single-kodo120_detail
39 白山禅定道
日本三霊山の一つに数えられる白山は、開山以来1300年余の歴史を有する信仰の山として名高い。
標高2702.1mの御前峰(ごぜんがみね)を主峰とし、北方の大汝峰や南方の別山など白山山系は、岐阜・福井・富山・石川・の4県にまたがる独立峰で、昭和37年(1962年)白山国立公園に指定されている。
登山道は13本ほどあるが、白山市白峰の市ノ瀬や別当出合を登山口とする砂防新道や観光新道(越前禅定道の一部)と、岐阜県白川村平瀬の大白川ダムを登山口とする平瀬道の3ルートの利用者が圧倒的に多く、合わせて80%近くを占めている。
平安時代前期の天長9年(832年)に開かれたと伝承される美濃禅定道石徹白(いとしろ)道、越前禅定道(一部観光新道)、加賀禅定道の三禅定道は、文化庁の「歴史の道百選」に選定されているが距離が長く、踏破する登山者は極めて少なく数%に過ぎない。
加賀禅定道は加賀馬場の中心を成す白山比咩神社(しらやまひめじんじゃ)から出立する。
禅定道が開通したと伝えられる平安初期には北側の古宮公園(白山市一宮町)の地にあったが、文明12年(1480)の大火によって現在の地に移ったものである。
本宮の参拝を終えて表参道を下り、白山(しらやま)町集落を抜ける禅定道(旧国道)の第一歩を踏み出す地点に、小川が流れている。
この川は神聖な白山の入峰(にゅうぶ)に際し、沐浴潔斎(もくよくけっさい)する風習時に使われ、「垢離(こり)川」といわれていた。
白山町集落の中程にある神主(かんぬし)町公民館は、神仏習合時代の白山本宮白山寺に奉仕していた神主や僧侶が多く住まいした名残の地名である。
公民館の前に旧国道を示す標高113.4mの二等水準点が埋設されている。
神主町公民館の直ぐ先の道路左手に小祠があり「かたがり地蔵」が祀られている。
白山比咩神社が創祀された舟岡山の磨崖仏であるが、手取川七ヶ用水開削のため、明治年間に当地へ移設されたようだ。
地蔵菩薩坐像は白山開山の泰澄大師が彫ったとの伝承もあり、やや傾いているため「かたがり」の名がある。
小祠の隅っこに「左白山御宮道」の石標が立っており、これこそ加賀禅定道を示す重要な文化財と思える。
白山町集落を通り抜け「白山南」の交差点で国道157号に合流し南下して行くと、程なく左手の崖に謡曲「歌占」に因む歌占の滝が落下している。
立派な石碑や説明版が立ててあるが、滝の流れが細く苔むして訪れる人がない。
中島町に入り手取川第三発電所を過ぎると、手取川右岸は山裾の急崖が迫る狭い急坂道で、往時は「歩危坂(ほうけさか)」といわれた難所だが、現在はスノーシェードが構築され安全な道路である。
やや下り直海谷(のみたん)川を渡ると右手に旧河内村役場があり、直海谷川の谷間の奥に、わずかながら白山の頂きが眺められる。
国道を南下して行くと、旧道は河内町福岡の細長い集落を通り、河内町江津で国道に合流すると、左手に「めおと岩温泉楽養館」がある。
先へ進み、雲龍山の裾を行くと西側に広大な「白山ろくテーマパーク吉岡園地」や「白山吉野オートキャンプ場」があり、東側は、大きく枝を広げ見応えのある国指定天然記念物の「御仏供(おぼけ)スギ」が樹立する「吉野工芸の里」である。
西側の手取川左岸に鎮座する白山七社の白山別宮神社を経て、深さ30mの手取渓谷を渡り来る国道360号が合流し、この先は国道157号との重複区間となる。
加賀馬場から白山は見えないが吉野工芸の郷まで来ると、加賀富士と愛称される高倉山の背後に白山連峰が姿を見せている。
佐良集落の山裾に白山七社の中宮三社に数えられる佐羅大明神(現佐良早松神社(さらはやまつじんじゃ))の参道入口があり「佐羅早松神社」の社号標が立っているが社殿は見えない。
創建は古く、平安中期の天元5年(982年)と伝わる。
平安末期の安元3年(1177年)、白山衆徒が当神社の神輿を担ぎ、白山寺領を焼き払った加賀国衛の強訴追放を企て、京の都へ出向いた「安元事件」を語る歴史の舞台である。
右手の「大門温泉センター」前を過ぎ、瀬波川を渡る。
市原の旧吉野谷村役場を左に見て、木滑(きなめり)集落に差しかかると、高倉山の山麓に県立白山自然保護センターがある。隣接する木滑新の集落に、旅人や物資の移動を監視するため出入口を押さえた加賀藩の「口留番所跡」がある。
さらに南下し濁澄(すみ)橋で、支流の尾添川を渡る。白山市瀬戸の白嶺小中学校の先で国道は二分し、国道157号は右折し、禅定道は国道360号を直進する。
間もなく右手に「道の駅瀬女(せな)」があり、背後の斜面は2012年に営業を中止した白山瀬女高原スキー場である。
左手は金沢工業大学・国際高等専門学校白山麓キャンパスで、キャンパス内に日帰り入浴施設の「比咩(ひめ)の湯」がある。
瀬戸集落を通り、幾つもトンネルを抜け、荒谷集落の先で国道360号を離れ、中宮大橋で尾添川を渡り右岸を行くと中宮集落で、北側の斜面に閉鎖した白山中宮温泉スキー場のゲレンデ跡が広がっている。
このスキー場の上部から加賀禅定道のルート全容を眺めることができる。
スキー客がいなく閑散とした中宮集落の中程に、炭酸水素塩・硫酸塩泉の「新中宮温泉センター」がある。
この辺りは「四十九坊」といわれ、多くの修験者が白山に入峰練行した足跡を示す、室町時代の文明16年(1484年)に納めた「木製白山行人札」が残されている。
集落の東外れに「笥笠(けがさ、すがさ)中宮神社」がひっそりと鎮座している。
白山七社の内、佐良宮・別宮と共に中宮三社の一社で、平安中期の天歴11年(957年)の創建とされ、白山禅頂と本宮の中間に位置することから中宮の地名がある。
往時は境内に十数棟の社殿堂宇が建ち並び、加賀地方の白山五院や中宮八院を傘下にするなど本宮を凌ぐ勢力を有し、事実上の加賀禅定道の馬場であったようだ。
道筋の佐良大明神や笥笠中宮、後述する檜新宮など何れの社殿も創建年代は、禅定道が開通した平安初期の天長9年(832年)よりも時代が下り、禅定道の開通当時は中宮三社などの宗教施設が無く、山伏や山岳修験の行者など、限られた屈強な宗教者が勤行することなく、一気に登拝したのであろう。
中宮集落を下り尾添川に架かる尾添大橋を渡り、左岸の尾添集落へ上がる。往時は橋が無く、葛の蔓を編んだ縄に籠を吊るした「葛籠(くずかご)橋」が架けられていたという。尾添集落内に白山大権現と称した「加宝宮(現加宝神社)」が鎮座し、境内の「宝代坊」では高野山真言宗の修験者が参籠していたという。
尾添集落を抜けて国道360号に出ると、山裾の高台に「白山下山佛社」が鎮まっている。
この先、禅定道沿いの「檜新宮」に祀られていた仏像九体が、明治初期の神仏分離令による廃仏毀釈の難を逃れ、山から下ろし安置されている。
その内の、木像阿弥陀如来立像は奈良国立博物館で修理されていたが令和4年3月に里帰りし、白山市立博物館で公開された。
この仏像は鎌倉時代の建保4年(1262年)に京都の某寺院の本尊として造像されたが、何らかの縁で遠く離れた檜新宮に移された。
尾添集落の先で視界が開けると、南側の斜面は白山一里野温泉スキー場で、裾野はホテルや旅館・ペンションなど観光施設で賑わっている。温泉街に白山を開山した泰澄大師の石像が立ち、加賀禅定道の威厳を示している。
約1200年前に開かれた加賀禅定道は大正年間に廃道となり、昭和9年(1934年)に一時復活したが、市ノ瀬からの登山道が整備されると加賀禅定道を通る人は減少し道は消えかけたが、昭和62年(1987年)半世紀ぶりに復元された。
白山一里野温泉の先で国道360号は「白山白川郷ホワイトロード」となるが、直前に右側へ分岐する県道岩間一里野線に入る。県道を僅か行き、ハライ谷を渡ると「檜新宮参道」の登山口で、護岸壁に石段が設けてある。
本来の禅定道はハライ谷の谷間に入り、垢離掻場(こりかけば)で身を祓い清め、巨岩が迫る大門や小門を抜け、水の流れが伏流する水無八丁を登り、「お壺の水」を経て檜新宮に至っていた。
ハライ谷から檜新宮参道を経て長倉山や四塚山を越え山頂まで約18kmの道筋で、概ね尾添(おぞう)尾根の稜線をたどっている。
檜新宮から15分ほど登ると標高点1549mの峰で、南方の視界が開け、四塚山と七倉山の奥に絶頂の大汝峰が望まれる。「白山曼荼羅図」に描かれている「伏拝」の地であろう。「シカリ場分岐点」の標柱が立ち、白山一里野温泉スキー場の上部から檜倉を経由する「加賀新道」が合流する。
ヒノキやヒメコマツなどの針葉樹が茂る尾根筋をたどり、標高1660.6mの三等三角点(点名・長倉)が埋設された長倉山(口長倉)を越えて痩せ尾根を行くと、標高点1771mの奥長倉山の手前に奥長倉避難小屋がある。
平成元年(1989年)に建造された赤いカマボコ型の屋根がユニークな二階建て小屋で、長大な尾添尾根の禅定道では有難い存在である。
オオシラビソにダケカンバが混ざる亜高山帯樹林の奥長倉山を越えると一旦下り、鞍部の前面に立ちはだかる様な「美女坂」を見上げる。
東側の丸石谷と西側の目附(めっこ)谷に切れ落ちる標高差約400mの痩せ尾根で、「太刀矢大渡(たちやおおわたり)」や「懺悔坂(ざんげさか)」と呼ばれた加賀禅定道最大の険路である。
美女が神罰で岩にされたという「美女岩」が「美女坂」の稜線上に見えるが、道は危険な岩場を避け目附谷側に付け替えられている。
「美女坂」を登り切り標高点1968mの「美女坂の頭」を越えると一変して、木道が敷かれた平坦路となり安堵する。
標高2047.0mの二等三角点(点名・尾添)の手前で丸石谷側へ少し入ると、展望台が設けられている。
溶岩台地が広がる清浄ヶ原の末端から丸石谷上流の滝川へ落下する、落差90mの百四丈滝が俯瞰できる。
池塘が点在するササの草原で、夏季にはニッコウキスゲやイワイチョウなどのお花畑となり、「白山曼荼羅」に「阿弥陀之原」や「精霊田」と記される地帯である。
緩やかな坂道を登って行くと、平地に石垣が残る「天池室跡」がある。「白山曼荼羅」には「天池」の周辺に「金剣宮」や「六地蔵」が描かれているが形跡は確認できない。
天池室跡の石積みの囲いは約25m×38mほどの大きさで、内部は五部屋に区切られており、少し離れた所に水の溜まった天池がある。
ハクサンコザクラやミヤマクロユリ・ハクサンイチゲ・ハクサンチドリなど高山植物が咲く草地を歩き、標高点2158mのピークを東寄りに巻いて行くと、鞍部の平坦地に水深の浅い「油池」がある。
イワイチョウやモウセンゴケなど湿性植物が生えるのどかな草原が好ましい。ハイマツ帯の下に、二つの花を下向きにつける稀少な常緑小低木のリンネソウを見ることができる。
油池から四塚山まで約2km、標高差400m余りの長い坂が続き「長坂」という。
ハイマツ帯を切り開いた道は降雨の浸食で溝状となり、扁平な小石が多数堆積しているところがある。
長坂を登り詰めると平坦な四塚山で、標高2419.4mの三等三角点(点名・竜ヶ馬場)が埋設されている。
山頂に小石を円錐状に積み上げた石塚が四基あり、四塚山と呼ばれている。
よく見ると石塚が重なり合って四基に見えるが、正確には大小六基の石塚が並んでいる。一番大きい石塚は径12~16mで高さ約3m、最も小さい石塚は径3.5~6mで高さ0.8mを測る。石塚は四塚山にある濃飛流紋岩類〈火山砕屑岩〉で造られているが、遠く離れたハライ谷から持ち上げた石灰岩も混ざっている。
石塚が造られた理由は定かでないが、白山信仰との関わりがあると思われ、考古学や民俗学の考証を待ちたい。
四塚山から七倉山の周辺はハクサンコザクラやハクサンイチゲ・チングルマ・マツムシソウなど豊富な高山植物が群生し、別天地の様相である。また、一帯は仙人が龍馬を調教した草原で「北龍ヶ馬場」ともいわれる。
七倉山の中腹が「七倉の辻」で、清浄ヶ原から岩間温泉へ下る「岩間道」や「楽々新道」と、南下して白山釈迦岳を越え市ノ瀬の白山温泉へ下る「釈迦新道」が分岐する十字路である。
「七倉の辻」西側の目附谷寄りに弧を描くように雪が残り、古くから「月之輪(月の輪のわたり)」と呼ばれていたところである。
七倉山の南面を巻いて行くと、道の右(南)側に「御手水鉢(おちょうずはち)」と呼ばれる大きな岩がある。
岩は幅2m・長さ6m・高さ2mほどで、径1.5m・深さ40cmほどの窪みに天水が溜まり、御手水鉢そのものである。
「御手水鉢」の北側の鞍部に、幅10m・長さ30mほどの範囲を石垣と土手で囲んだ「加賀室跡」がある。
室跡から少し離れた北西側の七倉山の裾に土手を築いて人工の池を設け、水を確保していたことが判明している。
鞍部の室跡は国有林と白山比咩神社社有地の境界で、残されている廃材は営林署の小屋跡である。
大汝峰へ向かう道から北側を覗くと、茶色く崩壊し荒涼とした岩稜に火の御子峰が尖り、真下に深く切れ落ちたV字の地獄谷が凄まじい。ハイマツや高山植物の穏やかな緑の草原とは余りにも対照的で、天国と地獄の様な自然景観に圧倒される。
どっしりと構える大汝峰に向かうと、直登する禅定道と近年に開かれた南面の山腹をトラバースする道が分かれている。
標高点2684mの大汝峰の山頂は広く、南東の一画に白山比咩神社の摂社である大汝神社が建っている。
高さ2.5mほどの頑丈な石垣に囲まれ、間口・奥行ともに6mほどの広さがあり、ひと昔前の社殿は一回り大きかったように思われる。
大汝峰は「御内陣」といわれ、本地垂迹(ほんちすいじゃく)説に基づき、大己貴命(おおなむちのみこと)を神とし、本地は阿弥陀如来とする神仏習合の祭神が祀られていた。
本地仏の銅像阿弥陀如来座像は明治の神仏分離令で下ろされ、白山市白峰の白山本地堂に安置されている。石垣の隅に欠損した幾つもの石仏があり、明治の神仏分離の名残であろうか。
山頂から岩稜帯を南下すると、トラバース道と北側山麓の中宮温泉から続く「中宮道」が合流する。
火砕流堆積物と呼ばれる小礫や巨岩が散在し、石庭のような光景だが、ガスがかかり視界が悪いと道を外れることがある。
大小七つの火口湖を回る「お池めぐりコース」を散策するのも楽しいが、古い禅定道を探査したい。
千蛇ヶ池に向かう道筋の東側に血の池、西側に小さな百姓池と五色池がある。
イワツメクサやイワカガミが咲く小平付近に「采女ノ宮(さいじょのみや)」が古文書に記されているが、探しても形跡が見当たらない。三禅定道が開かれた往時、この近辺に加賀室が存在したが、火山の爆発で埋没したとの記録もある。
万年雪に閉ざされた千蛇ヶ池の池畔を通り、室堂へ至る道を少し行くと峠状の「六道の辻」で、正規の登山路ではないが御前峰に向かうように踏み跡を登って行くと「六道堂跡」の石垣が残っている。
往時は「地蔵堂」と「六道室」があったようで、石垣が二重に積まれ、外側は約30×23m・高さ1~1.5mほどの広さがあり、中ほどの石積みに数体の石仏や五輪塔などが集められている。地蔵堂本尊の銅像、地蔵菩薩座像は明治の廃仏毀釈で下ろされ、白山市白峰の白山本地堂に安置されている。
禅定道は「六道堂」から御前峰の山頂稜線に溶岩柱が屹立する、御宝庫(おたからくら)を目がけ直登していたようだが、植物保護のため歩道が制定されておらず、無暗に歩き回ることは避けたい。
千蛇ヶ池の池畔へ戻り、室堂平へ向かう。ミヤマクロユリやハクサンフウロなどが咲く標高2450mの室堂平には、白山比咩神社奥宮祈祷殿と室堂ビジターセンターや宿泊棟などが並んでいる。現室堂の地に越前禅定道の宿である「越前室」があり、奉安されていた銅像十一面観世音菩薩立像(国指定重要文化財)は廃仏毀釈で室から下ろされ、白山本地堂に安置されている。
鳥居をくぐり、奥宮祈祷殿の脇から御前坂の石畳道を登って行くと、地上界と天上界の境を示す「青石」があり、日蓮上人像が線刻されている。
ハイマツ帯に開かれた小平が「高天原」で、直ぐ先の石積みに風化した十一面観世音菩薩石像が安置してある。
荒涼とした砂礫の道をジグザグに登って行くと、室堂から40分ほどで御前峰に到達する。
山頂の一段手前に石の塀で囲まれた白山比咩神社の奥宮が鎮座している。社祠は泰澄大師開山の翌年、養老二年(718年)の建立とされている。古の祭神は白山妙理大権現で、本地仏の十一面観世音菩薩が祀られていた。本地仏の銅像十一面観世音菩薩坐像は、明治の神仏分離で山を下ろされ、白山本地堂に奉安されている。
奥宮に参り、岩が積み重なった山頂へ上がると、最高地点に標高2702.17mの一等三角点(点名・白山)の標石が埋設され、その脇に「霊峰白山御前峰」の石柱が立っている。
北面に聳える三角形の剣ヶ峰と対峙し、眼下に望む紺屋ヶ池や油ヶ池の奥に残雪を抱く雄大な大汝峰が居座っている。天候が良ければ視界360度の申し分のない眺望が得られる。
行程が長いので途中、避難小屋で1泊必要である。中級者以上向け
白山は、主峰の御前峰(ごぜんがみね、2702m)を中心に、大汝峰(おおなんじみね、おおなんじがみね、2684m)、剣ヶ峰(けんがみね、2677m)の3つの峰からなる山塊である。信仰の文脈では、これらの3峰に加え、南方に位置する別山(べっさん、べつさん、2,399m)と三ノ峰(さんのみね、みつみね、2,128m)を合わせた5峰を指すことが多く、日本三霊山の一つに数えられる。
古くは「志良夜麻(しらやま)」とも呼ばれ、水の神として古来より信仰を集めてきた。また、京都から遠くそびえる白く美しい山容から、観世音菩薩が棲む山とされ、『枕草子』や『古今和歌集』など多くの文学作品にも詠まれている。
・白山開山と修験道の発展
仏教伝来後、白山は修験道の霊場として発展した。養老元年(717年)に泰澄(たいちょう)が開山したと伝えられ、天長9年(832年)には加賀、越前、美濃の3つの国から山頂に至る「禅定道(ぜんじょうどう)」と呼ばれる登拝道が開かれた。9世紀には比叡山の天台僧も修行に訪れるようになり、白山は熊野に次ぐ一大修験勢力となっていく。
この信仰を支えたのが、禅定道の登拝口に設けられた「馬場(ばんば)」と呼ばれる拠点。馬場には、道中の安全を祈願する神社や修験者のための宿坊が置かれ、加賀、越前、美濃の三か所に設けられた。なかでも、越前馬場の平泉寺(へいせんじ)、加賀馬場の白山本宮(しらやまほんぐう)、美濃馬場の長滝寺(ちょうりゅうじ)は、それぞれが比叡山延暦寺の末寺となり、大きな力を持った。
・信仰の変遷と神仏分離
16世紀には、加賀一向一揆に加担したことで白山本宮が焼失するなど、勢力は一時衰退する。しかし、江戸時代に入ると、加賀藩主の前田家などによる寄進で復興が進んだ。この際、天台宗から真言宗に改宗させられ、寛文8年(1668年)には白山頂上にある本社の祭祀権が平泉寺に与えられる。
江戸時代中期には、富士山、立山とともに「三霊山」として広く知られ、多くの人々が白山を目指した。この頃、登拝者を案内する「先達」や「強力(ごうりき)」、そして山頂付近の「室堂」(古くは「御前室」)で世話をする「山番」といった人々も現れ、彼らは日頃は農作業や狩猟を行いながら、夏のシーズンにのみ案内役を務めていた。
明治時代に入ると、政府の神仏分離令により、白山は大きな転換点を迎える。山中の仏像は打ち壊されるか山麓に収められた。白山本宮は白山比咩神社(しらやまひめじんじゃ)に、平泉寺は平泉寺白山神社に、長滝寺は長滝白山神社と長滝寺に分離された。
現在、白山比咩神社は全国に約3,000社ある白山神社の総本社となり、白山信仰は今もなお多くの人々に受け継がれている。
禅定道の登拝口で、馬を留め置いた信仰の拠点を「馬場(ばんば)」と称し、白山修験の行場で神社や別当寺院と宿場が設けられた。
白山比咩神社(しらやまひめじんじゃ)に所蔵されている『白山之記』によれば、天長9年(832)に加賀・越前・美濃の三馬場が開かれたとある。
「加賀馬場」は白山本宮白山寺で、現在の白山市三宮町に鎮座する加賀一宮の白山比咩(しらやまひめ)神社である。
加賀馬場は白山本宮を中心に金釼宮(白山鶴来日詰町)・三宮(白山市三宮町)・岩本宮(能美市岩本町)の本宮四社と、中宮(白山市中宮)・佐良宮(白山市佐良)・別宮(白山市別宮町)の中宮三社を合わせた白山七社が担っていた。
また、中宮八院(護国寺、昌隆寺、松谷寺、蓮花寺、善興寺、長寛寺、涌泉寺、隆明寺)と呼称される寺院や三箇寺などの寺院群があった。
白山比咩神社の創建は約2100年前の崇神7年(紀元前91年)と伝わり、白山開山の養老元年(717年)泰澄大師の創建とされる美濃馬場の長滝白山神社や越前馬場の平泉寺白山神社に比べ800年ほど古く、全国に約3000社を有する白山神社の総本宮として格式を誇り、地元では「白山(しらやま)さん」と親しまれている。
現在の御祭神は菊理姫尊(くくりひめのみこと)(白山比咩大神)・伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉冉尊(いざなみのみこと)の三柱である。
本宮は約2100年前の紀元前91年に舟岡山(白山市八幡町)に創祀された後、手取川中流の安久濤淵(あくどがふち)に遷座し、さらに奈良時代初頭の霊亀2年(716年)、現在の古宮公園(白山市白山町)に遷座し、764年後の室町時代の文明12年(1480年)、三宮の地に三度目の遷座をして現在に至っている。
禅定道が開通したと伝えられる平安初期の天長9年(832年)には現在地(三宮町)に本宮は無く、往時の本宮は古宮公園(白山市一宮町)の地に鎮座している。
北陸鉄道石川線の鶴来駅以南が廃線となり、廃駅となった旧加賀一の宮駅の裏手に古宮公園がある。廃線敷は手取川自転車道線(手取川キャニオンロード)となり、入母屋造りの旧加賀一宮駅(国有形文化財)は休憩所として再活用されている。
古宮公園の旧鎮座地から、本宮の祭事に使用された素焼の土器「かわらけ」が多量に発掘され、傍らに「白山比咩神社鎮座地」の石柱が立ててある。
白山は高山植物の宝庫として有名で「花の百名山」にも選ばれている。
その穏やかな山容と豊富な残雪により水に恵まれ、多様な高山植物が育まれている。日本列島において、高山帯を有する山としては西限にあたり、そのことが植物の種類と数の多さの理由の一つとなっている。
白山に生育する高山植物は、日本の高山帯を代表する種が多く、ハイマツをはじめ、クロユリ、ハクサンコザクラ、アオノツガザクラなど、100種類以上が確認されている。
特にクロユリは石川県の県花に指定されている。
また、植物学者によって早くから研究されていたため、「ハクサン」の名が冠された植物が特に多く、ハクサンアザミやハクサンフウロなど、27種にものぼる。これらの植物は白山を象徴する存在である。
〒920-0963石川県金沢市出羽町3-1
電話076-262-3236
https://ishikawa-rekihaku.jp/index.php
〒920-0942石川県金沢市小立野2丁目43番1号
電話076-223-9565
https://www.library.pref.ishikawa.lg.jp/
泰澄が建立した薬師堂に、都を逃れた藤原仲麻呂が隠棲していたとの伝承がある寺院。
明治政府の神仏分離令に危機感を持った当時の住職可性と村人の尽力によって白山禅定道から降ろされた「白山下山仏」が収められている。銅造十一面観音立像など下山仏9体(非公開1体)や白山曼陀羅など。
〒920-2501石川県白山市白峰イ68、電話076-259-2041、火曜日休館、白山本地堂冥加金400円
https://www.city.hakusan.lg.jp/bunka/bunkazai/1002474/1002484.html
林西寺同様、廃仏毀釈時に聖地であった桧新宮および上部の護応石、天池金剣宮に安置されていたものを降ろして安置する。非公開。
〒920-2333石川県白山市尾添
https://www.city.hakusan.lg.jp/bunka/bunkazai/1006096/1002276/1002270.html
白山を開山したと伝えられる泰澄は、『泰澄和尚伝記』をはじめ、諸本に種々の伝記が残されている。
奈良時代の天武天皇11年(682年)、越前国で生まれた泰澄(たいちょう)は、少年時代を越知山で修行し、京の愛宕山で修験道の開祖・役行者(えんのぎょうじゃ)に出会い、山岳修験を教導されて感銘を受け、白山登頂を目指して帰郷。
養老元年(717年)、36才の泰澄は、生母の故郷である伊野原(現勝山市猪野)の林泉(現平泉寺白山神社)で念じていると、現れた女神に白山へ誘われ、臥(ふせり)と浄定(きよさだ)の行者を連れて登頂。
御前峰の転法輪窟(てんぽうりんのいわや)で祈念していると、翠ヶ池から九頭竜王が現れたが真身に非(あら)ずと拒むと、続いて白山妙理大権現の本地十一面観世音菩薩が示現した。
また、大汝峰では大己貴命(おおなむちのみこと)が阿弥陀如来の姿で、別山では小白山(こしらやま)別山大行事が聖観世音菩薩の姿で現れ、神仏習合の白山三所権現を感得した。米山や越前五山などを開山し各地の寺社を巡拝。越前の大谷寺に帰還し神護景雲元年(767年)、86歳で遷化。
現在の地形では転法輪窟から翠ヶ池を望むことができない。翠ヶ池など火口湖は開山の約300年後の長久3年(1042年)の噴火で生成したとされる。
「絹本着色白山曼荼羅図」は三幅合わせて一図とする江戸中期の寛政元年(1789年)の描写で、中央に御前峰(大御前)、左側に大汝峰(御内陣)、右側に別山の白山三所権現を配置し、朱色の点線で加賀禅定道を記し、女人禁制にまつわる伝説が随所に描かれている。
石川県指定文化財で能美市の能美ふるさとミュージアムが所蔵している。
https://www.city.nomi.ishikawa.jp/www/contents/1001000000625/index.html
また、石川県立歴史博物館には室町時代の越前系の垂迹曼荼羅が所蔵されている。
https://www.ishikawa-rekihaku.jp/collection/detail.php?cd=GI00225
また、白山市白山町の林西寺には参詣道を描いた林西寺本白山曼荼羅が所蔵されている。
https://www.city.hakusan.lg.jp/bunka/bunkazai/1006096/1002299/1002301.html
加賀禅定道について考察するが、原典は「白山縁起」とも称される最古の書物である『白山之記(しらやまのき)』に基づいている。『白山之記』は室町時代の長寛元年(1163年)に記された書物で、白山の開闢から加賀馬場の形成に至る歴史や様相を書き留めた白山宮最古の文献で、国重文の指定を受け白山比咩神社(しらやまひめじんじゃ)に所蔵されている。
古より神道(神社)の日本国に、伝来した外来の仏教(寺院)を習合するため、菩薩や仏陀(本地)が、仮に神の姿(権現)で顕れる(垂迹)という説である。仏教を日本国内に広く布教するために考えられた僧侶の手法と云える。
白山大権現は十一面観世音菩薩が白山比咩大神(菊理姫命)として現れることで、菩薩と大神は同体であると意味する。
山頂は神様や仏様が鎮まる聖なる場所で「禅頂」、禅頂に登拝して修行することを「禅定」、禅定のため登拝する道を「禅定道」という。
・白山の地質と形成
白山の山体は、約1億4000万年前の中生代ジュラ紀後期から白亜紀にかけて存在した巨大な湖、古手取湖の隆起によって形成された地層を基盤としている。この湖は、現在の岐阜、富山、福井、石川県にまたがり、琵琶湖の10倍もの面積があったと推測されている。
この地層は、手取川の流域に多く分布していることから「手取層群」と呼ばれ、恐竜や植物の化石が多数発掘されることで世界的に知られている。
白山は、この手取層群の上に噴出した火山で、その大部分は変成岩や堆積層、火山岩で構成されており、標高1500〜2000mの高地に形成された。
古白山火山は10万〜14万年以上前に噴火し、その後、侵食作用を受けて現在のような丸みを帯びた大汝峰となった。一方、新白山火山は4万〜5万年前に誕生したもので、約4500年前に山頂部で大規模な崩壊を起こし、馬蹄形の御前峰を形成した。その崩壊によってできた凹地に、約2900年前に形成されたのが剣ヶ峰である。
・白山の火山活動の歴史
白山の火山活動で最も古い記録は、『続日本紀』に記された706年の山火事である。信頼性の高い記録は10世紀以前には少ないものの、1042年の記録から断続的な活動が確認できます。
特に有名なのは、1042年の爆発。これは水蒸気爆発であったと考えられており、この噴火によって山頂にある翠ヶ池が誕生したとされている。その後、1547年から1659年までの約100年間に火山活動が集中した。
特に1554年から始まった活動では、高温のマグマが噴出し、噴煙は山麓の白山本宮にまで到達するほどだった。この活動は、記録によると断続的に2年間続いたとされている(「白山宮荘厳講中記録」)。
総距離 18.2km
一里野
↓ 5時間40分 ↑ 3時間30分
奥長倉避難小屋
↓ 7時間 ↑ 6時間
白山 室堂
駐車場がある一里野温泉から登山口へは徒歩
JR金沢駅より北陸鉄道瀬女行きのバスにて瀬女下車。瀬女より白山市コミュニティバス「めぐ~る」バスにて一里野まで約20分。
もしくはJR金沢駅よりJR北陸本線にて西金沢駅下車、西金沢駅より徒歩1分の新西金沢駅より北陸鉄道石川線にて鶴来駅下車。
鶴来駅より北陸鉄道バス瀬女行きにて瀬女下車。瀬女より白山市コミュニティバス「めぐ~る」バスにて一里野まで約20分。
コミュニティバスは便数が少なく時刻表は事前に確認の事。
(https://www.city.hakusan.lg.jp/machi/kotsu/1007749/1007758.html)
自家用車が望ましい。
『白山への道と信仰(図録)』金沢市立玉川図書館 平成29年
『白山紀行(図録)』玉川図書館近世史料館 平成21年
『白山の禅定道』石川県白山自然保護センター 平成13年
普及誌『はくさん』第14巻2号 石川県白山自然保護センター
普及誌『はくさん』第41巻2号 石川県白山自然保護センター
普及誌『はくさん』第43号3巻 石川県白山自然保護センター
普及誌『はくさん』第45巻1号 石川県白山自然保護センター
『大乗寺御仏供水は「白山水」の源流か』 東隆眞 平成29年
『白山下山仏と加賀禅定道(図録)』 白山市立博物館 平成29年
『白山の三馬場禅定道』 上村俊邦 平成9年
『信仰の道・歴史の道調査報告書』 平成10年 石川県教育委員会
『白山を中心とする文化財』 文化庁 昭和46年
《担当》
日本山岳会石川支部
石森長博