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47 榛名山古道

榛名山古道 植栗・泉沢ルート

泉沢から榛名湖への道

榛名山の北麓、群馬県吾妻郡東吾妻町泉沢口から泉沢川に沿って榛名湖畔へと登る道です。コースの下半部は舗装道路、上半部も前半は林道で、木の切り出しが盛んです。上部は砂利道となりその後は登山道となり、コルを抜けると眼下には榛名湖が見下ろせます。全体的に道形は明瞭で、道なりに登って行けば迷うことはありません。現在はコル直下まで木の切り出し道になっています。

植栗から榛名湖への道

榛名山の北麓、群馬県吾妻郡東吾妻町植栗口から大泉寺川に沿って十二ヶ原開拓地を通り、しばらく登ると泉沢ルートと合流し榛名湖畔へと登るルートです。こちらもコース下半部は整備された舗装路で途中左折し泉沢ルートに合流するまでは砂利道が続きますが、所々眺望は利きます。

古道を歩く

泉沢口から、泉沢川上流部植栗口からとの合流点まで

主要地方道渋川・吾妻線で泉沢川を渡り、坂を登り上げると泉沢口があります。
整備された舗装路を登るとすぐ左手上に庚申塔、祠、幾つかの石仏があり、少し進むと右手上に八幡宮の石段が続いています。
しばらく両側に民家が続き、その先は分岐となる迦葉口になります。

ここから500m程進むと左手に見落としてしまいそうな鳥居(花咲神社)の石段があります。林道を2Km程進むと広域基幹林道北榛名山線を横断し、この先は所々伐採された明るい林道をさらに2Km程進み、橋を渡ると植栗口から来たルートと合流します。

2006,

植栗口から、大泉寺川上流部泉沢口からとの合流点まで

主要地方道渋川・吾妻線の泉沢口から2Km程先に植栗口があります。
起点の左前方には鹿島神社があり、しばらく大泉寺川に沿って登ると、昔でいう開墾地である十二ヶ原集落が点々と出てきます。

突き当り《写真①》が広域基幹林道北榛名山線で右折後すぐ左折《写真②》し、しばらく登ると左手に切り出した木が集積されている「上の沢第1山元土場」、その先「上の沢第2山元土場」があります。

いずれも吾妻森林管理署所管であり、砂利道を進むと「一般通行禁止」、「伐採作業中」、「狩猟期間中入山注意」の看板とゲートがあります。
その先1Km程進むと綺麗に伐採されている箇所があり、左手には雪に覆われた上越の山々が一望できます。
林道を少し進むと泉沢口ルートと合流します。

泉沢ルートと植栗ルート合流後榛名湖を目指す

しばらくは伐採作業中が続き途中、泉沢川には幾つかの木製の砂防堰堤が現れます。

この先は、作業道ではなく、まさしく古道然とした道が続き、苔生した蛇篭と枯葉に覆われた古道を進むと林道古道の終点で、登山道に突き当ります。

ここから、なだらかな登山道を300m登り詰めると烏帽子ヶ岳(1,363m)と鬢櫛山(1,360m)のコル(1,196m)に出ます。

明るく開けた古道を進むと榛名湖が眼下に見えてきます。
600m程下ると榛名湖畔に到着します。

この古道を歩くにあたって

本ルートは植林地では樹木の切り出し作業が頻繁に行われ、作業道が交錯しているところもあります。
作業車の通行や作業の邪魔にならないよう、重機等と接触しないよう、また枝道(作業道)に入り込まないよう気をつけてください。

古道を知る

榛名山への信仰は、古い時代からありましたが庶民への信仰も、近世以降になって吾妻地方にも広まりました。代参講などによって参詣者が増すにつれて数多くの道ができました。
この道が信仰の道として使用されたことは残された文化財によっても知ることができます。
山の神を祀った石殿、石祠、神仏習合による本地物などの神像・仏像、道しるべなどがあります。
しかし、自動車の時代になることで昔の道は寂れてしまい廃道となったところも少なからずあります。
周辺地域には石造物が全体的に多く、榛名山信仰に関わるものとしては先ず石祠があります。
植栗口の登り口の鹿島宮境内石祠には「榛名講」の文字「榛名道」が刻まれており、古くはこの裏手から榛名山に続いていたことが伺えます。
植栗は中之条町伊勢町と渡し船で結ばれる村であり、榛名山の登山口にあたるここに祀られています。
流れ造りの社殿左に「富村講中」右に「寶歴二年(1752)申八月吉日」とあります。

また、植栗の北側、吾妻川の崖端、殿前という所にある「植栗城址」は植栗氏の城で、その発祥は南北朝時代から鎌倉時代に遡るものと考えられ天正末に徳川幕府の一藩一城主義によって廃されました。

道しるべについても、榛名登山の要所に配置されています。
植栗口の鹿島神宮入り口の主要地方道渋川吾妻線の交差点に角柱の道しるべがあり、年号を記し、そこから北へ下った樹下家入り口の三差路にも角柱の道しるべがあります。これにより榛名山信仰があったことが示されます。

深掘りスポット

植栗城

植栗の北側、吾妻川の崖端殿前という所に『植栗城址』があります。
現在明らかな遺跡は東西100m南北80mの狭い地域に過ぎませんが、なお外側にかなり広がっていたものと推定されます。
本丸は東西80mの細長い三角形で西端の底辺にあたる部分は南北30mで、その西と南とを囲む豪は幅8m現在は西と西南の部分を残すのみですが「のずら積み」石垣で被覆されていたらしく、あるいは三段に区分された水堀であったかもしれません。
追手口は東南端の斜坂に開き、そこの土橋は水堀の堰堤をかねていたものと思われます。
本丸の西部は東部より1m程高い段になっていてこの城の詰めの郭です。

中峯城

下泉の県道から約5Km入った十二が原開拓地の西に『中峯城址』があります。
ここは十二ヶ原と桐原との間にある独立した尾根なので中峯と呼んだようです。この城は中峯の山城と、鬼屋敷と呼ぶ下曲輪とから成り、城域は南北800mに及びます。
南半の山城の部分の長さは南北400m、北端に前堡と称すべき土囲状の高台があり、その長さは東西30mです。
その背後(南側)、本塁との間は下曲輪(鬼屋敷)面より15m程高い台地状になっていて、ここに城の小屋が構えられていたものと思われます。
この城の東に沿って植栗から榛名山に登る通路があって、この通路から侵入する敵に備えて中峯城が築かれたのだということを示しています。

糀谷観音

泉沢川は荒れて夏などは中々越せず、膝附にある橋は、当時はあてになりませんでした。その時糀谷観音の橋は江戸への脇道として昔は人通りの多かったところで、この橋を渡り、丸橋に出て荒巻の柳沢に出たのでした。三十三番の札所第五番観世音として、本尊は如意輪観世音で温和な顔をしたみ仏です。「濁る身も心は清く泉沢深くぞたのむ観世音かな」と歌われています。

ミニ知識

太田地区の神社

ここ太田地区には延喜式の内の神社はありませんが、三沢村といわれた植栗(寛治の昔、中臣植栗連祐基が勅勘のため、この地に配流、その子孫が住みつき村も植栗と呼びました)には、郡内屈指の旧社、植栗の鹿島宮(878年創建)をはじめ、泉沢の春秋の祭典に獅子舞を行う八幡宮があります。
ここでは毎年、春と秋の9月15日の祭典の時、15,6才以上の男子の獅子舞があり、雄獅子二匹が雌獅子一匹を奪い合うのを狐一匹が鉄棒を両手に持ち「おいべつさん」が鈴と軍配を持って、面白おかしく舞うもので、人気があったようです。
小泉の由緒不詳でも上野国神名帳に従四位上小磯明神と大いに関係があると村人の言う、日本武尊を主神とする白鳥神社岩井の白山神社と、各字に一神社を持っています。

まつわる話

円光上人の母上が榛名湖に入水した話

榛名山と榛名北麓の吾妻地方の関係を示すのが善道寺の円光上人の母が榛名湖に入水して大蛇となったという伝説です。
善導寺は、貞治年間(1362~1368)頃に吾妻の領主の一族である飽間氏によって吾妻川右岸の川戸村田辺(現東吾妻町)に創建された浄土宗の寺院です。開山は識阿空寂上人、二世が瀧澤円光上人です。吾妻から榛名山へ登る主要道の入り口にありました。
善導寺はその後桐沢に移り、さらに現在の吾妻川左岸の瀧澤(東吾妻町原町)に移りました。
その円光上人の元に、突然、母親である木部官内少輔の妻「北の方」が訪れてきました。
円光は、武田信玄の軍勢によって母が木部城から脱出してきた身とは知らず、話をして翌日何気なく別れを告げました。それが最後の別れで、母は思い残すことがなくなり、待女とともに榛名湖に入水してしまいました。現在の本堂裏山に円光上人の母、広雲灰龍大善女を祀る石祠が、小さな池の辺に竹の林に囲まれて建てられています。そして、この池の水が榛名湖の水と繋がっているとも伝えられています。
その後、榛名湖には大蛇が棲むという話が広まり、その大蛇は「北の方」の化身だと言われるようになりました。そこで、円光は供養の為に位牌を榛名湖に納めました。ところが、榛名湖に収めた位牌が、善導寺から東に約10kmの榛名山ろくにある箱島不動尊の湧水から湧き出たといいます。『湧水の怪』という伝説です。
この不動堂の歴史は古く、文治4年(1188)に創建されたものです。この不動尊の御神木の根元からは、滝となって流れ落ちるほどの水量を誇る「湧水」があります。日本名水百選に認定された「箱島湧水」です。
そしてその「位牌」は現在もこの不動堂に納められており、榛名湖の「大蛇の鱗」(写真)は原町の善導寺に納められています。


 

ルート

泉沢口又は植栗口(主要地方道渋川吾妻線)
↓ 4時間 7km(泉沢口)  5時間 9Km(植栗口)
泉沢口、植栗口合流点
↓ 1時間50分 3km
榛名湖畔(烏帽子ヶ岳又は鬢櫛山登山口)

アクセス

吾妻郡中之条町(JR吾妻線:中之条駅)から関越交通バス、またはタクシーにて植栗及び、泉沢口下車徒歩
タクシーの場合はその先迄は要相談(ルート図参照)にて榛名湖畔に抜けます。
マイカーの場合は登山口は太田中学校跡(東吾妻町植栗)駐車、到着地は「榛名湖温泉ゆうすげ」駐車(要相談)。
マイカーの場合の下山は往路を戻るか、榛名湖温泉ゆうすげから伊香保温泉まで路線バスで下り、タウンバス・タクシー等で登山口まで。
公共交通機関利用の場合の帰路は、路線バスで伊香保温泉からIR渋川駅へ。
または榛名湖バス停(ゆうすげから湖畔を約30分歩く)からJR高崎駅へ。その場合、榛名神社へ立ち寄りも可能です。

参考資料

群馬県教育委員会編「群馬県歴史の道調査報告書第20集『信仰の道-上毛三山を中心に-』」群馬県教育委員会、2001.3
吾妻町「吾妻町の文化財」吾妻町教育委員会、1985.3
「あがつま 太田村誌」1965.9
「あがつま あずま村誌」
原町「原町誌」原町、1960.12
「あがつま 坂上村誌」1971.10
「植栗城址」説明板

協力・担当者

《原稿作成》
鈴木良徳
荒木輝夫
《協力》
清水喜臣(元榛名町歴史民俗資料館長)
佐藤眞一(榛名神社宮司)
太田直樹(高崎市榛名支所長)
永井裕之(吾妻産業【株】代表取締役会長)
吉田智哉(東吾妻町社会教育課)
小林泰憲(善導寺住職)
茂木良平(植栗城跡隣住人)
今井京子(farm)
富澤亮(山城跡研究家)
本間泉(【株】歴史の森)
山口通喜(中之条町歴史と民俗の博物館館長) 

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