里・市宿からの道はルートの大部分が採石のため消滅してしまい、調査不能です。
(6)六手からの道はほぼ県道164号沿いだと思われます。この道は萩作の芭蕉句碑の先で北参道に合流していたようです。
(3)、(4)、(6)の道は現在全面舗装道路のため今回の調査対象からは除外しました。
千葉県には「山」がないと言われます。房総丘陵と称されているように地理学上の「山地」ではなく、「丘陵」です。
房総の最高峰は408.1mの嶺岡愛宕山です。
鹿野山の最高峰も379mの白鳥峰です。
また鹿野山は道路が発達していて、頂上付近まで舗装道路が通じ、ほとんど歩かずに頂上付近に行くことができます。
このため多くのハイカーが山頂付近までマイカーやバスで来て、九十九谷方面へ下り始めてからのハイキングになります。
もちろん西粟倉から秋元城址を通り登って来る人、九十九谷の林道にマイカーを置いて登る人もいますが、下山ルートや車の回収方法等にひと工夫が必要です。
房総の山の特徴は鹿野山をはじめ清澄山、鋸山、冨山、高宕山、三石山など、いずれも山頂や山麓に寺院や祠が安置されていて、古くから地元の人々の信仰を集めていたそうです。
このため各方面からの参拝道が発達している。しかし複雑な地形と温暖な気候、多雨により森林の樹木の繁茂も早く、利用されなくなった参拝道はヤブに埋もれていきます。
鹿野山においても道路や交通手段の変化に伴い、前掲の参拝古道はほとんど利用されなくなっています。
古道ではありませんが、ハイカーに人気の九十九谷についても入山者の減少と手入れの減少で、登山道が不明瞭になりつつあります。
特に2019年に房総半島を直撃し甚大な被害を出した台風15号(令和元年房総半島台風)により、大きな被害が出ました。
土砂崩れのため登山道が崩落したり、倒木のために道が塞がれたりしています。地元関係者、自治体、山岳関係団体等が協力して整備を進めていますが、追い付いていません。この方面に入山する登山者は十分注意をしてください。
秋元城址では2001年(平成13年)から城跡の一部の発掘調査が行われ、主郭部を中心に比較的整備されている。
西粟倉から秋元浅間山へ向かい15分ほど登った山中にある。
東西550m、南北400mに渡る戦国時代の山城で、小糸城または青鬼(せいき)城とも呼ばれていた。
永正年間(1504年~1521年)に地元の武将里見義豊が、臣下の秋元兵部少義正に命じて築かせたものと言われている。
しかし義正の子、義久の時代の永禄7年(1564年)に北条軍に攻められて、義久の死とともに落城したと伝えられている。
この城は自然の地形を削って平らにした曲輪や盛り土の土塁、尾根筋を遮断した堀切などの跡があり、戦国時代の山城の姿を想像させる。
また瀬戸・美濃産や中国産の陶磁器、かわらけ、銭貨などが出土している。
なお、秋元城址は君津市の「20世紀遺産」に指定されている。
【以下、北参道・東参道共通】
神野寺は598年(推古天皇6年)、聖徳太子によって日本で4番目に開かれたという関東最古と伝えられているお寺である。また筑波山、榛名山とならんで、関東三大修験道の山ともなっている。
国指定重要文化財の神野寺表門、本堂(県指定文化財)、宝物殿の白蛇(左甚五郎作)など見るべきポイントがある。
鹿野山の中央峰熊野峰は神社の境内のため、現在立ち入りは制限されている。
鹿野山春日峰には春日神社と国土地理院鹿野山測地観測所がある。鹿野山測地観測所には千葉県内で一番初めに(1879年、明治12年)設置された一等三角点の他に、一等水準点、電子基準点などが設置されている。現在は無人であるが、主に地磁気の連続観測を実施している。
鹿野山東峰の白鳥峰には日本武尊を祀る白鳥神社が鎮座している。
白鳥神社は日本武尊、弟橘媛を祭神としている。伝説によると、景行天皇の皇子である日本武尊が、天皇の命により、鹿野山を拠点として猛威をふるっていた阿久留王を征伐するために、東国に下ったという。途中相模から上総に渡ろうとして、走水(三浦半島浦賀付近)のあたりにさしかかったとき、暴風雨に遭遇し船は先に進めなくなった。このとき妃の弟橘媛が波風の平穏を海神に祈りながら海中に身を投じたところ、海は静まり、尊は無事上総国にたどり着き、阿久留王を征討して民生の安定をはかったといわれている。
日本武尊が亡くなったのち、白鳥となって鹿野山に飛翔してきたといわれ、住民がその徳をしのび、白鳥神社を創建したと伝えられている。
社殿の裏に回り5分ほど登ると日本武尊と彫られた草薙剣の石碑を立てた石塚がある。
明治時代の随筆家大町桂月が「鹿野山の九十九谷の眺めは天下の奇観なり」と絶賛したという。
高宕山をはじめ上総丘陵の山並みが眼下に眺められる。特に日の出直後と日の入り前の光景や、雨上がりの早朝に霧の中から浮かび上がる光景は墨絵のようだと讃えられている。
東山魁夷画伯の「残照」はここからの眺望を題材に描がかれた、と言われている。九十九谷展望公園からの景観は「房総の魅力500選」、「ちば眺望100選」、君津市の「20世紀遺産」などに選定されている。
鹿野山付近には芭蕉の句碑が七基ほど現存しているという。芭蕉の系列を引く地元の俳諧社中が俳聖芭蕉の句に習い、自らの俳諧の向上を願い建立したらしい。
いずれも碑面は摩耗していて、説明板を参照しないと読みにくい。
・荻作の芭蕉句碑
この句碑は六手からの道が福岡からの北参道に合流する手前、鹿野山牧場先の竹林の中にあり、君津市の次世代に伝えたい「20世紀遺産」に指定されている。
碑表・・・枯れ芝やまた陽炎の一二寸 芭蕉
小糸連中
碑裏・・・冴わたる遠寺の鐘や冬の月 桂下坊
野を一里耳を離れぬ雲雀かな 蝶二
「小糸連中」とは碑裏にある桂下坊や蝶二を中心とした俳諧社中とのことである。
・清和市場の芭蕉句碑
西粟倉から秋元浅間山を経て鹿野山の東尾根上に出た所にある。傍らに立っている案内板によると清和市場からの参道と市宿からの参道が合流する地点に設置されたという(現在は移転されていて、元の場所は現在地から160m位北であったという)。前述のように市宿からの参道は採石採集のため消滅してしまっている。
碑表・・・梅が香にのっと日の出る山路かな
・鹿野山東参道の芭蕉句碑
西粟倉から県道93号を鹿野山に向かう道路脇の林の中にある。説明板に近くの旧道から移設した、と書かれているので、東参道がこの辺りを通っていたことが伺われる。
碑表・・・はつしくれ猿も小みのをほしけなり
・鹿野山神野寺庭園内に芭蕉句碑が3基ある。
碑表・・・最中の桃のなかより初さくら はせを翁
碑表・・・やす・・と出ていさよう月の雲 翁
碑表・・・初雪や聖小僧の笈の色 芭蕉
鹿野山春日峰のさらに西の尾根続きにはマザー牧場というレジャー施設が運営されていて、千葉県民や都民の来園で賑わっている。
会社のホームパージによるとマザー牧場は「房総半島の山々や東京湾、富士山などの雄大な景色が見渡せる鹿野山(かのうざん)にあります」、と説明されています。地元では「鹿野山マザー牧場」の愛称で親しまれています。しかし実際にある場所は鬼泪山(きなだやま)という鹿野山の西の峰続きの別の山である。
春日峰から鬼泪山に向かい1㎞ほど先、マザー牧場手前を左に入った所に鳥居岬がある。
江戸時代歌川広重が「不二三十六景 上総鹿埜山鳥居崎」と「富士三十六景 上総鹿埜山」の二作品を描いた場所である。現在は樹林にさえぎられてしまっているが、昔は十三州一覧台と呼ばれ眺望に優れていたそうである。
鹿野山周辺には鹿野山を指し示す古い道標、馬頭観音、石仏が多数残っていて、鹿野山詣でが盛んだったことが伺われる。
多くは表面が摩耗して文字が読み難くなっているが、古い文献などにより、鹿野山を示していることが分かっている。判別できる道標には「かの山道」、「かのうみち」、「かのふさん道」などと表記されている。下記に判別できる道標の一部の写真と碑面の文字を紹介しておく。
鹿野山春日峰登り口の道標
「東 かの山道 くるり たかくら」
「西 さぬき 若とみ道 ふっ津」
「きよすみ 大山みち なこてら」
木更津市桜井新町の房総往還沿いの道標
「此方 かのふさん道 此方 木更津道」
君津市南子安の旧県道子安坂の道標
「南 かのうみち」
君津市法木作の伊藤氏宅内の道標
「東 鹿野山道」
「南 佐貫道」
「北 木更津道」
富津市相野谷の旧房総往還の道標
「南 かのふ山道 さぬき道」
富津市上の旧房総往還百坂入口の道標
「かのふ山道 さぬき道」
君津市福岡三叉路の鎌滝家墓地内の道標
「かのう山ミち」
荻作の芭蕉句碑のそばの竹林内の道標
「かのふさんみち」
【北参道・東参道共通】
千葉県船橋(船橋市)から浜野(千葉市)、五井(市原市)、桜井(木更津市)、佐貫(富津市)を経て安房北条(館山市)に至る内房東京湾沿いの道である。この道筋が現在の国道14号、国道127号となっている。鹿野山道は下烏田で房総往還と分かれ東へと向かっていた。
享保期に安房嶺岡に幕府の公牧(嶺岡牧)が設けられると、房総往還は幕府役人の通行する道として重要な交通路になったという。
嶺岡牧へは湊で房総往還と分かれ、関を経て木の根峠から金束を通って行った。
天明年間に嶺岡牧へは鹿野山越えが便利であるということで、六手から鹿野山、関を経て嶺岡に向かう房州嶺岡往還が開設されたという。
嶺岡牧は千葉県南房総市・鴨川市にまたがる嶺岡山地に設けられた馬牧である。
嶺岡山地は古くから馬の放牧が行われており、戦国時代に里見氏が行っていたという。
享保年間8代将軍徳川吉宗公がインド産と言われる白牛(セブー種)を嶺岡牧で飼育し、「白牛酪」という乳製品を作ったことで、日本酪農発祥の地と言われている。
現在は「千葉県酪農のさと」となっている。
白鳥神社の祭礼で、毎年4月28日に社前の九十九谷展望公園で千葉県指定無形民俗文化財の「はしご獅子舞」が奉納される。
伝承によれば、16世紀初頭(永正年間)に真言密教を流布するために、紀州高野山から弘範上人が当地を訪れた際、上人の徳を慕って多くの「きこり」が鹿野山に移り住んだと伝えられている。きこりたちが、遠く離れた故郷の奥高野をしのび、獅子に託して五間一尺(約9.3m)のはしごの上で舞ったのが「はしご獅子舞」の始まりであるといわれている。
上総掘りは、千葉県の上総地方で考案された掘りぬき井戸の掘削技術である。ホリテッカンと呼ばれる細長い鉄管とそれを地中の孔に吊るす竹製のヒゴを基本的な用具とし、用具の自重と竹の弾力を利用しながら専ら人力を頼りに地中を掘り進み、地下水を掘り当てる技術である。
その技術は、江戸時代後期には原形ができあがり、明治時代中期に改良が加えられ完成した。
上総地方の職人によって日本の各地に広められたことから、一般に“上総掘り”と呼ばれている。道具立てと技術の習得の容易さから、従来の掘り抜き井戸の掘削法に代わって短期間のうちに各地に普及した。また、石油や鉱物資源などの掘削にも利用され、近代産業の中でも一定の役割を果たした。
今日でも、君津地方では農業用水や飲料水の井戸として使われている。近年は発展途上国の水不足地域でも井戸掘削事業に活躍している。
上総掘り用具は君津市の「20世紀遺産」に登録されている。
1979年(昭和54年)8月、神野寺で飼われていたトラ3頭が檻から脱走、1頭はすぐに発見され戻ったが、1歳のオスとメスの2頭が行方不明になった。メスは2日後に見つかり射殺された。残りの1頭は延べ8000人以上もの大捜索網にも拘わらず1か月近く逃走、26日目に見つかり射殺された。
当時の神野寺の住職が干支に関わる12種類の動物を飼育していて参拝客や観光客の人気を集めていた。一時は全国ニュースになったり、周辺住民に外出禁止令が出されたり、大騒ぎになりました。この事件をきっかけに猛獣飼育に関する条例制定が進められた。
《西粟倉からの東参道》
日東バス猪倉バス停(出発)
↓ 30分 1.5km
秋元城址登り口
↓ 15分 0.4km
秋元城址千畳敷
↓ 60分 0.7km
秋元浅間山
↓ 20分 0.7km
芭蕉句碑
↓ 35分 1.7km
鹿野山白鳥神社
↓ 30分 0.9km
鹿野山神野寺(到着)
合計 約3時間
【北参道・東参道共通】
◎公共交通機関
〇JR東日本内房線
https://www.jreast-timetable.jp/timetable/list0989.html
〇日東交通鹿野山線・マザー牧場線・木更津鴨川線
https://www.nitto-kotsu.co.jp/rosen/
〇君津市コミュニティバス
https://www.city.kimitsu.lg.jp/uploaded/attachment/43239.pdf
◎駐車場
鹿野山神野寺駐車場
九十九谷展望公園駐車場
【北参道・東参道共通】
君津市史編さん委員会「君津市史通史」千葉県君津市発行、2001.9
内田栄一「房総のやまあるき」新ハイキング社、2006.7
山本鉱太郎「房総の街道繁盛記」崙書房出版、1999.8
山本光正監修「千葉の道千年物語」千葉日報社、2002.5
内田栄一「房総山岳誌」崙書房出版、2005.9
鈴木伸一「房総丘陵ハイキング・ウォーキング・ガイド」千葉日報社、2007.11
鹿野山道・君津市ホームページ
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鹿野山神野寺サイト
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鹿野山九十九谷公園・君津市ホームページ
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鹿野山はしご獅子舞・千葉県ホームページ
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鹿野山測地観測所・国土地理院
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秋元城址・君津市ホームページ
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房総往還・君津市ホームページ
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上総掘りの技術・千葉県ホームページ
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上総掘り用具・君津市ホームページ
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千葉県の道標(房総の道標)と市原市-袖ヶ浦市の石造文化財IDB
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君津地方歴史情報館
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房総の牧
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◎博物館・資料館・郷土館
鹿野山神野寺宝物殿
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袖ヶ浦市郷土博物館
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木更津市郷土博物館金のすず
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【北参道・東参道共通】
《担当》
日本山岳会千葉支部
山口文嗣