single-kodo120_detail

36 さらさら越え

さらさら越え

古くから樵や猟漁師が黒部源流部に入るため、あるいは信州側から立山へ、越中側から善光寺へ参拝するために間道として利用されていた古道で、戦国時代の越中城主、佐々成政が厳冬期に北アルプスを越えたという伝説があります。
江戸時代には、密猟や討伐を取り締まっていた加賀藩の奥山廻りにも利用されていました。
明治初期には、富山と長野を結ぶ、我が国初の山岳有料道路として整備されましたが、厳しい自然条件のため、開業して間もなく廃道となりました。
明治以降、登山家だけでなく研究者、外交官、文人、ジャーナリストなど多くの著名人がこの道を歩いています。
ザラ峠以西は1973年(昭和48年)に立山温泉が閉鎖されて廃道になり、今は立ち入ることができません。
針ノ木谷の道も荒れていましたが、2008年(平成20年)、有志により復活されました。とはいえ、針ノ木谷は道が不明瞭で、増水時は難度が上がります。
1896年(明治29年)の夏に針ノ木峠をこえた木暮理太郎は、「針ノ木峠越は、登山の入門としてあらゆる課程を備えた好個の教科書である」と書いているように、沢歩きや大雪渓など変化に富む本格的な登山コースです。
(1) ザラ峠以西
古道は、現在の立山山麓スキー場付近から常願寺川の左岸沿いに立山温泉に至り、カルデラ壁を登ってザラ峠に至るものでしたが、今は砂防工事のため立ち入り禁止となっていて、歩くことができません。
(2) ザラ峠〜刈安峠〜平
ザラ峠と刈安峠の間の古道は中ノ谷を通っていましたが、廃道となって久しく、道跡がほとんど残っていないので、代替として五色ヶ原経由の登山道を利用します。刈安峠と平の間は、古道とほぼ同じルートの登山道を歩きます。
(3) 平〜針ノ木谷〜針ノ木峠
針ノ木谷を遡行するルートです。船窪分岐より下流は、2008年に古道が復活され、仮橋が一箇所設置されている他、テープ、ペンキなどによる最小限の目印はありますが、風雪や増水、斜面崩落などで喪失する可能性がある簡易なものなので、あまり当てにしない方が良いでしょう。船窪分岐より上流はさらに不明瞭ですが、水量が減るので渇水期であれば遡行はさほど困難ではありません。沢の源頭部から針ノ木峠間は、注意深く踏み跡を辿れば、藪漕ぎはほとんどありません。沢登りの心得と技術が必要です。
(4) 針木峠〜扇沢、大町
針ノ木峠は越前と信州の国境となっていて、後立山連峰の爺ヶ岳が長い尾根を広げ、眼下に信州に至る長い針ノ木雪渓が伸びています。
峠までせりあがる雪渓の入口は、急な雪の堆積でここを牛馬で降りるのは難しかったと考えられます。
雪渓が切れるところで左岸に上がり、現在の大沢小屋付近を通り、篭川からは離れて赤沢、鳴沢、岩小屋沢の河原を渡り、広い樹林帯を通り、現在の扇沢駅付近を通り、蓮華岳の丸石沢付近で篭川を渡り、右岸デブリ上に出ます。
しばらく蓮華岳に沿って下り、白沢の橋で左岸に渡り、15丁ほど下って山の神に着きます。
ここからは里山となり、白沢天狗と日向山の細越を経て犬窪、北条屋敷、の集落を経て、古くからの立山信仰を示す西正院を通り「お出」から野口村本村大宮神明社に着きます。
この大宮神明社がこの道を企画し出発点とした一人、庄屋、飯島善造の生家の近くです。
信越連帯新道という名称は後でつけたものであり、当初は信越新道と呼ばれていました。
※なお、(1)〜(3)を富山支部、(4)を信濃支部が担当しました。

古道を歩く

ザラ峠から針ノ木峠へ

ザラ峠〜平

ザラ峠へは、室堂から浄土山、鬼岳、獅子岳を経て到達するのが最短です。
獅子岳の下りで行手に目をやれば、五色ヶ原手前の鞍部がザラ峠で、その右側が立山カルデラ、左側がかつては古道があった中ノ谷です。
赤茶けて草木のない荒涼としたカルデラに対し、中ノ谷は緑に覆われ、遅くまで雪渓が残ります。
かつてチグサ峠とも呼ばれていたザラ峠は、砂礫と草地の広い鞍部です。

古道はここで現在の縦走路と直行していましたが、カルデラ側と中ノ谷側のいずれにもその痕跡は見当たりません。
ザラ峠から豪壮なカルデラ壁の縁を登り、五色ヶ原に出たら間もなく刈安峠を経て平への分岐です。
分岐に残る山小屋の跡は、1923年(大正12年)に建てられた五色小屋です。
五色小屋の新設に呼応して五色ヶ原から刈安峠への道ができ、中ノ谷の道は利用する人が次第に少なくなっていきました。五色小屋も今はなく、時の流れを感じます。
薬師岳方面への縦走路と別れてしばらく行くとキャンプ場の横を通り、前方に赤牛岳など黒部源流の山々を見ながら五色ヶ原を緩やかに下っていきます。木道の両側はお花畑です。
樹林帯に入るあたりから尾根道となり、ひたすら黒部の谷に下っていきます。
資材が置いてある裸地に続いて電波塔に出会ったら、刈安峠まではあとわずか。
1952.1mの三角点の手前の鞍部が刈安峠で、小さな木製の標識がありますが文字は消えています。
刈安峠の中ノ谷側には古道の形跡らしき地形が認められますが、完全にブッシュに覆われています。
刈安峠からは尾根筋を離れてヌクイ谷側の斜面を標高差で約500mほど下ります。刈安峠から平までは、古道とほぼ同じルートを辿ります。1916年(大正4年)にここを歩いた木暮理太郎の紀行文に「ブナ坂」とあるように、今もブナの美林の中の道です。

木の間にヌクイ谷の流れが見えてきたら、長い下りも終わりに近く、しばらく水平の道を歩いて平乃小屋(地形図には「平ノ小屋」)に着きます。小屋の食堂には、ダム湖に水没する前の小屋や吊り橋の写真が掲げてあり、往時を偲ぶことができます。

平へは黒部ダムからアクセスすることができます。地形図では湖岸を水平にたどる道ですが、実際に歩いてみると沢や崩壊地を横断するための上り下りが多くあり、精神的にタフな道です。
ザラ峠までのアクセス:室堂から直接(一ノ越を経由せず)浄土山に登り、獅子岳をへて4時間半(ガイドブック標準タイム)
[コースタイム]2022年8月9日踏査
ザラ峠13:45〜五色ヶ原分岐14:40〜16:50刈安峠17:00〜18:15平乃小屋
*ガイドブック標準タイム:ザラ峠(0:40)五色ヶ原分岐(2:00)刈安峠(1:30)平

平〜針ノ木谷〜針ノ木峠

かつては黒部川を吊り橋で渡っていましたが、黒部ダムの建設で水没したため、今は無料の渡船が運行されています。
6月下旬から10月まで一日数本の便がありますが、ダイヤは季節で変わるので確認してから出かけましょう。
平乃小屋から乗船場までは、水平な道を黒部ダム方向に少し歩いて急なコンクリート階段とそれに続く丸太階段を降ります。ライフジャケットを着け乗船名簿に記入したら出航、対岸まで10分足らずの乗船です。
対岸に上陸するといきなり丸太階段の急登です。
登り切ったら道は二手に分かれ、右が奥黒部、読売新道方面、左が針ノ木谷です。左下に湖面を見下ろしながらトラバース気味に付けられた道を行くと、山側に小屋があります。

出入り口にドアはなく窓は吹き抜けで、土間に腰掛けのような細長い床があるだけの建物です。昭和45年8月30日発行の2.5万分の1地形図には、乗船場は小屋の真下にあることから、この小屋は船の待合所として、あるいは船の最終便に乗り損ねた登山者が夜露を凌げるようにと設けられたものと思われます。乗船場が今の位置に移ったのは、登山者が減った針ノ木谷より奥黒部方面の登山者を優先した結果かもしれません。
針ノ木谷の流れを見下ろしながら行くと、石の階段や崖をへつった箇所があります。

古道を偲ばせますが、黒部湖ができる以前の5万分の1地形図では、明治以来、一貫して、針ノ木谷の歩道は谷底の流れに沿っているので、ダム湖に沈んだ古道の代替として付けられたと考えられます。
間もなく谷は開け、平坦な砂地に踏み跡があり、ふり返ればカラマツの疎林の向こうに立山が見えています。
丸太の橋で右岸に渡り、灌木とブッシュの中を流れに沿って道を見失わないように行くと、ほどなく流れを横断するロープが張られています。南沢出合いです。

ここで左岸に徒渉し(靴に水が入ることは避けられない)、テープの目印を頼りに徒渉を繰り返すと、道は右岸を登りはじめます。
標高1730mあたりにつけられた高巻き道を行くと、次第に高度を上げた針ノ木谷の流れが近づいてきます。
この高巻きの区間も、かつては沢の流れに沿って道がありました。
ガレ場を何回か横切り、河原に降り立ったら間もなく左岸に渉ります。

ここから船窪分岐までは両岸が迫っており、徒渉を繰り返して船窪分岐に着きます。
左岸の登り口に「船窪小屋」と書かれた小さな標識と、岩に赤ペンキのマークがあります。

ここまでは徒渉地点などの要所にテープの目印があり、それに従って遡行すれば、オンラインで閲覧できる国土地理院の地形図にある道を辿ることができます(市販されている最新の2.5万分の1地形図(平成27年3月発行)に記されている針ノ木谷の歩道は、古道復活前の道筋です)。
ただし、目印は恒久的なものではなく、沢の状況も日々、年々変化することを念頭に歩きましょう。
針ノ木谷の古道が復活されたのは平から船窪分岐までなので、船窪分岐より上流部は道がさらに不明瞭になります。
明治初期に開削された新道の時代には、船窪分岐付近の右岸に牛小屋があったそうですが、今は痕跡もありません。
次第に水量が減ってくるので、道跡を探すより徒渉した方が早くて確実な場合もあり、水量など沢の状況により現地で判断するのが良いでしょう。
岩に赤ペンキで「本谷出合」とある二俣に到着。ここで針ノ木谷は直角に左へ向きを変えて針ノ木峠に突き上げています。水量はさらに減り、勾配が急になって小さな滝がいくつも現れますが、大きな高巻はありません。
色褪せた古いロープには苔がはえ、石の上に印されたペンキは消えかけていて、長年人手が入っていないことがわかります。
二股から上流に河原はありませんが、左岸の1940m地点に休憩適地があります。
両岸の山肌には崩壊の跡があり、沢は荒れた箇所もあります。
やがて涸れ沢となり、笹や灌木が頭上に被さって歩きにくい道ですが、ブッシュ漕ぎはありません。

森林限界を抜けて見上げれば針ノ木小屋、遠くには槍ケ岳が見えています。
ダケカンバやミヤマハンノキが次第に小さくまばらになり、ハイマツと草地の急斜面に残る踏み跡をジグザグにたどれば、2536mの針ノ木峠です。
峠には針ノ木小屋とテント場があり、北は白馬岳、南に槍穂高、遠く富士山まで望むことができます。

[コースタイム]2022年10月13日踏査
平〜針ノ木峠
6:50小屋発 7:00乗船〜7:07下船して歩き出す〜7:25避難小屋〜8:09南沢出会〜8:40高巻はじめ、9:50 高巻終わり〜10:30 船窪分岐〜11:00 二股〜14:20針ノ木峠(ガイドブックによる標準タイム:登り9時間、下り7時間)
針ノ木峠14:40〜17:20大沢小屋〜18:55扇沢駐車場(ガイドブックによる標準タイム:3時間)
*針ノ木峠からの下りは、雪渓の有無で所要時間がかなり異なる。踏査時(2022年10月13日)、雪渓はなし。

大町から針ノ木峠へ

JR信濃大町駅よりタクシーに乗り、大町市平野口の野口村神明社(大宮神明宮)に立ち寄り、見学の後、タクシーにて野口橋経由、高瀬入交差点より右折するとすぐに西正院に着きます。
西正院は立山信仰の証であり、佐々成政の針ノ木峠越え伝説の大姥尊像を安置しており、扁額の内容が興味深い所です。

西正院から150mほど西に行った右手に山の神(信越新道の山の神とは異なる論争のあった山の神。信越新道山の神は上流にある)など各種の札が立っている所があり、山の神の現在を見ることができます。

引き返して西正院手前を右にとり、北条屋敷や多くの石碑、石仏、大黒様などが立つ村道を通り、大町アルペンライン道路交差点を左折します。
(古道は古道の一つである細越道より里山である日向山と白沢天狗岳よりの尾根の間を通り、篭川左岸に出るが、この細越道は水の管があるのみで通行不能。)
大町アルペンラインの大町市の給水施設がある道路右上方に山の神があったとされる杉木立および少し平らな場所があります。(寄せ沢、蛇澤の中には山ノ神の痕跡は全くないので探すのは困難。)
さらに上流に進むと白沢が右上方から流れて、白沢橋を渡ります。「白沢の渡し」の場所です。

白沢の渡しは篭川との合流地点より下にあり、古道は右岸に渡っています。

鹿島槍ヶ岳や爺ヶ岳の登山口(柏原新道入口)を過ぎ、黒四扇沢バスターミナルに出ます。このすぐ手前左下に、右岸より丸石沢が蓮華岳より落ちています。岩が重なり滝の様になっていて、谷も険しく蓮華岳の奥深さを感じる場所です。
ここ丸石沢の渡しで古道は左岸に出て、上へあがって扇沢駅前の古道に繋がっていますが、痕跡は全く見られません。
大町駅から車道で14km、野口神明社から12kmあり、古道は篭川べりの密林の中となっていて歩くのは困難です。
扇沢駅の前を古道は通っているのですが、その上方では関電作業道があるために通行不能で、この先は針ノ木岳登山道の夏道を通ることになります。
岩小屋沢岳からの沢を右に避けながら岩小屋沢岳、鳴沢岳、赤沢岳のすそ野に入っていきます。

岩小屋沢を過ぎると、昭和30年代につくられた針ノ木自然園の案内板が見えてきます。
関電資材置き場の広場に出るとここでコンクリートの作業道から山道に入ります。
比較的なだらかな場所で幅1.8mの古道があっても不思議ではなく、まわりは大きなブナなどの混合樹林帯です。
岩小屋沢岳、鳴沢岳、赤沢岳が並んだすそ野を思わせる地形でいくつもの沢が流れ出ています。

右上方からの沢では、ほとんどの水は堆積した岩石の中を通るため表面に流れとならないも、水はいたる所でしみだしています。
枯れた河原を二つほど渡った先に、水音が高く聞こえる泉(水飲み場)があります。古道の牛馬の水場としては最高な場所で、苔むした岩の間から多量の水が小川となって流れるほど出ているのでここで一休みしていきます。その先には、鳴沢岳からの沢の一部に丸木橋がかかり、さらに上流の二つほどの沢を横切り、赤沢岳寄りの川原を横切り、回り込むように針ノ木から出る篭川に合流します。その先で大沢小屋の建つ篭川左岸に出ます。
ここからは時期によって異なりますが、針ノ木大雪渓が現れ、古道はその中を通っています。

雪渓の溶け方によって、雪渓に降りる地点は変わるため、とにかく降りられる場所を探して雪渓に降り、上部をめざします。
雪の安定している春、雪崩の収まる4月ころなら、どこを通っても問題はありません。
喉の(雪渓途中の狭く急なところ)急斜面と、一番上部のとりつき部分の急斜面は、牛馬で通るには困難だったと推察されます。
古道に関する昔の計画書では、雪渓上に何本もの線が描かれています。喉の雪が落ちる時期は、今とは異なって雪が来るまで繋がっていた左側なら通れたなどの古い人の話もあります。上部の急斜面は、上部の左側にジグザクの道をつけることによって解決できる。発想は比較的自由で、通れれば商売を行い、喉など落ちれば商売はおしまい、通れる時期は商売を行うということではなかったかと考えられます。登り詰めた所が針ノ木峠です。

この古道を歩くにあたって

一旦、復活した針ノ木谷の古道であるが、今後とも維持管理がなされる保証はなく、特に船窪分岐より上流部は、長らく人手が入っておらず登山者も極めて少ないので、道跡はさらに不明瞭となるであろう。沢の遡行と考えた方が良い。
秋の渇水期であっても、徒渉で靴の中に水が入ることは避けられない。
大雪渓が消えた籠川の谷は登山道が荒れていて、特に下りは歩きにくい。

一方、大町からの古道は白沢の渡しまでは里山の道であり、細越道(日向山と白沢天狗尾根との間)以外は難なく歩ける。
白沢の渡しを過ぎると、篭川に沿っているので川以外は石ころだらけの川原と密林で古道の痕跡はほとんどない。
大町アルペンラインよりところどころ川に降りて観察する程度である。
時期により激流逆巻く場所もあるので、かなり専門性を有する調査、歩行が必要である。
熊、猿などの野生生物も多い。
丸石沢を過ぎて大沢小屋付近までは普通の登山道である。
雪渓に降りるとアイゼン、ピッケル、ストックなど必要になる。
雪渓は慣れない人にとっては思いもよらない事故が起きやすい。
滑落、クレバスへの落下、落石、時期によっては雪崩に注意が必要である。

古道を知る

佐々成政の北アルプス越え

信州野口村より枝村「大出」を経て籠川谷を遡上し、針ノ木峠を越え針ノ木谷を下り、平で黒部川をわたり、剣・立山連峰の鞍部であるザラ峠を越え、立山温泉を経て常願寺川支流の湯川谷を降下、越中芦峅寺に抜ける道筋は、越中と信州を結ぶ交易、信仰の道で、中世末期からいくつか存在するものの一つであった(信越新道は原村に至るのでルートは違う)。
そして、戦国時代の天正12年(1584年)には、富山の領主、佐々成政が北アルプスを越え、同年浜松城で家康に会い、軍事的な連携を図ろうとした。
旧暦11月末(新暦12月末~1月初旬)富山を出発し、さらさら越えを通り、針ノ木谷を遡上、針の木峠より大町に下り浜松に向かったと言われている。
しかし、厳冬期の北アルプス横断はあまりに過酷なため、富山から飛騨を通り安房峠か中尾峠を越えて深志(松本)に至るルートや、糸魚川から千国街道を利用した可能性が指摘されるなど諸説あり、ルートは定かではないが、家康側の史料「家忠日記」(家康側近の松平家忠の日記)の天正12年12月25日(西暦1585年1月25日にあたるので、まさしく厳冬期)の項に、「越中の佐々蔵助、浜松へ越し候」と明記されていることから、越中から浜松を往復したことは史実とされている。
このいきさつはおおよそ、次のようなものである。
京都、本能寺で信長が討たれ、跡目相続について織田家の家臣は分裂。
富山の城主、成政は柴田勝家方につき豊臣秀吉方と対立、豊臣秀吉の盟友、加賀前田利家とも敵対した。
柴田勝家が滅びた後、成政は織田信雄、徳川家康に救いを求めたのである。
会見の後すぐに取って返して同じ道を富山に帰った。これは歴史的には事実であるが、ルートについては確たる証拠はなく論争が絶えない。
天正13年(1585年)成政は秀吉、利家軍に富山城を包囲され降伏、領地を没収され肥後(熊本)へ転封、のち政策の失敗から天正16年(1588年)秀吉より切腹を命じられた。
そして、文禄四年(1595年)以降は、前田利家が立山から黒部川上流までの一帯を支配した。しかし、立山の裏側(=信州側)の山中に、「忍びの者」が利用する秘密の抜け道があることを気味悪がり、利家は黒部の山奥に詳しい農民・松儀伝右衛門を呼び、詳しく報告させた。

加賀の奥山廻り

その後、前田利家の4男で加賀藩主になった前田利常は、寛永17年(1640年)、北アルプスの黒部川流域を御縮山(おしまりやま)として一般人の入山を厳しく禁じた。同時に、松儀伝右衛門を「奥山廻り」という新設のポストに就かせ、国境の軍事上の警備と盗伐、密猟の取り締まりにあたらせた。「来(雷)鳥・花・松・硫黄など盗むものがいないか度々見まわれり」と書いた記録が残されており、資源だけでなく花や雷鳥などの自然も保護の対象として見廻っていたようだ。
黒部奥山廻りは明治3年(1870年)に廃止されるまで230年間続き、その間に彼らは黒部川の流域や北アルプス後立山連峰の稜線を踏破し、今日でも役に立つデータを蓄積していた。

奥山廻りは毎年、夏に実施された。見回りのルートは、鹿島槍ヶ岳を境にした北と南の2つ。南側の上奥山コースは、立山から黒部川を渡り、針ノ木峠に登って鷲羽岳までの国境山稜をめぐり、薬師岳、有峰を経て戻ってくるルート。北側の下奥山コースは、小川温泉から谷に入り、白馬岳方面をめぐるコース。これを1年おきに交互に実施した。日数は15日から25日ほど。奥山廻りには帯刀が許され、同行する「きこり」たちに鍋やお釜、食糧を担がせた。登山に関しては慎重を極め、磁石を持ち、祖先からの言い伝えを大事にして行動したため、300年間、山中での遭難死はなかったという。

針ノ木谷ではしばしば、信州の伐採業者が建てた小屋が見つかった。彼らは素早く逃げてしまうが、奥山廻りは伐採された材木を没収したうえ小屋を焼き払った。

しかし、信州の人たちにも言い分がある。ある時、奥山廻りが発見した盗伐小屋のそばに石が立ててあり、そこに墨で黒々と「野口山」と書いてあった。「信州・安曇郡野口村の山」という意味だ。奥山廻りは砂を使って文字を磨き落としたという。

日本初の有料道路「立山新道」(「信越連帯新道」)

さらさら越え伝説のある古くからの間道を利用して、明治初期に建設された。
当時、信州と越中との交易には越後の糸魚川を経由するしかなく、糸魚川の塩問屋が塩の価格を支配していた。
このため、加賀の旧士族と信州の旧庄屋が1875年(明治8年)に「開通社」を結成し、筑摩・新川両県の許可を受けて工事にとりかかった。
新川郡原村(現在の立山山麓スキー場付近)から立山温泉 → ザラ峠 → 刈安峠 → 平ノ渡 → 針ノ木峠をへて安曇郡野口村(現大町市野口)に至る14里(約56km)の新道が建設され、富山と大町が20里18丁(約82km)の道路で結ばれた。
新道は、道幅6〜9尺(牛の通行可)、要所要所に小屋を建て、牛小屋を置き、橋を架けた。
困難な事業をやり遂げたことで、明治天皇から特別に御嘉賞を受けたほどであった。
通行料金は途中の立山温泉で徴収したといわれるが、黒部川渡河地点の平ノ小屋が「道銭小屋」と呼ばれていたことから、ここでも徴収していたのであろう。
しかし、この道は自然条件が極めて厳しいため、利用期間が短い上に維持管理に莫大な費用を要し、明治10年から13年までの4年間の営業で廃業となり、放置されて荒れるに任された(「2年で廃道」説もあるが、書類上の形式的な営業期間と実際に有料道路として利用された期間の相違であろう)。
明治26年(1893年)8月、ウォルター・ウェストン(Walter Weston)は、信州から針ノ木峠を越えて立山に登ったが、ザラ峠から来し方を眺め、「人間が仮にもこれを開こうと夢みたことは驚くべきこと」と感嘆している。
1971年に立山黒部アルペンルートが全通し、富山県と長野県の間を乗り物で行き来できるようになったが、あくまで観光用である。
県境を接している両県ではあるが今も直接行き来できる車道はなく、新潟県また岐阜県を経由しなければならない。

深掘りスポット

立山(りゅうざん)温泉

佐々成政がさらさら越えの際に入湯したとの伝承がある立山温泉は、18世紀末の安永年間に開湯された。
1814年(文化11)年に温泉の所有者が変わって、それまでは松尾峠経由であったアクセスが常願寺川左岸から可能となり、利用者が急増した。
1858年安政の大地震による大鳶山(おおとんびやま)の大崩壊で埋没したが、1869年(明治2年)に再興された。
その後、立山新道が開通したこともあり、越中4名湯の一つとして栄え、1906年(大正15年)には立山砂防事務所が温泉内にできて、さらに多くの人が利用するようになった。
当時、温泉からの登山道としては、松尾峠を越えて弥陀ヶ原(追分)に至るもの、浄土山と国見岳の間を越えて室堂に至るもの(御歌道・おうたみち)、そしてザラ峠へ至るものがあり、登山者や立山参拝者にとっても重要な中継基地であった。
1941年(昭和16年)に砂防工事事務所が移転したことや、戦時下になったために一時休湯したが、1950年(昭和25年)に再開した。
しかし、1952年(昭和27年)に美女平までケーブルカーが開通し、アルペンルートの延伸で次第に客足が遠のいていった。1
969年(昭和44年)の豪雨で温泉への道や施設が被害を受け、1971年(昭和46年)には立山黒部アルペンルートが室堂まで全線開通したことで、1973年(昭和48年)、ついに立山温泉は開湯以来の歴史に幕を閉じた。
現在、温泉があった立山カルデラ内は砂防事業用地として立ち入り禁止で、温泉を経由する登山道は廃道となっている。

平の変遷

今は10分たらずの乗船の平ノ渡しだが、黒部の流れがダム湖に水没する1961年(昭和36年)までは吊り橋があった。
黒部川の下ノ廊下と上ノ廊下の間にある平は、かつては中ノ瀬と呼ばれ、広い河原には温泉が湧いていた。
古来、信州と越中を結ぶ道の要衝であり、奥山廻りの記録や絵図から、江戸時代には平が徒渉地点であったことがわかる。
明治になり御縮山が解禁になると、野口村(現大町市野口)の遠山品右衛門が小屋を建てた。
立山新道建設でも小屋が建てられ、橋が架けられた。
1878年(明治11年)に針ノ木峠を越えて新道の荷継小屋に泊まったアーネスト・サトウの紀行文には、平の橋は「大変揺れる橋」とあり、吊り橋とも解せるが、大町山岳博物館にある当時の橋の設計図は刎橋である。
1893年(明治26年)にウエストンが信州側から針ノ木峠を越えた時は、小屋は廃墟となっており、「歩いて渉った」。
品右衛門は小屋を再建し、のちに国有林の許可を得て小屋を維持していたが、高齢で山を降りた後はしばらく無人となっていた。
1914年(大正3年)にウエストンが富山側から再度、このルートを歩いた時は、小さな小屋が2軒あったとあるが、小屋の様子についての言及はない。その時、ウエストンは「籠渡し」で渡河している。
品右衛門の後、平ノ小屋を引き継いだのは芦峅の志鷹弥三太郎である。弥三太郎は、1915年(大正4年)に新築された平ノ小屋の管理を富山県から委託された。
1924年(大正13年)に建て替えられた後も、引き続き弥三太郎が管理にあたり、平ノ小屋は登山者だけでなく芦峅の漁猟師達の基地としても賑わっていた。
翌年の大正14年には、日本電気(株)が平ノ小屋の隣に日電小屋を建設し、冬も人を置いて河川流量や気象を観測していた。黒部は電源開発の適地としても注目されるようになっていったのである。
1926年(大正15年)には日本電力が「完全な吊り橋」を架けたが、しばらくは籠の渡しと併用で、1930年(昭和5年)に冠松次郎が訪れた時は「吊り橋の隣に籠の渡しがあった」とあり、1934年(昭和9年)の厳冬期に、単独で立山・針ノ木峠を越えた加藤文太郎は、日電小屋に泊めてもらい、籠で渡っている。
新道開設以来、近代登山の舞台として登山家だけでなく、文人、外交官、ジャーナリストなど多くの著名人が往来した黒部も、戦時下に入って次第に静かになっていく。
戦争が終わり、芦峅寺の佐伯覚英(かくえい)が志鷹弥三太郎から小屋を引き継いだ。
朝、小屋の前の川渕には顔を洗えないほどイワナが群れていたという。覚英は黒部川のイワナを毛バリで釣りあげる職漁師となる。その技は2代目覚秀(さとひで)、3代目覚憲(さとのり)へと引き継がれた。
黒四ダムの建設により小屋は吊り橋とともに湖の底に沈み、新しい小屋は100mほど上のブナの原生林を切り開いて建てられた。「平の小屋物語」(今西資博著1992)は、佐伯氏親子3代にわたる平乃小屋の暮らしを綴っている。
現在のログハウス風の平乃小屋は、その後建て替えられたもので、食堂に薪ストーブ、壁には熊の毛皮、窓際には対岸で渡し船を待つ利用者を確認するための望遠鏡が置いてある。
2022年、古道調査のために2回宿泊した際は、主人の覚憲氏からいろいろ話をうかがったが、残念ながら翌年3月に57歳で亡くなった。
奥黒部の登山者、釣り客に愛されてきた平乃小屋は現在、覚憲の妹の平尾幸代さんが経営者となって営業されている。

西正院

さらさら越え伝説の無事を祈ったといわれる大姥尊像が安置されている。村社野口神明社。大宮神明社。

若一王子(にゃくいちおうじ)神社

垂仁天皇の御代に仁品王(にしなおう)が社を建てて伊弉諾尊(いざなぎのみこと)を奉祀し、のちにこの地域の創始の神として、仁品王、妹耶姫(いもやひめ)が合祀され、嘉祥2年(849年)仁科氏によって創建されたと伝わる。
その後、仁科盛遠が熊野那智大社に詣でて第五殿に祀られる「若一王子」を勧請してから、「若一王子の宮」と称されるようになった。現在の本殿は、弘治2年(1556年)、仁科盛康によって造営された。
神仏習合の形式が残され、境内には三重塔や観音堂がある。
JR大糸線の北大町駅の西300m

仁科神明宮(にしなしんめいぐう)(国宝)

平安時代に伊勢神宮の荘園を守るために、仁科氏により祀られた神社。
本殿・中門・釣屋は日本最古の神明造とされ、国宝に指定されている。
鎌倉時代の作とされる銅製の懸仏や銅鏡ほか、室町時代から1000年以上にわたり20年に一度の遷宮が行われ、その様子を伝える木造棟札(重要文化財)が伝わる。

天正寺(仁科本城跡)

現在の大町市をおさめた仁科氏の居館のあった場所に、天正年間に寺に改められたため、天正院と名付けられ、のちに天正寺となった。最後の城主は仁科盛信で、武田信玄の五男だったが伊那高遠城で織田軍と戦って、天正10年(1582年)に滅ぼされた。土塁や二重の堀が残されている。
城門形式の山門は江戸時代中期の元禄元年(1688年)に、本堂や鐘楼などは江戸時代後期に建てられた。

霊松寺(れいしょうじ)

功徳林大洞山「霊松寺」は、応永11年(1404年)、實峰良秀禅師によって開かれた、長野県最古の曹洞宗寺院。

森城址・仁科神社

木崎湖に突き出た半島状の地形を利用して築かれた水城が森城で、その本丸跡には仁科神社がある。
築城時期は不明だが、古代にまで遡るという説もある。
境内には承久の変で鎌倉幕府軍と戦った仁科盛遠の顕彰碑などが残る。

三宝荒神社(さんぽうこうじんじゃ)・竈(かまど)神社

仁科氏居館の裏鬼門の方角に守護神として創祀した。鬼門除けの神を祀り、地域の人々から荒神様として信仰されている。
三宝荒神は不浄を嫌い火を防ぐため、竈や囲炉裏など火の神として祀られる。
明治維新の頃の神仏分離令によって、三宝荒神社から、神道色の強い竈神社に改称された。

大澤寺(だいたくじ)

大町市大字大町掘六日町(ほりむいかまち)という市の中心地にあるが、もとは、北方の小熊(こぐま)山の麓にあった。本尊は准胝観音坐像。開創については諸説あり。
平安時代の延長年間に醍醐天皇の御子「若宮王子」が下って関わったとされ、寺の裏にその墓と伝わる墳墓がある。
また、室町時代の文明2年(1470年)に仁科盛直が建立したとも伝わる。
そのほか、後醍醐天皇の皇子、宗良親王が信濃各地をまわって伊那大鹿に籠る途中、ここを通ったとも伝わる。
木造阿弥陀如来立像は市指定有形文化財。
裏山には山城である駒沢城跡があり、暴れ馬が青龍となったという伝説が残る駒沢池が水をたたえている。
JR大糸線北大町駅から1.1km
電話:0261-22-0304
参考資料:日本歴史地名大系

ミニ知識

平安末期より鎌倉時代にかけて京都でも活躍した仁科氏

「吾妻鏡」にも出てくる。1567年武田氏により誅殺、のち武田氏の五男、仁科五郎盛信が後を継ぎ、高遠城で織田に敗れ凄惨な最期を遂げる。安曇地方を長く支配した。県歌「信濃の国」に出てくる。流鏑馬は日本三大流鏑馬と言われ夏祭りに行う。

まつわる話

さらさら越えの軍資金

天正12年11月23日に富山を発った佐々成政が厳冬期に立山温泉からザラ峠、針ノ木峠を越えたと伝えられているが、その際、持参した軍資金がざら峠、針ノ木峠周辺に埋められているという伝説がある。
真剣に探した人も何人かいる。
野口に笹平という地名があるが、それは佐々成政の針ノ木峠越えの従者の名前である。
大姥尊堂(西正院)の大姥尊像はその時の無事を祈ったものである。

ルート

富山側
1日目
室堂
↓ 1時間30分
浄土山
↓ 2時間20分
ザラ峠
↓ 40分
五色ケ原分岐
↓ 2時間
刈安峠
↓ 1時間30分
平ノ小屋

2日目
下船後
↓ 1時間30分
南沢出合い
↓ 4時間
二股
↓ 3時間30分
針ノ木峠
長野県側
扇沢駅  (登山道夏道を通り、雪渓の溶け方により時間は異なる)
↓ 1時間30分  ↑ 1時間
大沢小屋
↓ 3時間30分  ↑ 2時間
針ノ木峠

アクセス

ザラ峠 立山室堂から登山道。立山室堂までは、富山または大町からアルペンルート
平   黒部ダムから登山道。黒部ダムまでは、アルペンルート
扇沢  JR信濃大町駅からバス40分、タクシー、自家用車(500台の駐車場有)

JR信濃大町駅から野口神社(大宮神明社)まで徒歩1時間、タクシー15分(籠川に沿って歩く道は現在なく通行困難)
野口神社には駐車場はない。
野口神社より扇沢駅まで大町アルペンラインを通り、徒歩では約4時間(12km)
古道の痕跡をたどって歩くと、河原と密林のため、ほぼ一日かかる。

参考資料

大山の歴史編集委員会「大山の歴史」大山町、1990
中島正文「黒部奥山廻り役(一)」『山岳』第32年第1号、日本山岳会、1937
広瀬誠「黒部奥山廻と信州」『山と博物館』第15巻第11号、大町山岳博物館、1970
湯口康雄「黒部奥山史談」桂書房、1992
冠松次郎「山渓記 I〜Ⅴ」春秋社、1967
小暮理太郎「山の憶い出 上」平凡社、1999/6
田部重治「わが山旅五十年」平凡社、1996
ウォルター・ウエストン「日本アルプス 登山と探検」平凡社、1995
ウォルター・ウエストン「日本アルプス再訪」平凡社、1996
アーネスト・サトウ「アーネスト・サトウの明治日本山岳記」講談社学術文庫、2017
遠藤和子「佐々成政」サイマル出版、1986
五十嶋一晃「芦峅ガイドの系譜」『立山カルデラ博物館研究紀要』第11号、2009
加藤文太郎「新編 単独行」山と渓谷社、2010
今西資博「平の小屋物語」法研、1992
甲山五一「黒部の弥三太郎」アテネ書房、1991
甲山五一「釣り師 遠山品右衛門」アテネ書房
菊地俊朗「北アルプス この百年」文春新書、2003
佐伯郁夫「佐々成政の伝説の古道復活」『岳人』737号、2008年11月号
大町山岳博物館「北アルプス登山史資料3 黒部川側からの登山史・後立山南部地域登山史」2017
大町山岳博物館「北アルプス山人たちの系譜」大町山岳博物館企画展資料、2007
立山カルデラ砂防博物館「異人たちが訪れた立山カルデラ -立山新道と外国人登山-」第17回企画展資料、2006
大町市史編纂委員会『大町市史』第五巻 大町市
市立大町山岳博物館編『山と人、北アルプスと人とのかかわり』市立大町山岳博物館展示解説書
小林茂喜『信越新道「修開」事業の実情』「市立大町山岳博物館 研究紀要」第4号
小林茂喜『さらさら越え』ほおずき書籍
《古文書、古地図、絵図、絵画など》
富山県立山博物館「奥山巡検 奥山周りのダイナミズム」平成19年度特別企画展資料
富山県立図書館HP 古絵図・貴重書ギャラリー
http://www.lib.pref.toyama.jp/gallery/collection/top.aspx
*このサイトでは、奥山廻絵図など立山・黒部の古い絵図を、精細な画像で見ることができる。

協力・担当者

《担当》
・富山側
日本山岳会富山支部
鍛冶哲郎
・長野側
日本山岳会信濃支部
平林節生
《協力》
立山カルデラ砂防博物館
大町市立山岳博物館
大町市立文化財センター
関悟志氏(元大町山岳博物館、現在大町市立文化財センター)
小林茂喜氏(元大町市立文化財センター)

Page Topへ