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39 白山禅定道

越前禅定道

富士山、立山とならんで日本三大霊山とされる白山は、奈良時代の養老元年(717年)に越前の僧泰澄により開かれました。
白山の山頂は聖域であり、修行の到達点(禅頂=禅定)と考えられていました。
その後、平安時代の天長9年(832年)に越前の平泉寺白山神社、加賀の白山比咩(しらやまひめ)神社、美濃の長滝白山神社に馬場(登拝の拠点)が開かれ、山頂へ続く道は越前禅定道、加賀禅定道、美濃禅定道と呼ばれるようになります。
越前禅定道は泰澄大師が最初に登拝した道とされており、平成8年(1996年)には他の禅定道と共に白山禅定道として文化庁の『歴史の道100選』に選定されています。
また平泉寺の旧参道は菩提林と石畳が残っており、環境庁の『日本の道百選』に選ばれ、平泉寺の旧境内は国史跡に指定され、現在発掘調査が続けられています。
禅定道とは単なる参拝道ではなく、修行のための道であり道中には様々な宗教施設が設けられていました。
越前禅定道においても宿泊所を兼ねた白山本道十二宿と呼ばれる堂や室が設けられ、現在においても一部にその痕跡をとどめています。

古道を歩く

平泉寺から白山頂上まで距離は約32km。経路中には古来の面影を深く残す部分もありますが、自然災害や開発、あるいは廃道により痕跡が不明な個所も少なくありません。また今回は過去の調査で古道の痕跡が確認されている区間においても通行が難しい箇所は林道を利用し全経路をつないでいます。
◎平泉寺白山神社⇒伏拝⇒祓川⇒小原峠⇒市ノ瀬⇒六万山⇒室堂((越前室)⇒御前峰《約32Km、歩行時間約19時間(要1~2泊)

平泉寺から祓川

越前禅定道の出発点となる平泉寺白山神社(福井県勝山市平泉寺町)は白山信仰の拠点で、今からおよそ1300年前に開かれたと伝わります。

境内には白山の三つの頂である御前峰、大汝峰、別山をそれぞれ祀った社殿が三つ並んで建てられています。主峰である御前峰を祀った中央の本殿は、12代福井藩主、松平重富が寄進したもので龍の装飾がひときわ目を引きます。
三社殿のさらに奥で、広い平泉寺境内の最深部にある三之宮の裏が越前禅定道の出発点となります。

三之宮から三頭山(みつがしらやま)へ向かう経路は尾根ルートと谷ルートがあり両道は三頭山の手前で合流します。
尾根ルートは最初緩い登りですが、その後はやや急な登りがしばらく続き、やがて平坦地に至ります。現在は小さな社、劔之宮が祀られていますが、ここは白山本道十二宿の第一宿「金剱之峰」(かなつるぎのみね)に相当し周囲には遺構もみられます。
谷ルートは平成14年に登山道が修復されています。
その後の増水などの影響で一部荒れ、草深い箇所はありますが通行に問題はありません。尾根ルートよりも多少時間を要しますが、利用者は少なく、古道の趣はより強く感じられます。
合流部から尾根筋を15分ほど進むと三頭山分岐にでます。分岐を左(大師山方向)に20mほど登ったところが三頭山頂になります。山頂からはスキー場方面が開けておりパラグラーダーが浮かぶ様子がよく見えます。
三頭山からなだらかな道をすすむと1時間ほどで広域基幹林道「法恩寺線」を横断します。この交差部を越えたところには近くの弁ケ滝に身を投げた平泉寺の稚児・和光を供養する稚児堂があります。
ここを過ぎるとすぐに中の平に着きます。

ここは白山十二宿の第二宿「釈迦之原」に相当しますが遺構はなく、現在は立派な避難小屋が建っており、法恩寺山や経ヶ岳登山の拠点になっています。
中の平から法恩寺山頂までの古道は、大部分がスキー場となっているため痕跡不明です。現在は法恩寺山頂まではスキー場横の山林部を直登する急な階段状の登山道を利用します。登山道は一部ゲレンデに近接しており交通できます。
白山十二宿の第三宿「法音」の遺構「法音寺跡」の小さな祠を過ぎると、中の平から1時間ほどで法恩寺山頂に至ります。頂上からは360度の眺望がきき、晴天時には白山三山(別山,御前峰、大汝峰)が見渡せます。
法恩寺山頂から尾根伝いに下り、スキージャム勝山のゲレンデ最上部から経ヶ岳方向へ少し登ると、700mほどで白山伏拝です。

法恩寺山頂を経ずにスキージャム勝山のゲレンデ最上部から合流することもできます。
伏拝は白山を逢拝する場所であったと考えられ、古い絵画には鳥居も描かれていますが痕跡ははっきりしません。
ここから禅定道は、祓川方面に標高差約600mの急斜面をくだることになります。
この間は妙見坂と呼ばれ、古来より難所とされ長く通行不能でしたが、福井県と環境省のご尽力により令和元年(2019年)に鎖場などが再整備されました。
現在は伏拝と祓川の入口部に上級者コースと注意喚起を促す掲示があります。掲示板が吊られているロープをこえて尾根筋を北東に800m(標高差200m)ほどくだります。
ここからほぼ直角に折れて東南方向に向かい、丸太の階段を下ったところから急斜面となり、標高差200mの難所となります。
難所や岩場には新旧のロープと鎖が設置されています。岩場の途中にはロープが上から吊られていますが、岩の巻道がルートになります。足元に注意し慎重に通過します。
岩場を過ぎても片斜面のトラバースが続きます。谷側はザレているため注意深く進みます。

上級者コースのロープを越えて小さな沢を渡渉し、しばらく進むと伏拝から90分ほどで祓川に到着します。
祓川は小原林道入り口から4kmほど上流にあり、白山十二宿の第四宿「払川」に相当します。祓川入口近くには汚れを祓ったとされる小さな滝があります。

祓川から一ノ瀬(市ノ瀬)

祓川から小原峠登山口までは、滝波川に沿って小原林道をのぼります。
過去の記録では林道の山側に古道があり、鉱山などの遺構が確認されています。
祓川と小原峠登山口との途中に早内森平(和佐盛平)(わさもりだいら)と呼ばれる平坦地があり、銀山のあった江戸時代の最盛期には多くの家屋があったそうです。
またここよりさらに峠側には白山十二宿の第五宿「温川」(ゆかわ)と思われる遺構らしき痕跡も確認されていますが、現在は深い藪に覆われ全容はわかりません。
祓川から小原峠までの約2500haは小原生産森林組合の所有地となっており、林道から外れて山や谷に入るには小原生産森林組合の許可を取る必要があります。今回の調査では林道小原線を利用しています。
祓川から小原峠登山口までの距離は約5.5km、一部道幅が狭いところはありますが、舗装され整備されています。林道を利用する際に小原集落から車で入る場合は、有料で一人500円必要です。冬季には閉鎖されます。
登山口から小原峠へ向かう道は、赤兎山及び大長山の登山道として利用されています。
登山口は駐車場に近く、中地蔵の祠があり地蔵菩薩が祀られています。
登山口からは40分ほどで福井・石川県境にあたる小原峠に到着します。
峠から南の尾根に向かえば赤兎山、北が大長山になります。禅定道は西へ、石川県側に直進します。
小原峠は白山十二宿の第六宿「伏拝」(ふしおがみ)にあたり、峠から数十m下には小さな祠があり、不動明王と地蔵菩薩が祀られています。

これより先は西俣谷川の最上部の沢の左岸から右岸をくだります。左岸はやや急斜面のトラバースですが、渡渉して右岸にでると勾配はゆるくなります。
峠から40分ほど下りたところに開けた台地があります。ここは川上御前社の跡といわれ、白山十二宿の第七宿「河上」にあたります。現在は再建された社が祀られています。
古道はここから西俣谷川に沿って下り、旧三ツ谷集落(白山十二宿の第八宿「秘密谷」)を経由して市ノ瀬に至るようですが、現在は崩落などの影響もあり古道の痕跡はありません。
川上御前からはしばらく道なりに進み、ブナの原生林を越えると石川県側の小原峠登山口に至ります。
入口には越前禅定道小原峠と書かれた木製の標識があります。
さらに数分進み渡渉すると、作業道駐車場に出ます。

ここから市ノ瀬までは車道を利用します。西俣谷川・三ツ谷川に沿って未舗装の車道が4.8km続き、三ツ谷川が手取川に合流するあたりで石川県道33号白山公園線に合流します。ここから市ノ瀬までは1.3km。舗装された道でシーズン中は交通量も多いです。

市ノ瀬から六万山~越前室(室堂)~御前峰

市ノ瀬(一ノ瀬)は手取川の最上部に位置します。
白山本道十二宿の第九宿「一之瀬」にあたり、白山登山の拠点で平泉寺の役所がありました。
すぐ上流の湯の谷左岸には、湯本と呼ばれた旧白山温泉があり、古くから湯泉が湧き、多くの温泉宿もありました。
昭和9年(1934年)の大洪水で、湯本と市ノ瀬にあった建造物は軒並み流出または埋没したため、細(柳)谷川との合流部下流左岸の現在の市ノ瀬に移転しています。
ここは白山国立公園の集団施設区域として整備され、現在ビジターセンターが置かれ温泉宿もあって、白山登山の拠点となっています。
越前禅定道は市ノ瀬から旧白山温泉湯本を経て、六万山を経由し御前峰頂上に至りますが、明治以降は他経路に取って代わられ、旧道と呼ばれ廃道状態にありました。
現在は平成11年(1999年)の国定公園整備により、再び通行が可能となっています。
市ノ瀬からはビジターセンター奥の吊り橋あるいは六万橋を利用して細谷川を越え、林道に沿って15分ほど上ったところが登山口です。
入り口には釈迦新道・白山禅定道(旧越前禅定道)と書かれた大きな案内板があります。

ここから湯本温泉の跡地と思しき平坦地を過ぎ、杉林の中を20分ほど登ると林道に出ます。
ここで釈迦岳に向かう道と禅定道が分岐しますが、禅定道は林道を突っ切って直進し再び登山道に入ります。
ここから観光新道に至る間は登山者も少なく、巨木や巨岩、岩尾根などが続き神聖な趣があります。
急坂を40分ほど登ると六万山に到着します。六万山頂は周囲が草木に覆われ眺望はありません。
六万山から指尾山までは緩やかな尾根道が続きますが、途中には桧の巨木や岩間や倒木下を通る場所もあり、修験道の雰囲気も感じられます。
記録によれば、六万山から指尾山の途中に白山本道十二宿の第十宿「桧之宿」(ひのきのしゅく)があったようです。現在その所在地は明らかでありませんがかつて祀られていた釈迦如来は明治に下山し、白峰村の林西寺に祀られています。
指尾山頂部は小さな平場となっていて白山三山が一望できます。
指尾山から尾根筋を進むと泰燈大師が白山開山の折に剃髪したとされる剃刀窟が現れます。岩の下部は窟を形成し内部には明治の廃仏毀釈で壊された石仏の一部が確認できます。

さらに岩尾根筋をすすみ、天井壁上部の険しい岩場や急な梯子状の階段を何ヶ所か超えると慶松平に至ります。
慶松平は大きな平坦地で白山十二宿の第十一宿「尾平」にあたり、かつては室があったようですが、現在は一面が笹に覆われ遺構は確認できません。
木道が設けられた平を過ぎて、別当坂の途中で別当出合からの観光新道に合流します(別当坂分岐)。

ここからは正面に稜線を見上げながら観光新道を登ります。
仙人窟、餓鬼ノ喉などの奇岩を超えて進むと、池のほとりにたつ殿ケ池避難小屋に着きます。小屋にはトイレも備えられています。
ここからさらに真砂坂・馬のたてがみといわれる岩尾根を登れば、蛇塚、黒ボコ岩に至り砂防新道に合流します。

馬のたてがみ付近は急尾根でガレ場もありますが、白山でも有数のお花畑で多彩な高山植物が楽しめます。
蛇塚は泰燈大師が悪さをした大蛇千匹を切って埋めた場所とされています。
黒ボコ岩を過ぎると白山十二宿最後の第十二宿「弥陀之原」があった弥陀ヶ原にでます。
ここからさらに五葉坂を登ると室堂に至ります。
室堂はかつて越前室があった場所で、現在は室堂センターや白山比咩神社奥宮祈祷殿があります。

室堂からさらに40分ほど登ると御前峰山頂に至ります。ここには白山比咩神社奥宮が鎮座し、白山比咩大神(菊理媛尊くくりひめのみこと)が祀られています。
御前峰の頂上は三禅定道の終点であり、修行の到達点(禅定)です。晴れていれば360度の展望があり、頂上から三つの馬場の平野部が間近に望め、歩んできた軌跡を確認できます。

この古道を歩くにあたって

■伏拝―祓川間は妙見坂と呼ばれた越前禅定道の難所です。最難所には鎖場・階段があり、上級者コースです。登山道は手入れされていますが、ザレたトラバース部もあり、天候不順、氷雪、下草が多い時期には十分な注意が必要です。
■小原林道(祓川から福井側の小原峠登山口):小原集落から車で入る場合は一人500円必要です。冬季には閉鎖されます 。多くは私有地であるため林道以外の区域に入るには許可が必要です。
■石川側の小原峠登山口近傍の作業道駐車場から石川県道33号白山公園線に合流するまでの4.8kmは、非舗装の作業道を利用します。車の乗り入れは可能ですが悪路であり、車高の低い車は避けたほうが無難と思われます。入口と分岐部にはロープが張ってありますが、通行は可能です。

古道を知る

古道の推移

越前禅定道は白山の西南斜面をほぼ直線状に登坂する、起伏や急坂の多い険しい道のりといえます。
寛文8年(1668年)に白山が幕府領になると、実質上平泉寺の管理となり、明治に至るまで越前禅定道沿いは、平泉寺の境内として管理され復興しました。
さらに、修業というより観光登山的な旅が流行した江戸時代には、より安全で楽な道を行く流れになりました。現福井県勝山市小原から小原峠を越えるルートに変わり、さらには北谷から谷峠を越えて牛首(白峰)経由で市ノ瀬に至る経路が広く利用されていたようです。白山登山を記録した旅行記が多く残されています。
また、修行僧のための禅定道は、市ノ瀬から柳谷川を越えてから湯本温泉には向かわず、大鳥居(一の鳥居)をくぐって直接六万山にとりつき、先行者の股の間から顔が見えたという急斜面を登ったといわれるほどの難路であったようです。
しかし明治維新後、白山が石川県に属することになり管理も白山比咩神社に移りました。
さらに昭和9年(1934年)の集中豪雨以降、車道が整備されたことも相まって長らく旧道として放置され、急激に衰退し廃道となった部分が多くなりました。
その後登山がスポーツとして普及するにつれ、平成11年(1999年)、国立公園整備の一環として湯本温泉からの登拝道が修復・整備されて今日の状況にあります。

深掘りスポット

白山平泉寺

平泉寺が開かれたのは今から約1300年前の養老元年(717年)のことと伝えられています。
境内の一角に湧き出す清水<御手洗池>は、白山神が降臨し泰澄大師に白山に登るようにお告げをした林泉とされています。泰澄大師はここに寺を創建し、平泉寺と名付けたと伝承されています。
室町時代後期に最盛期を迎え、四十八社、三十六堂、六千坊が存在し、所領は現在の勝山市と大野市の大半をしめたと伝えられています。一向一揆との争いで全山焼亡しましたが、江戸時代には復興がすすめられ、東叡山寛永寺末の天台寺院となり、天領となった白山の管理を幕府より任されていました。
明治の神仏分離後は平泉寺白山神社となり、石川県となった白山の管理は白山比咩神社に移されました。
林立する杉の大木とビロード状の苔に覆われた広い境内は今もその威風を留めています。二の鳥居の後ろの拝殿には「中宮平泉寺」の額が掲げられ、その後方大石垣の上に本社を中心に左に越南知(おおなむち)社、右に別山社が並んでいます。

これは白山信仰の三所権現、すなわち御前峰(イザナミノミコト、本地十一面観音)、大汝峰(オオナムチノミコト、本地阿弥陀如来)、別山(アメノオシホミミノミコト、本地聖観音)を祀っています。また平成元年(1989年)から始められている発掘調査により、南谷三千六百坊、北谷二千四百坊の遺構など中世の宗教都市平泉寺の全貌が明らかになりつつあり、平泉寺白山神社の旧境内200ヘクタールが国史跡として発掘調査と整備が進められています。

川上御前

白山十二宿の第七宿「河上」に相当します。泰澄大師が初めて白山に登られたとき、ここで1宿されました。その夜夢に天女が現れ、「私はここで国中の水を守護しています。どこかで水害が起こればそこへ駆けつけ、収まればまたここへ戻り暮らしています」と話して消えました。大師は驚いて起き、静かにお経を唱えられました。その後山頂で修業中に自ら女神像を彫り、ここに社を建て祀り、河上大権現と崇め奉られたそうです。女神像は平泉寺の兵災後に本社に移したと伝承されています。現在の社は旧三ツ谷集落出身者により再建されたもので、内部には複製された女神像が安置されています。

剃刀窟

泰燈大師が白山開山の折に剃髪したところとされています。現在は高さ60cmほどですが古い文献によればかつては10人ほどが入れる大きな窟であったようです。窟内には明治の廃仏毀釈で壊された石仏の残骸が確認できます。

ミニ知識

泰澄大師

白山信仰の祖とされる泰澄大師は、記紀(古事記・日本書紀)には記載がありません。そのために存在が明確ではなく伝説上の人物とされています。しかし泰澄が開いたとされる寺社は北陸3県をはじめとして数多く、また修業をしたといわれる福井県丹生山地越知山周辺や遷化の地とされる大谷寺などには多くの遺跡や伝承が残されています。
泰澄に関しては「泰澄和尚伝記」があり、多くの書写本が現存しており、内容も様々あるといわれています。他にも「元亨釈書」や「法華験記」「神仙伝」「白山の記」など多くの書に泰澄に関する記載があるとされています。
これらによれば、泰澄は白鳳11年(682年)、福井市三十八社町で三神安角の子として生まれ、11歳の時に北陸を旅していた僧道昭に神童といわれました。
14歳で夢の告げにより越知山に通って修業を積み、名声高く、大宝2年(702年)、朝廷(文武天皇)から鎮護国家法師とされます。
養老元年(717年)、弟子二人を連れて白山に登り修行します。養老6年(722年)、元正天皇の病気を祈禱により平癒、神融禅師号をいただきます。神亀2年(725年)、僧行基が白山に泰澄を訪ね意見交換します。
天平8年(736年)、都で僧玄昉より十一面観音経を授かり、翌年流行した疱瘡を十一面観音法で終わらせ、聖武天皇から大和尚号を授かり泰澄と称するようになりました。
天平宝宇2年(758年)白山を降り大谷寺へ戻り、神護景雲1年(767年)、大谷寺仙窟で結跏腑座したまま遷化されました。
これらについては多くの異説もありますが、日本独自の神仏習合、本地垂迹説、山岳宗教の成立にかかわった人物として記憶されています。

湯本温泉

江戸時代の多くの白山登山記録には一ノ瀬から柳谷川を渡り、一ノ鳥居をくぐらずに湯の谷に向かうと湯谷川の左岸に湯本温泉があると書かれています。
役所、茶屋・板小屋の宿泊所、湯小屋があり、登山の準備、天候待ちや下山後の休息に利用していたようです。
この当時白山麓は幕府直轄の天領でありました。
そして白山の管理は平泉寺に委託されており、実質越前領であったのです。
さかのぼれば、戦国時代には加賀は一向一揆の支配が続き、越前では信長の勢力が一向一揆を制圧した後、白山麓は越前の大名が支配していました。そして、かつて一向一揆に焼き討ちされた平泉寺も勢力を取り戻し、白山の支配権を得て、市ノ瀬や湯本に役所を置いて、入山者や湯治客を管理、入山料・入浴料をとっていました。役所や湯小屋には制札が掲示され、火の用心、賭け事禁止、喧嘩・口論禁止、下帯(ふんどし)なし入浴の禁止などが書かれていました。
当時のチラシによればこの温泉は5月15日から9月15日まで利用できたようです。
昭和9年(1934年)の風水害により一ノ瀬周辺は壊滅的な被害を受けました。風水害の後、市ノ瀬は現在の場所へ再興され、白山温泉永井旅館が白山登山者の宿となっています。

まつわる話

稚児堂と弁ヶ滝

中の平(釈迦の原)の入り口付近、林道を横切ったところに小さなお堂があります。
昔、平泉寺に足羽郡からやってきた和光という容顔美麗でこころやさしい稚児がおりました。そこへわけあって今立郡からさすらい来た弁の君という女性と相思相愛の仲となりました。ところが何かわけがあってか、和光が滝に身を投げて死んでしまいました。それを知った弁の君は大いに嘆き悲しんで、同じ滝へ身を投げて死にました。それ以来この滝を弁ヶ滝と呼ぶようになりました。そしてこの二人の霊を慰めるために、二人の卒塔婆のそばにお堂を立てたという事です。弁ヶ滝は修業の場であったのかもしれません。

ルート

コースタイム:時間はおおよその目安です

平泉寺白山神社から祓川

平泉寺白山神社精進坂(出発)
↓ 20分   ↑15分
三之宮登山口
(尾根ルート)           (谷ルート)
↓ 30分  ↑20分         ↓    ↑
剣之宮                 ↓    ↑
↓ 45分  ↑30分         ↓ 75分  ↑50分
剣之宮分岐
↓ 15分   ↑10分
三頭山
↓ 70分   ↑50分
中の平
↓ 60分   ↑45分
法恩寺山頂
↓ 25分  ↑25分
伏拝
↓↑ 90分
祓川

祓川から市ノ瀬

祓川
↓↑ 小原林道(舗装路 車は有料) 5.5km 90分
(福井県側)小原峠登山口
↓ 40分   ↑30分
小原峠
↓ 40分  ↑50分
川上御前
↓ 10分   ↑15分
(石川県側)小原峠登山口
↓ 3分   ↑3分(渡渉)
作業道駐車場
↓↑ 未舗装車道 3.4km 50分
作業道分岐(ロープはってある)
↓↑ 未舗装車道 1.4km 20分
作業道入口(ロープはってある)
↓↑ 石川県道33号白山公園線 1.3km 20分
市ノ瀬

市ノ瀬から御前峰

市ノ瀬ビジターセンター
↓ 25分  ↑20分
登山口(禅定道案内板)
↓ 20分   ↑15分
林道交差(釈迦岳分岐部)
↓ 40分   ↑30分
六万山
↓ 60分   ↑40分
指尾山
↓ 30分  ↑30分
剃刀窟
↓ 60分   ↑50分
慶松平
↓ 25分   ↑20分
別当坂分岐(観光新道に合流)
↓ 80分 ↑50分
殿ケ池避難小屋
↓ 100分  ↑70分
黒ボコ岩
↓ 40分  ↑25分
室堂
↓ 40分   ↑30分
御前峰

アクセス

■平泉寺白山神社
鉄道・バス:えちぜん鉄道勝山永平寺線勝山駅下車、勝山駅から大福交通バスで平泉寺下車15分
マイカー:中部縦貫道勝山ICから県道260号線へ右折、新保交差点を右折して国道261号線から157号線へ。猪野交差点で左折して平泉寺入口へ。駐車場から徒歩500mで平泉寺白山神社精進坂前

■小原峠登山口(大長山・赤兎山登山口)(福井側)
マイカー:中部縦貫道勝山ICから国道416号へ出て大野方面へ向かい、長山町交差点で国道157号へ左折し白峰方面へ向かう。小原大橋滝波川右岸の小原口から小原集落料金所を経て小原林道終点登山口へ。終点付近と少し手前に駐車場あり。小原林道は入山料が必要(一人500円)

■市ノ瀬:
バス:北陸鉄道金沢駅発別当出合行き市ノ瀬下車。7月上旬から10月上旬。運行日はホームページなどで事前確認を。
マイカー:北陸自動車道白山ICまたは中部縦貫道勝山ICから国道157号線で白峰へ。白峰から県道33号線で市ノ瀬ビジターセンター駐車場へ。

参考資料

上村俊邦『白山の三馬場禅定道』岩田書院、1997
福井県教育委員会編『美濃街道・勝山街道』2005
杉原丈夫編『新訂越前国名蹟考』松見文庫、1980
上杉喜寿『白山』ビジョン北陸、1986
勝山市編『白山平泉寺』吉川弘文館、2017
勝山城博物館・勝山市編『白山のいざない』2017
勝山市教育委員会史跡整備課編『国史跡平泉寺の整備情報誌 平泉寺かわら版』
『白山の自然誌』第21:白山の禅定道、石川県白山自然保護センター、2001
『はくさん』第27巻第1号:特集・越前禅定道、石川県白山自然保護センター、1999
村井佳代子(天方彝之助友諒 原著)『口訳白山行程記 : 幕末の白山登山紀行』金沢:能登印刷出版部、2012
越知山泰澄塾『越知山 泰澄の道』2009

協力・担当者

《担当》
日本山岳会福井支部
山本 享

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