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49 十文字峠越え

十文字峠越え

「十文字峠越え」の道は、鬱蒼とした樹林に囲まれた奥秩父を代表する自然景観が残る歴史と交易及び信仰の道です。
秩父から雁坂峠を越えて山梨市への抜ける秩父往還道と秩父から十文字峠を越えて、川上村梓山へ向かう分岐が栃本です。
栃本には江戸時代の関所跡が残され、往時を今に偲ぶことが出来ます。
また、十文字峠道は、中山道の裏街道として、古くから信濃国川上村と武蔵国秩父とを結ぶ道として知られていますが、古代には信州和田峠付近に産出する黒曜石が十文字峠を越えて秩父に運ばれたと伝えられています。
峠道は奥秩父を代表する自然景観が残る歩きやすい道で、昔ながらの十文字小屋が登山客を迎えてくれます。
また、十文字峠を挟んで一里ごとに観音菩薩の苔むした石像(里程観音)が安置され、三峯山への参詣や秩父夜祭を楽しみに通行する旅人の安全を見守っています。

古道を歩く

梓山バス停から十文字峠

川上村の梓山バス停から梓川に架かる梓川橋を渡ると左側に秩父多摩甲斐国立公園と記された大きな標識があり、その前に庚申塔、御嶽開山普寛行者碑(元治元甲子十月立之)、2基の道祖神、座王大権現(元治元年甲子十月吉日・講中)等の石仏石碑が集められています。
木曽御嶽山の王滝口を開いた旧大滝村落合出身の普寛行者の碑や座王大権現碑は同一時期に建てられたもので、御嶽信仰が地域の人達に篤く受け入れられたものと思われます。


梓山の街並みを毛木平方面に進むと右側に金峰山神社があります。
御祭神は大巳貴大神(大国主命と同一?)で、彫刻で飾られた本殿はカツオ木と千木が載せられた格調の高い社です。
奥秩父の盟主と云われる金峰山は、古くから修験道の聖地である吉野の金峰山(大峰山)から名付けられたものと考えられますので、金峰山神社も神仏習合の時代には修験者の守護神である金剛蔵王権現を信仰していた可能性が高いと推測されます。

金峰山神社の先で車道が二手に分かれますが、標識には「右:千曲川源流・十文字・農道(行き止まり)-左:秩父・三国峠・中津川村道(通行注意)」の表示がありますので、旧道と考えられる左の道を進みます。
車道の左側には石仏群や石碑(□□経千部供養塔など)があり、大山祇神社から右手に進行方向を変えます。
鬱蒼とした松林に囲まれた大山祇神社の鳥居の前に石碑石仏があります。
石仏は馬頭観音像で左に林太兵衛(?)、右に元治元子年十月の銘が確認できますので、里程観音と同時期の設置と推定されますが、里程観音とどの様な関連で設置されたのか興味深いことです。
車道沿いにはムラサキケマン、ナルコユリ及びベニバナイチヤクソウなどがあり、道路端には村天然記念物に指定されているアズサバラモミ及びその説明板があります。

木材置き場を過ぎ、三国峠方面への分岐となる日本基橋の手前から南下して戦場ヶ原へとコースを変えます。
高原野菜畑を南東に進み農道が終わりになると、「特別母樹林札」と「21世紀の森林」がありカラマツ林の未舗装の林道へと変わります。
レンゲツツジやベニバナイチヤクソウなどを眺めながら進むと毛木平の「長野県川上村毛木場駐車場」につき、「千曲川源流入口・十文字峠・甲武信ヶ岳登山口」でもあります。
広い駐車場は60台が収容可能で、トイレの横には登山届カード入が設置され、奥にある東屋には登山・ハイキング案内が掲示されていました。

駐車場を横断すると十文字峠や甲武信ヶ岳に向かう林道が伸びています。
林道入口には車両通行止めの褐色のバーが設置され、キャンプ禁止の標識が設置されています。
清々しい空気に包まれたカラマツ林の中の未舗装の林道を進むと、左に石像三基と「三峯山大権現 右ハ山道、左ハ江戸道」の白色に塗られた木の標識があります。
左端の四角い石碑に三峯山大権現の文字が彫られて、中央の一基は馬頭観音像の浮き彫りがあり、像の左に「左ハ三峯」、右側に「右ハ山道」と刻されています。
いずれにしても、江戸時代に梓山から十文字峠・栃本を経て、三峯山に詣でた信仰の道(三峯道)の証しであり、火防や猪・鹿などの野生動物から農作物を守り、盗難除けにも御利益のある三峯山の護符(お犬様:オオカミ像)を借りに行く三峯講の人達で賑わった信仰の道を裏付ける石碑と推測されます。

林道を進むと道標「甲武信ヶ岳・千曲川源流」と「十文字峠・千曲川源流狭霧橋」の分岐があり、左折して十文字峠に向かいます。
沢に架かる木造の立派な千曲川源流狭霧橋を渡り、次の沢を丸太橋で越え、更に渡渉すると沢沿いの登山道に変わります。
登山道の一部が崩れており、トラロープが張られています。

大木の左側を巻くように道がつくられており、「石像 一里観音菩薩・川上村教育委員会第二号・昭和四十八年五月三十一日」と記載された白い杭があります。
五里観音(一里毎に設置された観音石像で栃本から五里目の観音像)石像は登山道の右側に、少し斜めに傾いてこちらに背を向けるように設置されています。
大滝村誌に十文字峠路の里程観音に関する詳細が記されていて、川上村からは一里に相当するので、一里観音と表記されたものです。
十文字峠越えの里程観音は川上村などの信濃國の人達により三峯詣での安全を祈願して安置されたことが理解できます。

落葉樹の明るい沢に沿って登ると左側の水場があり、塩ビ管から冷たい水が流れ落ちています。
水場から右に折れ、八丁坂を約30分、ジグザグに急登すると、コメツガやダケカンバに覆われた稜線つきます。
梓山から登ってくると、ここはどうしても一休みしたくなる場所です。
ここに分岐があり、古い標識には十文字峠まで30分の記載があります。
稜線の右側を緩やかに登り、巻き道を下ると十文字峠につき、道標「十文字峠」があります。
稜線に甲武信ヶ岳/三国峠への分岐であり、右に進むと鬱蒼とした樹林の中に昔ながらの山小屋の面影を残す十文字小屋が佇みます。
キバナノコマノツメ、アズマシャクナゲやミヤマカタバミなどが迎えてくれます。
甲武信ヶ岳から十文字峠を経て三国峠に至る稜線はシャクナゲの名所であることが古くから良く知られています。
また、十文字峠は甲武信ヶ岳から三国峠に至る稜線上にあり、日本海に注ぐ信濃川と太平洋へと流れ下る荒川との分水嶺になっています。
古道を歩きながら、アマドコロ、マイズルソウ、ミヤマカタバミ、バイケイソウ、エンレイソウ、ニリンソウ、ツクバネソウ及びタマガワホトトギスなどの花々が楽しめます。
また、カッコウ、ホトトギス、オオヨシキリ、セキレイ及びミソサザイなどの鳥類の囀りを聞くことが出来ます。

十文字峠から栃本

栃本に向けて早朝に小屋を出発します。
十文字小屋から甲武信ヶ岳方面に少し登ると、栃本方面と甲武信ヶ岳方面との分岐を示す道標があり、栃本方面へと左折します。苔に覆われ鬱蒼としたコメツガ、シラベ、トウヒなどの樹林帯を東に向かっては墲水平な巻き道を下ると道標「股の沢・川又-栃本」の分岐にでます。
分岐を左手に栃本方面に数分下ると、鞍部の左手に四里観音があります。
観音像の両側には文字が刻まれていて「右に中島市太夫、左に川上百助」と確認でき、「民族資料 十文字峠の里程観音(四里観音)」の標識が建てられています。事前の予想通りに見事に彫られた観音像です。


稜線の左側はシャクナゲのトンネルがあり、小ピークを巻くように下ります。
鞍部に道標「十文字峠-避難小屋-白泰山・栃本」があり、四里観音避難小屋の表示があります。
避難小屋は稜線から東側に少し下った平場にあり、比較的新しい建物(平成2年2月27日の記載)です。
小屋の内部は板敷で十数畳の広さであろうか清潔な感じです。
水場までは約2分と近く、別棟にトイレがあり、極めて居心地の良さそうな避難小屋です。
また、避難小屋への分岐には、道標「十文字峠-白泰山・栃本-至奥秩父林道」があり、奥秩父林道への分岐でもあります。

稜線の左側を巻くように小さなピークを越え、原生林の雰囲気を残す樹林帯を越えると新しい道標「十文字峠-白泰山・栃本、埼玉県」があります。
稜線を乗越してササ枯れの中を大山の右側(南側)を巻くと、沢沿いの急斜面には崩壊防止のコンクリート擁壁が設置されています。
道端にはハシリドコロなどが見られ、大山山頂に向かって稜線を直登する踏み跡も確認できます。
大岩の裾を巻くと稜線上を切り開いた広い場所にでます。
廃道となった林道の終点と思われます。国土地理院の地形図(2万5千分の1)で確認すると中津川に抜ける奥秩父林道の終点であることが分かります。
林道は雑草が刈り込まれた広場になっていて、中津川方面へはトラロープで進入禁止となっています。
また、ここにも道標「白泰山・栃本-十文字峠、埼玉県」が設置されています。

林道終点から稜線の右に下り、左側を巻き、稜線の右(南側)を巻き稜線に出ると、刈り払われた一角に三里観音の石仏が設置されています。
観音像の両側には「右に大村久兵衛、左に上田平右衛門」と刻されています。
大久根茂著「秩父の峠」によると、大村久兵衛は栃本関所で代々藩士を務めた大村家であると記されています。

赤沢山に向かってササやアセビの目立つ稜線の左側(北)を巻くように登りますが、落石などで登山道が荒れ、通行も困難な場所もあります。
鍾乳洞入口の標識を過ぎると赤沢山から東に延びる稜線につきます。その手前に青いテープがササに結んであり、赤沢山頂への分岐です。

「山火注意・東京大学」の丸い黄色の標識やウツギ及びギンリョウソウなどを眺めながら自然林の中を稜線の上り下りを繰り返しながら二里観音に向かって進みます。
岩壁の裾を回り込むように進み、右側が切れ落ちた背丈ほどの岩場を慎重に越えると前方に白泰山避難小屋が見えてきます。
避難小屋の前に足元がスッパリと切れ落ちた“のぞき岩“があり、奥秩父の山々の展望が開けています。
また、道標「栃本-のぞき岩-十文字峠、白泰山避難小屋・埼玉県」があり、避難小屋の横に二里観音が安置されています。
観音像の右に願人・上田氏、左に中島嘉十郎・中島助之丞と不明瞭な文字が彫られています。
白泰山避難小屋は四里観音避難小屋に比べて古そうですが、室内にストーブがある以外は似た作りで、広さも同じ程度です。
暖房用薪割用に設置された真新しい斧やノコギリが目に入りました。

一里観音に向って進むと、登山道の端に東京大学演習林の説明板が設置されています。
ツツドリやアオバトなどの鳥類やアセビ、ハシリドコロ、ウツギ及びトウゴクミツバツツジなどの花が確認できます。
幅の広いなだらかな登山道を南東に進むと白泰山頂への分岐である道標「栃本-十文字峠-白泰山」にでます。
白泰山頂へは、シダに覆われた斜面につけられた登山道を辿ると、二等三角点が設置された白泰山頂につきます。

白泰山分岐に戻り、一里観音への古道は奥秩父に特有の何処までも続く長い、長い典型的な巻き道です。道幅の広い登山道の左側にある一里観音は文字か刻まれていて、「木村義兵衛、中島為之助」と読めます。
崩れかけた白色の四角い標識が石仏の傍に設置されていますが、文字は解読不能の状態です。

登山道の道幅は更に広がり、右側が伐採された場所に出ると、栃本広場の説明板と「栃本尾根ハイキングコース案内」などが設置されている「栃本広場」への分岐にでます。
巻き道の左手には、かつては奥秩父の主要産業であった炭焼窯跡が残されています。

杉の植林帯に変わり、急斜面をジグザグに下ると木々の間から下に林道が見えてきます。
地形図にも記載がある栃本広場へと続く林道で、車道に出た場所に「白泰山線登山道入口」の標識があります。
巻き道を辿りながら、コジュケイやウグイスなどを確認できます。
車道の斜め向かい側に栃本への古道が続いていますので、杉の植林帯の中の巻き道を下ります。
巻き道の途中に倒れそうな東屋(十二天尾根休憩所)が見えてきます。
隣に朽ちた標識が倒れていて、十二天尾根と記載があり、ここは十二天(標高1206.6m、三等三角点)への分岐です。
十二天は方位を示す神と考えられますが、山の神としても信仰されています。

送電線の鉄塔(東京電力、川又線五)を越えると、急な下りとなり、神社らしい建物の屋根が下に確認できます。
杉の落葉に埋もれた道標「両面神社-栃本方面-白泰山を経て十文字峠方面」が分岐にあります。
右折すると両面神社の白木の比較的新しい鳥居(三峯神社権禰宜による竣工祭;令和元年12月7日)があり、杉林の静寂な境内には、一対のオオカミ像(お犬様)(昭和三十二年三月竣工)、その奥に社殿があります。
風土記稿には「両面権現社」と記載されている両面神社です。
社殿に掲げられた注連縄の上部の扁額には「両面神社」、奥にある社殿の古い扁額には「奉献 両面宮(昭和二十三年十月吉日、三峯神社宮司廣瀬信吾謹書)」と記されています。
大滝村誌には、伝説として両面神社は三峯神社と姉妹と記されていて、三峯信仰が受け継がれたものと考えられます。

植林され手入れの良く行き届いた杉林の登山道(古道らしさは感じられません)を十分ほど下ると、舗装道にでます。
十文字峠越えの下山口に登山の注意事項、表示板の下に「登山届書入」と朱書された白い箱が設置され、登山口らしい様式がそろっています。
下山口に石の道標が建てられていて、石標「右ハ信州道、左ハ一道:大正十一年一月大瀧村、勅諭下賜四十年記念」とあり、信州への道であることを示しています。
また、栃本の旧秩父往還(雁坂峠)及び信州(十文字峠)への道との分岐に設置されている石の道標と同じ時代に建てられたことが分かります。比較的新しい道標ですが、十文字峠を利用する人たちで賑やかであった頃の記憶を留める遺物のようです。
登山口には道標「両面神社-栃本方面-白泰山を経て十文字峠」も設置されています。

鬱蒼とした杉林に囲まれた車道(かつての古道と思われますが)を下ると、まもなく南向きの急斜面に沿って数軒の民家が並んだ栃本の最奥にある午房平地区につきます。
風土記稿・古大瀧村の条には小名として「午房平」と記され、また道路わきの分岐の道標には「午房平、二瀬・秩父方面-十文字峠方面」とあります。
しかし、風土記稿には「牛房平」と「午房平」の表記が混在していますが、今回は「午房平」に統一しました。
地名の由来を詳細に調べると興味深い歴史が紐解かれる可能性もありそうです。
午房地区の栃本関所跡よりの左側に愛宕地蔵尊があり、車道の向かい側は栃本の旧秩父往還に下る旧道が分岐しています。
愛宕地蔵尊には石碑(昭和五十年一月建立)と大きな石灯籠2基と御堂があります。
堂内には金色の地蔵尊が安置されています。
しかし、騎馬に乗った将軍地蔵像とは異なりますので、愛宕地蔵なのか未確認です。

左側の栃本広場に向う林道の右側に、苔むした石仏石碑(馬頭尊・巳待塔など)があります。
道標に従い午房平の分岐から幅1m程の草に覆われた旧道を旧秩父往還に向って下ります。
左側は急斜面による崩壊を防止するためか背丈ほどの石垣が築かれ、右側は草に覆われていますがかつては畑だったと思われます。
旧秩父往還に合流する少し上部の左側に石仏石碑(廿三夜塔、如意輪観音、常夜灯)が並び、廿三夜塔は道標の役割も果たしています。
また、如意輪観音は前述の大滝村誌に記載された「栃本側の峠への登り口に安置されている石仏の如意輪観音(起点の里程観音)」と同一であるかは未確認です。
一方、常夜灯には「奉燈両面大権現」と刻され、ここが両面神社の参道入口であることも示されています。
旧秩父往還の合流点には、雁坂峠を越える甲州道と十文字峠を経て梓山村に向う信州道の分岐として大正期に設置された石の道標「右ハ信州道、左ハ川又ヲ経テ甲□□」があり、十文字峠に至る古道は旧秩父往還の栃本におけるこの分岐から始まるものと考えられます。信州道と甲州道の分岐から栃本方面に進み左側の妙見神社を過ぎると、秩父往還の左側に栃本関所跡があります。
関所跡には説明板があり『国指定史跡 栃本関跡 昭和四十五年十一月十二日指定』と掲示されています。
栃本関所の詳細な歴史が紹介され、信州や甲州と秩父との出入り口として、また中山道の裏街道として、重要な役割を果たしていたことが推測できます。
一方、昨年までは関所跡の入口左側に「史跡 栃本関趾」と記した大きな角柱の標識がありましたが、老朽化のためか今は撤去されて土台を残すのみです。

この古道を歩くにあたって

・赤沢山山頂や白泰山山頂は樹木に覆われていて展望は期待できません。
時間に余裕がない場合はカットすることも考慮する必要があります。また、栃本から道の駅・大滝温泉、川又から三峰口駅までのバスは最終運行時刻が早いので、事前に調査が必要です。
・十文字小屋から降った先の栃本と川又の分岐には「この先約5km地点の柳小屋附近 丸木橋は増水時には利用不可能となることがあります。埼玉県」の注意版が設置されています。

古道を知る

十文字峠の歴史

新編武蔵風土記稿(以後、風土記稿)・秩父郡の古大瀧村の条に「十文字峠 御林山の内にて、栃本より坤にあたり、五里餘にあり、」と記されているのみで詳細な峠の記載はありません。
しかし、大滝村誌にはお雇い外国人R・W・アトキンソンとW・G・ディクソンら3人が強石から十文字峠を越えて梓山への山旅をしたことが記されており、昔からよく知られた峠道として、十文字峠越えは明治の初期には既に外国人も利用されていたことがわかります(①)。
更に、大滝村誌には十文字峠の里程観音に関する詳細な記載があります(②)。
十文字峠越えの古道は、鬱蒼とした樹林に覆われた奥秩父を代表する自然景観が残る歩きやすい道ですが、峠道の特徴として、栃本から梓山への間は明治期以前には行き倒れた旅人も多かったのか、一里ごとに通行人(参詣者を含む)の安全を祈願し、亡くなった旅人を供養するために里程観音が設置されたものと推測されます。
また、毛木平の信州側登山口には隆盛だった三峯信仰の記憶を今に留める三峯大権現の石碑が残り、栃本側の登山口近くには三峯神社と密接な関係が知られている両面神社があるのは興味深いことです。
大久根茂著「秩父の峠」には、信州と武州との信仰で結ばれた庶民交流の歴史が記されています(③)。
《注記》
①大滝村誌:「アトキンソンの十文字峠越え イギリス人で当時の東京改正学校(のちの東京大学。注:東京開成学校の誤記載と思われます。)教師、いわゆるお雇い外国人R・W・アトキンソンとW・G・ディクソンら三人が強石~大達原~大輪~落合~栃本~十文字峠~梓山コースの山旅をしたのは明治十二年(1879)夏のことである。」とあります。
②大滝村誌:「十文字峠の里程観音 本村域に四体、長野県川上村域に一体、計五体が一里ごとに配置されている石造観音像。竣工は元治元年(1864)四月。寄進者は次の10名。上田平右衛門、木村義兵衛、中島嘉十郎、大村久兵衛、中島為之助、中島助之丞、中島市太夫、川上百助、上田市兵衛、木村善兵衛。銘によると梓山登山口に一里観音、順次二里、三里と設置したことがわかる。大滝側では栃本を起点にして一里観音、二里観音と呼ぶのが習慣になっている。」
と里程観音に関する詳細な記載があります。
③大久根茂著「秩父の峠」には、「三峯山は、ひと昔前までは、足が頼りの信仰の山だった。人々は年に一度は登拝して“お犬さま”の加護(火防、盗難よけ)を得ようとした。特に信者の多かったのは、信州の村々だった。こうして十文字峠は、三峯信仰を通じて信州と秩父を直結させていた。信州では峠を越えて行くことを「裏」から三峯に行くといった。江戸・東京をはじめ、関東平野の村々からの代参者が表参道を登ったのに対して、信州の人々は二瀬からの裏参道を登ったからだ。」と記されています。

深掘りスポット

アズサバラモミ

大山祇神社を千曲川沿いに歩いたところに、アズサバラモミの木があります。説明板には「アズサバラモミ(村天然記念物)昭和47年3月3日指定、 昭和15年頃、清水大典氏に偶然発見され、他に同種のものがないことから『アズサバラモミ』と命名されました。葉の形態に特徴があり、マツ科トウヒ属のヒメバラモミの変種と考えられます。常緑針葉樹で、樹高は約24mあり、樹齢は発見当時、130年と推定されています。平成13年12月、川上村教育委員会」とあります。

毛木平の石像群

毛木平の石像群(地蔵尊、馬頭観音、如意輪観音などが並び里程観音の起点となる石仏が含まれる?)や石碑(□□経千部供養塔)
大滝村誌には「十文字峠路の里程観音 村域内にたくさんある峠路のうち、良く知られている遺物は十文字峠コースに設置された石仏・里程観音である。長野県側の川上村・梓山集落から峠にむかった300メートルほどのところに、起点となる石仏が安置されている。刻字は『右ハ三峯道 居倉上田氏、梓山から□(二あるいは三)丁』。二つ目も川上村内にあり『梓山より一里六丁』『元治元年(1864)子六月吉日、願主上田市兵衛・木村喜兵衛』と刻まれている。本村内にはいっても『梓山より二里六丁』とあるから、これらの石仏が梓山を起点にして、三峰山への参詣人のために造立されたことがわかる。願主の氏名はいずれも長野県側の人名で、本村側の人名は三里観音の大村久兵衛のみ。栃本側の峠への登り口に安置されている石仏が観音像(如意輪観音)であることから、秩父側ではこれを起点の里程観音としている。しかし、刻字は『享保七年(1722)寅 大村久兵衛妻』となっており、元治と享保とは140年余の開きがある。この石仏は造立目的がことなっていたのかも知れない。」と記されています。

ミニ知識

避難小屋ののぞき岩

のぞき岩が避難小屋の向かい側にあり、岩に登ると足元が絶壁となっていて奥秩父の山々の展望が開けています。
奈良県吉野の大峰山の”西の覗き”と同様に岩の下は断崖となっていてスパッと切れ落ちています。
かつては修験者が修行をした行場であったのか、大峰山をよく知る先人が名付けたものか、興味は尽きない“のぞき岩”です。

赤沢山

赤沢山の山頂は樹木が刈りはらわれていますが狭く、木々に覆われて眺望は全くありません。標高1818.9mの三等三角点があります。
標識もなく、三角点の傍に手書きで赤沢山と書かれた小石が置かれているのみです。

白泰山(はくたいさん)

白泰山頂へは、シダに覆われた斜面につけられた登山道を辿ると、標高1794.1mの二等三角点(基準点名:白泰)が設置された山頂につきます。
赤沢山頂と同様に展望は全くありませんが、山頂には『白泰山』の標識が設置され、樹木は綺麗に刈り払われていて、予想外に広い印象を受けます。

愛宕地蔵堂

風土記稿に午房平の愛宕地蔵に関し「栃本関所跡を右折し、彩甲斐街道大峰トンネルの真上に十数軒程の集落がある。その集落の入口にあるのが愛宕地蔵堂である。一月二四日の縁日には参詣人が『ばくち』をうつのが恒例の行事になっていたという。」と古の風習の一端が記されています。

看板や説明板

・毛木平のキャンプ禁止の看板「この地域内では、キャンプ(幕営等)を禁じます。無許可でキャンプ等をすると罰金を頂きます。 川上村・林野保護組合」と記されています。
・コメツガ「マツ科 本州の中・北部の亜高山帯に多く見られます。短くて小さい葉を、米にたとえて名づけられました。  中部森林管理局」の説明板があります。
・カラマツ(針葉樹マツ科)「信州を代表する樹木で、落葉松の名のとおり日本の針葉樹ではただ一つの落葉樹でもある。春の芽吹きの黄緑、秋の黄金色は見事なほど美しい。 東信森林管理署」と説明板に記されています。
・シャクナゲの説明板に「シャクナゲはツツジ科の常緑低木で、奥秩父山地には、アズマシャクナゲとハクサンシャクナゲの2種類があります。アズマシャクナゲは本州中北部の深山の森林帯に分布し、この十文字峠付近では、6月上~中旬ごろ淡紅色の花をつけます。つぼみのうちほど紅色が濃く、美しく見えます。ハクサンシャクナゲは本州中部以北の高山地帯の針葉樹林、ハイマツ帯に自生し、この付近では甲武信岳の稜線部で見ることができます。7月上~中旬ころ、白またはわずかに紅色を帯びた花を咲かせます。 埼玉県」と記されています。
・十文字峠付近の説明板「十文字峠植物群落保護林 場所;秩父郡大滝村中津川山国有地 面積;2260ヘクタール 設定目的:この保護林はコメツガ、シラベ、トウヒ等の常緑針葉樹を主とする亜高山帯の天然林です。林相は極相を示し原生状態を保つ貴重な森林です。 林野庁 関東森林管理局 埼玉森林管理事務所 」があります。
・演習林の説明板には「東京大学農学部附属演習林は、林学・林業に関する基礎的および応用的な試験・研究を行い、あわせて学生実習の用に供する目的で設置されたものです。私たちの生活をより豊かに発展させる森林を愛し、樹木を大切にしましょう。林内での“たき火”、“たばこ”など火のあつかいには十分注意しましょう。 秩父演習林」と記されています。
・栃本下山口の表示「注意 山道では、思わぬ危険が起こりがちです。通行中は常に充分な注意を払って、転倒、転落、落石等の事故防止に努めて下さい。尚、大雨の時や冬期間(12月中旬~4月上旬)は危険ですので、通行を禁止します。 秩父市」があります。
・栃本下山口の表示「登山者へのお願い 次の事を記入して登山ルールを守って入山して下さい。一.住所・氏名・職業・年令・連絡先、二.パーティの名称(人員)、三.登山ルート、四.行動計画(登山開始時間・場所等・下山予定日時)、以上の事を『入山届書』に記入して下さい。奥秩父の山を満喫する為に気をつけて入山して下さい。秩父警察署・秩父市」、また「山をあまく見ないでください!ここでチェック!! *はきものなど完全ですか? *家の人に予定など話してきましたか? *この山林の中をよく知っていますか? *帰り道はわかっていますか? *自分の体力は大丈夫ですか? 全部OKでなかったら、この辺で帰った方が安全です。 秩父警察署・大滝村」などの具体的な記載が入山者への安全登山に効果的と思われました。

まつわる話

・大正期に奥秩父を登山した大島亮吉が「峠」に熱病の幼児を背負って十文字峠を越えて秩父大宮に向かう川端下の村人の挿話を残すなど、地域に密着した逸話に恵まれた古道です。

栃本の両面様

・大滝村誌に「栃本・両面神社 伝説によると、両面様は三峯様と姉妹で、鎮座する地をさがして遠く西国から峠をこえて当地方へやってきた。姉の両面様は栃本にたどり着いて疲れはて、そこに鎮座することにした。妹の三峯様は東の彼方にみえる尾根まで行って鎮座した。それが現在の三峯神社の地であると伝えられている。両面神社の祭りには、荒川村上田野・若御子神社の氏子数名が代参に参詣し、若御子神社の祭りには栃本から代参をさしむける。この習慣は現在もまもられている。」とあり、十文字峠を挟んで信州・川上村と秩父・旧大滝村との三峯山に対する信仰の篤さが理解できます。
若御子神社にも一対のヤマイヌ像が境内に安置され、「お犬様」の護符を配布するなど、三峯神社との密接な関連が推測されます。

ルート

1日目:
梓山~毛木平 75分 5km
毛木平~十文字小屋 120分 3.2km
2日目:
十文字小屋~四里観音 15分 1km
四里観音~四里観音避難小屋 30分 1km
四里観音避難小屋~三里観音 30分 2.7km
三里観音~二里観音 100分 3.5km
二里観音~一里観音 80分 3.4km
一里観音~白泰山登山口 30分 1.3km
白泰山登山口~栃本 60分 3km

アクセス

JR小海線・信濃川上駅から梓山へは川上村営バス
川又バス停から三峰口駅までは西武観光バス
栃本関所跡から三峰口駅へは秩父市営バス
駐車場:毛木平、栃本関所跡、二瀬ダム、三峰口駅

参考資料

南日(田部)重治著「山岳」第6年第1號、日本山岳会、明治44年5月5日発行
南日(田部)重治著「山岳 秩父號」第11年第1號、日本山岳会、大正5年10月20日発行
大島亮吉著、本郷常幸・安川茂雄編集「大島亮吉全集2「峠」」あかね書房、1970年2月15日発行
「大日本地誌大系 新編武蔵風土記稿(第12巻)・秩父郡・古大瀧村及び新大瀧村」雄山閣、昭和46年2月25日発行
編集・秩父市大滝村誌編さん委員会「大滝村誌」発行・秩父市、平成23(2011年)3月31日発行
大久根茂著「秩父の峠」さきたま出版会、昭和63年4月30日発行
明治43年測図5万分の1地形図「金峰山」

協力・担当者

《担当》
埼玉支部
松本敏夫(文・写真)
浅田 稔(写真)
本村貴子(写真)

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