single-kodo120_detail

50 秩父往還 雁坂峠

秩父往還 雁坂峠

秩父往還は埼玉県(旧武蔵国)と山梨県(旧甲斐国)とを結ぶ古くからの交易路・生活路であり、甲州街道の裏街道としての役割も果たしました。
江戸から秩父(旧大宮)を経由して甲州に向う「旧秩父往還」には、熊谷、川越、吾野経由など数種のルートが考えられますが、「日本の山岳古道120選」では、熊谷から寄居、皆野、秩父、贄川宿、栃本関所跡、雁坂峠、山梨市までの雁坂峠を越える、主として埼玉県側の秩父往還(現在の国道140号)を対象と考えました。
「雁坂峠越え」は、古くから甲州街道の裏街道として知られ、甲州側からは三峯神社(旧三峯山)、宝登山神社、秩父神社(旧妙見宮)、秩父札所三十四所観音霊場などに、武州側からは甲斐善光寺、身延山、富士山等の参詣路や巡礼路であると共に、明治から大正に掛けては繭を担いで雁坂峠を頻繁に越えたと伝えられております。
現在でも、麻生から栃本に掛けての街並みはかつての秩父往還の雰囲気を今に留めています。
また雁坂峠は、古代史を代表する英雄として知られる日本武尊が甲州から武州へと越えた伝説を残す峠で、針ノ木峠、三伏峠と共に日本三大峠の一つとしても知られる埼玉県を代表する峠及び古道です。
日本の道百選の一つとしても知られています。

古道を歩く

「日本の山岳古道120選」は、山岳部分を含む古道を対象と考えたため、秩父往還のうち贄川宿(三峰口駅)から落合、麻生、栃本、川又から雁坂小屋、雁坂峠、道の駅みとみ(または川浦口留番所跡)までの古道を扱います。
贄川宿から強石、杉ノ峠越え、落合、栃本、川又までは主として車道か林道歩きとなります。
上強石から杉ノ峠を越えて落合に下る区間は登山道及び林道です。
一方、川又から雁坂峠を越えて、山梨市の「道の駅みとみ」までは、基本的には旧秩父往還(国道140号)ですが、本格的な登山道になります。

贄川宿→中ノ峠→落合

秩父市街から贄川宿に入る旧秩父往還は、白久から荒川を舟で渡る「八幡渡し」からスタートします。
秩父鉄道・三峰口駅を出発し、国道140号に向って歩道を進み、荒川を白川橋で渡ります。
国道を右折して贄川宿方面に進み、権田沢を越え皆野両神荒川線との交差点を右折して、「八幡渡し」へと急な舗装道を降ります。左に古い馬頭尊4基があり、八幡大神社に登る石段があります。「八幡渡し」や「八幡坂」の名称はこの神社に由来するものと考えられます。
八幡坂を下ると目の前が荒川で、白川橋が架けられる以前は、白久と贄川とを結ぶ荒川の渡船場があり、「栃の木の渡し」または「八幡渡し」があったとされる荒川の河原です。

国道140号の皆野両神荒川線の交差点に戻り、横断歩道を渡ると、旧秩父往還が残っています。
車道右側には石仏・石碑群などが残されていて、旧道の面影を今に伝えています。
古道を登ると贄川宿の東端の逸見家の前に出ます。
三峯神社の一之鳥居が大輪に移される以前は、ここに設置されていたと伝えられる場所です。
ここから旧秩父往還の両側に、贄川宿の古い街並みが続きます。途中、右折して小鹿野町方面に進むと分岐に立派な御堂鐘地蔵尊が祀ってあります。贄川宿は小鹿野への分岐でもあり、かつては地蔵尊や庚申様の加護が頼りの旅でした。
贄川バス停の右側に道標「たつみちざか」があり、常明寺や秩父御岳山への分岐となっています。

贄川宿には古い歴史を今に伝える小櫃醫院があり、大正時代に繁栄を極めた街並みの面影が感じられます。
贄川宿観光トイレなどを過ぎると贄川宿の西端であり、入口に大きな「贄川宿」の標柱や街並みを記した説明板があります。
贄川歩道橋で国道140号を渡ると、白川橋から大滝方面に向かう国道の左側に幅1m程度の歩道スペースがあり、少人数ならばそこを歩くことが可能です。
猪鼻に入ると間もなく荒川局前バス停があり(荒川局は元猪鼻郵便局)、以降は歩道スペースがほとんど無くなります。バス停から数分で国道右側の熊野神社入口につきます。「上ノ沢」の橋を越えると熊野神社の木製の立派な鳥居(扁額に「鎮護」)があり、右側の石段横に甘酒まつりの説明板が設置されています。
小鹿野町古池の猪狩神社と同類の日本武尊伝説が残され、牛頭天王の悪病除けも混在している様子で、民間信仰の力強いエネルギーが感じられます。急で狭い石段のため手すりを頼りに一気に登ると熊野神社の社殿前に出ます。熊野神社登り口の石段の右側に、しめ縄が張られた大岩や多数の石仏(観音像や大日如来像など)・石碑等があり、猪鼻地区の信仰の篤さと歴史の重みが感じられます。
熊野神社の鳥居前を左折(西方向)、秩父往還の狭い旧道を進むと国道140号に突き当ります。
歩道のない国道が西から南に急カーブする場所は旧大滝村と旧荒川村との境で白滝沢があります。
工事現場(大滝トンネル)の奥に旧秩父往還への入口がありますが、途中の沢に架かる橋が崩壊していて渡渉する必要があります。
対岸に旧道の一部が残されていますが、土壇場地蔵から上強石への旧秩父往還は消失していますので、国道140号に戻ります。
国道を強石方面に進むと左側に交通安全地蔵尊立像や馬頭観世音石碑・牛頭尊・七観音などの石仏が多数並んだ場所があり、牛頭尊という極めて珍しい観音文字碑があります。

国道端の標識「強石区」に従い右折すると、すぐ左側に高野林太郎顕彰碑及び強石げんきプラザがあります。
その隣が瀧石神社ですが、神社名が地名由来の強石ではなく瀧石なのはかつてこの地域は瀧石庄と呼ばれていたことに因るものと推測されます。
新編武蔵風土記稿の強石組の条には雁坂峠に至る道があると記され、江戸時代には既に荒川左岸に生活路があったものと考えられます。しかし、杉ノ峠越えの秩父往還については記載がありません。
明治43年測図5万分の1地形図「三峰」には強石から大達原経由で落合に続く道路は確認されますが、猪鼻から上強石、杉ノ峠を経由して落合に下る峠道は記載されていません。
また、贄川宿から猪鼻、強石間は国道140号に歩道が設けられていない路側帯を通ります。そのため、一般的にはこの間の歩行はあまり進められませんので、三峰口駅から荒川を挟んで国道140号と並行に設けられている巣場新道を経由して、強石に至るコースが推奨されます。
国道140号に沿って大達原方面に進むと、道標「御岳山登山口入口」がありますので、この分岐を右折します。左側に強石の説明板があり、かつて物資の中継所として賑わった強石の写真や杉ノ峠への登山ルート詳細図が掲載されています。現在の国道沿いの強石はひっそりとした街道筋で、昔の面影を残すものは古い商家のみです。
車道を上強石方面に向かうと右側に道標「御岳山」があるT字路があり、左折すると旧三峯山参詣道で「源流の郷伝言板・標高338m」があります。杉ノ峠へはこのT字路を直進して上強石に向います。
石垣の上に置かれた道標「秩父御岳山」の分岐を左折すると車道から山道に変ります。茶畑の横にある道標「御岳山-強石バス停」を過ぎると、新しい小堂に納められた笠の付いた四角い石碑(前に丸い石が置かれている)と蓮華座の地蔵尊坐像があります。前述の強石の説明板には「足を良くしてくれるお地蔵様」と記されています。
その先に道標「御岳山-強石バス停」があり、瀧石神社の横から上強石に向かう車道に合流します。
眼下に強石の家並、遠方の山間に巣場が望め、巣場地区の背後に光岩(聖岩)が確認できます。
車道を登ると道標「御岳山-強石バス停」があり、道標「強石バス停に至る-御岳山に至る」を左折すると左側が青い鉄パイプとネットがある登山道となります。
道標「秩父御岳山」を左折する場所に秩父警察署による白い手製の看板に登山者に対する注意が記されています。警察署の看板とは思えない柔らかい表現や図柄です。
車道の左側に斜め上方に登る石段があり、右は緑のフェンスになっています。
道標「御岳山」に従い右に車道を進むと、国道沿いの強石の分岐にあったものと類似の案内板「秩父御岳山登山コース案内図」があり、旧大滝村落合で生まれた普寛行者の経歴や登山コースを確認することができます。

林道・上強石線終点の青い道路標識と「通行止め」標識の先に進むと、左上に廃屋があり、右下のケヤキの大木の枝に梵鐘(半鐘かも?)が吊り下げられています。
車道で廃屋の後ろに回り込むと、車道の右に少し入った登山道の上方に落葉に埋もれながら佇む「巳待塔(宝暦四年(1754)「秩父甲州往還」参照)・奉待月天子供養塔(享保四年(1719))・山の神(「秩父甲州往還」参照)の石祠」があります。
ここが旧大滝村と猪鼻との境にある土壇場地蔵から続く、かつての旧秩父往還の上強石側の出口になります。
江戸時代の中期以前までの秩父往還は、荒川沿いの危険な道よりも、比較的安全な生活・交易路であった杉ノ峠越えが利用されていたものと推測されます。
車道左側の道標「強石に至る-御岳山に至る」が先ほどの巳待塔等から続く旧秩父往還で、杉ノ峠への本格的な急登の入口です。黄色い看板に熊の絵と共に「熊出没注意」が、また別の看板には「注意:山道では、思わぬ危険が起こりがちです。通行中は常に充分な注意を払って転倒・転落等の事故防止に努めて下さい。尚、大雨の時や冬期間(12月中旬~4月上旬)は危険ですので通行を禁止します。秩父市」と記されています。
ここからの旧秩父往還は尾根上をジグザグに急登します。登山道の状況は明瞭で「御岳山」や「落合」の標識、ピンクのテープなどが杉の大木に括りつけられていますが、道幅が狭く、古道と言うよりは登山道がピッタリの急登に驚かされます。
登山道の右側に炭焼き窯の痕跡が確認できます。樹齢は百年近くになると思われる枝打ちされた見事な杉の植林帯を、数十分間、一気に登り切ると、以降は山腹を巻きながら緩やかな登りに変わります。
前方に一段と太い杉の大木が現れると杉ノ峠で、道標「御岳山へ至る-落合へ至る-強石へ至る」及び「御岳山登山コースの詳細絵図」が設置されています。
尾根を登るルートが秩父御岳山への登山道で、峠を越えて反対側に下るコースが旧秩父往還です。
杉ノ峠には、杉の大木の根元に壊れて屋根のみ残された「山の神」(?)の祠があり、祠の前の素焼きの小皿の上やその周辺に古い賽銭が多数置かれています。祠の下には「・・休憩所」の文字が残る朽ち果てた板片が埋もれています。その上方に素朴な感じの苔むした地蔵尊があり、前に小石がうずたかく積まれています。
地蔵尊の後には壊れた社の屋根の残骸が確認できますが、大山祇神と浅間様と推測されます。この十年ほどの間に、峠にあった東屋は跡形もなく倒壊し落葉の下に埋もれてしまったようです。
「秩父甲州往還」及び「秩父往還いまむかし」の記述から、東屋は「山の神」祠の下方で落合へ下る尾根上(峠)にあったものと推測されますが、残骸は「・・・休憩所」の看板の一部を残すのみです。
また、「秩父甲州往還」や「秩父往還いまむかし」に掲載の杉ノ峠の写真には、地蔵尊の背後に大山祇神と浅間様の小社が確認できますが、現在は屋根の一部を残すのみで、かつての小社は全く消失しています。
また、峠から落合への旧秩父往還は「秩父甲州往還」調査時に既に消滅していたものと考えられます。
杉ノ峠から落合方面へ少し下った林道(森林管理道御岳山線)を進むと道標「御岳山-落合」が右側にあります。
更に林道を進むと大きな平場となった貯木場(?)前の林道(森林管理道杉ノ峠道)に合流します。
道標「杉ノ峠経由御岳山」や「落合に至る」に従い林道を右折します。
土砂で埋められた沢を右手に見ながら林道を左に回り込むと、広い貯木場の上部に道標「落合下り口」及び「御岳山2.3km、2時間10分-落合バス停1.3km、35分」が設置されています。
この分岐を左折して林道脇の登山道をジグザグに急降すると、左側の沢に造られた堰堤が土砂で埋まった状景を目にします。同様の光景が繰り返し確認され、今後、秩父の里山や登山道の荒廃が危惧されます。
丸太を三本並べて作られた古い橋を渡ると道標「落合へ至る-御岳山登山口」の設置された舗装道にでます。路肩は崩れ、ガードレールは押し流され、林道は土砂で埋められていました。
更に登山道を下るとまた小沢に架けられた丸木橋(一部破損ヶ所あり)があります。
その先が舗装された車道で、朽ちかけた道標「御岳山登山口」が笹に囲まれて建てられています。
左側に沢とガードレールのある舗装道(森林管理道杉ノ峠線)を下ると、右側の石垣の上に木造の廃屋がありました。

前方に落合の街並みが木々の間から見え始めると、赤い小堂に納められた地蔵尊につきます。その左側のしめ縄が張られた社に「諏訪神社及び意波羅山三社宮」が並んで鎮座しています。
普寛行者所縁の意波羅山は、八海山や武尊山と同様に御嶽信仰の山岳霊場と考えられます。
更に赤い鳥居の奥には「庵の沢稲荷」が一段と高い場所にあります。鳥居には、稲荷社・天神社・山神社が併記され、明治時代になって合祀されたものと推測されます。また、「秩父御岳山登山コース案内図」がここにも設置されています。
国道140号の手前右側に朱色の鳥居と普寛神社があります。鳥居の左側に説明板があり、木曽御岳山の開祖・修験行者の普寛導師について記され、カタクリの写真や御岳山登山コース図が載せられています。
風土記稿には落合に関して中津川と雁坂峠への分岐であると記載があり、十文字峠の道だけでなく、中津川をつめて三国峠から信州に至る道が江戸時代から利用されていたことが分かります。
石段の上に朱色の鳥居があり、その奥に普寛行者の説明板が設置されています。
上強石から杉ノ峠を越えて落合に至る旧秩父往還は、登山道としては標識や登山コース図などが完備され、よく整備されたコースです。しかし、杉ノ峠を越える秩父往還が最も栄えた時期には、馬の背中に炭俵・米・味噌・酒などの日用品を積んで、頻繁に行き帰りした道と考えられます。その観点からは、現在の旧秩父往還は、道幅が狭く、道のつけ方が急すぎるのではないかと思われます。
更に、杉ノ峠を挟んだ両登山道沿いには、石碑・石仏・小祠などが全く確認できず、旧道の面影を実感できなかったことが残念です。しかし、既に日常での往来が途絶えて久しく、林道が山奥まで伸びた現状では、かつての旧秩父往還を確認するのは困難と推測されます。

落合→栃本関所跡→川又

秩父市落合は、国道140号の右側に大滝総合支所旧庁舎(旧大滝役場)があり、「おおたき閉村の碑」、如意輪観音の浮彫石像及び得大勢至尊の石仏が並び「大瀧村道路元標」が旧庁舎の前に残されています。大滝村誌に「月光院の念仏鉦」の記載があり、旧大滝村役場の場所に武田信玄所縁の江戸時代から続く月光院があったことが分かります。
旧庁舎の向かい側は大滝橋で、橋の上から東京発電(株)宮平発電所が確認できます。
ここからは国道の左側(荒川に沿って)に歩道があり、ロックシェッド(落石防止のために道路を覆う構造物)を過ぎると前方に黄色いガードレール(欄干のようにも見えますが?)が設置された落合橋が見えてきます。
歴史の道調査報告書・秩父甲州往還に「現在の落合橋の手前で、中津川沿いの道を少し遡り、中津川を渡る。この辺りの道は消失している。」と記されています。
旧秩父往還が中津川を越える場所は、風土記稿に記載の「獨木橋」があった場所(椚平)と同一なのか未確認です。
落合橋で中津川を渡るとT字路交差点の手前左側の薄暗い杉の樹林の中に平神社の鳥居と社殿が南西向きに建てられています。魑魅魍魎でも現れそうな様相ですが、元は妙見様が祭られていたと「秩父往還いまむかし」に記されています。笠木と控え柱を備えた年代物ではありますが、立派な白木の明神鳥居には「平神社」の扁額が掲げられています。
社殿内部の本殿の前面上部にはかつては極彩色であったと想像される鶴と龍の彫り物が「秩父往還いまむかし」の記載を裏付けています。風土記稿・新大瀧村に妙見様は三十場・土打・椚平の鎮守であると記され、かつては土地の人々の篤い信仰に支えられた神社(妙見様)であったことが想像されます。

二瀬ダムと中津川方面との分岐(T字路交差点)を右折すると、中津川に沿った国道140号には右側に歩道が設けられています。
東京電力(株)楢平変電所を過ぎると楢平バス停があり、国道140号の向かい側の奥がゲートボール場(バスのロータリー横)です。ゲートボール場の南側の山裾にある林道入口(旧秩父往還入口)から登り始めますが、道標は設置されていませんので地図での確認が必要です。
国道140号を挟んで向かい側に旧大滝老人福祉センター及び大滝温泉・三峰神の湯温泉スタンドがあります。
金網フェンスと土留め柵が設置された道幅1~2mの林道があり、道標はありませんがここが旧秩父往還の入口(林道入口)と推測されます。一面に雑草が覆いつくし、足場の不安定な砂利道の林道をジグザグに進んだのち、左側に大きく折り返すと、杉の植林帯の中に上下(水平か上に登るか)への分岐があり、下段(水平方向)へ進みます。
「秩父甲州往還」に記載の旧秩父往還の道筋よりも少し北側から旧道に取りつきましたので、林道から秩父往還の旧道に合流することを期待して進みます。しかし途中から林道が狭い山道へと変わり、更に踏み跡になると前方に長さ十数メートルもあろうか金属製のU字溝状の排水溝(幅20cm程度)が沢沿いに上から下に降っています。
注意して見ると赤テープが所々にありますが、倒木があり、崩れやすいザレ場状の踏み跡を数十メートルの間、注意深く越えると林道に出ます。秩父往還の旧道がザレ場のために崩壊したのち、僅かな登山者が歩いてできた踏み跡と考えられます。林道入口と旧秩父往還の入口は少し異なるものと考えられますが、林道から山道へと違和感なく続くことから、旧道の場所に林道が造られたものと推測されます。また、林道の一部は、秩父往還を植林や木材搬出のための作業道に拡幅した道ではないかと思われます。
林道が十文字に交差する地点を直進するのが旧秩父往還です。
ほぼ水平につけられた道を進むと、この先で林道から道幅の狭い山道に変わり、多少のザレ場はありますが、この道が本来の秩父往還の旧道と推測されます。
しばらく水平方向に進むと左側に苔むした石垣(高さ1.5m、長さ10m程度)が出てきます。「秩父往還いまむかし」に石垣の傍に二本の桂の木がそびえ、その根元から湧水が流れていたと紹介されている「弘法の一杯水」と推測されます。
しかしさらに進むと先ほどより高い別の石垣が現れ、また桂の木も確認できず、どちらが「弘法の一杯水」なのか判断は困難な状況です。
「秩父往還いまむかし」には、「この一帯は『コショウ』と呼ぶことから、この峠道もコショウ坂というようになったらしい。」との記載があります。「秩父甲州往還」には「小舛坂」の文字が充てられていますが、どのような謂れがあるのか興味深い名前の坂で旧道らしい雰囲気の残る場所です。
なお、太田巌著「秩父往還‐武田家外伝」にはコショウ坂について「小舛坂の中腹に清水の湧き出す所があるが、これを一杯水と呼んでいる。」と記されています。いずれにしても沢筋ではなく清水が湧く場所とも考えにくく、確定できませんでした。弘法大師の伝説では定番の、全国行脚中に水に困った住民の願いを聞き入れ、錫杖を突いたらそこから清水が湧きだすという伝説と同一の性格と思われます。
比較的道幅の広い歩きやすい緩やかな坂を登ると、前方が明るくなり幅の広い車道に出ます。
車道の端に比較的新しい道標「秩父往還 至落合-至栃本」が設置され、その奥に送電線の鉄塔が聳えています。

車道の向かい側は滝沢神社及び龍泉寺(ふるさとの丘公園として整備)で、滝沢ダム建設に伴い水没する地区から移設された石碑石仏群が整然と並べられています。
向かい側は東屋となっていて休憩所として最適です。
龍泉寺の石門柱の背後には、後小松天皇の時代に創建され、本尊は聖観音で、滝沢ダム建設で移転を余儀なくされた龍泉寺移転の経緯が記されています。門柱を建立した横瀬町宇根地区と滝ノ沢地区との関係は未調査ですが、ダム建設に伴って「滝ノ沢」から「横瀬町」に移転した住民によるものとも推測されます。
また、風土記稿・古大瀧村の条に「龍泉寺 瀧之澤にあり、大黒山と號す、本尊十一面観音、開山祖乾永和元年三月四日示寂」と記され、移転前は滝ノ沢にあったことが確認できます。
更に、「ふるさとの丘公園」記念碑には滝沢ダム建設のため立ち退きを迫られた経緯が示されています。一方、滝沢神社に併設されている遷座記念碑が移設の詳細な経緯を記録しています。
神社の左側に仏殿のような建物があり、中には地蔵尊石仏・石の仏像・絵馬・観世音菩薩と記された奉納額などが納められています。仏殿の前に並べられた夥しい石仏・石碑類は滝沢ダム建設に伴ってかつての中津川周辺の地区から移設されたものと推測されます。遷宮碑からは水没した地区の寺院や石仏等をここに移設した経緯がわかります。
「地図で歩く秩父路」には、「ふるさとの丘公園(平成9年完成)は旧秩父往還の馬の休憩所だった『馬立場』の峠であった。」と記されています。ここがかつて宮平と大久保とを結ぶ主要な交易路として賑わいをみせた秩父往還の「馬立場」(峠)と呼ばれた馬の休憩場所であったと推測されます。
旧滝ノ沢地区(旧大滝村)には正月行事(昭和54年)として三河漫才が村々を回ってきたとのことです。
龍泉寺の裏から狭い山道を下ると車道で、黄土色の比較的新しい道標「秩父往還・至栃本」及び「秩父往還・至落合」が設置された大滝げんきプラザへの道に合流します。
前方に桃源郷のような大久保地区が見渡せる開放的な車道を下ると道標「中津川‐大滝げんきプラザ・栃本」があり、車道の分岐を右折して大久保地区へと登ります。この道が旧秩父往還で、昔の面影を留めている杉の樹林帯を進むと大久保地区の中心と考えられる交差点に出ます。
交差点を直進(西へ)すると右側に、屋根の付いた掲示板のような建物があり、しめ縄に紙垂が下がり、三峯神社のお札が三枚「御祈禱・火伏・盗賊除」が張ってありますので、神社跡とも推測されます。
旧道右側上部に比較的新しい建築と思われる大師堂があり、堂の左に石仏石碑三基「二十三夜塔(明治三十六年、十二月廿三日、世話人千島久太郎)、地蔵尊(享保七年)、如意輪観音(損傷が激しい)が並んでいます。大師堂は「秩父甲州往還」に記された霊仙院跡と思われますが「秩父往還いまむかし」には、霊仙院は明治20年頃火災で燃えてしまい、跡地に大久保公民館があるとされ、大師堂と公民館の間の道を「寺坂」と呼んでいると記されています。地図によると現在の大久保区集会場(霊仙院跡)は大師堂の西上方に記載があります。しかし、自然石でできた「三界萬霊等」は存在しますが、集会場(公民館)は確認できません。

大久保地区の外れに神社の「幟(のぼり)旗」を立てる幡棒が旧道をまたいで二本立てられています。
幡を納めた建屋(?)が付随していますので、八坂神社とも推測されます。
旧道右側に大杉が石垣に組み込まれた形になって存在し、大杉の前に井戸(泉)があり、奥に比較的新しい石祠(水神様?)が祀られています。大滝村誌に記載の「下井戸」と比定されます。更に「秩父往還いまむかし」には、「大久保を出はずれると、すぐ右の大杉の根元に小さな井戸がある。・・・昔はここで小荷駄の馬が休息し、麻生や宮平方面へ向かって行った。」と記され、歴史のある大杉と馬の休憩場所・水飲み場であった「下井戸」は現在もその存在が確認できます。
大久保地区の旧道は大部分が舗装された車道となっていますが、地区はずれにある大杉を過ぎると、旧秩父往還は雑草に覆われて旧道の面影を残しています。
栃本発電所の送水管の上部を手すり付きの石段で越えると間もなく、西に張り出した尾根の先端に朱塗りの鳥居の稲荷神社と金属製の黒い鳥居の妙見宮とが一つの社に並んで鎮座しています。
風土記稿に「妙見社 大久保組にあり、その所の鎮守とす、村持、例祭九月廿三日」と記されていますので、江戸時代から厚く信仰された大久保地区の鎮守であることが分かります。神社の石段途中の左手に地蔵尊(?)石仏(仏像の左右に文字が記されていますが判読不能)及び石の角柱でできた月待塔(「秩父甲州往還」記載の奉待月天子供養?)があり、神社の前には二十二夜塔(弘化二年)があります。二十二夜塔は、如意輪観音を本尊とする女人講(二十二夜講)として悪病退散・安産などを祈願して建てられた月待塔の一種です。神社や石仏が残されていることから、この道が旧道であることを裏付けるものと考えられます。

鬱蒼とした樹林に囲まれた旧秩父往還を更に西に進むと、左手に二瀬ダム駐車場へと下る分岐があります。道標がないことに加え道が不明瞭なので注意が必要です。倒木や覆いかぶさる木々を避けながら下ると間もなく駒ヶ滝不動尊の前に出ます。向かい側が二瀬ダム駐車場です。
一方、ほぼ水平な旧道は、山側に金網の落石防止ネットが張ってあり、谷川は一部に手すりが設置されていて、夏草に覆われてはいますが、水平な道幅1mは十分にある広さです。
再び東京発電株式会社の送水管の上部に架かる陸橋があり、「展望広場入口」及び「秩父湖バス停」標識のある広場に出ます。
展望広場の東屋(六角形の建物)などは草に覆われて荒れ放題の状況です。
古いテニスコートを横切り秩父湖バス停方面に下ると眼下に秩父湖が眺められ、鉄製の手すりの付いたきわめて人工的な登山道(大峰遊歩道)をジグザグに下ると二瀬ダムにでます。ダムの右側に道標「栃本6.4km・大黒山を経て大峰4.8km-秩父湖0.3km」が設置され、旧秩父往還への最短ルートであると共に、大峰山への登山口となっています。二瀬ダムの完成は昭和36年(1961)12月、秩父湖の命名は秩父宮妃とのことです。二瀬隧道は、入口のプレートに「1977年11月、関東地方整備局」と記され、国土交通省の管理とわかります。
旧秩父往還を送水管上部の陸橋で渡ると、車道に出る直前に「大峰山・栃本方面-秩父湖バス停」の道標があり、大峰山への登山コースの一部になっています。車道を直進する道は僅かに登りとなる大峰山方面への道ですが、麻生及び栃本にも行けます。左側のわずかに下る車道が麻生及び栃本方面への古道と考えられます。どちらの車道も福寿神社前で合流することから、いずれが旧秩父往還なのか判別は困難です。旧道と考えられる左の麻生への車道を選択し、杉林の中を下ると民宿・梅林が前方右手に見えてきます。民宿の右隣に石仏二体(馬頭尊の文字塔は大正十三年一月、施主 山中金作と読める。一方は崩れかけた馬頭尊)があり、古道の趣が伝わってきます。
左から旧国道140号が合流する分岐に「秩父ユースホステル/民宿旅館・ばいりん」及び「国指定記念物(史跡)栃本関跡4.2km」の標識があり、向かい側は秩父市営バス川又線の二瀬バス停(三峰口駅‐大滝温泉遊湯館‐川又)で、時刻表によると運航は一日に4~5本です。
旧国道140号を右に進むと間もなく右に福寿神社があります。神社前で東京発電株式会社の送水管上部で分岐している大峰山・栃本方面からの車道が合流します。福寿神社に説明板は無く由緒等は不明ですが、笠木の付いた立派な鳥居があります。風土記稿に「福壽院 下納組にあり、山號なし、境内除地五畝十二歩本尊十一面観音、明暦年時に焼失して再建せず、慈眼院兼帯せり、」とありますが、明治元年の神仏分離令により神仏習合の福壽院から、福寿神社に変わったものと推測されます。

左隣には麻生公民館があり、社殿の右側に石仏(地蔵尊、如意輪観音、馬頭尊、愛宕地蔵大菩薩など)が集められていますが、どう見ても寺院跡(福壽院)と思われても仕方がない状況です。
麻生バス停を過ぎると国道の右側に麻生加番所跡があり、入口右側の説明板に加番所設立の経緯や村民の役割・負担が記されています。
国道が右に大きく曲がる角に山の神(?)の祠(側面に大正七年一月吉日、千嶋孝治)があり、その先の右側に六地蔵と石仏等3基(地蔵尊は享保七年八月、石仏は天明三年、四十九院塔)が並んでいることから、寺院跡または墓地と推測されますが由緒等の記載は確認できません。
その先に寺井諏訪神社の鰐口説明板が鰐口の写真と共に設置されています。説明板はあっても、設置場所からは諏訪神社の影も形も見つけられません。
鬼鎮神社・福井神社は、国道から右に分岐した車道を10m程度登った左奥にあります。道標がないので注意が必要で石段の手前左手は平場になっていて寺井区集会所があります。「秩父甲州往還」には、この場所に井福神社(福井神社?)と井福寺跡が記されています。
井福寺跡は寺井公民館と記されていますが、現在の寺井区集会所と考えられます。前述の六地蔵や石仏群とは距離的にも近く、かつての井福寺とどのような関係にあったのか興味は尽きません。
集会所横の急な石段の登った左方に鳥居があり、右側の石碑には「大願成就記念之碑 三峯神社宮司廣瀬頼信謹書」と刻され、三峯山との親密な関連が推測されます。
御神木の大杉を前に、向かって左が鬼鎮神社で、社殿前に銀色に塗られた鉄の金棒が3本掛けられています。社の内部には鬼鎮神社の扁額と金棒が多数奉納されています。向かって右の社の内部に小祠があり、内部に数体の小さい仏像(持物や衣の状態から判断し、毘沙門天及び吉祥天などか?)が散乱しています。社の右側に朽ちた木造の神像(?)の上半身が置かれています。神社名の表記はありませんが、こちらが「秩父甲州往還」に記載の井福神社と思われます。しかし、「秩父往還いまむかし」には、井福神社ではなく福井神社と記されています。神社名の変遷経緯は不明で興味を惹かれますが、詳細は未調査です。更に、「秩父往還いまむかし」には、鬼鎮神社は武蔵嵐山の菅谷から勧請されたものであると遷座の経緯が記載されています。
寺井区集会場の前の車道を上り詰めた奥の民家の駐車場から更に山道を登った先に潰れた廃屋があり、説明板や裏付ける証拠に乏しいですが寺井諏訪神社跡(?)と推定されます。
国道に戻り栃本方面に向かう右側の石垣の上に小祠がありますが、神名等は不明です。この先にも右上部に小堂に覆われた地蔵尊石像があります。
上中尾区集会所の先で、国道が右に直角にカーブする所の左下に鳥居があります。巨岩の上に鎮座する金毘羅大権現を祀った琴平神社です。扁額のような立派なコテ絵「金比羅宮」が掲げられていて、「武蔵の国秩父宮地の住人・左官島崎詳乙作」と判読できます。

鬱蒼とした巨杉や巨檜に囲まれた奥が吉備津神社と考えられますが神社名の記載はありません。
「秩父往還いまむかし」に吉備津神社はお産の神として地元の信仰を集め、村指定天然記念物の杉と檜の巨木があると記されています。上中尾地区菅平の鎮守である吉備明神社が吉備津神社と推測されます。また、石水社、十王堂(閻魔堂)、牛頭天王社(八坂神社)などは、江戸時代から上中尾に伝わる寺社と思われます。
国道に戻り上中尾バス停を過ぎた右側に注連縄と紙垂に守られた「力石(?)」や如意輪観音石像があり、横にある雑草に覆われた石段を登るとその奥は廃屋となっています。「秩父往還いまむかし」には石水寺跡地に建てられた上中尾公民館が記されていますが、廃屋が石水寺跡なのか公民館跡なのか不明です。一方、「秩父甲州往還」には「右手に八坂神社があり、その裏側が石水寺跡であり、寺の跡が現在公民館になっている。公民館への入口の脇に閻魔堂がある。」と記されています。以上の情報から注連縄の架かった力石の場所が八坂神社でその奥が石水寺跡と推測されます。
国道の先の右側上部に閻魔堂(十王堂)と推測される格子戸で閉ざされた小さなお堂があります。内部に閻魔大王や十王像及び奪衣婆像と思われる仏像などの坐像が安置されています。この結果から、閻魔堂の存在は確認できますが、石水寺跡や八坂神社跡らしき寺社は見当たりません。
旧上中尾小学校バス停の先が、すでに廃校となっている大滝村立上中尾小学校で、広い校庭の隅に記念碑2基があります。「秩父往還いまむかし」には「大正末期から昭和の初めにかけて、大滝村の奥へは木材関係者や炭焼き人が多数入っていた。」と紹介しています。また、大滝村誌の旧上中尾小学校に関する記載から昭和20年代までの林業が盛んであった時代には、多くの子供達で賑わった校舎であったことが、規模の大きさからも推測できます。

「埼玉県指定有形民俗文化財 上中尾の猪垣(シシガキ)入口 是より360m」の古ぼけた案内板に従い、国道を右に分岐し斜面に茶畑が広がる車道から薄暗い杉林に入ります。
木漏れ日の中に石垣が所々に残され、畑か棚田(?)でもあったのではないかと推測されます。更に奥に進むと石を幅70~80cmの台形に積んだ猪垣と思われる苔むした遺構が確認できます。ただし、説明板がどこにもないので、残念ながら県指定の「猪垣」とは確定はできません。猪や鹿の被害に悩まされた奥秩父らしい遺構です。
両側を杉の植林に覆われた国道(旧秩父往還)の右に馬頭尊の石像が一基残されています。その先に千部供養□(寛政十年十月吉日)・馬頭尊石仏が右手上部の藪の中に安置されています。更にその先の妙見尾根の末端を削った右側上部に石仏3基(地蔵尊?)が人知れず設置されています。「秩父往還いまむかし」には「妙見尾根の先端には地蔵尊が安置されている。この尾根には妙見様も祀られ、神楽殿があった。」と紹介され、妙見様が祀られているので妙見尾根と称されていることが理解できます。この先左側が栃本公衆トイレ(数台分の駐車場有り)・林平バス停です。

国道を少し進むと右側のツツジの植え込みの一段高くなった場所に、昭和48年秩父山岳連盟が設置した田部重治の歌碑「栂の尾根 いくつか越えて 栃本の 里えいそぎし 旅を忘れじ」があり、左隣には清水武甲の詩の一編を刻んだとされる「深い山襞 山影の村 神を迎える 峠」記念碑(平成九年)が建立されています。
両碑とも奥秩父の鬱蒼とした樹林に囲まれた静寂な中に佇んでいて、奥秩父の先覚者であった田部重治氏や清水武甲氏に相応しい情景と思われます。
国道右側には「大峰遊歩道入口」の標識と道標「右ハ秩父町方面及三峯山ニ至ル-左ハ信州甲州ニ至ル-前ハ浜平塩澤ニ至ル、大正十一年一月大滝村青年団分會建設」があります。
右折して狭い山道を登ると浜平・塩澤へと続く分岐です。
道標を過ぎると、栃本関所跡バス停につきます。栃本の民家が尾根の急峻な南斜面に点々と広がり、昔から栃本地区として写真に良く紹介された風景が前方に広がります。
国道の北側は夏木立に覆われた栃本関所跡で、関所の概要を記した説明板があります。麻生加番所や甲州側の川浦口留番所と連携し、秩父往還を行き交う旅人を取調べていたことが良くわかります。風土記稿に栃本関所の記載があり、栃本が甲州と信州の分岐になっていることが示されています。

更に川又方面に進むと栃本会館の前に日本の道百選『秩父往還道』石碑があり、側面に選定理由が刻まれています。
また、国道右に石仏4基(二十二夜塔、地蔵尊など)があり、「秩父甲州往還」で「峰向寺跡・明治十八年(1885)の月待塔や地蔵など」と紹介されている峰向寺跡への入口と推測されます。風土記稿に「峰向寺 栃本組に在鳳凰山と號す。曹洞宗、光源寺末、本尊阿弥陀、開山慶禅寛永四年三月廿六日化す、」と記されています。曹洞宗の本尊は釈迦如来が一般的と考えられますが、阿弥陀如来が本尊とは珍しく、何か特別な謂れがありそうです。
国道に戻ると国道の北側に妙見神社がありますが、道標がないので要注意です。
栃本バス停を少し進んだ右側に真っ赤な郵便ポストと向かい合って分岐があり、傍らの道標には「右ハ信州道、左ハ川又ヲ経テ甲□□‐大正十一年一月 大滝村青年団分會建設」と刻されています。「甲□□」部分は大滝村誌には「甲州道」と記載があり、欠損部分を補うことが出来ます。信州道は十文字峠を越えて梓山へ、川又道は雁坂峠を越えて、甲州三富へと続く主要な交易と信仰の道です。
分岐を数メートル信州方面に登った右に廿三夜塔、如意輪観音、常夜灯(両面大権現)が並んでいます。

「秩父甲州往還」に、廿三夜塔には「天保十三年、左志んしう(信州)、右可うしう(甲州)」と刻されていることが記され、月待塔も道標の役割を果たすと分かります。また、常夜灯は十文字峠へと続く信州道の入口に鎮座する両面神社(旧両面大権現)の参道入口でもあります。
旧道を川又方面に下ると右側の車道脇に、草に覆われていますが斜めに登る道があり千軒地蔵尊があります。小ぶりの春日燈籠が並んだ参道の奥にブロック積の御堂があり、ピンクの衣を纏った地蔵尊が安置され、その左右には夥しい数の千羽鶴が奉納され、天上には大きな鳳凰が描かれています。地元の篤い信仰が感じられます。堂内の説明板に由来が記され、奥秩父で金山が栄えていた頃の地蔵尊が、閉山後にここに移されたことが分かります。

更に川又方面に下ると右側に東京大学農学部附属秩父演習林栃本作業所があります。奥秩父の広大な演習林を管理する東京大学付属の施設です。
前方左側に彩甲斐街道(現在の国道140号)の車道が見えてくると、まもなく川又バス停につきます。
ロータリー(西武観光バス)の傍に公衆トイレが設置され、少し離れた栃本側に休憩所の東屋もあります。

道の駅・みとみ→雁坂峠

秩父往還「雁坂越え」は、秩父市川又から雁坂峠に至るコースは登りが延々と続いて長大で、川又に宿泊し早朝に出発する必要があります。
一方、山梨市三富(道の駅・みとみ)から雁坂峠を越えて川又に下るコースは、川又から三峰口駅への路線バスの時刻にも最適なため、秩父往還「雁坂峠越え」の「日本の山岳古道120選」コースは山梨県側から登ることが適切と判断します。
JR塩山駅から山梨交通バスに揺られて「道の駅・みとみ」に着きます。駐車場は多くの車や人で賑わっています。
新久渡の沢橋のすぐ北側のシラカバの横に雁坂峠登山口の道標があり、ここが旧秩父往還の雁坂峠への入口です。
左折して沢に沿って落葉に埋もれた車道を進み、右にカーブして久渡の沢橋を越えると茶色の道標「雁坂峠登山道入口」があります。左折して砂利道を進むと正面に標識「雁坂峠登山口」及び登山道ガイドマップ(三富村)の大きな説明板が設置されていますので、道標に従って車道を右折します。

砂利道の横の倒れた古い道標「雁坂峠→」を過ぎると、まもなく広い車道に合流し、道標「雁坂峠→」及び「雁坂峠-広瀬」があります。
左折して進むと左前方に雁坂トンネルから延びる高架橋が樹林を通して望め、その下を潜って進みます。
緩やかな登り道から左側下方に雁坂トンネル有料道路料金所や駐車場が木々の間から確認できます。
少し下ってガードレールが両側に設置された立派な沓切沢橋を渡ると本格的な登りとなり、車道から山道へと変わります。橋のすぐ先、丸太の倒木の間に茶色の道標「雁坂峠」及び「広瀬・道の駅」が二段になって設置されています。
緩斜面の巻き道を進むと右側に標識「←ナメラ沢へ」があります。落葉樹の斜面は見通しが良好で、左下の沢に下れそうですがかなりの急斜面です。巻き道の途中に右側から水量豊かな沢が流れ降っていて、渡渉の安全の為か頼りなさそうなトラロープが1本、だらりと設置されています。
小沢ですが急傾斜でまっすぐに下っていて、凍結時には要注意の場所です。広葉樹林の枯れ葉が大部分落ち切った明るい緩斜面にある沢沿いの巻き道を進み、右側にトラロープ設置されたガレ場を過ぎると、右側から小さな支流が合流するので少し上部で渡渉します。白地に黒文字で「広瀬-雁坂峠」と記された古い道標を過ぎると峠沢に架かる丸木橋(腐れかかった大小3本の丸太が並べられています)を注意して渡ります。
以降は峠沢の右岸の巻き道になり、古い道標「広瀬-雁坂峠」(木製で茶色地に白文字)の先にトラロープが設置(左側に10mほど)されています。
苔むした石の上に古い金属製道標「広瀬-雁坂峠」(白地に黒文字)が置かれた場所の先で、左上から流れ落ちる小さな枝沢を渡渉します。
ササで覆われた明るい尾根を登ると道標「雁坂峠-広瀬」(茶色地に白文字)があり、カラマツ林となります。ササ原に覆われた針葉樹林帯を急登すると前方が開け、前方右側に奥秩父主稜の稜線が見えてきます。
開放的なササ原を登り切ると木製のテーブル及び道標や説明板が林立した雁坂峠につきます。
峠には古く壊れかけた道標「日本三大峠・雁坂峠」が現在でも健在です。新しい円柱状の道標「日本三大峠・雁坂峠2082m」の横に「秩父多摩甲斐国立公園地図」及び「安全登山 雁坂峠 一九七七米」と記された石碑があります。
更に甲州らしく「秩父往還の歴史 雁坂峠と秩父多摩甲斐国立公園」の説明板の左側には武田信玄らしき部将が白馬に乗った後ろ姿が描かれています。日本の古代史を代表する英雄の一人である日本武尊が、この雁坂峠から奥秩父の山並みを楽しまれたのではないかと想像すると感慨深いものがあります。雁坂峠が日本三大峠の一つに数えられる理由も日本武尊伝説に由来するものではないかと推測されます。ただし、日本書紀には日本武尊が甲斐から武蔵國及び上野國を経て信濃国に向ったことが記されていますが、どこの峠を越えたのかは不明瞭です。
一方、武州三峯山「當山大縁起」には、酒折宮で休憩された日本武尊は信濃國に向う途中で雁坂を越えて三峯山に詣でたことが記されていますので、「雁坂峠越え」伝説の根拠の一つと推測されます。雁坂峠の別の説明板「峠付近の植生」には、雁坂峠の地名に関する考察及び植生が紹介されています。
雁坂小屋に下る斜面に「秩父山地緑の回廊 野生動植物の相互交流を図る森林生態、保護にご協力下さい。林野庁・埼玉森林管理事務所」の白い注意板が横たわっています。
針葉樹林に覆われて見通しが悪い秩父側の鬱蒼とした斜面を下ると、前方に青い屋根の雁坂小屋が見えてきます。
小屋の手前には道標「雁坂峠・甲武信ヶ岳-水晶山・雲取山」と奥秩父主稜縦走路への分岐があります。
また、川又への下山口には道標「川又9.5KM、30m下水場-雁坂峠」があり、水場の場所が示されています。
雁坂小屋は管理棟と宿泊棟の2棟に分かれています。宿泊棟の内部は、薪ストーブが設置された土間と椅子及び食事場所が入口にあり、奥の部屋は2段ベッドが左右に並んだ昔ながらの山小屋の雰囲気が残されています。小屋の右側に標識「黒岩尾根登山道入口-豆焼橋まで8.2km」があり、トイレの先のテントサイトから黒岩尾根を経由して豆焼橋に下るコースも案内されています。

雁坂峠→川又

翌朝、雁坂小屋を出発し、「川又」への道標に従い巻き道を下ると松の大木に標識「水 左横」がつけられていて、左上に青いドラム缶の中にホースで水が導かれている水場があります。

少し下ると標識「この先冬季凍結の恐れあり、滑落注意! 埼玉県」があり、左側斜面の上部に水道管が固定された涸れ沢のトラバースになりますが足元の登山道はしっかりとしています。
水平な巻き道を20分ほど進むと豆焼沢の最上部の水量豊富な沢(雁坂小屋の貯水槽、昇竜の瀧あり)を渡渉します。
豆焼沢は一気に下まで降っている上、橋は架けられていないので、凍結時のトラバースには細心の注意が必要です。
渡渉から数分進むと登山道に標識「迂回路」があり、台風のためか土砂崩れや倒木が散乱しています。ここから左上方の崩壊箇所を高巻きし、カラマツ林の中を十数分進んだ所に標識「迂回路」があり、元の登山道に合流します。
迂回路が作られるまでは突出峠コースは通行禁止になっていたとのことです。
ほぼ水平な巻き道を辿るとカラマツと針葉樹(コメツガ・トウヒなど)やアセビの群落などがあります。左側斜面にクサリ場となったガレ場がありますが、足場はしっかりとして明瞭な登山道です。真新しい道標「地蔵岩」・「雁坂峠3.2km-川又7.3km」が設置されています。カラマツ、アカマツや針葉樹などの混合樹林帯を貫く旧道の左側に、朽ちた道標「雁坂峠-川又7.2km」(下部か熊にかじられているようです。)があり、薄暗い針葉樹に変わると地蔵岩展望台への分岐です。地蔵岩から奥秩父主稜の壮観な眺めについての説明板が括りつけられています。
分岐から不明瞭で急な踏み跡を登ると5分足らずで地蔵岩の上に出ます。雁坂嶺、甲武信ヶ岳、三宝山などの奥秩父主稜の山々が谷を挟んで眺められます。
地蔵岩展望台の分岐からは針葉樹に囲まれた登山道となり、古道の雰囲気が残されています。十分ほど進むと右側に古い道標「雁坂峠-川又」があり、その先に赤い金属標識「境界見出標・東京営林署」及び気象観測用の器具などがありますが、ここから登山道は左に折れます。
下りが始まる場所に針葉樹(コメツガまたはトウヒ?)の大木に巻き付けられた標識「足元注意・ここはだるま坂、この先ずっと下り坂です。川又へ6.8km」が確認できます。

大木の反対側には山小屋関係者の手製と推察できる看板が巻き付けられていますが、川又からの長い苦しい登り道が容易に想像されます。
コメツガまたはトウヒの雑木林に囲まれた足場の悪い巻き道を十数分下ると、針葉樹とササの明るい尾根道に変わり、道端にはアセビなども確認できます。
前方の視界が開け、針葉樹とササの緩斜面に変わると、平坦になった鞍部にログハウス風の外観を持つ樺小屋が建っています。道標「川又5.6km-雁坂峠4.5km」があります。小屋の内部は窓が大きく明るい十畳程度の居室の前に、薪ストーブの置かれた土間があり、避難小屋にしては清潔感が溢れています。かつて秩父往還が峠越えの道として賑わった頃から、旅人や山仕事の人達に利用された避難小屋のようです。川又から雁坂峠までの長い上り坂の途中にある樺小屋は、旅人にとって貴重な避難小屋であったと思われます。小屋の横には説明板「樺小屋附近の主な樹種」及び「森林植生」があり、秩父往還を取り巻くこの一帯も伊勢湾台風による被害が大きかったことが理解できます。
コメツガやササに覆われた緩斜面の尾根を下り、立ち枯れたアカマツの大木や倒木のある広い尾根を40分ほど下ると、アカマツの根元に「東京大学科学の森里親」の看板が出てきます。この一帯は東京大学農学部秩父演習林で、この先が突出(つんだし)峠です。道標「川又5.5km-雁坂峠・雁坂小屋5.3km」は横板の下部の一部がクマにかじられた跡があります。また、古く朽ちた道標「突出峠」の残骸が斜めになりながらも何とか建っています。近くに今は利用されてないと思われる古い百葉箱が放置されています。白い百葉箱の下に突出峠の今昔に関して、腐食が進んで判別しがたい文字が記された説明板が残されています。
「このコースはその昔甲州武州を結ぶ唯一の街道で、國越の人々や荷物の往来がさかんだったと言伝えられて居ります。交通機関の発達と共に現在は山を愛するハイカーのコースと変わって参りました。雁坂峠に登るには突出峠まで登るのが苦しいコースで、これからはゆるやかなコースとなり、峠まで達します。 大滝村」と記されています。
秩父往還の川又から雁坂峠にかけての峠道を登る地元の人たちや、旅慣れた人々にとっても突出峠周辺は頑張りどころだったと思われます。
また、「東京大学の森」育成基金記念樹などの標識もブナの大木の根元に設置されています。更に「東京大学農学部附属演習林」が掲示され、演習林の役割が説明されています。更に、「秩父甲州往還」調査報告書には、この付近は「ナラ・モミなどの原生林である」と記されています。
旧秩父往還らしく、道幅の広い溝状に凹んだ歩きやすく緩やかな道を下ると右側に看板「人口植栽地・カラマツ・シラベ、東京大学農学部秩父演習林」が掲示され、植林された樹種が分かります。
道標「川又-雁坂峠」「行き止まり」を左に進むと、朽ちた道標「川又-雁坂峠」があります。ここにはかつて黒文字橋へ下る「黒文字橋」の標識が東向きにつけられていたと古い写真に記録されていますが、現在は分岐を示す道標も踏み跡も見当たりません。「山と高原地図 雲取山・両神山2021」に登山道の記載はありませんが、国土地理院2万5千分の1地形図「中津峡」には黒文字橋への登山道が明記されています。しかし、道標の傍に「この先の林道・歩道は東京大学演習林が森林の管理作業や教育研究活動のために使用しているもので、登山道ではありません。大変危険ですので登山目的での通行は禁止します。 東京大学秩父演習林」と注意が記され、一般の通行はできないようです。
更にそのすぐ先の右下に踏み跡があり、分岐に小さな標識「R140」(白い四角状の細長い金属プレート)が枯れたホウ葉に埋もれて設置されていますので、国道140号(黒文字橋)への分岐であることが分かります。

数分先に進むと道標「雁道場」があり、その説明がアカマツの大木に掲げられています。雁坂峠の周辺は、「雁」に因む地名が多数残されていることから、雁が尾根を越え、休憩した場所であるとの推測も理解できます。また、雁道場は岩道場とも表記されています。
説明板には「雁道場、毎年秋に雁の群れが南に飛んでいく時に、山を越す前ひと休みした場所らしいです。雁坂峠、雁峠などこの辺が渡り鳥のルートのようです。黒文字橋から上がってくるルートがこの先にあります。」と記載があります。
旧道らしく歩きやすい道を下り、涸れた小沢に架けられた丸木橋(3本の腐食した丸太)を渡り、植林された杉の根元を金網で囲んだ鹿除けネットなどを眺めながら杉林を過ぎます。
杉の木に道標「雁坂」が付けられた個所を左下に曲がると、杉の枯れ葉の中に倒れた道標「雁坂峠-川又」及び「県営林 植物や土砂の採取を禁じます。山火事を起さないよう注意してください。埼玉県」の注意書が隠れています。
広範囲に渡る東京大学演習林と県営林との境は確認できません。
杉の大木に標識「水の本」があり、説明板に「水の元、一杯水とも言う 秩父と山梨を結ぶ秩父往還は昔から交通の要衝。水の出るここや樺小屋には峠を行き来した人々のための避難小屋的な物があり、それは山仕事にも使われたとか。2015年の登山地図から『水の本』名前だけ残し、「水」のマークは削除された。」と、かつて水場及び避難小屋らしきものがあったことが記されています。
お地蔵様と記された石仏は、杉の大木の根元に自然石の石組みの上の台座に鎮座しています。頭部は消失していたらしく、自然石が頭部の代わりに載せてあります。石の坐像で、両手を前で組んだ上に宝珠がありますが台座に記された文字は判読できません。
「お地蔵様には安永六年(1777年)、江戸中期の年号が刻まれている。17.11」と説明板にあります。
一方、「秩父甲州往還」には「水の元観音 安永六年 観音菩薩像、水場に祀られた観音像なので、水の元観音といわれる。」と記されています。石仏の頭部が損失しているため、残念ながら地蔵様か観音様が判断できない状況です。
杉の植林帯を下ると道標「川又-雁坂峠」及び石の道標「後ハ栃本ヲ経テ三峯山及ビ秩父方面ニ至ル、右ハ甲州旧道」・「勅諭下賜・・・」「大正十一年銘」があります。

「秩父甲州往還」には「ここは『矢立篠』といわれ、武田軍が後北条軍と戦闘をした場所であったという。」と戦国時代の歴史を記しています。矢の根や鉄砲玉の跡でも残っていて、夏草でも生い茂っていれば、「兵どもが夢の跡」なぞと往時を偲ぶことが出来たかもわかりませんが、戦いの痕跡はどこにも認められません。
その先数分で鉄パイプとアルミ板の橋を渡ると左側に山の神の祠(?)があります。
まっすぐに尾根を下る道は塞がれていて、道標「川又方面→」に従って右に下ると国道140号がすぐ下に見えます。
国道140号に出る場所に道標「雁坂峠登山口」及び道標「雁坂小屋9.5km・雁坂峠10.1km」があります。
また、大きな看板に「登山者へのお願い」などが設置されています。また、「秩父往還の歴史」に関する古い大きな看板がありますが、記載内容は雁坂峠に掲示された説明板の内容と同様です。ただし左側に描かれた絵は雁坂峠では武田信玄でしたが、こちらは日本武尊の後ろ姿のようです。
更に「平成29年1月1日、雁坂小屋付近(突出方面)で、凍結による滑落死亡事故発生、アイゼンが必要です。」の張り紙がここにもあります。
交通量の多い国道140号を車に注意しながら川又方面に20分程歩くと右側に「入川渓流観光釣場」に下る道(入口)があります。その先は「扇屋山荘」や「川俣公民館」で、入川橋を渡って川又バス停に着きます。
なお、旅館・扇屋山荘は雁坂小屋の管理人の家でもあります。
川又バス停には「奥秩父案内図 環境庁・埼玉県」の大きな看板と、清潔感のある公衆トイレがあります。「秩父往還いまむかし」に秩父から繭を背負って尾根道で雁坂峠を越えたことが記されていますが、幾世代にもわたる秩父と甲州との交流の深さが偲ばれます。
明治43年測図の地形図「三峰」で秩父往還を確認すると、入川と瀧川の合流点である川又から、入川を渡って瀧川の左岸に近い道を500m程度南西に進む旧道が記載されていますので、先ほどの古い石の道標(大正11年)から川又に至るコースは、ほぼ明治期の旧秩父往還であると推測されます。
また、大滝村誌に秩父往還に関する川又の詳細な記載があります。かつては入川橋の下の道を辿って山道に入ったことが分かりますが、「日本の山岳古道120選」では国道140号で入川橋を渡り「雁坂峠登山口」から旧道に登り、大正11年の道標へ道を辿りました。

この古道を歩くにあたって

・土壇場地蔵への旧秩父往還道:白滝沢の左岸の明瞭な道を登ると、間もなく数年前の台風の名残なのか白滝沢に架かけられた橋が破損し、壊れた金属製の鉄梯子などが散乱しています。増水期は渡渉に細心の注意が必要と考えられますので、古道歩きを楽しむ一般の愛好者が歩くには適さない状況にあると判断できます。今回は「日本の山岳古道120選」に関する調査のため、白滝沢を慎重に渡渉して対岸に渡りました。沢の対岸に続く明瞭な道を少し登った岩の上に、鬱蒼として薄暗い樹木に囲まれて、壊れかけた堂に覆われた土壇場地蔵が確認できます。かつての処刑場跡だったと伝えられる場所に地蔵尊を祀り、死者に対する地元の人々の供養の気持ちが表されています。
・上強石から杉ノ峠を越えて落合へ下る旧秩父往還の一部は林道ですが、豪雨の影響で林道が崩落したり、土砂が流されたりした場所があり、歩行に注意が必要です。
・楢平バス停から大久保地区の龍泉寺間の旧秩父往還は、新しい林道(作業道)ができた上に、排水溝附近のザレ場の通行は踏み跡が不明瞭な区間が数十メートルありますので、読図力の必要性と多少の危険を伴うため、この区間は一般の古道歩きを趣味とする人達には推薦できないと判断できます。そこで楢平から龍泉寺に至る道は、中津川のループ橋方面を経由する車道に迂回することが望ましいと思われます。または、宮平のT字路交差点を左折して、二瀬バムから大久保に登ることをお勧めします。
・雁坂小屋周辺の巻き道などでは、沢筋をトラバースする際に冬期は凍結が予想されますので、アイゼン装着はもちろんの事、落石や転倒など細心の注意が必要となります。
・川又から山梨市「道の駅みとみ」までは、一般登山道及び山小屋泊まりになりますので、ある程度の登山経験が必要と思われます。

古道を知る

秩父往還の歴史

秩父往還(ちちぶおうかん)は、中山道の熊谷宿を起点として、荒川沿いに寄居、秩父大宮、贄川、栃本、雁坂峠を越えて塩山から甲府に至る街道です。
秩父甲州往還とも呼ばれ、甲州側からは雁坂口、秩父路、秩父側からは甲州路、信玄路などと呼ばれていました。
現在の国道140号とほぼ同じルートを辿る全長約120kmの街道です。
古代史を代表する英雄として知られる日本武尊(ヤマトタケル)が、甲斐から武蔵に越えた伝説も残されるなど、歴史ある道で、中世・近世には、甲州側からは三峯神社(旧三峯山)、宝登山神社、秩父神社(旧妙見宮)、秩父札所三十四所観音霊場などの巡礼地として、武州側からは甲斐善光寺、身延山、富士山等への参詣路や巡礼路として利用されました。
戦国時代には、秩父に進出した甲斐の武田勢が大滝村栃本に関所を設け、周辺に金山が開発されたこともあって往来に利用されていました。
江戸幕府は、東海道と中山道の間の道として栃本関所で厳重な取り締まりを行い、1643年(寛永20年)には麻生加番所が設置されました。
明治から大正にかけては生活路として養蚕が盛んであった秩父側から繭を担いで雁坂峠を頻繁に越えたと伝えられています。
山梨県令・藤村紫朗の主導した道路改修が行われましたが、雁坂峠にトンネルが完成したのは1998年(平成10年)。ようやく埼玉・山梨両県間を自動車で移動することができる道となりました。
なお、秩父往還は建設省が1986年~1987年に選出した「日本の道百選」に選ばれました。栃本会館の前にある日本の道百選碑には「この道は、往時甲州街道と中山道を結ぶ重要な街道であった。沿道の栃本関所跡や路傍の石仏等が歴史を感じさせることから特色ある優れた道の一つとして日本の道百選に撰定された。昭和六十二年三月十八日 大滝村々長 山口芳夫謹書」と記されています。

秩父往還の記述

「新編武蔵風土記稿」の秩父郡・新大瀧村・強石組の条に「中央に荒川の流れ一條西より東せり、北岸にそひし一路あり、この路は新古大瀧村にかかり、栃本の口留番所を経て、雁坂峠に達し、甲州へ通ふ往来なり、・・・荒川の中流及び山根等にも、巨石嶮岩ことさら多く峙立せり、強石の地名もここに權興するなるべし」と栃本から雁坂峠を越えて甲州へ至る道があることが記されています。
古大瀧村の条には「東西に一條の往還あり、秩父より甲州へ通ふ一路なり、西の方、古大瀧村の内雁坂峠を越へ、甲州界まで両村に亘り凡七八里、道幅六七尺、但し栃本の西川又あたりよりは、漸々と幅も狭く人行も稀なれば、茅など生ひて小径なり」、また「雁坂峠 御林山の内にて、甲州への一路國界の峠なり、栃本より坤にあたり、4里4丁漸上る」と記されている古道です。
秩父往還の道幅が6~7尺と記されておりますので、2m程度と推測されますが、雁坂峠周辺の道幅に関して現在は登山道と考えられます。
同じく「新編武蔵風土記稿」には「落合組 西南の方より荒川の流一條来り、正西の方より中津川の流れ一條来りここにて尾合せり、里名これによる、・・・茲にて右すれば中津川村にかかり、信州への間道あり、左すれば栃本にかかり、雁坂峠を経て甲州へ通ふ一路あり」と、古くから中津川と栃本の分岐であることが記されています。
飯野頼治著「秩父往還いまむかし」には「大滝村の人たちは、秩父大宮への荒川ぞいの道は険しかったので、安全な峠の尾根道を利用して甲州へ出ることが多かった。大正時代までは繭を背負って峠を越え、塩山の繭取引所へ行き、帰りには日常用品を背負って戻った。峠をはさんで両地域の縁組も盛んであった」と紹介しています。
また、杉ノ峠道について、飯野頼治著「秩父往還いまむかし」には、「上強石から杉ノ峠道へ入る所には巳待塔など石碑がある。峠道の旧往還はすぐに杉林へと入り、ジグザグにぐんぐんのぼって高度をかせぐ。道がゆるやかになると、東屋の休憩所のある杉ノ峠に着く。峠名にふさわしく、何本もの大杉にかこまれるように大山祇神、浅間様を合祀した小社と、自然石を利用して造られた地蔵仏が安置されている。・・・峠から杉の中の急な道を20分ほど下ると、下方に林道や落合の集落が見えてくる」と杉ノ峠の状況が記されています。
「歴史の道調査報告書 秩父甲州往還」には、「杉の峠に到着すると、峠には、現在休憩施設として東屋がある。峠には地蔵と山の神が祀られている。・・・東屋から先の道は、山仕事をしている人が使うぐらいなので、昔の道筋の面影はみられない。植林してある中を1.5キロメートルほど歩くと林道に出る。この先の落合地区までの道筋は消失している」と杉ノ峠と旧秩父往還道の状況が記されています。
同じく「歴史の道調査報告書 秩父甲州往還」には、「享和3年(1802年)の『瀧之橋幷に馬頭観世音勢至菩薩 建立奉加帳』の文章の中に『大瀧の行路二道ていえとも、往昔杉の峠はかり往来致と傳へきく、今の三峯山道をはぐれと相唱へて、當瀧の橋ハ笹行橋とて、丸木徒渡りにて道すら細く、是を助くる杖の突き所もなしされば、両山日夜繁栄して、自然巌窟を切廣め牛馬通行をこえ』とあります。杉の峠の方が往来が激しかった時代があったが、強石から大達原を経由する道は、大陽寺や三峰山への参詣道として拡張されたことがわかる」と記されています。
「大滝村誌」には「川又の扇屋の先を左へ折れて入川橋の下をくぐると対岸にわたる八間橋がある。橋をわたると山道になる。少し登ると大正十一年の道標がある。『右へ甲州旧道 後ハ栃本ヲ経テ三峯山及秩父方面ニ至ル』と刻まれている。急な山道を登りつめると平坦な尾根に出る。ここを『雁道場』という。それから東大演習林のカラマツ林を抜け、『突出峠(つんだしとうげ)にいたるとナラ・モミの原生林が見られる。尾根を巻いて登る『ダルマ坂』を過ぎ、道の二又を右に進む(現在は通行不能)と孫四郎峠をへて雁坂峠にいたる」と入川橋の下の道が旧秩父往還であったことが記されています。

深掘りスポット

新大瀧村

「新編武蔵風土記稿」の新大瀧村の条に「此村はかかる山谷の間にて畑も少なければ、嵯峨たる高處に火耕の地をひらき、是をさすと云ひ、或は燒畑と呼べり、・・・新大瀧村は四組に分ちて、強石組・落合組・小雙里組・八組と称し、・・・八組と云へるは地名にあらず、八區を併せて一組に結び、・・・八區とは三十場・槌打・鶉平・椚平・十々六木・瀧ノ澤・濱平・鹽澤を云ふ、・・・一は八組の内椚平にて、中津川に架せり、獨木橋にて長さ十二間、」と記されています。

月光院

「大滝村誌」では月光院について「月光院の念仏鉦(村指定文化財) 落合地区にあった月光院(現在の村役場の位置)の什物。径23.5㎝、高さ9.3㎝。裏面外縁の『為武田信玄大僧正三回御忌菩提奉納』」、また「新編武蔵風土記稿」には「月光院 落合組にあり、閻王山と號す。曹洞宗にて下飯田光源院末なり、・・本尊釈迦、開山愚禅、寛永四年四月廿六日寂せり。」と記されています。

平神社

飯野頼治著「秩父往還いまむかし」には平神社に関し、「落合橋で中津川を渡ると宮平で、すぐ左に平神社がある。三峰神社のミニ版ともいわれ、元は妙見様が祀られていた。上舎の中の本殿は、竜や鶴などの彫刻がほどこされた立派なもの」と記されています。
また「新編武蔵風土記稿」では平神社に関し「妙見社 同所(落合組)にて村民持下同じ、これは同所及び三十場・土打・椚平の鎮守なり、例祭二月廿三日」の記載があります。

滝沢ダムと住民や寺社仏閣の移転

「ふるさとの丘公園」記念碑によると「滝沢ダムは、昭和四四年に建設省(現「国土交通省」)により計画され、昭和五一年の水資源開発公団(現「独立行政法人水資源機構」)への事業承継・平成十年度の本体工事着手、平成十七年度の試験湛水開始を経て、平成二十年度から管理に入りました。建設に関係した事業用地に居住された四集落百十余世帯の方に移転して戴くと同時に、各集落に存在した神社・仏閣・寺院・神楽殿について、移転住民や関係者との協議より、ここにこれらの経過を記し、移転して戴いた世帯の名を刻み、永く記念とするものです。」と住民移転について記されています。
また、龍泉寺の石門柱に記された趣意書には「大黒山龍泉寺の開基は寺伝によれば人皇第百代後小松天皇の御宇龍天祖見が応永年間(1394~1428年)に滝の沢に創建したと伝えられ、正観世音菩薩を本尊としている。この間、歴代住職はじめ多くの檀徒方に守られ今日に至ったが、この度の水資源開発公団滝沢ダム建設事業により移転を余儀なくされ、この地に再建したものである。これを機に当時院の益々の隆昌を願うため、横瀬町宇根地区有志相寄りこれを建立する」と移転再建の経緯が記されています。
滝沢神社の遷座記念碑には「滝沢ダム建設に伴い当該地域に先祖代々地区住人の守護神として鎮座してきた諸々の神仏石碑類を此処ふるさとの丘に遷座し懇ろに合祀する。 廿六地区:神明神社・白岩神社・大神様・天狗様・稲荷様・天王様・薬師様・他石碑類、 滝ノ沢:龍野神社・稲荷神社・天狗神社・地蔵様・水神様・神楽殿・他石碑類、 浜平:龍野神社・諏訪神社・天神様・八幡様・稲荷様・天□様・大黒様・観音様・他石碑類、 塩沢:諏訪神社・水神様・天皇様・地蔵様・稲荷神社・他石碑類」と移転した夥しい神様が記されています。
さらに、滝沢神社の遷宮碑には「滝沢ダム建設事業に伴い十々六木、滝ノ沢、浜平、塩沢地区の236ヘクタールの土地が水没し、112戸が移転をよぎなくされた。各地域には、神社及び多くの祈碑類が、また滝ノ沢地区には、応永年間(1394年~1428年)に建立された龍泉寺が存し、古くから住民に親しまれてきた。これらの移転に関し、昭和六三年八月に龍泉寺補償対策委員会が設立され、事業施行者である水資源開発公団と協議した結果、同公団の協力により、この地に移し水没移転者の心の故郷として、末永く祀るものである。 平成四年一月、龍泉寺補償対策委員会、会長:黒沢源次、副会長:山中盛太郎、委員一同」の記載があります。

八坂神社や霊仙院跡はどこ?

「大滝村誌」に「龍泉寺からの車道を下ると大久保の八坂神社に出る。その先、右側に杉の大木があり、根元に『下井戸』と呼ぶ泉がある」と記され、大杉よりも宮平側に神社は位置するものと考えられます。
また、「秩父往還いまむかし」には、「峠(現在の龍泉寺の場所)から車道を下って大久保へおりると、集落中ほどに火伏せの八坂神社がある」と記されています。これらの二つの情報から、八坂神社は大久保地区の中心部に存在すると推測されますが、未確認です。
また「新編武蔵風土記稿」には「霊仙院 大久保組にあり、大黒山と號す、臨済宗にて甲州山梨郡向嶽寺末、本尊将軍地蔵、開山松隠祖顕応永十四年十月十四日示寂」とあります。
地区のはずれで、たまたま出会った住民は「川又の奥の入川で生まれ、そこより開けた大久保に嫁に来た。」と話し、八坂神社や霊仙院について聞いてみましたが、「どちらも記憶ない」とのこと。「祀りは妙見宮で行っている」とのことです。結局、八坂神社と霊仙院跡は残念ながら未確認です。

駒ヶ滝と駒ヶ滝不動の歴史

飯野頼治著「秩父往還いまむかし」に「二瀬ダムのすぐ下流の荒川には駒ヶ滝がかかっていた。・・・この滝場は、木材を流す木屋たちにとっては危険な難所だったので、元締めが安全を祈って近くの桂の大木の下に不動尊を祀った。・・・現在は『駒ヶ滝不動』として二瀬入口の国道ぞいに移し」と記され、不動尊の設置や遷座の経緯が示されています。
また、「奥秩父の伝説と史話」に「三不動 二瀬耕地の駒形の滝に白竜、大達原耕地の不動滝に黒竜、巣場耕地の巣場不動に赤竜が住んでいたといわれる。昔から、これらを大滝の三不動と呼んでいた。白竜の駒形の滝は、二瀬ダム建設によって国道沿いに移転され、・・・昔の人は、不動尊に漁猟の安全を祈願し、祭礼を行い、その前を通過する時は、必ず三種類の草花を棒げて祈ったものである。」と紹介しています。
「新編武蔵風土記稿」では、駒ヶ滝について「大久保組の内にあり、峙立せる岩間より漑ぎて、荒川に流れに入、高二丈五六尺、水勢いとつよく、白日に霧をふらして、炎暑の時といへど冷気を浸せり、」と記されています。
また、太田巖著「奥秩父の伝説と史話」にある「駒形の滝」は、「駒ヶ滝」のことと推測されますが、瀧の表記に違いがありますが気にするほどのことではなさそうです。不動尊の右側に大山祇神の社があり、共に大岩の庇の下に鎮座しています。

麻生加番所跡

麻生加番所跡の説明板には「麻生加番所跡 昭和四十五年十一月三日 市指定史跡 寛永二十年(1643年)幕府の役人が当村巡見のさい、栃本関の警備の手うすなのを見て、麻生に加番所を設置するよう指令があり、設置されたものである。施設は簡単で名主宅を役所とし別に間口三・八メートル、奥行二・七メートルの番人詰所があった。この番屋の建設補修費総て古大滝村の村費によりまかなわれた。番屋は現存せず現在の家は安政四年(1857年)十一月焼失のため新築されたもので、今も同家を番所とよんでいる。千島家は鉢形北条の奉行、千島下総の末裔といわれている。 秩父市教育委員会」と記されています。
一方、「新編武蔵風土記稿」に「加番所一ヶ所 上中尾の内麻生にあり、ここは栃本の東一里許にあり、即ち栃本の加番所なり、・・・此番所は寛永年中大岡忠右衛門・黒川八左衛門が巡見せし時、小村の有りさまを見て、非常の警備に加番所を立べしと命ぜられしよし以来、ここにこの番所を立て、下納組・上中尾組・大久保組・都合三組の内にて、廿五人の民輪番に務と云」と記されています。

寺井諏訪神社の鰐口

寺井諏訪神社の鰐口の説明板には「秩父市指定有形文化財 所在地:秩父市大滝3723番地2 指定年月日:昭和四十五年十一月三日 諏訪神社の社前に吊るされているこの鰐口は、径25.5cm、厚さ10cmの大きさである。表に左上から『應永廿二年未八月□日(1415)』、右上から『武州髙安寺霊通巽明神□』と刻されている。形・音質ともに良く、この種のものでは本市で最も古いものと思われる。平成三十一年三月 秩父市教育委員会」と記されています。

鬼鎮神社

嵐山町の鬼鎮(きじん)神社には「御由来 埼玉県比企郡嵐山町に、畠山重忠公が御造営された菅谷館(菅谷城)があった。当神社は、その鬼門除けの守護神として、鎌倉街道に沿って建立され、節分祭、勝負の神で有名である。約八百年前、安徳天皇の御代、寿永元年に創建され、御祭神は、衝立船戸神(つきたつふなどかみ)、八街比古命(やちまたひこのみこと)、八街比売命(やちまたひめのみこと)で、主神の衝立船戸神は、伊邪那岐命が黄泉の国を訪れた後、筑紫日向の橘小門の阿波岐原で、禊払いをして持っていた枝を投げ出した時、枝より生まれた神である。それが幅広く解釈されて、悪魔祓いの神、家内安全商売繁盛の神、受験の神と、人生の指針を示し、強い力を授ける神として崇められている。節分祭は、鬼鎮神社において一番大きなお祭りで、この日は、何千何万の人々が「福は内、鬼は内、悪魔外」と連呼する、日本でここだけの鬼の祭であり、境内は大変な賑わいを見せる。遠く千年の昔から、勇名を馳せた坂東武者、明治以降の出征兵士の崇敬篤く、戦後は受験必勝の神様として参拝者は後を絶たず、社頭を賑わしている。このようなことから『鬼に金棒』と昔から云われている金棒のお守り、祈願成就の赤鬼・青鬼の絵馬を授与される方が、非常に多い。 平成二十六年二月三日」と記されています。
鬼鎮神社の河野通久宮司の話では、「約30年前まではバスを仕立てて大滝村からお参りに来ていたが、最近は全く来ない」と少し残念そうな口ぶりが印象的でした。鬼鎮神社がどの様な経緯で大滝村の寺井地区に勧請されたかは不明ですが、鬼の強い力を授ける神としての信仰や家内安全などを祈願したものと推測されます。

吉備明神社

「新編武蔵風土記稿」に吉備明神社について「吉備明神社 上中尾組にあり、同所及び下納組の内、字菅平の鎮守なり、村民持、金毘羅社、石水社・上中尾組にあり、薬王山と號す・・・本尊薬師を安ず・十王堂・牛頭天王社、」の記載があります。

猪垣(ししぐね)

「大滝村誌」に「猪垣」に関し、「猪・鹿などから農作物の被害を防ぐために、山畑のめぐりに築かれた石積み構造物。地元では『シシグネ』と呼び、上中尾には三カ所ある。」及び「新編武蔵風土記稿」に「季春より初冬に至るまでは、遠く一二里も隔て、山の頂又は中腹などをひらきし焼畑の場所へ廬を結び、夫婦子母ここに移住して播種し、未熟の時に至りては昼は猿を衛り、夜は鹿を逐ひ、・・・猪鹿を防ぐこと風雨といえども怠らず、其艱難知んぬべし」と記されています。

上中尾小学校

「大滝村誌」の上中尾小学校については「焼子は窯場の近くに家族が住める小屋を建て、一家総出の労働で炭木の伐採から製炭・炭俵作り・道路までの運び出しをした。・・・多いときには一山に30~50世帯入山していた。就学児童は山小屋から上中尾の学校にかよった。昭和13年(1938年)当時、上中尾小学校にはこれら山仕事に従事する家の子弟が一学級43人もいたことがあった。」とあります。
また上中尾小学校跡には「明治五年八月学制発布され公立大滝小学校開校二年後、甲州信州に通ずる秩父往還沿線大久保耕地以西住民当上中尾耕地石水寺を暫く分教場に当てた。明治四十二年地域の先人達、熱情を傾け、資を蒐め、財を投じ、この地に校舎を建築した。以後、敷地拡張増改築をし、当時全国に例のない小学校寄宿舎建設、高等科設置、国民学校、新制中学校と学制変遷、分校となり、独立上中尾小学校となる。百十余年の経過のうち、住民関係者の努力は弛みなく続けられ、一時二百五十三名を数え、地域文化の中核として幾多人材を育んだ栄光の学び舎は、児童数二十五名となり、大滝小学校に併合、昭和五十六年三月、ついにその幕を閉ざす。まことに感無量なるものあり、ここに上中尾小学校の梗概を勤し建碑して後昆に伝える。 昭和六十三年三月二十七日 大滝村長山口芳夫撰 耕雲山中義一書」と記されています。
大滝村児童寄宿舎回想の碑には「昭和十二年五月学区内の遠隔地から通学する児童生徒のため待望の大滝村児童寄宿舎が上中尾分校北西上方二百米地点に県や村、地元の温かい協力に依り開設となった。遠隔地に住む父兄や児童生徒にとって大きな朗報であり希望の光であった。これまで徒歩片道1~3時間もかかった通学から一変して近隣の児童生徒と同様にのびのびと勉強やスポーツに励むことができ、学業も飛躍的に向上した。又村としても難題とされた通学問題は解決され、更にこの施設利用者も凡そ三百六十名余が輩出されるなど村の教育振興に大きな足跡を残した。そして昭和二十年代後半に至り上中尾地域に車道が入り産業構造の変化に伴って、この地域の生業としてきた製炭業も衰退し、利用者もなくなり、昭和二十七年四月、所期の役目を果たし閉止となった。当時遠隔地に住む児童生徒のための寄宿舎は我が国では最初でこれによりラジオ放送・映画化されるなど大いに称賛され話題となった施設であった。結びに建碑にご協力頂いた方方に敬意と謝意を記す。 平成二十四年三月 旧上中尾小学校児童寄宿舎記念碑建設委員会」の記載があります。

木暮理太郎と栃本

木暮理太郎「秩父の旅」には「しばらくして檜の植林の間を通り抜けると、雁坂峠に導く道が現れる。やがて人声がするので渓の方を見ると、小屋が見えて薪料を背負って登って来る人がある。もう栃本に来たのである。道が左の方へ一迂回すると栃本の村が真近に見える。なつかしい栃本、憧れていた栃本この村のあるが故に、荒川の深い水源をも造作なく考える栃本、五月の若葉のように深い眼の少女の多い栃本に到頭到着した。・・・秩父の最奥の村といえば如何にも山奥のようなれど、言葉付の雅びやかさ、一挙一動のしとやかさ、山奥には見られぬゆかしさは、これを秩父の栃本に見ることが出来る」と記されています。
「山の憶ひ出」には「奥秩父釜行」(「歌誌にひはり」第2巻第9号昭和9年9月号所載)の短歌集が掲載されていますが、その中に「栃本」と題して『栃本の宿の風呂場の窓ゆ見る 甲武信ヶ岳は夕曇りせり』の短歌があり、奥秩父をこよなく愛した木暮氏の感慨が込められています。

田部重治

田部重治著「新編 山と渓谷」には、木暮理太郎氏と中村清太郎氏との三人で登山した金峰山より雁坂峠までの紀行文「秩父の旅」(大正5年5月)が掲載されていて、栃本への並々ならぬ憧れと思いが込められています。

栃本関所跡

栃本関所跡の説明板には 「国指定史跡 栃本関所跡 昭和四十五年十一月十二日指定 江戸幕府は、関東への『入り鉄砲』と関東からの『出女』を取締るため主要な街道に関所を設けた。栃本関は、中山道と甲州街道の間道である秩父往還の通行人を取調べるため設けられたもので、その位置は信州路と甲州路の分岐点になっている。そのはじまりは、戦国時代。甲斐の武田氏が秩父に進出したとき関所を置いて山中氏を任じたと伝えるが、徳川氏の関東入国以後は天領となり、関東郡代伊奈忠次が慶長十九年(1614年)大村氏を藩士に任じたという。以後、大村氏は幕末まで藩士の職を代々つとめた。しかし、藩士一名のみでは警備が手薄であったため、寛永二十年(1643年)、秩父側の旧大滝村麻生と甲州側の三富村川浦とに加番所を付設して警固を厳重にした。したがってその後、栃本関を通行の者で秩父側から行く者は、まず麻生加番所で手形を示し印鑑を受けて栃本関に差出すことに定められた。関所の役宅は、文政元年(1818年)と文政六年(1823年)の二度にわたって焼失し、現在の主家は幕末に建てられたもので、その後二階を建て増しするなど改造されたが、玄関や上段の間、および外部の木柵などには、関所のおもかげをよくとどめている。 平成十年十一月 埼玉県教育委員会・秩父市教育委員会」と記されています。
また、「新編武蔵風土記稿」には栃本関所について「関所 栃本組にあり、時の御代官持にて、里正大助月俸二口を賜はりて守れり、御道具には三つ道具・十手・捕縄等渡れり、ここは前にのぶる甲州へ通ふ一條の口留番所なり、・・・この関の始めを訪ねるに、甲州全盛の頃より立て、山中右馬允と云へるもの、管かり守りしが、慶長年中故ありて刑せられし後、大助が先祖大村與一郎と云ものに命ぜられしより、其子孫累世これを守りて、今の大助に及ぶと云、この関門・柵矢来等の造営・修復等は古大瀧村にて費用を出すとなり、」と記されています。月俸二口とはどれ程の手当なのか不明ですが、とても十分とは考えられず、地元の負担が大きかったことが推測されます。また、風土記稿に「雁坂峠 御林山の内にて、甲州への一路国界の峠なり、栃本より坤にあたり四里四丁漸上る。」及び「十文字峠 御林山の内にて、栃本より坤にあたり、五里餘にあり、」と記載があります。

千軒地蔵尊の由来

「戦国時代、甲斐武田の家臣が荒川上流股の沢に金鉱を発見、鉱山の発展と従事者の安全、周辺住民の繁栄を念願し、千軒地蔵尊と御命名、同地の普門寺傍に安置されたといわれる。山の閉山後、故あって御尊体はこの地に遷座された。屋内天井の鳳凰の画は大正十年この付近の住民有志の寄付により、東京に依託貨車運送車トロッコ等により搬送された。板片の墨画は山中宗治氏村長の頃、御依頼の作品で旧建物に使用されたものである。」と説明板に記載があります。
飯野頼治著「秩父往還いまむかし」には千軒地蔵尊について「この地蔵は、大滝村の奥谷にあった武田家の金山が栄えて、千軒になったのを記念して作られた。武田家滅亡後、ある強力が『廃墟の金山へお地蔵様を一人でおいておくのはかわいそうだ』といって、金山跡から背負い出してきた。栃本の近くまでくると不思議なことに、急に地蔵が重くなり運べなくなってしまった。さすがの強力もしかたなく、そこにおろして祀ったのが今の千軒地蔵尊であるという」とこの場所に安置された謂れを記しています。

東大農学部演習林

東京大学農学部附属演習林の説明板には「東京大学農学部附属演習林は、林学・林業に関する基礎的および応用的な試験・研究を行い、あわせて学生実習の用に供する目的で設置されたものです。私たちの生活をより豊かに発展させる森林を愛し、樹木を大切にしましょう。林内のたき火・たばこなどの火のあつかいには十分注意しましょう。 秩父演習林」と演習林の目的が記されています。

地蔵岩展望台

地蔵岩展望台に関するアカマツの大木の説明書に「地蔵岩展望台 うっそうとしたトウヒ・コメツガの原生林の巨木の中を歩く突出コースの中で、明るく周囲の山々を見渡すことのできる場所。雁坂嶺・東西破風山・甲武信ヶ岳、三宝山と山々が続き壮観な眺めです。ここから5分もあれば岩の上へ行けます。 小屋へ2.5km 小屋へはここから巻き道になります。晴れていたら絶対おすすめ!!」と眺望の素晴らしさが記されています。

雁坂峠の由来

雁坂峠の説明板には「秩父往還の歴史 雁坂峠と秩父多摩甲斐国立公園 雁が越え、人々が歩いた日本最古の峠道、三伏峠(南アルプス、2580m)、針の木峠(北アルプス、2541m)とともに日本三大峠のひとつである雁坂峠(2082m)の歴史はふるく、日本書紀景行記に日本武尊が蝦夷の地平定のために利用した道と記されていることから、日本最古の峠道といわれています。また、縄文中期の遺物や中世の古銭類なども数多く出土している他、武田信玄の軍用道路・甲斐九筋のひとつとしてもしられています。さらに、秩父往還とよばれたこの道は、秩父観音霊場巡拝の道として多くの人々が通り、江戸時代から大正までは、秩父大滝村の繭を塩山繭取引所に運ぶ交易の道として利用されてきました。一般国道140号となった現在は奥秩父をめざす山道として秩父多摩国立公園の豊かな自然とともに登山者に愛されています。雁坂峠の名は、このあたりが雁の群れの山越えの道であった事に由来しているとも伝えられています。 歴史が越え、昔人が越えた雁坂峠、ここは美しい自然と遠く長い歴史があります。 環境庁・埼玉県」と記されています。
また、雁坂峠の別の説明板には「峠付近の植生 奥秩父の山には雁(がん)のつく地名がいくつかみられる。雁道場(突出峠から少し下った場所)は、雁の群れが山を越す前にひと休みする場所、雁坂峠から雁(がん)峠にかけての上空は、かつて雁の群れが山越えをしたことから名付けられたといわれている。雁坂峠の稜線一帯には、山地草原がみられる。この草原は山火事などによる森林破壊後の風のあたる斜面に成立した草原で、シモツケソウ、オオバギボウシ、ミヤコザサ、イブキトラノオ、イタドリ、アキノキリンソウ、シモツケソウ、ミヤマヨメナ、カラマツソウ、シシウド、マルバダケブキ、グンナイフウロ、キソチドリ、などが生育している。雁峠にも同様の草原が見られる。一方、雁坂峠の埼玉県側の斜面には、高木層にコメツガとトウヒの優占する亜高山針葉樹林が見られる。亜高山層はシラビソ、オオシラビソ、トウヒ、低木層にはコヨウラクツツジ、サビハナナカマド、ミネカエデ、シラビソ、草木層にはマイヅルソウ、ミヤマカタバミ、カニコウモリ、オサバグサ、バイカオウレンなどによって構成されている。 環境庁・埼玉県」と記されています。

雁坂峠の位置

未確認ですが、元の雁坂峠は今より少し雁坂嶺寄りにあったが、台風等の被害を受けて現在の雁坂峠の位置に移動させられたという説があります。
かつての秩父往還は、雁坂嶺経由で雁坂峠に至るルートがあったのではないかと指摘されています。地蔵岩付近から現在の雁坂小屋への巻き道を通らずに、孫四郎峠(地蔵岩分岐近くから雁坂嶺に尾根通しで登るルートの地蔵岩付近の鞍部)を越えるルートです。
一方、明治43年測図の地形図「金峰山」には黒岩尾根の肩に雁坂小屋の記載がなく、孫四郎峠付近から現在の巻き道よりも西側(雁坂嶺に近い)を巻いて直接雁坂峠に至る道が記されています。雁坂小屋付近の巻き道は風雨による斜面の崩壊等で、頻繁に道が付け替えられた可能性が高いものと推測されます。
明治期以前には、旅人の安全を確保するために、巻き道よりも遠回りになりますが、孫四郎峠付近から尾根筋を利用して雁坂嶺に達する尾根道で、雁坂峠に下る道があったとしても不思議ではありません。

ミニ知識

強石のにぎわいと地名の由来

強石の説明板には「秩父多摩甲斐国立公園及び大滝の玄関口である強石は大正時代に県道が開通された頃から物資が集まる交通の起点として大いににぎわいを見せた。馬車の発着点、木炭の問屋、銀行の支店、飲食店、菓子店、旅館などあらゆる種類のお店が軒を連ね、昭和40年代までこのにぎわいは続いた。現在は、宿が1軒営業し、ほぼ生活の場となっている。強石は巨大な岩石が多く、落石があり交通の難所であったため名づけられたといわれている。」と記されています。
また、「新編武蔵風土記稿」の強石組の条に「中央に荒川の流れ一條西より東せり、北岸にそひし一路あり、この路は新古大瀧村にかかり、栃本の口留番所を経て、雁坂峠に達し、甲州へ通ふ往来なり、・・・荒川の中流及び山根等にも、巨石嶮岩ことさら多く峙立せり、強石の地名もここに權興するなるべし、」と強石の地名の由来が記されています。

秩父御岳山と普寛行者

強石にある「秩父御岳山登山コース案内図」には「秩父御岳山は、普寛行者の開山で、山頂は普寛神社の奥宮で御岳大神がまつられています。もともとは山岳修行の山でした」とあります。
また、普菅神社の説明板には「木曽御岳山の開祖、修験行者、普寛導師(ふかんどうし)が江戸末期に開いた山で、普寛は一般の人が霊山に登れなかった時代、古い習慣を打ち破り大衆登山を可能にした。普寛導師は大滝村の出身で、落合地区にある普寛神社は生誕の地である。(碑は県文化財史跡となっている。)各地に同様の山名が多いことから、秩父御岳山(ちちぶおんたけさん)」と呼ばれるこの山は低山(1080.5m)ながら山頂の眺望は良く、春のカタクリ、秋の紅葉と手軽に四季を楽しめる山である」と記されています。
普寛行者については「木曽御嶽山、越後八海山、上州武尊山、武州意和羅山などを開山・中興した木食行者。享保十六年(1731年)武州秩父に生まれた。俗名、木村好八。はじめ江戸に出て仕官したが、明和元年(1766年)三峰観音院に入り、普寛と名を変え本山派の修験者となった。天明二年(1782年)から木食行を始め、諸国を遊行して数多くの霊山を開いた。まず三笠山(群馬県)と意和羅山(埼玉県)を開いた後、寛政四年(1792年)木曽に来て御嶽に登頂、王滝口登山道を開いた。翌年にも御嶽に登山するとともに、江戸を中心にして修験者の霞支配の方法を取り入れた御嶽講の組織化をすすめた。寛政六年(1794年)には夢告により弟子を連れて越後に赴き、地元の行者泰賢とともに八海山を中興開山、屏風道を開いた。八海山はこれ以後、御嶽行者が相次いで訪れ、この地方の新しい山岳霊場として脚光を浴びるようになった。普寛は翌年、武尊山(群馬県)をも開山し、享和元年(1801年)に武州本庄宿で没した。死後、普寛霊神と仰がれ、一般には御嶽の開祖、御嶽教の開祖と仰がれる。 修験道辞典。慶応大学教授 宮家 準編 東京堂出版より 平成十二年一月元旦宗教法人 御嶽普寛神社之建 監修 大滝村教育委員会」と修験道辞典からの引用が記されています。普寛神社は普寛行者を祀っています。
なお、王滝口は郷里大滝の字音をそのまま名づけられたと記載されています。

三河漫才

三河漫才の写真の提供者からのコメントには「山の中腹の集落の隣から隣につながる細い路地から太夫と才蔵が現れ、居間で正月の挨拶をすると、すぐに座敷漫才が始まる。鳴り物は鼓・胡弓・三味線で静かな佇まいも二人が正月にふさわしい目出度いおどけた言葉がポンポンと飛び出し、山の家が賑やかになり、家人の顔もほころぶ。・・・地元の人達は半世紀の間つかの間の楽しみを味わったが、私たちは一期一会の時間を貰った貴重な体験だった。」と約50年も前に奥秩父の山里に訪れた正月の様子が生き生きと紹介されています。既に失われたであろう豊かな民俗芸能に思いをはせることが出来ます。

焼畑を表すソリやサス

「新編武蔵風土記稿」の新大瀧村の条に、大滝村は耕地には適さない山間の地のため燒畑を行っていたことが記されています。
中津川沿いには、小双理、中双理の「ソリ」や白井差の「サス」などがあり、これらは「焼畑」を表す言葉として知られ、かつての名残を現在の地名に留めています。

ヤマトタケルが越えた雁坂峠

『古事記』(倉野憲司校注)の、景行天皇の小碓命(後の倭建命のこと)の東征の条には「足柄の坂本に到りて、・・・故、その坂に登り立ちて、三たび歎(なげ)かして、『吾妻はや。』と詔(の)りたまひき。故、その國を號けて阿豆麻(あづま)と謂ふ。すなわちその國より越えて、甲斐に出でまして、酒折宮に坐しし時、歌ひたまひしく、『新治 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる』とうたひたまひき。・・・その國より科野(しなの)國に越えて、すなわち科野の坂の神を言向けて、尾張國に還り来て、」と甲斐の酒折宮から信濃國に向ったことが記されていますが、雁坂峠を越えたとは明記されていません。
しかし「武州三峯山 當山大縁起」には「夫三峯大権現の由緒を尋奉るに、爰に人皇四十四代の帝元正天皇養老年中、一品舎人親王詔を蒙、國史を撰し給ひ、名付けて日本書紀と號す。其の巻の五に曰、十二代帝景行天皇即位四十年、東國夷大に帝に背き、依之第二皇子日本武尊勅を蒙らせ給ひて東ニ下り給ふに、始駿河國より相模國武蔵を經て常陸國に至給ふ、此時東の夷等悉王威に伏奉る。明年三月皇子夫より甲斐國に至、酒折の宮に留り給ひて、暫軍勞を休め給ひ、四月三日再北轉を經て武蔵上野國に至給ふと云々。當山の古記に曰、日本武尊酒折宮よりきためくりへるの土地、雁阪の山を越して直に當山に登給ひて、遥かに國中の地理を望、・・・」と日本武尊が雁坂峠を越えて三峯山に登山したことが記されています。

武田信玄が越えた雁坂峠

「甲斐國志」(松平定能編)には「雁阪口 秩父街道トモ云、小原ヨリ北行シテ一二三ノ橋アリ、笛吹川ニ沿ヒテ上ル路總テ河浦入ト云、天科(あましな)ニ國堺ノ番所ヲ置ク、小原ヨリ六里府中ヨリ九里餘、是ヨリ雁阪嶺ノ上國堺ニ至ル四里八町ナリ、武州秩父郡栃本ノ番所ニ出ツ、峠上下凡ソ八里無人ノ境也、栃本ハ太田基(おおたき)ニアリ、西ノ方信州に越ハル路十文字嶺ト云フ、同州大宮マデ拾五里許」と記され、川浦口留番所(天科)より甲斐国境である雁坂嶺(峠)を越えて、栃本番所(関所)に至る「雁坂みち」があったことが記載されています。また、「峠上下凡ソ八里無人ノ境也」と紹介された難所であることがわかりますので、武田信玄も大軍で峠を越えることはさぞ難しかったろうと思われます。

台風による樺小屋付近の被害

樺小屋の説明板には「樺小屋附近の主な樹種 ダケカンバ、コメツガ、ウラジロカンバ、ウダイカンバ、ミネカエデ、オガラバナ、サビハナナカマド、ヒロハツリバナ、ミネザクラ、コヨウラクツツジ、サラサドウダン」及び「森林埴生 かつて、この付近一帯はダルマ坂や地蔵岩付近にみられるようなコメツガ、シラベなどからなるうっそうとした亜高山針葉樹林に覆われていましたが、1959年(昭和34年)9月の伊勢湾台風によって、未曽有の森林被害が発生し、景観は一変してしまいました。現在、この付近に数多くみられるダケカンバの優占する林分は、風害直後に芽生えた稚樹から再生した林分です。ダケカンバの優占林分の下層にはコメツガやシラベの若木が生育していますが、これらの多くも風害後に芽生えたもので、上層のダケカンバとほぼ同じ樹齢です。コメツガに比べてダケカンバの成長速度が早いために、このような群落状態を呈していますが、元のコメツガ林に近い状態に回復するには数百年かかります。 環境庁・埼玉県」と記されています。

龍泉寺と鉢形城の落人伝説

龍泉寺の本堂前に置かれた屋根付きで金属製の大きな焼香台(?)に後北条氏の「みつ鱗」紋が彫られていました。奥秩父は戦国時代末期に、豊臣秀吉に攻められて後北条氏の拠点であった鉢形城が落城し、多くの武士たちが奥秩父の山村に落ち延びたとの伝説が残されています。中津川や大久保・麻生・栃本などにも鉢形城の落人の痕跡が残っていても不思議はありません。平家の落人伝説はどこでも話題に上りますが、奥秩父には後北条氏所縁の落人伝説が良く似合います。

孫四郎峠の由来

大久根茂著「秩父の峠」に「雁坂小屋が作られる以前は、この海抜二、〇〇〇メートル付近からさらに尾根へと登り、孫四郎峠という鞍部を一つ越えて直接雁坂峠に出る道だったという。この孫四郎峠の名の由来が面白い。昔、栃本に孫四郎という人がいて、よく山の案内をした。あるとき、雁坂峠までの道案内を頼まれたのだが、孫四郎は峠まで行かず、一つ手前の鞍部を雁坂峠だと教えて帰ってきてしまった。それからそこを孫四郎峠と呼ぶようになったのだという。」と孫四郎峠の由来が記されています。

国道140号は「便所国道」?

雁坂小屋のトイレは、ネット等で「便所国道」と書かれ、国道140号がトイレの中を通っていたとして紹介されています。この写真を撮るためにわざわざ小屋を訪れる人もいるとか。
しかし、国道140号は秩父往還として、突出峠経由で雁坂小屋に向かうコースのことであり、黒岩尾根コースの上にあるトイレは秩父往還を通らないことは明確です。

ゆかいな「だるま坂」の案内

「だるま坂」の案内板には「だるま坂 ご苦労様です。長い雁坂峠への道もこのだるま坂が最後の登り坂です。この先300M右側の地蔵岩展望台入口を過ぎると小さな登降をくり返す巻き道となります。景色がひらけ前方、黒岩尾根の肩に雁坂小屋が見えてきます。ご安全に! 1191 と書いてからはや20数年。巻き道の樹林も伸びて、落葉の時期でないとなかなか雁坂小屋も見えにくくなってしまいました。『ご安全に』は昔も今もかわりません。2013.10」と雁坂小屋に関するコメントが記されています。

樺小屋のむかし

樺小屋の説明板には「樺小屋(かばこや) 古老の話によると昔この道が『秩父往還』と呼ばれ、秩父と甲州を結ぶ生活道路だった頃、ここに今でいう避難小屋的ものが有ったそうです。その後も山仕事の人々にも使われたようです。今でも水場へ向かう途中には、食器のかけらなど見られます。今の小屋は、およそ20年ほど前に建てられました」と記されています。
また「水場:小屋の前の登山道を雁坂方面に15m。大木の後の案内板を左へ。水場まで5~6分。出ていないこともあります」とあります。

まつわる話

宇治谷孟著「日本書紀」(現代語訳)には「日本武尊がいわれるのに、『蝦夷の悪い者たちはすべて罪に服した。ただ信濃國、越國だけがすこし王化に服していない。』と甲斐から北方の、武蔵・上野をめぐって、西の碓日坂にお着きになった。日本武尊は常に弟橘姫を思い出される心があって、碓日の峯にのぼり、東南の方を望んで、三度歎いて『吾嬬(あずま)はや(わが妻は、ああ)』といわれた。それで碓日嶺より東の諸国を、吾嬬國(あずまのくに)という。」と日本武尊が甲斐から武蔵を経て上野に向ったことが記されています。

ルート

贄川宿→中ノ峠→落合

計3時間10分 6.5km
贄川宿
↓ 45分 2.5km
強石
↓ 80分 2km
杉ノ峠
↓ 60分 2km
落合(普菅神社)

落合→栃本関所跡→川又

計5時間20分 12km
落合
↓ 30分 2km
楢平バス停・ゲートボール場
↓ 80分 2km
龍泉寺
↓ 60分 2.5km
麻生加番所
↓ 120分 4km
栃本関所
↓ 30分 1.5km
川又バス停

道の駅・みとみ→雁坂峠

計4時間 8.5km
道の駅みとみ
↓ 80分 3.5km
沓切沢橋
↓ 150分 4.5km
雁坂峠
↓ 10分 0.5km
雁坂小屋

雁坂峠→川又

計6時間30分 10.5km
雁坂小屋
↓ 120分 2.5km
地蔵岩展望台分岐
↓ 60分 1.5km
樺小屋
↓ 90分 3km
雁道場
↓ 90分 2.5km
雁坂峠登山口
↓ 15分 1km
川又バス停

アクセス

・秩父鉄道・三峰口駅、三峰口駅から三峯神社行の西武観光バスで、大輪、落合、二瀬ダム方面または川又方面(駐車場なし)。
・秩父市営バス川又線で大滝温泉(公共駐車場あり)、麻生、上中尾、栃本方面。
・塩山市から山梨交通バスで「道の駅みとみ」(公共駐車場あり)
・川又バス停から西武観光バスで三峰口駅

参考資料

埼玉県教育委員会編集「歴史の道調査報告書・第11集 秩父甲州往還」埼玉県県政情報資料室、平成2年4月発行
「大日本地誌大系 新編武蔵風土記稿(第12巻)・秩父郡(古大瀧村・新大瀧村)」雄山閣、昭和46年2月25日発行
秩父市大滝村誌編さん委員会「大滝村誌」秩父市、平成23年(2011年)3月31日発行
倉野憲司校注「古事記」岩波書店、2018年7月25日、第88刷発行
宇治谷孟「日本書紀(現代語訳)」講談社学術文庫、1988年6月10日
五來重編「「武州三峯山 當山大縁起」修験道史料集 1 (東日本篇)山岳宗教史研究叢書17」名著出版、昭和58年6月20日発行
田部重治著、近藤信行編「新編 山と渓谷」岩波文庫、1993年8月18日発行
木暮理太郎「日本岳人全集 山の憶ひ出」日本文芸社、昭和44年4月20日発行
飯野頼治「秩父往還いまむかし」さきたま双書、平成11年2月25日発行
飯野頼治「地図で歩く秩父路」さきたま出版会、2006年12月10日発行
太田巖「奥秩父の伝説と史話」さきたま出版会、昭和58年7月15日発行
太田巌「秩父往還-武田家外伝」新人物往来社
大久根茂「秩父の峠」さきたま双書、昭和63年4月30日、初版第1刷発行

国土地理院(2万5千分の1地形図)「中津峡」、「雁坂峠」、「三峰」
5万分の1地形図「三峰」 明治43年測図・大正2.4.30発行
5万分の1地形図「金峰山」 明治43年測図・大正2.6.30発行
山と高原地図 雲取山・両神山2021(昭文社 2021年3月15日発行)

協力・担当者

《担当者》
日本山岳会埼玉支部
松本敏夫

《調査協力者》同支部

宮崎 稔、山崎保夫、浅田 稔、本村貴子、古川史典、小原茂延、宮川美知子、
渡邉嘉也、東 洋子、中嶋信隆、小島千代美、野口勝志、児嶋和夫、林 信行
Page Topへ