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47 榛名山古道

榛名山古道 箕輪道ルート

「箕輪道(みのわみち)」は、榛名山麓南西面の村々や江戸など関東方面から榛名詣に訪れる人々が多く利用していた道です。早朝に村々の里宮に集合すれば、榛名神社を日帰りで往復できました。
高崎宿から現在の県道28号線を進み、箕輪町で県道126号線に入ります。県道が傾斜を増す辺りで林道榛名山箕輪線に入り、鳥居峠を越えて榛名神社に下ります。
この県道126号線と林道は、古道である「箕輪道」をほぼなぞる形で拡幅され、沿線には社寺や石造物が多く残り、中山間地の風景とともに昔の面影を残しています。
林道榛名山箕輪線の区間は『山と高原地図』等にも掲載されたハイキングコースとして歩かれています。

古道を歩く

箕輪道に入る

西明屋箕輪小学校の南西角の交差点を出発します。この角の小学校敷地内に道標があります。金網越しに「右陸軍廠舎、左榛名道、後高崎」と読めます。

北方向に県道126号榛名山箕郷線を進みます。
左にカーブし、箕輪城大手門口の石柱が右に現れます。
遠景が開け、右奥に相馬山を望むことができます。
公園を左に見、白川を渡ります。
金敷平に入り、バス停「金敷平」からすぐの所に大山祇神社があります。

入口には銘が万延元年(1860)の庚申塔や道祖神があり、境内には馬頭観音板碑に彫られた道標や多くの石造物があります。
善地に入ります。
バス停「下善地」では道祖神、道標、庚申塔などが見えます。
道標は、「右」という文字しか読み取れません。右は、ガラメキ温泉経由で榛名湖に上る道のはずです。
バス停「坂下」を過ぎると中山間地の雰囲気となります。
間もなく広域農道「フルーツライン」(県道154号線)が交差します。榛名山麓南面は、梨、梅やブドウ等の一大産地で、道の両側には梅林が見えます。フルーツラインは「横通り」の一つと言われ、各地域から榛名神社・榛名湖畔に向かう道、坂東三十三所の長谷寺・水澤寺(ちょうこくじ・みずさわでら)など寺社や伊香保温泉を山麓で横に連結しています。

中善地集落手前の田んぼの畔に石造物があります。
辛うじて「示す偏(ネ)」が確認できますので、道祖神と考えてよさそうです。
過去には、小正月に無病息災を願って“道祖神焼き”が行われ、その熱にあおられたと伝えられているようです。
バス停「中善地」を過ぎて間もなく、西に向かう道との辻に大正五年(1916)の道標があります。
裕仁親王(後の昭和天皇)の立太子礼を記念して建立されたようです。
そこからすぐの右手の高みに、明治二十五年(1892)の3mを超える馬頭尊と三体の観音像があります。

明和三年(1766)の一体は馬頭観音と判りますが、二体は頭部が欠落しています。近くに、牛馬を埋葬する場所があったそうです。この辻にも道標がありますが、なんと石垣に組み込まれているのです。「右やまみち、左はるなみち」です。
少し寄り道になりますが、集落内の善念寺跡に薬師堂があり、二十二夜様(如意輪観音)があります。
月齢22日の夜にご婦人たちが集まり、お経をあげ、飲食しながら懇親をはかったのだそうです。
しばらく進むと左手に庚申塚があります。
こちらは男性で、暦で60日ごとに廻ってくる“庚申”の夜に集まり、お経をあげた後に簡素な精進料理と多少のお酒で深夜まで話し込んだようです。

沖積地をゆく

バス停「新坂橋」近くに月波神社があります。
近くの氏子さんは、「体力等の事情でお山まで行けない人がここで遥拝しました。毎月執り行われた“月並際”が社名の由来です。」と話していました。
参道には笠付きの立派な石造物があります。
文字などが全く確認できませんが、下端に“見ざる聞かざる言わざる”のサルが彫られています。
“申”すなわち庚申塔なのではないかと推察されます。
神社を過ぎると、梅林や棚田の風景が続きます。遠く山腹に大岩(覗岩)を抱える山が見えますが、その左下の鞍部が地蔵峠です。

バス停「前川橋」から上善地集落になります。
辻に享和三年(1803)の馬頭観音が見えます。
更に県道を行くと右手の辻にも馬頭観音があります。
県道を右にカーブすると、右手の畑隅にお地蔵さんが見えます。
銘は□永□年甲□と読めますので、安永三年(1774)と考えられます。
その少し先に、30cmに満たない四角柱の石造物が現われますが、文字・文様は確認できません。
少し進むとバス停「群馬の松入口」、その先の右奥に昔懐かしい半鐘が見えます。この地域の文化遺産なのでしょう。

路線バスの終点「駒寄」の手前右奥に庚申塚と駒寄神社があります。
多くの庚申塔と並んで明和六年(1769)の「百番供養塔」があります。
西国、坂東、秩父の百観音を巡礼した記念碑です。
巡礼せず観音様の供養のために建てた例も多いようですが。
駒寄神社は、境内の掲示に「文久元年(1861)に月波神社より分霊、平成十七年(2005)に榛名神社から直接神霊を迎え」とあります。
このように神社を維持している地域の方々に敬服します。

山が迫る杉林をゆく

駒寄を過ぎると、杉林を進むようになります。
林道南榛名山線が交差する所に、文化十五年(1818)の十二大権現碑と灯籠があります。
道は、所々コンクリート擁壁が迫ります。
人馬の往来には難儀したであろうと思われますが、近世にはこの奥に広大な入会地があり、薪炭や秣を求めて村々から人馬が入ってきていました。「駒寄」という地名も馬を繁殖・飼育する牧場があったであろうことを示しています。
さらに進むと、左に大きくカーブします。
カーブ手前のコンクリート擁壁に不動明王が移設されています。
風化が激しく銘が判読できません。あえて読めば、年号が天□、干支が□未ですから、該当するのは天保六年(1835)又は天明七年(1787)でしょうか。
カーブを曲がり切ると左側に道標と享保三年(1718)の馬頭観音が移設されています。
道標は、「左榛名山みち、右山みち」です。
「山みち」は、唐松廃寺に至る道を指すと思われます。

山腹を巻くと、右手に宗教法人の施設が現われます。
この辺りで丁石が発見され、宗教法人内に移設されています。
ここから右手に上がった所には、工事中に発見され、「九世紀後半から十世紀前半頃の年代が想定される寺院遺跡」がありました。
字名から唐松廃寺と呼ばれています。

峠道に入る

緩やかに上ってきた県道は、この先からカーブが続きます。
カーブ表示「7」が現れるとすぐに榛名神社に向かう林道榛名山箕輪線入口の分岐に着きます。
標識が小さいので見落とさないよう注意します。
駐車場はありません。

榛名神社へは概ね林道榛名山箕輪線を辿ります。
地蔵峠までゆるやかに上がった後、峠直前で急登になります。
ルートは、左岸を歩くハイキング道、堰堤工事で切り開いた作業道、古道の3本あります。
3本は分かれたり並走・合流したり錯綜しています。
ハイキング道は、最初杉林の湿った道で、途中に作業道との分岐があります。杉林を抜けると唐松と落葉樹の混成林となります。
ササが多少うるさいです。

谷が狭まり急登になると地蔵峠は近いです。
峠直下には、廃仏毀釈によって峠から押し倒された地蔵菩薩像が、破片を集めて据えなおされています。

《古道の形跡をたどる》

ハイキング道とは別の古道と思われる踏み跡を紹介します。
林道榛名山箕輪線入口より少し手前ですが、「地蔵橋」を渡ると間もなく県道左側に地蔵さんが立っています。

明和三年(1766)で、「左はるなみち、右やまみち」と刻まれています。
「やまみち」は県道をそのまま榛名湖畔に上がる道です。
ここから杉林に入り、少し先でいったんハイキング道と合流します。
左に堰堤が続きますので、地蔵さんから数えて5基目の所で左に折れ、河原を渡ります。
対岸に石造物の痕跡があります。

薄い踏み跡をしばらく辿り、右から来る作業道を横切って直進します。
その後2度ほど作業道と交差する間は、踏み跡がなくなり、また工事で地形が変わり、歩きにくくなりますが、所々で石造物や炭焼き窯の痕跡に出合います。
右手を見上げると、中腹に覗岩を窺えます。
行場だという説もありますが、私たちが大岩に見守られているようにも感じます。
作業道から離れ、涸れた沢を左岸に移り、杉林を斜め上に抜けるとハイキング道に合流します。

地蔵峠から榛名神社へ下る

地蔵峠は、南の大鐘原ヶ岳(1252m)と北の幡矢ヶ岳(1271m)の鞍部です。
峠の名のもととなった地蔵菩薩像は、明治初めの廃仏毀釈で排除され寂しい限りです。
地蔵峠からは小石交じりの急坂を下ります。


すぐに涸れた沢を下る緩やかな道になり、やがて混成林から杉林に変わります。
谷が広くなると天狗山登山道との分岐に出ます。
右に折れて下ると右手に二十二神碑があり、すぐに榛名神社隋神門に出ます。
バス停は参道を左に下ります。
榛名神社、榛名湖畔へと向かう場合は、「室田道」のページを参照してください。

この古道を歩くにあたって

(1)舗装された県道が長いので交通手段を考慮して歩く区間を決めましょう。
  自家用車の場合、県道126号線から林道榛名山箕輪線への入口付近に駐車場はありません。
(2)林道榛名山箕輪線の入口から地蔵峠までの間は、ハイキング道と古道が並走しています。古道は踏み跡が薄く、標識がなくマーキングは貧弱です。なお、古道を歩く場合、石造物を掘り返したり割ったり持ち帰るなどは避けましょう。
(3)国土地理院地形図には、地蔵峠付近に複雑な周回の道が描かれていますが、これは、奇岩を回る道であり、一般的ではありません。また、峠から天狗山登山道との分岐辺りまで沢沿いに下る道が描かれていますが、現在は荒れて非常に歩きにくくなっています。

古道を知る

古墳と埴輪

榛名山南麓の保渡田古墳群3基は、5世紀後半から6世紀初頭の前方後円墳です。
全長が100m前後で国指定史跡となっています。
このうち八幡塚古墳には、人物や動物の埴輪54体が並べられ、儀式、宴会や狩猟の場面を現わしているように見え、秦始皇帝陵兵馬俑を思い浮かべます。
埴輪で唯一の国宝『埴輪武装男子立像』(太田市長良神社境内出土)をはじめ、国宝や重文指定の埴輪の45%が群馬県で出土しています。
また特徴的なのは、動物埴輪の9割以上が馬です。
保渡田古墳群の東隣の三ツ寺町では、古墳時代の地方豪族の居館遺構が発見されています。
1辺86mの方形で、周囲に防御濠を巡らせています。
敷地内には、主殿や祭祀施設の跡が見られます。
この遺跡と古墳群は、榛名山南東一帯を治めた車持氏(くるまもちし)のものと推定されています。またこの地域は「車郡(くるまのこおり)」と呼ばれていました。

馬、群馬県

古墳時代から有力豪族によって馬が飼育され、10世紀初頭の史料では上野国に9箇所の官営牧場「御牧」があり、毎年50頭を朝廷に献上しています。
榛名山麓に限れば、箕輪道の経路である箕郷町善地(所在地は諸説あり)を含め3箇所あったようです。また官営の他、地域の有力者による馬の飼育が盛んな地であったようです。
県名の由来ですが、和銅6年(713年)の勅令で、国・郡・郷名はその土地に合った漢字二文字で表すこととされ、国名「上毛野国(かみつけのくに)」は「上野国」に、郡名「車郡」は「群馬郡(くるまぐん)」に改められました。
明治4年(1871)の廃藩置県を受けて、高崎・前橋の大部分を含む大きな郡であった群馬郡が県名になりました。

山岳信仰

山岳信仰は榛名信仰の中核をなします。
当初の榛名神社は、天神地祇を祀っていました。全国的に神仏習合が進んだように、榛名山中にも九世紀頃の僧坊とされる巌山遺跡があります。多くの岩頭がそそり立ち、滝が流れ落ちる榛名山系は、修験にふさわしい場として遠来の修験者を集めてきました。
また、雨風や火災・疫病を支配し、豊饒を約束する神に祈るため、山麓の人々は村に近い外輪山山頂に石祠を設け、里宮を建てて祭祀を続けてきました。

修験の道

相馬山(黒髪山)

相馬山南山麓にある黒髪山神社里宮から山頂に至る道です。
核心部分は、標高900m付近の「表口」から山頂までの1.5kmですが、複雑な沢筋・尾根筋と急峻な岩場には緊張を強いられます。
なお現在は、崩壊により標高1040m付近から山頂までの間は入山が禁止されています。
「表口」の石柱には、木曾御嶽講によって明治十四年(1881)に再整備された旨が刻まれています。
周囲には不動明王、摩利支天尊などが立ち、参道に三十六童子が並んでいます。
ルート上にも、不動尊、霊神碑や行場が点在しています。
山頂には黒髪山神社本殿と多くの石造物が立ち並んでいます。
この修験の道は、箕郷町の「箕郷御嶽講」の方々にとって活動原点でもあります。
なお、相馬山には、榛名湖畔から北面を上がる道(裏参道)もあり、所々に霊神碑が建っています。
こちらのコースは登山道として歩かれていて、『山と高原地図20』に掲載されています。
相馬山表コースで興味をそそられるのは、国土地理院の地形図にある「ガラメキ温泉」です。
修験者が楽しんだのかと思うと間違いで、修験者は「表口」手前の滝で心身を清めて結界に入りました。
温泉は、主に重度のやけどを負った方が長期に逗留して加療していたそうです。
古地図には「ガラノ温泉」と記されています。山用語“ガレ場”と同じネーミングでしょうか、現地は沢筋で礫が大量に堆積しています。
陸上自衛隊相馬原演習場の前身は旧陸軍の訓練基地でしたが、終戦に伴って進駐米軍が接収することになり、「ガラメキ温泉」の2軒の宿は撤去を強いられたようです。

天狗山、大鐘原ヶ岳

大日陰から天狗山に上り、大鐘原ヶ岳を越えて社家町に下る、5.5kmの道です。
駒寄川の表口には大山祇命と三十六童子の板碑があります。
途中にも地蔵菩薩、不動明王や霊神碑などが夥しく立っています。
昭和七年(1932)銘が多く、その時に再整備したようです。
山頂直下から山頂にかけても、九州、四国など各地修験者の霊神碑や奉納碑が建っています。
麓の村の石尊権現や大天狗・小天狗の石祠も多く見受けられます。
天狗が羽を広げて飛び立つ姿がイメージできる大岩が印象的です。
小鐘原ヶ岳山頂の少し手前には、近畿圏の御嶽講の霊神場があります。
なお、榛名神社を起点にして、両鐘原ヶ岳と天狗山を約4時間で歩く周回ルートもあり、『山と高原地図20』に掲載されています。

坂東三十三所巡りと善光寺への御礼参り

近世中期以降、四国遍路や西国、坂東と秩父を合わせた百観音巡礼に出かけることや供養塔を建てる観音信仰が盛んになりました。
坂東三十三所のうち、白岩山長谷寺(しろいわさんちょうこくじ)と五徳山水澤寺(ごとくさんみずさわでら)の二寺が群馬県にあり、いずれも榛名山麓です。
そして、御礼参りをする善光寺には坂東三十三所と秩父三十四所の中では群馬の二寺が最も善光寺に近い位置にあります。
四国遍路や百観音巡礼を結願した記念として建てたものを含めた観音菩薩供養塔は、榛名山南西にある箕郷町では40基余、同じく榛名町では100基余と報告されています。

榛名神社における廃仏毀釈

江戸末期から明治初期に出された神仏分離令は、神道と仏教の分離が目的でしたが、拡大解釈され、仏像・仏具の破壊といった廃仏毀釈運動が全国的に発生しました。
榛名神社では、明治3年(1870)に岩鼻県(現群馬県)から赴任した国学者新居守村が、仏教的なものをすべて破壊するよう指導した結果、榛名神社や周辺から仏教色は一掃されました。
守村の『春名山日記』によれば、地蔵峠の地蔵菩薩像は、守村等が見回った折に、押し倒されました。守村は、榛名神社赴任中、神仏分離で榛名神社から離れる社人(神官や恩師など)に神道的改造教育を実施しています。教唆・教育を受けた人たちが各地元で仏教的なものの排斥に加担したことは想像できます。
写真は箕輪道のとある場所の石造物ですが、表面が削られてしまっています。
この地区では、葬儀も神式に変えたそうです。

深掘りスポット

箕輪城址

箕輪城(みのわじょう)は、群馬県高崎市箕郷町にあった城で、国の史跡に指定されている。日本100名城の一つでもある。二つの河川にはさまれた河岸段丘に梯郭式に曲輪が配された山城である。城の西には榛名白川、東には井野川、南には鳴沢湖があり、それぞれが天然の要塞を形成していた。規模は、東西約500m、南北約1,100m、面積約47haにおよぶ広大なものであった。石垣・土塁・空堀の跡がその大きさを示している。
一時身を寄せていた真田幸綱あるいはその後の武田信玄軍との攻防と落城など、歴史研究や読み物に多く登場している。

ルート

①西明屋箕輪小学校前 (標高: 220m)
↓ 70分3.7km↑65分
②月並神社 (標高: 340m)
↓ 50分2.7km↑45分
③駒寄神社 (標高: 500m)
↓ 90分4.2km↑80分
④榛名山箕輪線入口 (標高: 860m)
↓ 55分1.5km↑45分
⑤地蔵峠 (標高:1100m)
↓ 40分1.4km↑50分
⑥榛名神社 (標高: 850m)
↓ 70分2.4km↑65分
⑦天神峠 (標高:1120m)

(注)歩くコースのバリエーションと歩行時間
行程1. ①から⑦ 上り 6時間15分、下り5時間50分
行程2. ③から⑦ 上り 4時間15分、下り4時間00分
行程3. ④から⑦ 上り 2時間45分、下り2時間40分

アクセス

【自動車】
◆箕郷町
 前橋I.Cから車で約20分、高崎I.Cから車で約30分
◆榛名神社
   前橋I.Cから車で約60分、高崎I.Cから車で約70分、渋川・伊香保I.Cから車で約50分
◆榛名湖畔
高崎I.Cから車で約70分、渋川・伊香保I.Cから車で約40分、中之条駅から車で約30分

【バス】
◆榛名神社、榛名湖畔
JR高崎駅西口より、群馬バスで本郷経由榛名湖行に乗車し、榛名神社下車約70分
神社から榛名湖へはバスで約10分
◆箕郷町の小学校前や駒寄
JR高崎駅より群馬バスで箕郷営業所経由水沢観音、伊香保温泉行に乗車し、「小学校前」まで約40分、ここで下車し、群馬バス駒寄行きに乗り換えて駒寄まで約15分

参考資料

◆調査報告書関係
群馬県教育委員会『群馬県歴史の道 調査報告書』群馬県教育委員会、2001年3月発行
群馬県教育委員会『榛名神社調査報告書』群馬県教育委員会、昭和51年3月31日発行
放送大学地域社会研究会『榛名神社と榛名信仰』放送大学地域社会研究会、1992年9月30日
下司信夫「詳細火山データ集:榛名火山」産総研地質調査総合センター、2013年
(https://gbank.gsj.jp/volcano/Act_Vol/haruna/index.html)
公益財団法人群馬県埋蔵文化財調査事業団「古墳人だより」公益財団法人群馬県埋蔵文化財調査事業団、2013年から2019年
◆町村誌関係
高崎市『榛名町誌』高崎市、平成23年9月30日発行
箕郷町『箕郷町誌』箕郷町、昭和50年8月19日発行
室田町『室田町誌』室田町、昭和41年10月1日発行
榛東村『榛東村誌』榛東村、昭和63年6月20日発行
倉渕村『倉渕村誌』倉渕村、昭和50年12月25日発行
倉渕村『新編倉渕村誌』倉渕村、平成21年1月30日発行
箕郷町『箕郷町の石造文化財』箕郷町、昭和59年3月31日発行
◆古文書、古地図関係
「元禄上野国絵図」(元禄十五年に前橋藩から幕府に提出されたもの 群馬県立文書館蔵)
社家町大瀧坊蔵(仮名)「榛名の山全図」(作者不詳、年代不詳だが内容から推察して江戸中期 )
榛名神社「県社榛名神社境内地並建物見取図面  付 境外末社、榛名山名所旧跡」群馬県立文書館蔵、明治28年7月 
清水玄叔(烏涯)『上州榛名詣』浅見保家文書 群馬県立文書館収蔵、享和3年
原沢文彌「脇往還「大戸通り」交通の歴史地理学的研究」1955年
◆書籍・論文
神道登『群馬の国学者 新居守村考』群馬出版センター、平成3年5月15日
榛名町『榛名町の文化財』平成7年3月発行
榛名町『榛名の伝説』昭和56年11月発行
斎藤勲『みさと散策』昭和60年11月23日発行
清水喜臣「一茶と榛名「草津道の記」私見」平成元年3月30日
◆登山、ハイキング関係
『山と高原地図20赤城・皇海・筑波・榛名山』昭文社、2021年版
上毛新聞社『ぐんま百名山』上毛新聞社、2007年7月25日発行 
上毛新聞社『群馬の山歩きベストガイド』上毛新聞社、2019年12月15日発行
齋藤繁『登山で病気に負けない体をつくる 健康トレーニング』上毛新聞社、2021年4月26日発行

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