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51 三峯山参詣道
秩父鉄道・三峰口駅から山岳信仰の中心地である三峯神社を経て大陽寺に至る参詣道を歩く信仰の道です。
三峯山参詣道は、三峰口駅近くの秩父市贄川(旧贄川宿の面影が残る街並み)から猪鼻、強石へと国道140号(秩父往還)を歩き、大達原から大輪までは旧道の趣が残る旧三峯山道を辿ります。そして、大輪からは、表参道を登る三峯山参詣道(古道)の一つを歩いて三峯神社へと向かいます。
旧贄川宿には、かつて三峯神社の一ノ鳥居があり、三峰山ロープウェイができる以前は、三峯山に登る最後の宿泊地として賑わいました。現在でも大達原から大輪にかけては、手掘り隧道など旧道の雰囲気が残ります。
大輪から登龍橋で荒川を越えたところが三峯山の表参道登山口で、五十二丁の丁目石や夥しい数の石碑が林立し、杉の大木や身を清めるための滝、薬師堂跡などがあり、隆盛を極めた三峯山の面影を感じられます。
三峯神社からは奥宮である妙法ヶ岳、地蔵峠を経由して、大陽寺から平将門の伝説が残る大血川沿線(大陽寺への参詣道)、巣場新道経由で三峰口駅に戻ることが出来ます。
秩父鉄道・三峰口駅を出発し、国道140号に向って駅前の歩道を進み、荒川を白川橋で渡ります。
国道を右折して贄川歩道橋方面に進み、権田沢を越え、皆野両神荒川線とのT字路交差点を右折して、「八幡渡し」へと急な舗装道を降ります。左側に古い馬頭尊4基があり、その先の左側に八幡大神社へ登る石段があります。
「八幡渡し」や「八幡坂」の名称はこの神社に由来するものと考えられます。
また、八幡坂を下ると目の前が荒川で、白川橋が架けられる以前は白久と贄川とを結ぶ荒川の渡船場があり、「栃の木の渡し」または「八幡渡し」があったとされる荒川の河原です。
国道140号の皆野両神荒川線の交差点に戻り、横断歩道を渡ると、旧秩父往還がわずかに残り、車道右側に石仏・石碑群などが並び、旧道の面影を今に伝えています。
古道を登ると贄川宿の東端の逸見家の前に出ます。明治20年(1887)に奉納された三峯神社の一之鳥居が大輪に移される以前は、ここに設置されていたと伝えられる場所です。
ここから旧秩父往還の両側に、贄川宿の古い街並みが続きます。
途中、右折して小鹿野町方面に進むと、分岐に立派な御堂鐘地蔵尊が祀ってあります。
贄川宿は小鹿野への分岐にもなっていて、かつては地蔵尊や庚申様の加護が頼りの旅だったことが理解できます。
贄川バス停の右側に道標「たつみちざか」があり、常明寺や秩父御岳山への分岐です。民家の間にある狭い「たつみちざか」を登ると「御岳山登山口・常明寺」分岐があり、左折すると道標「三峰口駅900m13分・神明社1.2km18分-阿弥陀寺1km15分・下郷熊野神社2.1km32分」及び「御岳山登山口」があります。
ここを右折して御岳山登山口方面の常明寺に向います。
リヤカーや大八車などと共に、夥しい数の人形(贄川宿は『かかしの里』と言われている。)が広場に並べられ、開放的な空間を進むと樹林に覆われた常明寺につきます。超人として知られる即道の「終焉の地」の説明板には、多彩な能力の持ち主であり、修験者としても活動したと推測され、旧荒川村の村民に愛された即道の業績が述べられています。また、傍らの見事な宝篋印塔に驚かされます。
贄川宿には古い歴史を今に伝える小櫃醫院や大正時代に繁栄を極めた贄川宿の面影が残されています。贄川宿観光トイレなどを過ぎると贄川宿の西端であり、入口に大きな「贄川宿」の標柱や贄川宿の街並みを記した説明板があります。
贄川歩道橋で国道140号を渡り、白川橋から大滝方面に向かう国道140号の左側には幅1m程度の歩道スペースがありますので、小人数ならばそこを安全に歩くことが可能です。
猪鼻地区に入ると間もなく、荒川局(元猪鼻郵便局)前バス停があり、以降は残念ながら歩道スペースがほとんど無くなります。
バス停から数分進むと、熊野神社入口が国道右側にあり、分岐には「甘酒まつり」碑や庚申塔があります。「上ノ沢」の橋を越えると熊野神社の木製の立派な鳥居(扁額に「鎮護」)があり、右側の石段横に奇祭「甘酒まつり」の説明板があります。秩父観光協会のホームページには「猪鼻の熊野神社の夏祭り『甘酒まつり』は奈良時代に起源を持つ祭りとして、埼玉県選択無形民俗文化財ですが、令和2年以降、開催されておりません。」と記されています。
古池の猪狩神社と同類の日本武尊伝説が残され、牛頭天王の悪病除けも混在している様子で、民間信仰の力強いエネルギーが感じられます。
急で狭い石段のため、手すりを頼りに一気に参道を登ると、熊野神社の社殿前に出ます。熊野神社登り口の石段の右側に、しめ縄が張られた大岩や多数の石仏(観音像や大日如来像など)・石碑等があり、猪鼻地区の信仰の篤さと歴史の重みが感じられます。
熊野神社の鳥居前を左折(西方向)し、秩父往還の旧道を進むと国道140号に突き当ります。歩道のない国道が西から南に急カーブする場所は、旧大滝村と旧荒川村との境で白滝沢があります。
工事現場(大滝トンネル)の奥に旧秩父往還の入口があります。
埼玉県ホームページ(2025年8月23日付)には、「秩父市大滝地内の一般国道140号で発生した落石による通行止めが長期に及ぶため、現在建設中の大滝トンネルを暫定的に交通開放しますのでお知らせします。」と記されています。
白滝沢の左岸の明瞭な道を登ると間もなく、数年前の台風の名残なのか白滝沢に架けられた橋が破損し、壊れた金属製の鉄梯子などが散乱しています。増水期は渡渉に細心の注意が必要と考えられますので、古道歩きを楽しむ一般の愛好者が歩くには適さない状況にあると判断できます。
古道調査のために今回は白滝沢を慎重に渡渉して対岸に渡りました。
明瞭な道を少し登った岩の上に、鬱蒼とした薄暗い樹木に囲まれて、壊れかけた堂に覆われた土壇場地蔵が確認できます。かつての処刑場跡だったと伝えられる場所に、死者に対する地元の人々の供養の気持ちが表されています。
国道140号に戻り、強石方面に進むと、左側に交通安全地蔵尊立像や馬頭観世音石碑・牛頭尊・七観音などの石仏が多数並んだ場所があり、牛頭尊という極めて珍しい観音文字碑があります。
国道端の標識「強石区」に従い右折すると、すぐ左側に高野林太郎顕彰碑及び強石げんきプラザがあります。
その隣奥が瀧石神社ですが、神社名が地名由来の強石ではなく瀧石なのは、かつてこの地域は瀧石庄と呼ばれていたことに因るものと推測されます。
舗装された車道を上強石に向って登ると、左手に道標「御岳山-強石バス停」があります。この道標は上強石から杉ノ峠経由で雁坂峠に向う秩父往還と、下強石、大達原から大輪経由で三峯神社に至る三峯山道との分岐です。
ここを左折して下強石の古い街並みが残る道幅2m弱の三峯山道を辿ると、東京発電大滝発電所の大きな2本の送水管の上を越えます。
やがて左下の国道140号に合流する場所に、道標「大達原・大輪方面-強石バス停方面」が設置されています。
国道140号を大達原方面に数百メートル進むと、右側に分岐・道標「大血川・大輪方面-強石方面-大達原方面」があり、「遊歩道」の標識がついた緑のフェンスと石段が国道横の斜面に設置されています。
ここを登ると薄暗い杉林の植林帯の山道に変り、道標「大達原を経て大輪方面-強石方面」・「山道」を過ぎると左側に緑のフェンス、倒木などがあり、古道の雰囲気が残る三峯山道に入ったことが実感できます。
前方上方に白いガードレールが見えると間もなく、舗装道に合流します。
車道の横に道標「大達原を経て大輪方面-強石方面」があり、この先の左側に光岩稲荷神社への急な参道(坂道)があります。往時でもキツネが現れそうな寂しい道であったことが想像できます。急な参道(坂道)の右側は安全に配慮した為か鉄パイプが設置され、鬱蒼とした樹木に覆われて赤い鳥居の奥に、しめ縄に紙垂が付けられた赤い稲荷社が尾根上に鎮座しています。扁額には「光岩稲荷神社」の記載があります。
車道を先に進むと右側に、分岐・道標「大達原を経て大輪方面-強石方面」・「光岩小学校を経て光岩バス停方面」があり、緑のフェンスの横の分岐(坂道)を少し登ると歩きやすい旧道に変わります。
右側に大きな岩塊が現れると、鉄パイプで造られた狭い橋が小さな涸沢を越えて架けられています。沢筋のため豪雨により土砂が押し流され旧道が崩壊し、急遽、仮橋が架けられたものと推測されます。旧道の左はロープで保護柵(?)が設置され、右側に斜めの屋根が特徴的なコンクリート製の四角い大きな箱型の建物(高さ2m×幅2m×奥行2m弱ほど、元は給水用の貯水槽?)が現れます。中を覗いてみると底には、かち割った石が平らに敷き詰められていました。また、送水用と思われる黒い大きなホースが周囲に散在していました。
右側に大きな岩塊が現れると、鉄パイプで造られた狭い橋が小さな涸沢を越えて架けられています。右側は岩壁のような崖が連なり、左はロープの柵が延々と続く狭い旧道は、途中、沢筋に土砂崩れの跡が生々しい場所が残りますが、道は平坦で明確です。
更に進むと四角柱に馬頭尊(文字塔、二月吉日・道の右側)と刻された石碑がひっそりと佇んでいます。「秩父甲州往還」に「馬頭観音、明治四四年銘、大滝村馬持中」と記されている石仏と思われます。
荒川沿いの道にある「金蔵落とし」と呼ばれる危険な崖を高巻きし、三峯山道の右側は岩壁がそそり立ち、左は国道まで急な斜面が一気に下っています。物資運搬用の馬もここから落ちては助からないと思われます。かつて強石から大達原にかけて、荒川沿いの道は両側に切り立った崖が連なり、人馬の通行の妨げになっていたことが推測されますので、遠回りでも比較的安全な杉ノ峠を越える尾根道が利用されたのも理解できます。
旧道を進むと右側に、馬頭尊・大滝村馬持中(明治四十四年、二月吉日)が確認できます。古い馬頭尊の説明板には、共に働いた馬の供養のために建てられた馬頭観音塔であると記されています。前述の四角柱の馬頭尊も明治44年に大滝村馬持中により建てられたことが説明板の記載から分かります。
この先の左側に東屋があり、ベンチが設置されていて休憩には最適な場所です。
一段と大きな岩壁状の白い崖が現れると、大達原の手掘り隧道(大達原トンネル)の強石側の入口です。
大滝村誌には、手掘り隧道を掘った経緯が記され、物資運搬用に天井が髙いトンネルであることが特徴と記されています。
旧道の右側には、自然石に刻された馬頭尊文字塔があり、「秩父甲州往還」には嘉永3年(1850)と記載があります。左の岩の上部に馬頭尊の浮彫像が設置されています。
トンネル入口にある大達原の手掘り隧道の新しい説明板には、三峯参詣者には大変有用なトンネルで、開通を祝う往時の人達が茶屋の前に多数集合した写真が掲げられています。
手掘り隧道を覆う巨岩の壁には、夥しい数のハーケンが残されていて、岩登りの練習に利用されたものと推測されます。
トンネルがなかった時代にはこの巨大な岩塊を乗り越えて旧道が続いていたものと思われますが、手掘り隧道のある巨岩は不動岩と呼ばれていました。
「新編武蔵風土記稿」には「不動岩 大達原組の内、字茶屋尾根にあり、荒川の北岸にそひへて高さ二十餘丈、幅一町許、岩上に十餘株の松ありて、いと景地なり」と絵図入りで紹介のある景勝の地であったようです。
トンネル内は予想外に広く明るいのに驚かされます。
また、ドリル状の器具で掘削したものか、半円筒状の穴や削り跡が多数残されています。
通行の難所を改善するために地元民の悲願の結晶としての手掘り隧道を実感できます。
明治の文豪である幸田露伴は、熊谷から三峯神社まで旧秩父往還を旅した際の紀行文を、「知々夫紀行」に著しました。贄川から隧道を過ぎる際の記述があり、東京周辺の荒川流域の地形に比較して、秩父における荒川の急峻な谷や両岸の岩壁などが印象に残ったようです。
杉林の緩斜面につけられた旧道を数分進むと、道標「大達原を経て大輪方面-強石方面」があり、民家の横には「御廣稲荷大明神」の石碑があります。
この先で林道大輪線に合流し、左は大達原バス停、右は旧道が林道に拡幅された道です。
三峯山道を右に進むと、前方右側の立派な石組みの上に大達原高札場があります。
大達原高札場の説明板から、三峯山道(秩父往還)が高札場の前を通っていたことが分かります。
鉢形城の落城に伴い、後北条の武士たちが移り住んだと伝わる大達原の地名の由来や歴史が記載されています。
赤い鳥居の大達原稲荷神社が街道を挟んで神楽殿と対峙しています。
拝殿の中には小さな社が安置されていて「将門八幡社」と記されています。大達原稲荷神社の説明板には、地元民から商売繁盛や火防の神などとして篤く信仰されている歴史が記されています。
また、水の確保が困難であった地域だけに、「火防の神」である三宝荒神が篤く信仰されたものと思われます。
「新編武蔵風土記稿」の「塚八幡」の由来から、将門の武器を埋めた塚があったので、塚八幡と呼ばれたようです。
林道大輪線終点の標識を越えると右側に、苔むした台座の上に自然石に彫られた庚申明王の石碑があります。
杉林に覆われた車道を下ると、分岐・道標「神岡方面(三峯神社裏参道)-大輪方面(三峯神社表参道)」があります。
車道から左側の大輪方面へ苔むした石段を下り、薄暗く鬱蒼とした樹林の中をしばらく進むと右側にお茶畑があり、突き当りが「子育地蔵尊」と「見送り観音」です。素朴な中にも如何にも民間信仰らしく、地元の皆さんの信仰の篤さが感じられます。
三峯山道を下ると竈三柱神社があり、境内には和田神社や多数の石仏・石碑が並んでいます。神社の正面にある鳥居を潜って石段を下ると国道140号に出ます。
大輪方面に10分程歩くと大輪の三峯神社一之鳥居につきます。
大輪バス停には公衆トイレと奥秩父観光案内図などがあります。
また、三峰山ハイキングコース案内図には、歴史のある表参道の概要が記されています。
国道140号の横に白い大きな鳥居があり、贄川宿から移されたと伝わる三峯神社の一ノ鳥居で、扁額には「三峰神社」と記されています。鳥居の左側は吉田屋、左右には三峯神社の御眷属である阿吽のオオカミ像(お犬様像)、その先は紅乃屋です。かつて紅乃屋の内部には、三峯講の参詣者と考えられる夥しい数の講名を記載した板が掲げられていて、如何に繁盛した店であったかを今に伝えています。どちらもの店も往時は「三峯講」の信者で賑わった店でしたが、三峰山ロープウェイの廃止に伴い、参詣客が激変したことに因り、今はひっそりと店は閉められています。
紅乃屋の前の坂道を下ると三峯神社の登山口に至り、荒川の清流の上に赤い欄干の登龍橋が架けられています。
登龍橋で荒川を渡ると、参詣道の左側に夥しい数の奉納碑(苗木五千本、壹万本、金百円などと記されています)、参拝記念碑、第壹丁目石、苔むした常夜灯には「三峰山」の文字、オオカミ像及び「是より本社五十二丁」の大きな石柱などが林立する三峯神社の登山口です。
参道は敷石が敷き詰められ、右側の荒川に沿って欄干が連なっています。
途中、標識「シャクナゲ園・竜門の滝0.2km・神庭洞窟0.7km」があり、右側の荒川沿いに歩道が分岐しています。更に、清々しい杉並木のある敷石の美しい参道を進むと、石の階段の上にある三峰山ロープウエイ大輪駅跡に着きます。
かつてはここからロープウエイに乗って、三峯神社の山頂駅まで行くことができました。ロープウエイは秩父鉄道の経営で、1939年5月から、大輪駅から一気に三峰山頂駅に至る区間を結び、2007年2月まで運航していました。
ここには「秩父多摩甲斐国立公園 三峰山表参道」の看板と下部に「熊出没注意」があります。更に、「大輪・三峰山歩道 案内図(三峰山表参道)」の案内板が設置されています。
参詣道の左側には道標「大輪バス停500m-三峯神社3.2km」があり、ここより先は未舗装の登山道に変わります。
先に進むと、左上部から流れ下る沢に木造の橋(長さ4~5m)が架けられています。
また、左側の大木の根元に苔に覆われた第七丁目石があり、その先の左側に第十四丁目石がありました。
清浄の滝の手前には、苔むした木製の橋が架けられています。
橋を渡ると左側に、落差8~10mの「清浄の滝」があります。現在でも、修行者が滝行をし、水垢離をとって三峯神社に登拝するために、神聖な雰囲気を残しています。
右側には鳥居が数基並んでいて「清浄宮」の扁額が掲げられています。滝行につきものの不動明王像は確認できませんが、信仰の篤さを物語る石祠が数基並んでいます。
更に、休憩するためなのか傍らに東屋もあり、苗木の奉納碑及び金参百円也と刻された東京府小岩町・葛飾講(昭和6年9月)などの碑が確認できます。
第廿二丁目を越えると道標「大輪1.8km-三峰神社1.9km」があり、急坂を越えると第廿五丁目(日光道中粕壁宿・・・國田屋七右衛門)があります。尾根上の開けた場所にある標識「秩父多摩甲斐国立公園 薬師堂跡」があります。
女人禁制時代の三峯山にとって、ここまでは誰でもが参詣できた場所であり、参詣者にとっては貴重な宿泊施設であったに違いありません。右側に5~6段に積まれた石垣に上の玉垣に囲まれて「廻国千人施宿供養塔」が2基並び、下部には小さな6地蔵が安置されていました。
また、古びた東屋、多数の石祠と供養塔も確認できます。第参拾壹丁目石、第参拾四丁目(嵜玉郡・・小野岩五・・)、第三拾五丁目(日光道中三本・・・鈴木・・)及び説明板「渓谷の植生」があります。第参拾七丁目(嵜玉郡百間・・・深井傳次郎)を過ぎると左側に宮澤岩雄の表札が掲げられた三峯神社の社家の前に出ます。
既に廃屋にように見えますが、使用されているか否かは未確認です。
第四拾貮丁目(嵜玉郡百間・・野口文左衛)、道標「大輪3.1km-三峰神社0.6km」及び第四拾三丁目石、第四拾四丁目(鈴木善・・・)を過ぎ、なだらかな石段を登ると三峯神社の社家の一つである広瀬家につきます。
更に、道標「大輪バス停3.2km-三峰神社560m」、第四十七丁目石、道標「大輪バス停3.6km-三峰神社125m」及び「秩父多摩甲斐国立公園 三峰山(園地)案内図」などを過ぎると間もなく、立派な建築物である奥宮遥拝殿に着きます。
遥拝殿からは妙法ヶ岳(奥宮)方面の展望が開け、すぐ先にある三峰神社の金属製(銅板製?)鳥居には「三峯神社」の扁額が架けられています。また、鳥居の手前には「奉寄進 第五拾二丁石供養塔」が設置され、表参道の終点であることが示されています。
鳥居を潜り、参道の両側に石灯籠が並ぶ石段を下ると随身門手前の十字路にでます。
ここを右折すると大山倍達記念碑や日本武尊像などがある観光スポットに出られます。
小高い築山の頂上に太刀を佩き、右手を挙げた日本武尊像が設置されています。
三峯神社の由来には、日本武尊は東征の際、甲斐国・酒折宮から雁坂峠を越えて三峯神社に登り、伊弉諾尊及び伊弉冉尊の二神を祀ったと記されています。
朱塗りの格調高い随身門には「三峯山」の扁額が掲げられています。
明治初年の神仏分離令以前は、三峯山観音院高雲寺の仁王門として、仁王像が安置されていました。寺院を分離し神社になったことで、随身門に換えられた際の仁王像は、鴻巣市にある浄土宗の古刹である勝願寺に移されました。
石燈籠の続く参道を進むと、三峯神社前の石段の下に出ます。石段の両側には凛々しいオオカミ像が安置され、青銅製の鳥居を越えると、朱塗りの八棟木灯台と白塗りされた絢爛豪華な手水舎があります。装飾過多の造形や極彩色の灯台及び手水舎は三峯神社の栄光の歴史を今に伝えています。
江戸の木材業者が荒川を使って物資の運搬に利用していたこと、また火事・強盗が多かった江戸では、三峯神社のオオカミの護符が火防や盗難除けに著しく効果があると信じられていた結果であると思われます。
青銅の鳥居の奥が三峯神社の本殿・拝殿です。極彩色も鮮やかな権現造り拝殿の左側に進むと宿泊施設である興雲閣につきます。
三峯神社・興雲閣を出発し、静まり返った摂社・末社が立ち並ぶ境内を通過します。
現在修理中の三ツ鳥居は、工事中のためシートに覆われていますが、白塗りの優美な鳥居が隠されています。
傍らの三峯神社の説明板には、三峯神社御由緒と伝説も含め、三峯神社の長い歴史が記されています。
伊豆に配流された役行者が三峯山で修行したと伝えられ、修験の影響が強く残されています。三峯山の修験者がどこの山々を修行の場所としたか記録はありませんが、雲取山は熊野古道に名を残す「大雲取越え・小雲取越え」からつけられたものと考えられ、金峰山(吉野の大峰奥駈道の主稜にある金峰山から名付けられた。)に至る奥秩父主稜縦走路が修行の場であったものと推測されます。
秩父宮記念三峰山博物館の前を過ぎ、大島屋や山麓亭を過ぎると右側に「奥宮参道入口」の立派な石柱があります。右側の下には古い石の道標「右ハ□シ□・・・・、左ハ□□・・大日向山□□・・・」が残されていますが、残念ながら文字が判読できません。
左側に茶色の看板に白文字で記された道標「三峰神社本殿550m-雲取山10.5km・霧藻ヶ峰3.6km-妙法ヶ岳(奥宮)2.5km」が設置されています。
ここは舗装された杉並木の歩道を直進します。よく手入れのされた杉の植林帯の中を進むと、左手に標識「大輪(表参道)-奥宮・雲取山-神社・秩父湖」がありますが、表参道(大輪方面)への分岐を示すものであり、ここは直進します。
この先の歩道の左側に、白い石の立派な鳥居(扁額は奥之宮)があり、奥宮への参道分岐を示しています。右側には道標「雲取山・霧藻ヶ峰・妙法ヶ岳(奥宮)-三峰神社」があり、左折して鳥居を潜り、杉の根を踏んで登ります。鳥居のすぐ右側に既成品の赤いポストを利用した「登山届投函箱」、入山者数確認のためのカウンター(5列並び)があり、下段には「雲取山 安全登山マップ立体図」と「雲取山 安全登山マップ」が並んで貼ってあります。
鳥居を潜った右側の説明板には「奥宮参道(妙法ヶ岳登山道)」などの安全登山を啓蒙する注意書が掲示してあります。
奥宮への分岐を進むと左側に、立派な木製鳥居(奥宮の扁額)があります。横には比較的新しい石の道標「左奥宮、右白岩・雲取山」が設置されています。また、木製道標には「妙法ヶ岳(奥宮)1.4km-霧藻ヶ峰2.5km・雲取山9.4km」と記され、古い石標には「左ハ奥社大日向山道 後ハ三峯神社ニ至ル、右ハ雲採山ヲ超ヘ甲州北都留郡府下西多摩郡ニ至ル、大正十一年大滝村分會青年團建設」と刻され、三峯山の古い歴史を伝えていますが、残念ながら文字の一部は不明瞭です。
杉の樹林帯の中を登ると途中に道標「三峰神社1.3km-妙法ヶ岳(奥宮)1.2km」が設置され、ベンチが置かれた平場を通過します。
奥宮へと続く稜線の鞍部に立派な白い鳥居(奥宮の扁額)が設置されています。鳥居の手前右側には道標「妙法ヶ岳(奥宮)0.6km、霧藻ヶ峰2.2km、三峰神社2.9km」があり、奥宮と霧藻ヶ峰方面との分岐になっています。また、遭難防止対策と推測されましたが、地元の登山者仲間からは「熊除け」と聞く、拍子木のように鳴らすことができる長さ30cmほどの鉄パイプ2本が傍らに吊り下げられています。
奥宮への歩きやすい参道を進み、赤く塗られた金属製パイプの手すりと鎖の付いた急な石段を登ると基壇(4~5段)の上に玉垣で囲まれた格調高い奥宮(妙法ヶ岳山頂)があります。
三峯山の奥宮らしく、御眷属であるオオカミ像(山犬像)が多数、石祠の周りを取り囲んでいます。
奥宮からは同じ道を辿って鳥居のある分岐に戻ります。
ここから真南方向に地蔵峠をめざして雲取山主稜縦走路へと進みます。
途中、道標「霧藻ヶ峰1.8km、三峰神社2.5km、妙法ヶ岳(奥宮)1.0km」を通過します。
まもなく三峯神社から雲取山への主稜縦走路に合流すると、道標「三峰神社2.2km-妙法ヶ岳(奥宮)1.3km、霧藻ヶ峰1.5km、雲取山8.3km」があります。
稜線を辿ると左側に炭竃跡の説明板があり、かつて秩父地方では炭焼きが主要な産業であった歴史を物語っています。
縦走路の尾根を登ると、各種の道標・標識やベンチ・テーブルなどがある地蔵峠につきます。
この峠は霧藻ヶ峰と大陽寺との分岐であり、小堂の中に赤い衣類で覆われた地蔵尊石像が安置されています。地蔵峠の名前の由来が良く分かる峠道です。主要な峠らしく、道標「大陽寺3.1km、大日向4.7km-三峰神社3.5km-霧藻ヶ峰0.3km・雲取山7.2km」及び「秩父多摩甲斐国立公園 地蔵峠」並びに石の道標「右ハ雲採山ヲ超ヘ北都留郡西多摩郡ニ至ル、左ハ大日向山旧道・後ハ三峯神社ニ至ル。大正十一年一月大滝・・・」が設置され、大陽寺や雲取山への行程が示されています。
雲取山への主稜縦走と分かれて、左方向(西)の大陽寺に下る登山道に入ります。
右側に、古くて手入れがされてない看板「強石大陽寺線歩道案内図」があり、地蔵峠から大陽寺への登山コースが記載されています。
更に下ると古い苔むしたベンチとテーブルがある休憩所があり、右側に道標「霧藻ヶ峰0.9km-大陽寺2.5km・大日向3.9km」があります。ベンチが設置された平場には説明板「奥山の動物」があり、自然環境保護の重要さが指摘されています。更に道標「霧藻ヶ峰1.3km-大陽寺2.1km」がある場所には、今までも数カ所にあった鉄パイプ製の拍子木が2本吊るされています。
雑木林に覆われた急な下りの登山道は古い歴史を感じさせます。
道標「お清平(お経平)-霧藻ヶ峰-大陽寺1.7km・大日向3.0km」があり、地蔵峠や霧藻ヶ峰を巻いて、お清平に向う登山道の分岐です。新しい注意書には「大血川 高ヲ子奥 県造林」と記されています。「高ヲ子奥」は地名と思われますが、地元の調査協力者からは「たかおねおく」と読みますとのことですが、詳細は未調査です。
丸太で支えられた急な階段を下ると林道にでます。
立派な東屋があり、林道出口には道標「霧藻ヶ峰に至る お清平(お経平)」が設置され、霧藻ヶ峰から雲取山への登山口でもあります。更に比較的新しい説明板「森林管理道 大血川線」が設置され、林道は大血川と三峯神社を結ぶ森林管理道であることが示されています。
林道を横切り、向かい側の登山道に入ります。杉の樹林の中のよく整備された階段状の道を下ると、先ほどの林道の先にショートカットで出られます。道標「霧藻ヶ峰へ至る」が出口に設置されています。
更に、林道を横切って向かい側の比較的整備された登山道に入ります。
道の途中の左側に白い標識があり「霧藻ヶ峰-大陽寺」と記されています。右側には道標「大陽寺に至る」があります。
更に下ると倒木のある荒廃した登山道に変り、登山道の左側に朽ち果てて苔むしたテーブルと椅子が2組残されています。林道が新たに出来たために利用されなくなった登山道もあるようです。
道標「霧藻ヶ峰2.7km-大陽寺0.7km・大日向2.0km」を越えてしばらく進むと、先ほどの林道に合流できます。森林管理道・大血川線の開通により、登山道の利用者が減少したことで、登山道が荒れてきたものと推測されます。この林道は大陽寺の南側を大きく迂回(巻く)した後、西谷沿いに北上して大血川観光釣場に至る道です。
林道に出る下り坂には転落防止のためか、右側に列になった丸太が索で結ばれ、左斜面は落石防止のネットが設置されています。
林道から東に下ると大陽寺につきますが、現在、大陽寺は登山者の通行を禁止しているため登山道は「通行止め」になっています。また、林道横の道標は「霧藻ヶ峰」と霧藻ヶ峰への登山口であることを示しています。
一方、白い標識「林道を経由し 大血川渓流観光釣場」と地図が添えられています。また、「大陽寺~大血川渓流観光釣場までは通行止め、登山道迂回路(林道)」の記載があり、大陽寺の境内には入らずに、林道を辿って迂回する必要があります。
大陽寺ホームページには、「拝観謝絶 宿泊者以外のお客様へ お寺周辺で焚火等する方が散見されるため、大陽寺から半径2km以内は完全立ち入り禁止となります。」と記されています。
大陽寺への分岐から林道大血川線を南に下り、西谷沿いを北上すると右側に大きな「大日向山大陽寺」と記された標柱があります。
大陽寺の境内に入らず、林道で迂回することで、大陽寺入口に出ることができ、右側は大血川渓流観光釣場の入口になっています。更に、道標「大陽寺入口バス停7.5km-大陽寺500m・シャクナゲ園400m(荒川渓流のむら・大滝)」が設置されています。
大血川林道は通行止めにするために、立看板が4種類及び赤い三角コーンが数個設置されています。看板には「森林管理道大血川線 この先路面不良のため当分の間 通行止め(秩父農林振興センター)」などの記載があります。
林道左側に大陽寺参道入口があり、苔むした石段の両側に大きな石灯籠が二基並んでいます。ここが大陽寺の表参道入口と考えられます。
右横に道標「国道140号(バス停)4.5km-霧藻ヶ峰」及び大きな「奥秩父観光案内図」が設置され、反対側には大血川渓流観光釣場があります。大血川を「むみょう橋」で渡ります。
「新編武蔵風土記稿」に「無明橋 獨木橋にて長九間、幅一尺八寸、この山の麓にて大血川に亘せり、水際まで九間許」とあり、江戸時代から大血川に丸木橋が架けられていたことが理解できます。
石仏や緑色の道標「林道奥大血川線終点」を過ぎると、石の道標「右ハ大日向山道 左ハ上大血川道、大正十一年一月 大滝村分會青年團建設」が設置されています。
更に丁目石「二十五丁目 秩父町 峯□□□、松野」、その先の道標に「大陽寺入口バス停2.2km-大陽寺5.8km-桔梗塚(荒川渓流のむら 大滝)」と記されています。
秩父の城峯山などに伝えられる桔梗伝説と類似の将門伝説と考えられますが、深谷市畠山生まれの畠山重忠の誕生伝説を併せ持つ懐の深さが、参詣者を和ませます。
赤く塗られた小さな地蔵堂には地蔵尊2基と石仏が安置されています。また、傍に道標「大陽寺入口バス停1km-大陽寺7km」もあります。
大きな石柱に「後嵯峨帝皇子僧國禅師・東國女人高野霊場 大日向山太陽寺」と記された道標を過ぎると、間もなく国道140線に突き当り、大陽寺入口バス停につきます。
ここからは西武観光バスで三峰口駅または西武秩父駅へのバスがありますが、国道140号に沿って秩父鉄道・三峰口駅に歩くことも可能です。
秩父往還の白滝沢から上強石に至る旧秩父往還は、土壇場地蔵の手前で沢に架かる橋が崩落して通行は困難です。更に土壇場地蔵から上強石に至る旧秩父往還は消失しています。そのため白滝沢から国道140号で強石まで進み、旧三峰山道を辿って大達原から大輪に行きます。
秩父往還を杉ノ峠経由で歩く場合は、白滝沢入口から強石に進み、上強石に登ってから杉ノ峠に向かうことが望ましいと思われます。
また、現在、大陽寺は登山者の境内通行を禁止しているので、境内には入らずに森林管理道大血川線を経由して、大血川林道を下り、国道140号に出る必要があります。
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奥宮参道(妙法ヶ岳登山道)への鳥居を潜った右側の説明板には以下のように記してあります、
「この先、登山道、登山の装備が必要です。
・奥宮への途中、クサリを使って岩を登る場所があります。
・サンダルを履いた登山は大変危険ですのでやめましょう。
・冬期は凍結します。凍結時はアイゼンを装着してください。
奥宮(妙法ヶ岳山頂)まで2.3km、奥宮まで徒歩1時間(標準)」
また、
「雲取山登山道(冬期) 登山道は、11月から5月まで、降雪により凍結します。
・登山口に雪がなくても、標高の高い場所では雪や氷が残っています。
・滑落防止のため凍結箇所ではアイゼンを装着してください。特に、以下の個所は注意して通行してください。
①芋ノ木ドッケ周辺;アイゼン未装着による滑落死亡事故が数件発生、
②雲取山荘~雲取山頂の北斜面;アイゼン未装着による転倒事故が多発、
雲取山山頂まで10.3km、雲取山頂まで徒歩5時間(標準) 埼玉県秩父環境管理事務所」
と登山時の注意事項が記載されています。
三つ鳥居横の三峯神社の説明板には由緒が書かれている。
「当社は今から1900年余の昔、日本武尊が東国の平安を祈り、伊弉諾、伊弉冉尊、二神をお祀りしたのが始まりです。尊の道案内をした山犬(狼)がお使いの神です。三峯の名は神社の東南にそびえる雲取・白岩・妙法の三山が美しく連なることから三峯宮と称されたことに因ります。奈良時代、修験道の開祖役小角が登山修行したと伝え、天平八年国々に疫病が流行した折、聖武天皇は当社に葛城連好久を使わして祈願され、大明神の神号を奉らえました。平安時代には僧空海が登山、三峯宮の旁に十一面観音像を奉祀して天下泰平を祈り、以来僧侶の奉仕するところとなりました。鎌倉時代、畠山重忠が祈願成就の御礼として、十里四方の土地を寄進しました。また、戦国時代には月観道満が諸国を勧進して天文二年に社殿を再建し、中興の祖と仰がれています。江戸時代、関東郡代伊奈半十郎検地の折、三里四方を境内地として除地され、寛文五年現在の本殿が造営されました。享保年間には、日光法印が社頭の復興に尽くし、御眷属信仰を広めて繁栄の基礎を固めました。寛政四年に随身門(仁王門)、同十二年には拝殿が建立され、幕末まで聖護院天台派修験、関東の総本山として重きをなし、幕府から十万石の格式をもって遇されました。明治維新の神仏分離により、社僧と罷め佛寺を閉じ神社のもとなりました。明治六年郷社、同十六年県社に列せられ、戦後官制廃止により宗教法人三峯神社として現在に至っています」
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三峯神社の歴史は、文献が乏しいため正確なところは不明だが、西村敏也「三峰山」(『日本の霊山読み解き事典』柏書房)などに基づくと、おおよそ以下のように推測される。
・古代から中世
三峯山は古くから素朴な山岳信仰の対象だった。室町時代には、関東で活動していた修験者が修行を行うようになり、越生(おごせ)黒山を拠点とする山本坊の支配下に入る。
・江戸時代
一時荒廃するものの、文亀年間(1501年~1504年)には熊野修験の道満が住職となり、再興された。その後、道満の弟子である龍栄の時代に、修験道の本山である聖護院から「三峯権現」の称号が与えられている。
1665年には山本坊から離脱し、聖護院の直末寺院となる。その後再び荒廃するが、地元農民が長瀞多宝寺の日光法印を招いて建て直し、これによって全国に信者が広まり、三峯山の名が知られるようになった。
江戸時代後期には、オイヌサマ信仰の隆盛により、三峯神社は飛躍的な発展を遂げる。天台修験の関東総本山と称されるようになり、10万石の大名に匹敵するほどの寺院だったと言われている。また、木材や絹の生産などによって財力を蓄えた山麓の大滝村や秩父地域の人びとが神社を支えた。
・明治以降の変遷
明治の神仏分離令により、観音院高雲寺は廃寺となり、三峯神社となった。
ちなみに、古くは雲取山、白岩山、妙法ヶ岳の3つの山全体を三峯山と呼んでいたが、現在では三峯神社、またはその周辺一帯を指すことが一般的である。
江戸時代、オイヌサマの護符を請けるため登拝が盛んに行われた。
甲州周辺にあったオイヌサマ信仰を日光法印が三峯山に取り込み、オイヌサマのご利益があるという護符を頒布するもので、江戸市中はもとより、関東甲信越や東北からも盛んに三峯山を目指した。
ご利益とは、神の使いとして五穀豊穣や害獣除け、火防、盗賊除けの守り神というもので、人びとは三峰講と呼ばれる講社を組織した。
講の代表者が精進潔斎をして登拝し、御眷属札と付札を請け、御眷属札は毎年三峯山に借り替えに行き、付札は講員に配られた。全員が登拝する総参り講もあったという。
参拝者の多くは秩父往還を利用した。
現在、大輪には三峯神社一ノ鳥居があるが、かつては贄川宿にあった。
「新編武蔵風土記稿」に贄川宿について「此所は江戸より甲州への道筋にて、町と唱へるあたりは、左右に屋並みそろひて卅六軒ありて、・・・水旱の患は本より山間の土なれば、雨多ければ作物實登りあしく、旱すれば痛み易し、爾のみならず、猪鹿多く作物を荒して、いと艱難せり、」と耕作には適さない土地であるが、主要な交易路として栄えたことが記載されている。
また、贄川宿入口の説明板には「贄川宿 秩父甲州往還を白久側から渡船場を越え、八幡坂を登ると贄川宿に着く。新編武蔵風土記稿に『此所ハ江戸ヨリ甲州ヘノ道筋ニテ左右ニ家並ソロヒテ丗六軒アリ、寛文七年ヨリ毎月二七ノ日ニ市立セシガ・・・』、贄川宿は大宮郷(秩父市)に次ぐ秩父甲州往還の宿場で、三峯社講中・諸国商人衆の定宿として、江戸初期から賑わいを見せていた。また宿の立地が上信や甲州への分岐点であったことや物資の集散にも好都合であったため、六斎市や雛市も開かれた。贄川宿の家並みは往還に沿って短冊状で、旅籠、酒屋、質屋、紺屋、豆腐屋などがあり、他にも医師、髪結い、荷継場などがあった。この贄川宿には、秩父の地質調査に来日したナウマン博士や宮沢賢治、そして明治の文豪幸田露伴も立ち寄り、いずれも東方の眺望を絶賛している。 秩父市教育委員会」と、交通の要所として繁盛した贄川宿の様子が記されている。
三峯神社の参詣者は贄川宿で一泊して、猪鼻を経て強石で秩父往還と分かれる。
飯野頼治の「秩父往還いまむかし」には「強石の地名は、ここより奥へ入るほど巨岩、険岩が多いところからおこった。・・・強石から杉ノ峠を越えて落合に至る秩父往還と、大達原を経て大輪へ至る三峰街道がわかれていた」と三峯山道について記されている。
また、大滝村誌には「強石のにぎわい」として「旧秩父往還は白滝橋の手前から上強石へ向かい、杉の峠をこえて落合へ通じていた。これとは別に『三峯山道・新古両大滝道』が猪鼻からまっすぐ『石出し』を通過して(下)強石にいたる道があった。『石出し』という地名は、たえず石が押し出す(崩壊する)危険な場所という意味である。その頃の強石は岩石が屹立して通行困難なことで知られていた。家は四軒あった」と強石の地名の由来が記されています。さらに「強石から大達原へ通じる道は現在の国道から100メートルほど上にあり、手掘り隧道ができる前は『不動岩』の上へでる絶景のコースだったという。このコースが地元の人々の生活道路であり、三峰参詣人が行き交ったことを推測させる馬頭尊の石塔が五基残っている。その中には宝暦六年(1756)銘のものもある」と記されている。
大輪には参詣者や三峯講の人達が休憩するための店が立ち並んでいた。
荒川を登龍橋で渡ると表参道で、五十二丁石柱及び第一丁目石及び夥しい奉納記念碑があって往時を偲ぶことができる。
なお、大輪にある三峰山ハイキングコース案内図には「三峰山表参道(大輪三峰線歩道) 大輪(おおわ)から三峯神社へ上がる道は、『三峰山表参道』と呼ばれ、江戸時代以前から続く三峯神社への参詣道である。大輪は表参道の入口にあたり、三峰の門前町として栄えた。一之鳥居(いちのとりい)は明治20年(1887)に奉納されたもので、荒川贄川宿から明治42年(1909)にここに移された。朱塗りの登龍橋は、大正3年(1914)に架け替えられた。今の橋は昭和29年(1954)のものである。昭和14年(1939)三峰空中ケーブル(三峰ロープウェイ:平成19年(2007)廃止)が開通するまでは、徒歩で五十二の丁目石を数えながら登った」と記されている。
大日向山大陽寺は臨済宗建長寺の末寺だが、女性の参詣が許されていたことから「東国女人高野」と呼ばれている。
「新編武蔵風土記稿」の秩父郡の法性寺の条に「大陽寺(強石組にあり),大日向山にて、一區の境界をなせし古道場なり、中頃袋養寺と書しが、又もとのごとく今の文字を用ゆ、大日向山と號す、臨済宗にて鎌倉建長寺末なり、・・・本尊釋迦木坐像長七寸、外に彌陀白山の木立像あり、各長一尺七寸、開山佛國國師、…寺記の略傳に曰、武州秩父郡東女人高野、大日向山太陽寺、開山鬚僧大師は諱を顯日と云、曾て國師の號を賜ふ、其傳を尋るに、後嵯峨院第三の皇子にして、二條院仁治二年に嵯峨の離宮にて誕生し給ふ、」とあります。
一方、大滝村誌には「本村を代表する古刹・大陽寺は鎌倉の臨済宗建長寺を本寺とする。大血川谷・大日向山中にあり、旦・信徒らの寄進をうけて現在の境内地は五七八五平方メートルを占める。山号は『大日向山』。本尊は阿弥陀如来。伝説と言えば地元・大血川には平安時代初期の豪族・平将門にまつわる伝説があり、大陽寺には鎌倉時代初期の武将・畠山重忠が誕生した寺という伝説がある。・・・深い山の中にあり、いかにも修験道場の雰囲気をただよわせる古刹でありながら、女性の登拝・参詣を受け入れてきたためか、いつの頃からか『東国女人高野』という別称を唱え、女人禁制の三峰山に参詣できない女性の参詣が多くあったと伝えている」と記されている。
荒川村誌に「荒川は秩父に高峻なV字谷を作り、対岸に長い橋を架けることは不可能であった。そのため荒川本流は通行人が川越しするか、あるいは渡船に頼らざるを得ない。・・・荒川村には江戸時代二ヶ所の渡船場があった。その一つが久那村柏木(現秩父市久那)より上影森村までの荒川と浦山川の合流点にあった渡船場、もう一つは白久村の栃の木坂を通り贄川の八幡社に至る渡船場である」と渡し場の意義が記載されています。
「新編武蔵風土記稿」には「栃の木の渡し」または「八幡渡し」について「渡船場 荒川の渡にて、當村及び白久村にて、隔日に村夫を出して渡船せり、冥加永とて年々一貫文を上納せり」と村人の役割と税を徴収されていた様子が分かります。
八幡大神社の社殿の前に「本日は、八幡大神社にご参拝いただき誠にありがとうございます。ご参拝のしるしにご朱印をおうけいただく方は一枚500円お納めいただきます。左側をごらん下さい。大きなけやきがあります。推定樹齢400年以上と言われています。二本の木が一本となっているところから夫婦けやきと昔から崇拝をいただいております。本日はご参拝いただき誠にありがとうございました。八幡大神社」と商魂逞しい神社の様子が記されています。
贄川宿の大きな説明板には「秩父甲州往還を白久側から渡船場を越え、八幡坂を登ると贄川宿に着く。新編武蔵風土記稿に『此所ハ江戸ヨリ甲州ヘノ道筋ニテ左右ニ家並ソロヒテ丗六軒アリ、寛文七年ヨリ毎月二七ノ日ニ市立セシガ・・・』、贄川宿は大宮郷(秩父市)に次ぐ秩父甲州往還の宿場で、三峯社講中・諸国商人衆の定宿として、江戸初期から賑わいを見せていた。また宿の立地が上信や甲州への分岐点であったことや物資の集散にも好都合であったため、六斎市や雛市も開かれた。贄川宿の家並みは往還に沿って短冊状で、旅籠、酒屋、質屋、紺屋、豆腐屋などがあり、他にも医師、髪結い、荷継場などがあった。この贄川宿には、秩父の地質調査に来日したナウマン博士や宮沢賢治、そして明治の文豪幸田露伴も立ち寄り、いずれも東方の眺望を絶賛している。 秩父市教育委員会」と交易や信仰及び学術調査などで賑わった贄川宿の歴史が記されています。
また、贄川宿の街燈に関する説明書に「大正時代の贄川宿には、『角屋』、『逸六』、『新井屋』、『逸八』、『油屋』、『丸太』、『逸忠』など10軒ほどの家に街燈があり、夕ぐれ時になると一斉に灯がともり、旅人を和ませていました」とあります。
御堂鐘地蔵尊の説明板には「御堂鐘地蔵尊の由来 江戸中期以降、秩父三十四ヶ所霊場の巡礼は最大のにぎわいを見せた。宝暦元年(1751年)八幡の渡し(荒川の渡し船)が始まると贄川宿は旧秩父往還最後の分岐点として三峯神社参拝や札所巡礼を始め、一般旅人でおおいに賑わった。宿場から札所三十一番へは山道となり、柿平峠を越えて古池、両神を通る三里(12km)の道程である。宿場の人達は難儀する巡礼の道標として此処から六町(600m)先の山道に享保十三年(1728年)庚申塔を二基建て『庚申信仰』と旅人の道中安全を祈った。塔には贄川町とあり、当時の宿場の盛況が偲ばれる。宝暦七年(1757年)お庚申様と共に当時民間信仰の中心のお地蔵様がこの地に建立され、地名も『みどうがね』と呼んだ。地元民はもとより、近隣近郷の人、旅人は『地蔵十福」を祈願、その功徳ご利益は今に数多く言い伝えられている。現代交通の発展により古い山峡の巡礼道は廃れて行く運命にあるが、今回先祖、先人が崇め敬った御利益多い『みどうがね地蔵』と『みちしるべ庚申塔』をこの地にご遷座し、現在の交通地獄、受験地獄、長寿と健康管理等、悩み多い世相の守り本尊として厚い信仰を継承する。平成七年秋彼岸、町分区、贄川宿保存会』と記されています。
即道終焉の地の説明板には「秩父市指定史跡 即道は享保年間上田野糀屋の薬師堂から贄川のこの地に移住し、真言宗蓮台山常明寺の三世の僧となった。常明寺本尊は阿弥陀如来、また地内には台石に即道の筆跡が刻んである宝篋印塔も残っている。修験・苦行によって、絶倫なる体力を養い、仏道・書学を習得する他、彫刻にも逸品を残した超人的スーパーマン即道の生涯であった。享保十五年(1730)九月七日、即道は鐘を打ちつつ、一本の杖を棺内に残して入定したと言う。享年四八歳であった。即道の墓は常明寺周辺墓地の上限にあり、奇人即道を物語るのにふさわしい奇形をしている。 即道作の村指定文化財 薬師如来坐像・上田野糀屋・薬師堂、薬師如来立像・上田野坂口・薬師堂、石経塚・爪彫り石・上田野糀屋、 秩父市教育委員会」と超人即道の活躍が記されています。
大滝村誌に土壇場地蔵について次のようにあります。
「国道140号線沿い荒川村猪鼻との境の、左に大きくカーブする所から右手の山中に数分登り、猪鼻沢を渡ったところにある。大滝村一番地にあたる。名称の由来については二つのことが考えられる。一つは荒川村との境、大滝の末端という意味。もう一つは猪鼻側の伝説で、江戸時代には罪人の処刑場だったから、処刑された罪人の霊をなぐさめるために、猪鼻の人々が安置した石仏だという。そのため別名『首切り地蔵』と呼ばれている。石仏の背中に『念仏供養塔』と刻まれている」
また、土壇場地蔵の説明板には由来として「江戸時代、大滝村は天領でした。この場所は、秩父甲州往還沿いの大滝村一番地の入口です。そして、罪人の処刑場でした。罪人は土の壇(土壇場)の上で斬首されました。たとえ罪人と言えども死すれば仏界に入るので、地蔵尊を祀ってその霊を慰め『土壇場地蔵』、『首切り地蔵』と称し、お経、念仏を唱えました。この地蔵の背中には『念仏供養塔』と刻まれています。人々は地蔵尊の供養により、人生の土壇場(塗炭・トタン)の苦悩から救われます。 平成十六年九月彼岸」と地蔵尊が設置された経緯が記されています。
大滝村誌に強石の牛頭尊について「猪鼻との境にある白滝橋を過ぎて、国道の坂道を登り切って右に急カーブするところの左側ガードレールの外側に数基の馬頭観音文字碑や石仏が並んでいるなかに、『牛頭尊』碑がある。村内にはたくさんの馬頭尊はまつられているが、牛頭尊というのはこのほかにない。」とあり、極めて珍しい観音文字碑とのことです。
大滝村誌に金蔵落しの由来が書かれています。
「荒川の中流域からさかのぼって本村域に入ると、幽谷深淵の連続となって、川幅も狭くなり難所が出現してくる。その第一関門が光岩小学校の上流『金蔵落し』である。昔、ここで遭難した金蔵という人の名前がつけられた難所で、約200メートルの間、両岸が絶壁になっている。旧秩父往還はここをさけて高巻き、大達原へぬけていた。」
大達原の手掘り隧道の新しい説明板に「強石から落合までは秩父帯の石灰岩やチャートが帯状に分布し、険しいV字谷が続きます。谷筋は通行困難で古い街道は尾根を通っていました。明治中期に石灰岩を手で掘ってくり抜きトンネルが作られました。三峯神社参拝客でにぎわい、ここには茶屋もありました。隧道東側にあった茶店 『大島屋』は、現在も三峯神社参道で営業している」と記されています。
また、大達原トンネルの古い説明板には「昔はもっと上の方に道があり、『左 三峯道』という道しるべ石もある。このトンネルの掘られたのは恐らく明治中期以後と思われ、監督は浜中の山中幸四郎(昭和11年77才没)で、何寸掘れば何銭と日当を払ったらしく、どこから入ったのか分からない荒くれ人夫を使うのに苦労したと伝えられる。幅員3m45、高さ4m80、長さ40m50、大正末年、現在の国道140号線の開鑿まで、三峯参詣の街道としても重要な役割を果たした。 環境省・秩父市/奥秩父源流」と隧道を手で掘った経緯が記されています。
また、大滝村誌には「大達原の手掘り隧道 隧道が開通すると、強石側の隧道には、三峯神社への参拝人や運送業者を相手に茶店(大輪の大島屋の出店)ができた。隧道開削に関しては資料の所在が不明のため、詳しい事情はわからない。言い伝えによると、強石の吉田悦太郎が測量・設計し、工事監督は浜平の山中幸四郎(昭和11年没)がつとめ、荒くれ人足たちをつかうのに苦労したという。この隧道の高さは五メートル弱ある。人馬の通行以外に、木材その他の物資を搬出するために開削されたことが考えられる。」と完成当時の様子が紹介されています。
馬頭尊の説明板に「観音さまといえば思い浮かべるのは柔和なお顔。しかし馬頭尊だけはこわいお顔で馬の守り本尊、本来ならそのお姿をまつるべきであるが、略してこの付近に見られる馬頭尊の文字を刻んで馬の交通安全を祈ったが、大滝谷(やつ)など道が狭く崖に沿っているところでは、馬の遭難現場に慰霊のために建てられたとも聞く。トンネル口のものは嘉永三年(1850)に建てられ、他の二基は明治四十四年、大滝村馬持中である。他の一基は大正十四年に建てられている」と記されています。
大達原高札場の説明板には「埼玉県指定史跡、大達原高札場、所在地;秩父市大滝532番地1地先、指定年月日;昭和14年3月31日、徳川時代における上意下達の方法として、各村々の中央又は代官・名主等の邸前に高札場が設けられた。この高札場は、甲信両国に通ずる秩父往還に面する旧名主山口家前にある。建物は高さ1.3mの石積の壇の上に二本の親柱と二本の横木で組まれ、その上に切妻造の屋根をのせており、間口2.3m、奥行1.2m、高さ2.4mで、これを囲んで高さ1.18mの木柵を設けている。建築年代は文久年間(1861~1864)と推定される。 平成21年3月、埼玉県教育委員会・秩父市教育委員会」と高札場の詳細が記されています。
大達原の案内板には「深いV字谷が刻む大滝・大達原は荒川左岸の緩やかな尾根の中腹にあります。日当たりが良く暖かいが水が無く、東の沢から引いてきた水を大切にし、暮らしをたててきました。集落の名の由来は神奈川県の小田原。1590年小田原城が豊臣秀吉の軍に攻められ落城、配下の鉢形城(寄居町)も落城し重臣山口図書守(やまぐちずしょのかみ=文部大臣)ゆかりの「おだわら」を名乗りたかったが身の危険を感じ、音をもじって大達原にしたと伝わっています。以来、四百有余年、子孫、大滝村最後の村長山口民弥氏が今でもこの地に居住し、その歴史を繋いでいます。 環境省/秩父市/奥秩父源流元気プロジェクト」と記され、鉢形城の落城に伴い後北条の武士たちが移り住んだと伝わる大達原の地名の由来や歴史が記載されています。
大達原稲荷神社の説明板には「稲荷神社は商売繁盛の神様で日本各地に祀られていますが、当神社は格式高く神階は『正一位』である。地元の名だたる商売人らが参拝します。特に毎年4月に行われる例大祭には、大勢の参拝者が訪れます。元々は、山口家の氏神様(屋敷神)として祀られていましたが、非常にご利益があると口コミが広がり、一般の参拝者がお参りしやすいように現在の場所に移動し、道を整備したと言われています。また、大昔、この地でも失くし物や困りごとを解決する予言者がいて、たくさんの人が訪れ解決され、現在でも失くし物を探すには効果があると言われています。当神社の上舎(うわや)には、荒神(こうじん)様と八幡(はちまん)様も祀られており、いずれも別の場所から当神社へ合祀(ごうし)されたものです。荒神様は火を防ぐ神様として、台所などの火を使う所から火事にならないよう台所の神としてもお祀りされています。八幡様は将門八幡と言われ、平将門没落の際、その娘が落延びてこの地に円通寺という寺を創り、将門の霊を祀ったと言われています。戦いの神様と言われ、現在では選挙の神様として地元の政治家が訪れています。 環境省/秩父市/奥秩父源流元気プロジェクト」と地元民から商売繁盛や火防の神などとして厚く信仰されている歴史が記されています。また、水の確保が困難であった地域だけに、「火防の神」である三宝荒神が篤く信仰されたものと思われます。
「新編武蔵風土記稿」には「塚八幡 里正多宮が小後にありて、僅の屋祠なり、往古平将門此邊に行營ありて、聯妃の居たまひし所なるよし、其後武器を埋て塚を築き、小祠を立しと云」と記載があり、将門の武器を埋めた塚があったので、塚八幡と呼ばれたようです。
大滝村誌に「大輪の見送り観音 大輪地区の旧三峰参詣道沿いにある子育て地蔵堂にまつられている聖観音の背中には『三峰山麓見送り観音』と書かれています。通行する参拝者たちの安全を祈ってくだされ観音様だった。堂内には『子育て地蔵』(石像)と薬師如来像(木像)がいっしょに安置されている」と記されています。
また、子育地蔵尊と見送り観音の説明板には「この堂内に安置する仏像は左から◎聖観音(海川道中災難消滅、三峯山麓見送り観音)と書いてある。◎子育地蔵(大きなダルマ型石に赤ん坊を抱いた□地蔵様のレリーフ、幼児の発熱等に霊験あり、下部に村中安全と刻まれている。)◎薬師如来(医薬を司る仏、三峯街道でよく見かけるが殊に眼病に効くといわれ、めの字の奉額多し)。弘法大師の四躰と言い伝えられている。みんな私どもに身近でなつかしく有難い仏たちである」とあります。
竈三柱(かまどみはしら)神社の境内にある説明板には御由緒として「旧大滝村の総鎮守・火防の神様 当社の鎮座する旧大滝村は、県の西端に位置し、2000メートル級の山々がそびえる秩父多摩甲斐国立公園の中にあり、その地名は、この地に源を発する荒川の奔流が大滝のごとく見えたことによると伝えられている。元来、当社は三宝荒神社と称し、弘仁年間(810~824)の創建と伝えられ、東国の女人高野として信仰を集めている臨済宗大日向山大陽寺の境内に古くから祀られていた社であった。それが明治維新後、神仏判然令により、竈三柱神社と改称の上、同時に隣接した村の共有地へ移され、旧大滝村の村社となった。時に明治二年(1869)のことである。しかし、鎮座は大血川の上流、妙法ヶ岳の山中で参拝には不便であるとの理由から昭和16年(1941)に現在の鎮座地である字大輪の和田神社の旧境内地へ移され、今日に至っている。和田神社は、古くは妙見社と称し、大輪の鎮守として奉斎されてきた社であったが、明治41年(1908)当社に合祀され、遥拝所となっていたもので、当社遷宮に当たっては拝殿の増築や境内の整備がなされた。祭神は、火産霊神(ほむすびのかみ)・奥津比古神(おくつひこのかみ)・奥津比賣神(おくつひめのかみ)の大神三神に和田神社の祭神であった少彦名命を加えた四柱である。これらの神々を祀る本殿は一間社流造りで、各部に彫刻が施された立派なものである。〇御祭日:元旦祭(1月1日)、例祭(5月第2日曜日)、和田神社祭礼(7月第2日曜日)」と詳細な記載があります。
また、社殿の前の古い竈三柱神社の説明板には「この神は奥津比古神・奥津比賣神・火産霊神の三柱で、古くは大血川の大陽寺に隣接してまつられていたが、余りにも山□のため、多勢の参拝に不便ということから風雲号を□□る昭和16年現在地に遷座(おうつし)した。ご祭神は三柱とも火の守り神で、家庭内の守護神として講組織があり、村中の信仰を集めている。元村社、大滝村の総鎮守で、例祭は5月11日、村の鎮守の神さまの今日はめでたいお祭り日と多勢の参拝で終日賑わう」と記載があります。
加えて、鳥居の横の御大典記念碑には「三峯神社宮司廣瀬和俊篆額 当神社は大滝村の総鎮守として古来大日向山に鎮座したが、彼の昭和の戦時中出征兵士の祈願参拝多きを加えたので、氏子の熱望に応えて昭和十六年の和田の社に御遷座申し上げたのであった。以来あたかも半世紀を経て彼の激動の昭和の御代から平成の新代を迎えて、ここに畏くも第百二十五代の天皇陛下には平成二年の秋、御即位大礼の諸儀を滞りなく行わせられ、天つ日嗣と共に窮りなく常磐にましますことは国民の齋しく慶賀に堪えないところ、当社に於いても奉祝の微衷を捧げむとのと、氏子相寄り相諮って御大礼記念事業を興し、御神前に大太鼓の新調、御祭礼用御旗杭の改築と大幟の新調、並びに国旗掲揚塔の新設を志したところ、この碑面に見られるような誠心溢れる奉賛に接して奉祝事業の円滑な進展を見、本日めでたく記念碑の除幕式に至った。われら一同この感激を忘れることなく打ち建てた記念碑とともに慶祝の心を後世に伝える。平成四年五月八日、例祭の吉辰、撰文並謹書 宮司 新井 啓」と刻まれ、出征兵士の武運を祈るための竈三柱神社として、大陽寺の傍からこの和田神社に隣に遷座したことが記され、三峯神社との結びつきの強さが示されています。
清浄の滝付近の説明板には溪谷に棲むサンショウウオについて書いてあります。
「溪谷での生物、サンショウウオ 清浄の滝は落差が約10mあり、昔は三峰神社の信者の修行の場でもありました。渓流には、ハコネサンショウウオ、ヒダサンショウウオなど渓流性のサンショウウオが生息しています。ヒダサンショウウオやハコネサンショウウオは標高600mくらいの渓流やその周辺、あるいは石灰岩のある所に生息しています。甲武信岳、雲取山腹、両神山等の標高1,000~1,800の山地帯でもその生息が確認されていますが、近年では、生息環境が悪化しているところでは、その個体数を減らしています。人が渓流で食器を洗うだけで、これらの幼生がいなくなってしまうこともあります。 ここは、標高570m 埼玉県・環境省」と清浄の滝についても歴史が記されています。
薬師堂跡の説明板には「この道は、三峰山表参道といい、ロープウェイも車もなかった頃の三峰参詣のメインルートでした。この場所は、その頃の参詣者のための休憩所だったところで、薬師如来の堂(女人堂)が併設され、病人などの看護も行っていたところです。遥かな道程を歩いて旅するものにとっては、医薬の神、薬師様がどれほど頼りになったことでしょう。また、ここは三峰施宿供養塔が建立されています。これは、当時登山を許可されなかった女人や病気になった人、積雪のために進退できない人も無料で宿泊させたところで、その人数が3000人になったのを記念して明治9年(1772年)に塔が建てられました。 ここは、標高710m 埼玉県・環境庁」と往時の薬師堂の役割が記されています。
三峯神社青銅鳥居の説明板には「青銅鳥居:弘化二年(1845)の建立で、江戸深川の堅川講中から奉納されたもの、荒川を筏で引いてきたということです。奉納者の中に初代塩原太助の名が見えます。八棟木灯台:安政四年(1857)建立の飾り灯台で高さ6mあります。 手水舎:先ず手を洗い口をすすいでお参りするための施設であります。この建物は間口3m・奥行2m60余、嘉永六年(1853)の建立です。精巧な竜の彫刻で有名です。 石段:下の石段は嘉永二年(1849)神領三峯村の木村家が奉献したもので、上段は昭和四十一年東京築地市場講奉献です」と灯台や手水舎についての詳細が記されています。
炭窯跡の説明板には「炭窯跡 木炭は焼き方により黒炭(茶湯炭など)と白炭(備長炭など)」に分けられます。黒炭は通風口と排煙口を密閉して、窯に空気が入らないようにして消火します。白炭は炭化の最終段階で炭を窯の外へ掻き出し、水分を含ませた灰・圡(消粉)をかぶせて消火します。炭の性質もそれぞれ異なります。この窯跡は白炭を焼いた白炭窯の跡です。セメントなどの資材のない昔、山の中にある圡と石のみでは、密閉度の高い黒炭窯を築くことは、難しかったと考えられます。戦後、秩父地方では重労働の白炭から生産効率の良い黒炭に切り替わり、今では白炭の生産はなくなってしまいました。 『烟たえて やく人もなき 炭かまの 跡のなげきを 誰かこるらん』 新後撰和歌集 藤原信頼朝臣」と記されています。
「新編武蔵風土記稿」には九十九神社について「大血川にあり、村持、説大血川の條に辨ずるごとく、将門の妃の自殺したまひしを、祭りし社なりと云傳ふ」また、「大血川 荒川の向ふの一區にて、家數十八、東は古大瀧村の内大達原組に接し、西は三峯山を界ひ、南は大日向を孕み御林山に續き、・・・圡人傳へ云、此処にて将門の妃九十九人自害せしとて、今尚古塚存せり、さてもその時血の流るること、七日七夜に及べりと云ふより、地名となるよし、一説には重忠この邊にて誕生せし川筋なればとて、於乳川と書せしとも云」の記載があります。
三峯講の人達の登拝・参籠に関する資料、三峯山の御眷属であるお犬様(オオカミ)信仰に関する資料、秩父宮家から御下賜された品物等の貴重な歴史資料が展示されています。
〒369-1902 埼玉県秩父市三峰298
https://www.mitsuminejinja.or.jp/hakubutsukan/
日光法印は三峯山再建のひとつとしてオイヌサマ信仰を取り込んだという。
オイヌサマとはオオカミ(狼)のことで、縄文の時代から信仰があり日本各地に伝承や伝説が数多く残されている。
ヤマイヌや山の犬とも呼んでいた。
オオカミは「大神」からきており「山神」とも呼ばれたという(経尊『名語記』)。
三峯山では、眷属(神の使い)として神と同等の霊力を持つとして、オイヌサマ、御神犬、大口真神(おおくちまかみ)と呼んだ。
五穀豊穣や害獣除け、火防盗賊除けの霊験あらたかな守り神として江戸時代に関東を中心に浸透していった。
関東周辺には、武州御嶽山、両神山、宝登山を筆頭にオイヌサマを祀る神社が多数ある。
オイヌサマ信仰の寺社では、狛犬の代わりにオオカミが鎮座している。
なお、オオカミが生息していた江戸時代から、三峯山では御焚上げ(おたきあげ)と呼ばれる儀礼が行われている。
柳田國男「山の人生」には『三峯山誌』からとして、オオカミが「御眷属子を産まんとする時は、必ず凄然たる声を放って鳴く」これを聞いた者は社務所に知らせ、「神職は潔斎衣冠して、御焚上げと称して小豆飯三升を炊き酒一升を供え」山に入って「十坪ばかりの地の一本の枯草もなく掃き清めたかと思う場所がある」そこに注連をはり飯酒を供えて祈禱して還る、とある。
すでにオオカミは絶滅したが、オイヌサマが祀られているお仮屋ではいまでも定期的に御焚上げが続けられているという。
明治の文豪、幸田露伴は、明治31年8月に熊谷から秩父往還で旧秩父大宮に行き、贄川宿から大達原の手掘り隧道を通って大輪に至り、江戸時代以前から続く表参道を登って参詣しています。
紀行文「知々夫紀行」(明治32年2月発行)の中で「贄川は、後に山を負い前に川を控えたる、寂びたる村なれど、家数もやや多くて、蚕の糸ひく車の音の路行く我らを送り迎えするなど、住まば住み心よかるべく思わるるところなり」と養蚕・機織りが盛んで、住みやすいところと好意的な印象を記しています。
また、贄川宿から大輪に至る経路を「贄川より隧道を過ぐるまでの間、山ようやく窄り谷ようやく窮まりて、岨道の岩のさまいとおもしろく、原広く流れ緩きをもて名高き武蔵の国の中にもかかるところありしかと驚かる」と荒川沿いの旧道の険峻さを記しています。
登龍橋付近の記載では「十八、九間もあるべき橋の折れ曲りて此方より彼方にわたれるが、その幅わずか三尺ばかりにして、しかも処々腐ちたれば、脚の下の荒川の水の青み渡りて流るるに見るにつけ、さすがに胸つぶれて心易からず、渡りわずらうばかりなり。むかしは独木橋なりしといえばその恐ろしさいうばかりなかりしならん。ようやくにして渡り終れば大華表ありて、華表のあなたは幾百年も経たりとおぼゆる老樹の杉の、幾本となく蔭暗きまで茂り合いたり。これより神の御山なりと思う心に、日の光だに漏らぬ樹蔭の涼しきさえ打添わりて、おのずあら身も引きしまるようにおぼゆ。山は上がり五十二町にして、一町ごとに町数を勒せる標石あり。路はすべて杉の立樹の蔭につき、繞り縈りて上がりはすれど、下りということ更になし」と登龍橋や丁目石の記載があります。
日本山岳会会員であり登山家であった木暮理太郎の紀行文「奥秩父の山旅日記」には、木暮理太郎たち3名が塩山から将監峠~大洞山~雲取山を経由して白岩山から大血川に下ったことが書かれています(大正元年11月16日~18日)。
大血川上流の炭焼きの夫婦が住む小屋に泊まり、「温かい雑炊を空腹に充たして、爐縁に寝そべりながら様々の話を聞く、此春から大血川の谷へ大勢の炭焼きが入り込んで、澤山の小屋が出來たのださうだ、これも其一である。此奥の谷にも二三の小屋があるといふ。夫では先き立ち消えになった火の正體のぬしは、其中の一つであったかも知れぬ。寝る時主夫婦は寒からうといふので、『気味がわるいかも知れないが』と言ひながら、自分達の布團まで掛けて呉れた」と記されていて、大血川の上流地域には多くの人達が住み込んで炭焼きに従事していたことが理解できます。
明治時代の地理学者、河田羆(かわだたけし)の「武蔵通志(山岳篇)」には「三峯山 秩父郡大瀧村三峯村にあり、高さ三千尺妙法嶽と云雲採山・白岩山と三山鼎峙するを以て三峯と稱す。・・・荒川の崖に下り大輪橋を過ぐ一の華表あり、是より社域となす。峻坂曲径を登り、三峯村に入凡五十二町にて山頂に達す。石標を立て以て町數を刻す。長檜古杉の間、巨石錯立し、登躋頗る難なり。上に縣社三峯神社あり、攅峯廻密の中に在るを以って気候髙寒恒に雲霧多く陰晴變じ易し、」と険しい表参道の様子が記載されています。
大血川沿いには、平将門の妃である桔梗姫及び侍女たち九十九人が自害し、その時流れた血が七日七夜に及んだとの伝説が伝えられ、大血川の地名の由来を伝えている。
「新編武蔵風土記稿」に「土人傳へ云、此所にて将門の妃九十九人自害せしとて、今尚古塚存せり、さてもその時血の流るること、七日七夜に及べりと云ふより、地名となるよし、一説には重忠この邊にて誕生せし川筋なればとて、於乳川と書せしとも云ふ」とあり、大血川の地名の由来となった平将門や畠山重忠の伝説が残っている。
飯野頼治「秩父往還いまむかし」には、桔梗塚の伝説として「大血川の右岸ぞいに・・・渡場大血川の集落への道に入ると左の石積みの上に、欠損した二基の五輪塔が置かれている。平将門の妃、桔梗姫の墓ではないかといわれ、この墓地の斜面を『石塔平』とよんでいる。討死した将門の妻桔梗の前は、侍女三人、近習九九人と共にこの谷まで落ちてきたが、追手の追及厳しく全員自害してはてた。谷川は七日七夜血にそまり、これより『大血川』の地名が生まれたという」と紹介している。
甘酒まつりの説明板には「甘酒まつり 県選択無形文化財 猪鼻熊野神社縁起によれは、日本武尊が東征の際に当地で大猪を退治し、尊もこのことを神の加護と思し召し、当地に熊野神社を祀り、矢を奉納した。また、里人も尊の徳に感激して濁酒を差しあげ、その労をねぎらったという。天平八年(736)疱瘡が流行った際、尊に濁酒を捧げた故事に因み、甘酒まつり疫病流しの祭事が始まったといわれる。七月の第四日曜日の大祭当日、夜を徹して“カツコミ”番が造った甘酒の大樽が境内中央に置かれる。続いて午後二時祭典終了後広場での祈願が済むといよいよ甘酒まつりの始まりである。樽番の制止にもかかわらず、あちこちで小桶に汲まれた甘酒の掛け合いが始まる。そうなると裸になっている者には誰かまわずかけあい、境内には甘酒のしぶきが飛び散り、叫びや笑いが一緒になって興奮のるつぼと化す。甘酒がなくなると今度は樽をころがしたり、かついだり、最後には樽を池に放り込み、余勢をかって区の役員も池に放り込んで祭りの成功を祝い合う。 秩父市教育委員会」と記されている。
また、猪鼻神社の前の甘酒まつり説明板には「甘酒祭り、埼玉県選択無形民俗文化財、由来、江戸時代中期、享保十五年(1730)源清信が書いた『熊野大神縁記』によると、景行天皇の時代、日本武尊が東征の折、甲斐の国から三峰山に入り、下山の途中大猪が前を横切り、これを射止めた所、猪ではなくこの地を荒らしていた山賊であった。里人は大変よろこび、尊に濁り酒を献上した。尊は山賊を退治できたのは神々のおかげであると、この地に熊野神社を祭り、矢を奉納した。その後、天平八年(736)疫病が流行したので濁り酒を甘酒に変え、それを祈願し裸でかけあい、疫病流しとして始めたのが甘酒まつりの起源と伝えられている。この祭りは、祭りの前日、麦と麹で甘酒を作り、当日祈願が行われ、参詣客に悪病除けとして振舞った後、氏子が素はだにふんどし一丁のワラジばきで、歓声を上げ甘酒をかけ合い、一年の悪病を退散させる行事が行われる。昭和六十二年七月二十五日 秩父市教育委員会」と奇祭「甘酒まつり」(甘酒こぼし)の由来が記されている。
「野生生物の多くは大変用心深く、夜行性の種類が多いため、日中その姿を見かけるチャンスはほとんどありません。しかし注意深く観察すると、彼らの生活した痕跡(足跡、食べ跡、糞など)を見つけることができます。足跡は湿った地面や雪上に見つけやすく、斜面にも歩道を横切って踏み崩した跡がよく見られます。これはシカやイノシシでしょう。また、大型動物が良く通る道(けもの道)は、草の茎が折られ、よく踏み固められているので、人間にも歩きやすく、これらの道がやがて登山道になった例もあります。2つに割られたクルミもよく見かけます。これはリスの仕業です。リスは絶えず伸び続ける頑丈な歯を持っているので、合わせ目を削り、半分に割って中身を食べるのです。丸い穴が開いているのはネズミの仕業です。また、樹皮がはぎ取られていたばら、それはウサギやシカの食べ跡です。 環境省・埼玉県」と表参道の説明板には記されています。
三峰口駅
↓ 20分 1.3km
八幡渡し
↓ 20分 1km
贄川宿
↓ 30分 1.2km
熊野神社
↓ 20分 0.3km
瀧石神社
↓ 40分 1km
光岩稲荷神社
↓ 60分 4km
大達原高札場
↓ 50分 1.5km
大輪
↓ 60分 2km
清浄の滝
↓ 90分 2km
奥宮遥拝殿
↓ 25分 0.5km
三峯神社
三峯神社・興雲閣~秩父宮記念三峰山博物館~奥宮参道~白い鳥居(奥宮分岐)~奥宮・妙法ヶ岳
↓ 90分 3km
地蔵峠
↓ 100分 2km
道標「大陽寺入口バス停7.5km、大陽寺500m・シャクナゲ園400m」
↓ 75分 2.1km
「むみょう橋」~森林管理道大血川線経由大陽寺入口バス停・国道140号
↓ 120分 8km
三峰口駅
秩父鉄道・三峰口駅から贄川宿を経由して、国道140号を猪鼻、強石、大達原、大輪と歩きます。
又は西武観光バスで三峰口駅から大陽寺入口バス停、大輪バス停または三峯神社で下車又は乗車。
駐車場は三峰口駅前、大輪、三峯神社など
埼玉県教育委員会、埼玉県立博物館編集「歴史の道調査報告書・第11集 秩父甲州往還」発行・埼玉県県政情報資料室、平成2年4月発行
「大日本地誌大系、新編武蔵風土記稿(第12巻)・秩父郡・古大瀧村及び新大瀧村」雄山閣、昭和46年2月25日発行
荒川村村誌編さん委員会編集「荒川村誌」発行・荒川村、昭和58年12月28日発行
秩父市大滝村誌編さん委員会編集「大滝村誌」発行・秩父市、平成23年(2011年)3月31日発行
幸田露伴「知々夫紀行」近藤信行編「山の旅・明治・大正篇」岩波書店、 2003年9月17日発行
飯野頼治「秩父往還いまむかし」さきたま双書、平成11年2月25日発行
飯野頼治「地図で歩く秩父路」さきたま出版会、2006年12月10日発行
河田羆「武蔵通志(山岳篇)」「山岳」第11巻1号(秩父號)、日本山岳会(大正5年10月)
木暮理太郎「奥秩父の山旅日記」「山岳」第11巻1号(秩父號)、日本山岳会(大正5年10月)
西海賢二、時枝務、久野俊彦編『日本の霊山読み解き事典』柏書房
柳田國男「山の人生」「柳田國男全集4」ちくま文庫
明治43年測図5万分の1地形図「三峰」
《担当者》
日本山岳会埼玉支部
松本敏夫
《調査協力者》
日本山岳会埼玉支部
山崎保夫、中嶋信隆、浅田稔、宮崎稔、林信行、吉田寛治、高橋努、野口勝志