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33 三国街道 二居峠・三国峠/清水越え

保護中: 三国街道 二居峠・三国峠

三国峠と三国街道は、中世以前から上州と越後を結ぶ難所として知られてきました。上杉謙信が関東出兵(越山)で幾度も越えた軍道であり、江戸時代には清水峠や三坂峠の通行が禁じられたことで、江戸から越後・佐渡へ至る唯一の要路となりました。
五街道に次ぐ重要性を持ったこの街道は、佐渡金山からの金銀を運ぶ「佐渡三道」の一つとして整備されました。長岡藩などの参勤交代や、越後米・縮といった物資輸送の最短ルートとして賑わい、上州側には永井宿までの十一宿、越後側には三俣・二居・浅貝の「三国三宿」が置かれました。
総延長約200kmに及ぶ街道の多くは現在、国道17号などの車道となっていますが、沿道には道標や宿場町の面影が今も点在しています。特に永井宿から三国峠までの区間は、かつての険しさを伝える登山道として、歴史の息吹を今に留めています。
三国街道は現在、国道17号線と大部分オーバーラップしているため、山岳古道として歩ける区間を紹介します。

古道を歩く

二居峠越え

貝掛温泉と平標登山口を結ぶ約9.5kmの自然散策道として気軽に山野草や野鳥と触れ合える様に整備された旧三国街道を歩くコースである。
国道17号線貝掛温泉バス停には広い駐車スペースがある。
バス停からの道はすぐに起点の標柱で貝掛温泉に向かう道と分かれ、国道17号線に沿って歩き出す。
しばらく進むと国道のガードをくぐって横切る。


さらに沢にかかる橋を渡り、木々に覆われた遊歩道を進むが「クマに注意」の看板と猿の箱わなやイノシシの痕跡もみられ、野生動物の出没には要注意だ。
途中、開けた伐採地を通過し、落ち葉に覆われた幅のあるつづら折りの道を登るが、緩やかで歩き易い。
1時間ほどでブナ林に囲まれた「中の峠」の茶屋跡に着く。
左の草むらには小さな石祠が確認できる。

峠からの下りは明治初年に敷設された石畳が所々にみられ「日向の石畳」として旧街道の面影を残している。
ほどなく、前方の高い尾根に送電線の鉄塔が見えてくると鞍部となり、二居峠への登りが始まる。ここは二重峠(にじゅうとうげ)でふた山を越えなければならない難所である。
相変わらず森林帯の中をなだらかに付けられたつづら折りの道を進み、林道と交差すると「二居峠」に着く。

東屋があり、三国方面の展望が開けて国道17号線と二居集落を見下ろす絶好の休憩ポイントだ。
峠直下の急斜面を下りると、すぐに道はつづら折りとなって緩やかに下ることができる。小豆坂(あずきざか)というらしい。
やがて杉林を抜けると「旧三国街道二居峠登口」の標柱が立ち二居集落に入る。

路傍に庚申塔や二十三夜塔(にじゅうさんやとう)、青面金剛像(せいめんこんごうぞう)などの石像が建っている。
二居宿だった集落内を進むと切妻入り二階建ての立派な二居宿「本陣跡富沢家」が保存されている。
戊辰戦争で消失したが元通りの間取りで再建され、往時を偲ぶことができる。
また、街道向かいには「三国村道路元標」が残され、三国村の中心であったことがうかがわれる。
地王堂川(じおうどうがわ)を渡り「宿場の湯」で集落を後にし、石仏群がたたずむ車道を二居川右岸に沿って山鳥原(やまどりはら)茶屋に向かう。

途中、道端に野仏のたたずむ広く開けた伐採地からは松手山(まつでやま)鉄塔や平標山を遠望できる。
しばらくして車道から分かれ、車止めされた山鳥原公園内の遊歩道に入る。
川に沿って進むとほどなく「山鳥原茶屋」で、立派な施設が整備され、広い休憩室、トイレも清潔で快適である。

「山鳥原公園」は山野草、白樺とツツジの森、旧三国街道を再現した石畳のみちなどがあり、自然を生かした公園で自然散策にお奨めだ。
本来、ここから旧三国街道は国道17号線に入るが、公園内に再現された石畳を古き旅人の気分で歩き、平標登山口へ向かう。
公園を出ると別荘地内を進み、松手山登山口を過ぎると間もなく平標山登山口である。
平標登山口バス停から出発地の貝掛温泉バス停までは、路線バスで約10分かかる。

三国峠越え

新三国トンネルから三国峠

国道17号線新三国(しんみくに)トンネル新潟県側入口の駐車スペースから鉄橋で沢を渡ると、三国峠登り口の標柱と上信越自然歩道の大きな表示板がある。
右側にたたずむ文久三年の馬頭観音を横目に階段を登ると、道は緩やかで広い。


ブナの原生林の中、心地よい沢音を聞きながら進むと10分程度で「三国権現御神水(みくにごんげんごしんすい)」に辿り着く。ここで冷たい水を補給したい。

ここからは石畳が残るつづら折りの登りとなり、旧街道の面影が強まる。ブナやダケカンバ、チシマザサの繁る中、道が狭まり視界が開けると、国境稜線と交差する三国峠に到着する。鳥居をくぐると、八畳ほどの広さでベンチもある、休憩所や避難小屋を兼ねた御坂三社神社の社殿があり、正面に三国大権現が祀られている。
また、三国峠を越えた人々の名前が記された石碑もある。
国境稜線(ぐんま県境稜線トレイル)とも交差しており、東側は展望が開け三国山(1636m)への登山道が神社の脇から続いている。

三国峠から戊申ノ役古戦場

峠から高崎側へと足を進める。三国峠に向けては、会津軍に焼かれた三坂茶屋跡や、罪人護送中に雪崩で遭難した長岡藩士七名の墓が今も並んで残り、数々の歴史を秘めている。

戊申ノ役古戦場から三国路自然歩道登山口

さらに山道を下ると、戊辰戦争激戦の地である大般若坂に至り、吉井藩士吉田善吉の墓や大般若塚がある。この辺りは石垣や石畳が良く残り、往時の雰囲気が色濃い。山道を抜けると三国路自然歩道の案内地図が設置してある国道17号線に出る。

三国路自然歩道登山口から永井宿

通行車両に注意して国道17号線を渡ると、道標の先に永井宿の家並みが現れる。
永井宿は上州側十三宿の最後の宿だ。
万延元年の二度目の大火後に再建された家並みが続き、猿ヶ京小学校永井分校の跡地にある永井宿郷土館には繁栄当時の資料や伝説、歌人の歌等が展示されている。

永井宿から高崎

ここから先、街道は猿ヶ京の関所を経て、相俣、須川、布施、塚原と続き、北の尾根を越えて中山宿へ至る。さらに子持山と小野子山の鞍部を越え、横堀で吾妻川を渡る手前には杢ヶ橋の関所が設けられていた。
そこから北牧、金井、渋川を経て、金古を通り、三国街道の起点である高崎市本町と赤坂の十字路で中山道と合流する。
現在、その道のりのほとんどは車道となっているが、所々に道しるべや道祖神、歌碑、農村歌舞伎舞台などが残り、往時の面影を現在に留めている。

この古道を歩くにあたって

無雪期(5月~10月)であれば自然遊歩道として整備され、危険箇所もなく初心者でも歩ける。
登山届ポストなし。

二居峠

山中に水場はない。
林道や山道の交差があるので道迷いに気を付けたい。
二居~山鳥原茶屋間で伐採作業中は通行止めあり。
別荘地内は私道のため、迷惑をかけないように通過する。

三国峠

峠~三国山間は木製階段の昇降に注意。
三国峠から永井宿までは、三国路自然歩道となっており、比較的道幅も広く歩きやすい登山道です。
群馬県側はヤマビルに気を付けたい。また、熊の生息地のため、熊鈴等の対策が必要です。
永井宿から高崎までのほとんどが車道であるため正確な道をたどることは難しく、交通等に注意が必要。

古道を知る

三国街道の歴史

三国街道(佐渡路とも)は、中山道の要衝である高崎(群馬県高崎市)から分かれて上野国を北上し、三国峠を経て越後に入り、佐渡を望む北国街道の湊町・寺泊(新潟県長岡市)へと至る、総延長約200kmの街道である。
その名称は、県境の大峠である三国峠を越えることから名付けられた。
(近世以降、三国の国境は峠の約12km西にある白砂山である)
三国峠は古くから日本海側と太平洋側を結ぶ物流の最短路であり、大和朝廷の時代には「三坂(みさか)峠」と呼ばれた要路であった。
戦国時代には、越後の上杉謙信が関東出兵(越山(えつざん))の際に大軍を従えて行き来した軍道としても知られ、謙信は移動と補給路確保のためにこの道を整備した。峠に建つ三国権現(御坂三社神社)は、越後・上野・信濃の各一の宮を合祀したもので、謙信の仏教信仰により現在の名に改められたと伝えられている。
近世(江戸時代)に入ると、佐渡金山の開発本格化に伴い、幕府の財政を支える「佐渡三道(佐州三路)」の一つとして整備が進められた。
五街道に次ぐ要路として、佐渡や魚沼の上田銀山からの金銀輸送、佐渡奉行の往来、さらには江戸の罪人や無宿人を金山へ送り込む道として重要視された。
また、長岡藩・村松藩・与板藩(よいたはん)などの諸大名にとっては参勤交代の道であり、米や縮などの特産物を運ぶ商人にとっても不可欠な最短ルートであった。街道には多くの宿場が設けられ、特に山越えの険しい三国峠周辺には、浅貝(あさかい)・二居(ふたい)・三俣(みつまた)の「三国三宿(山中三宿)」が置かれ、人々の往来で大いに賑わった。
しかし、冬季の三国峠越えは極めて過酷であった。永井宿の本陣・笛木家に伝わる記録によれば、無雪期には月30件以上の公用往来があった一方で、厳冬期の往来は月5件未満に激減し、12月の通行記録は確認できない。雪崩による遭難死の事例も記されており、当時は天候次第の通行という扱いであったようだ。
幕末の戊辰戦争では長岡藩と新政府軍による「三国峠の戦い」の舞台となったが、明治以降、清水峠の開削や信越線の開通によって街道は次第に衰退した。
昭和に入り、国道17号線(三国トンネル)が開通すると、再び自動車による物流の大動脈として復活を遂げる。
かつて雪深き難所であった三国三宿周辺は、今日では大規模なスキー場などのレジャー基地へと姿を変え、新たな歴史を刻んでいる。

三国峠の概要と歴史

三国峠は、新潟県と群馬県の県境(上越国境)に位置する標高1,243mの峠である。中央分水嶺である三国山脈の上にあり、かつて越後・上野・信濃の三国の国境をなす「三国境」であったことがその名の由来となっている。
近世以降、実際の三国の境界は峠から約12km西の白砂山へと移ったが、古代においてはここが国境とされ、大和朝廷の時代には「三坂(みさか)峠」の名で太平洋側と日本海側を結ぶ要路として重用された。
峠の頂上には、三国大権現を祀る御坂三社神社の鳥居と社殿が建つ。
この神社は、越後の一の宮である弥彦(やひこ)社、上野(こうずけの)の赤城社、信濃の諏訪社の三社を合祀したものである。
その始まりは延暦年間、坂上田村麻呂が上野国の白根の賊を討伐する際に、これら三社を勧請して祈願したことにあると伝えられる。「三国権現」の呼称は戦国時代の上杉謙信の仏教信仰に由来するとされるが、明治初年の廃仏毀釈によって現在の「御坂三社神社」へと改称された。
歴史上、この峠を最も象徴するのが上杉謙信による「越山(えつざん)」である。謙信は関東遠征のために三国街道を開削し、大軍の移動と補給路を確保するための軍用路として整備した。江戸時代には、参勤交代や物資輸送の拠点として三国街道一の難所として知られるようになる。
現在、上越国境の往来は昭和に開通した国道17号線の三国トンネルが担っている。しかし、峠下からは今なお旧三国街道が往時の道形を残したまま、つづら折りの山道となって峠へと通じており、歴史の面影を色濃く留めている

二居峠

二居峠(1020m)は中の峠と小豆峠を併せた名称とされ、小豆峠とは峠から眼下に見える二居宿まで小豆が煮えるほどの時間がかかることがその名の由来である。
今は東屋が建ち、二居集落を見下ろせる休憩場になっている。
貝掛(かいかけ)温泉から二居峠を越え、平標(たいらっぴょう)登山口までの区間には、そのまま残った石畳や茶屋跡、二居宿の史跡など三国街道の雰囲気が伝わる山道で、中部北陸自然歩道「越後三国街道石畳の道」として整備されている。

三国三宿

湯沢宿から三国峠間の山岳地帯に設けられた宿場で、三国街道が整備された江戸時代の慶長年間にできた。三俣宿、二居宿、浅貝宿で山中三宿とも呼ばれる。
三俣宿(みつまたじゅく):三宿のなかで一番大きな宿場で、享保12年に家数は八十九軒、本陣一軒・脇本陣三軒があり、現在でも脇本陣を勤めた池田家住宅(新潟県指定文化財)が当時のままを伝えている。
また集落内の旧街道沿いには苗場山の里宮・伊米(いめ)神社を中心に多くの石仏や石造物をみることができる。
現在はかぐら三俣スキー場や苗場山登山の基地として多くの人が訪れている。
二居宿(ふたいじゅく):二居峠(小豆(あずき)峠)を越え小豆坂を下ると二居宿の集落に入る。享保12年の家数は三十八軒で本陣・問屋を富沢家(湯沢町指定文化財)が勤めていた。建物は戊辰戦争で会津軍の焼き払いにより焼失したが、原型と同じに再建され現存している。
旧街道は集落内を通り、石仏群や道路元標が往時の面影を残す。
浅貝宿(あさかいじゅく):国境近くに位置し、享保12年には家数が六十五軒あった。本陣・問屋を綿貫家が勤め、現在は国道沿いに面した旅館として、その玄関の構えは本陣の趣を残している。旧街道には石仏、供養塔が建つ。

昭和34年の三国トンネル開通や苗場国際スキー場の開設以来、一大リゾート地として発展し、全く宿場の面影は失われている。三国山・平標山をはじめ、谷川連峰の登山口として訪れる登山客も多い。


三坂峠

国道17号線に沿って群馬・新潟県境を越える三国峠が「三坂峠」と称されていた時代もありますが、ここでは三国峠の南西、直線距離にして5kmほどの群馬新潟の県境稜線上にあり、群馬側の中之条町の四万温泉から新潟県湯沢町にある苗場スキー場方面へと抜ける峠道を三坂峠として考察します。
現在、このルートの深奥部である奥四万湖付近から新潟県側の旧三国スキー場付近までの間は群馬県桐生市から新潟県柏崎市に至る国道353号線の未開通区間でもあります。


坂上田村麻呂の東征時に三坂峠を通ったという伝承などより、中世以前からこの付近の国境稜線を越えて、上野、越後間の通行が行われていたことがうかがえます。中世、越後への道は三坂峠を越える道が本道であったという地方史の記述もあります。
ただ、新潟県側の文献を当たっても「三坂峠」そのものの記述はほとんどなく、『新潟県の歴史の道調査報告書』を見ても「三坂峠」に関する記述はもちろん、その名前も出てきません。
そして「一時期だけ往来があった三国街道の間道」として四万温泉から浅貝の湯ノ沢に出る道があげられていて、これが三坂峠に当たると思われます。
また江戸時代に著された『三国三社権現縁起』には「四万三坂」という名も出てきますが、いずれもそれらが具体的にどこを指すのかは不明です。
四万温泉の北東にある四万川を四万川ダムでせき止めて出来た奥四万湖付近から、国境稜線上の最低鞍部にあたる三坂峠に向けて、稲含山南尾根の四万川に落ちる西斜面を横切る道形が切れ切れに残っていますが、これが中世以前から続く三坂峠の古道そのものであるかは定かではありません。
途中までたどってみましたが、時代不詳の石組が部分的に残っている程度で、道標や石仏など、往時の遺物は見つかりませんでした。

また三坂峠直下の四万川の谷底に木ノ根宿があったとされ、その遺構の発見記も残っていますが、それがこの峠道の宿場であったかの確証は現在のところまだ得られていません。
中腹の峠道から標高差数百メートルを下って木ノ根宿にたどり着くということにも合理性が感じられません。
木ノ根宿については日本初の近代的国語辞典『言海』の編纂者の大槻文彦による「復軒旅日記」に「日向見山(四万)より北の山中二里に木根の宿という処あり・・・」と記されています。
この旅日記の刊行は昭和13(1938)年ですが、大槻は昭和3年に没しています。明治12(1879)年に伊香保に滞在し、四万にも足をのばしているので、そのころに書かれたものと推測されます。
また旧利根郡新治村須川の『須川記』には「四万の境に木根宿とて町あり。これは越後より吾妻へ通路」とあり、さらに16世紀前半の享禄年中に野盗により焼き討ちされたこと、周辺は鳥獣の宝庫であったこと、などが記されています。
またその宿跡の発見記として、昭和9年に地元の吾妻山岳会が白砂山へ向かう途中、三坂峠へ登る三坂沢下で、堤とその上に屋敷四軒分と思われる平地や礎石らしきものを見つけ、木ノ根宿の宿跡であろうと報告していますが、この時の写真はありません。
また平成2年(1991年)には地元関係者を中心に県立歴史博物館の専門員も加えた現地踏査班が組織され、木ノ根宿存在の証拠を探そうと現地踏査を敢行しました。そのルポルタージュは地元紙の上毛新聞紙上でも大きく取り上げられましたが、宿が確かにあったという証拠を見つけることはできませんでした。
その後も地元関係者によって古道と木ノ根宿についての調査が続けられ、中腹を横切るルートは苦難の末に踏査されましたが、宿の跡地は見つからないまま今に至っています。
木ノ根宿を通過した記録・伝承としては、坂上田村麻呂以降、元弘3年(1333年)の越後新田一族が新田義貞の加勢のため、そして長禄元年(1457年)の長尾景仲のほか、関東管領上杉顕定、同上杉憲政、岩櫃城主斎藤基国など戦国時代のいくつかの記録が挙げられています。
江戸時代に入ると関東から越後への道は三国峠が公認の道となり、三国峠麓の猿ヶ京(現みなかみ町猿ヶ京温泉)には関所が設置され(1631年・1659年の2説あり)、谷川連峰東面を横切る清水峠越とともにともに、三坂峠の道も閉鎖されることとなりましたが、閉鎖後も三坂峠を越える道は残った、と推察され、大正4年発行の陸地測量部の地図には前述した斜面を巻く道の存在が記されています。
ただ、それ以降、この道は地図から消えてしまいました。また木ノ根宿という地名は現在の地図上に残っていますが、「宿」のたしかな場所も不明で、木ノ根宿自体もそこへの道筋も藪と謎に包まれています。
一つの推測ですが、古い時代の三坂峠越えの道は稲包山から南へ赤沢山へと延びる大きな尾根上をたどるか、四万川の谷を詰め、登りやすい沢を選んで稜線へ上がっていたのではないかと思われます。
四万川に沿っては材木運搬用のトロッコ道の名残も残されていますので、時代によって、季節によっても変遷はあったと思われますが、遡行は不可能ではなかったと思われます。

また、登山者としての道選びの観点からすれば、稲含山から南に延びる尾根の西斜面の道は、厳冬期の通過はほぼ無理であったでしょうし、残雪期でもブロック雪崩が発生し、雪が消えてからも常に落石や崩壊の危険にさらされ、明治期に開削された清水峠の国道ほどではないにしろ、その維持には相応な困難が伴ったものと思われます。
このことからも、奥四万湖から四万川の左岸中腹に残る切れ切れの道形は、清水越えと同様に、近代(あるいは近世末)になってからの越後・関東間の物資輸送の増大に伴って開削されたものではないかとも思われます。
明治初めには岩本本村の木材商神保律五郎が発起人となって上越国境を越える山セ街道が開かれ、中之条から浅貝宿まで幅二間の道が通じましたが、三国街道筋の村々の猛反対にあい、時の熊谷県の認可が下りなかったといいます。
さらに明治25年、そして明治30年代にも新道開削の計画・建設があり、大正に入ると再度、中之条―浅貝間の県道建設が陳情されましたが、いずれも開通には至りませんでした。
これらの道のいずれかが四万川左岸中腹に残る道形である可能性も高いと思われます。
また、「木ノ根宿」は、中腹の道から谷底まで下りてくるという位置関係ではなく、四万川の谷沿いに道があったとすれば、その最奥部に置かれた可能性もあるでしょう。
また木ノ根宿周辺は格好の猟場であったと言われていることから、街道上の宿場というより、猟師たちが寝泊まりする猟場の拠点のようなものであったのかもしれません。

深掘りスポット

御坂三社神社(三国権現)

三国峠の頂上にあり、祭神は越後弥彦明神・上野赤城明神・信濃諏訪明神の御神体である。
現在の社殿は平成二十年に浅貝地区の人々の寄進により建造され、平屋建て、内部に神座があり、避難所ともなっている。
そして境内には越後や江戸の商人が旅の安全を祈って奉納した一対の石灯籠が建立されている。
また「三国峠を越えた人々」と銘打たれ、峠を越えたであろう人名が刻まれた石碑がある。昭和五十八年に新治村(にいはりむら)観光協会が建立したもので、古くは、平安期の坂上田村麻呂から始まって、弘法大師や戦国期の武将上杉謙信、また参勤交代の大名をはじめ「北越雪譜(ほくえつせっぷ)」に関わる鈴木牧之(ぼくし)や幕末の河合継之助(かわいつぐのすけ)など、峠を越えた人々の歴史の関わりの深さがわかる。

中の峠・茶屋跡

貝掛温泉(757m)から二居宿に向かう一つ目の峠が中の峠(940m)で大正の時代まで一軒の茶屋があった。
道の左側に井戸や石祠が残っている。
名物はきのこの吸い物と甘酒であったという。ブナなどの高木に覆われ見晴らしはきかない。

日向の石畳

中の峠の茶屋から二居宿方面へは緩やかな下りとなり、そこは日向と呼ばれていた。
樹木に挟まれた道は日当たりが悪くじめじめしていたらしい。
明治初年に三国街道が国道に編入されて道路改良が行われた時に敷設されたものだという。

二居本陣富沢家

富沢家は三国街道の整備に伴い、慶長十四年に塩沢郷大沢村(しおざわごうおおさわむら)から迎えられ、以来、歴代庄屋、問屋、本陣を勤める家柄である。
参勤交代の大名のうち村松藩が帰国の際によく利用したとある。藩主は本陣に泊まり、家臣は村中の家に分宿した。
慶応四年の戊辰戦争の戦火で焼失したが、明治二年に原型のまま再建され今に至っている。
上段の間やかご通しの廊下など往時を偲ばせる造りとなっている。

ミニ知識

三国戦争

1868(慶応4)年閏4月、100人ほどの会津軍が砦としていた三国峠の大般若塚付近を、新政府軍が包囲した。
新政府軍は新政府に恭順の意を表した上野各藩と下野(現栃木県)の藩兵約1200人で、戦闘は2時間ほどで終了した。
会津兵は越後側へと敗走し、敵の追撃を遅らせるため浅貝、二居の2つの宿を焼いて逃げたという。

三俣宿の史跡

脇本陣池田家

 
370年以上前に建てられ、旅籠や庄屋・問屋も兼ね、江戸時代の参勤交代で家老や佐渡奉行、明治時代には山県有朋やも宿泊した。
三俣大火、戊辰戦争、三俣大雪崩から逃れ、江戸時代当時の姿を今に伝えている。
旧三国街道に現存する脇本陣としては唯一、古い遺構である。

伊米神社

 
苗場山(2145m)の里宮として、平安時代に定められた「延喜式」に名を連ねる由緒ある神社である。農耕の神と山の神が祀られている。
例年7月12日の祭日には、天狗様を先頭に神様二体を載せた神輿を昔ながらの烏帽子に水干(すいかん)姿の担ぎ手により、厳かに「伊米神社神輿渡御」が行われる。
また神社境内には鈴木牧之や東郷平八郎の碑が建ち、神社床下の天然記念物「光ゴケ」など一見したい。

天下之霊観の碑

  
江戸時代、塩沢生まれの鈴木牧之は雪国越後の文化と風俗を紹介するために「北越雪譜」を著した。文化八年、四十二歳の時、苗場山に登り、頂上からのあまりの絶景に感動し「天下之霊観」と絶賛して、「苗場山紀行」にて苗場山の名を天下に広めたとされる。
牧之の碑には次のように刻まれている。
「苗場山は越後一の高山なり、魚沼郡(うおぬまぐん)にあり登り二里といふ。絶頂に天然の苗田(なえた)あり、依て昔より山の名に呼(よぶ)なり。峻岳(しゅんがく)の嶺(いただき)に苗田ある事甚奇なり。北越雪譜「苗場山紀行」序文とある。
並んで「天下之霊観碑」が建っている。この碑は元々、日本山岳会越後支部会員が文人鈴木牧之を顕彰し、昭和十五年に苗場山の神楽峰(かぐらほう)に建てたもので、日本山岳会名誉会員であった高頭仁兵衛(たかとうにへえ)が発起人、筆は大平(おおだいらあきら)によるものだ。
落雷によって破損したが、平成十六年に神社境内に移設された。

浅貝地区の権現様のお祭り

毎年8月28日に三国峠の御坂三社神社(三国権現様)へお供えを持って参拝する。当日は、新潟県側は浅貝、群馬県側は永井の人たちが峠を目指して再会し、お札をいただき、お互い一年の無事を祈る。

湯沢町のスキー場

国内有数のスキーエリアである湯沢町には11ヶ所のスキー場があり、市町村単位では日本一の利用者数をほこり年間200万人以上が訪れる。また、バックカントリースキーの入山者も多く見られている。
夏の季節には毎年7月下旬から8月上旬に苗場スキー場(三国)で開かれる国内最大級の野外音楽イベント「フジロックフェスティバル」が開催され多くの観客を集めている。

ルート

*コース時間、距離は大凡です。目安としてください。

二居峠越え

貝掛温泉バス停
↓ 2.4km 80分
中の峠・茶屋跡
↓ 1.6km 50分
二居峠(小豆峠)東屋
↓ 1.6km 45分
二居 宿場の湯
↓ 2.5km 50分
山鳥原茶屋
↓ 1.4km 30分
平標登山口バス停

三国峠

三国峠(新潟県側トンネル入口)登山口
↓1.3km 40分 ↑30分
三国峠
↓45分 1.2km ↑1時間
長岡藩士雪崩遭難の墓
↓20分 0.4km ↑30分
三坂の茶屋跡
↓50分 3.0km ↑1時間10分
大般若塚 吉田善吉の墓
↓1時間40分 3.5km ↑2時間10分
三国路自然歩道入り口
↓25分 0.6km ↑30分
永井宿郷土館

アクセス

二居峠

◎マイカー:関越自動車道湯沢IC(国道17号線)約15分貝掛温泉バス停付近に約10台駐車スペースあり
◎公共機関:JR越後湯沢駅より南越後観光バス浅貝線20分貝掛温泉バス停下車

三国峠

◎マイカー:《新潟側》関越自動車道湯沢IC(国道17号線)約40分三国トンネル入口に約20台駐車スペースあり。
《群馬側》関越自動車道月夜野IC(国道17号線)で猿ヶ京・永井へ。法師温泉または三国峠直下まで車で入ると、比較的短時間で峠を往復できる。
◎公共機関:JR越後湯沢駅より南越後観光バス浅貝線50分西武クリスタル前バス停下車 徒歩約50分
◎永井宿から三国峠までを歩く場合は、上越線沼田駅または上越新幹線上毛高原駅から関越交通バスで猿ヶ京まで。
猿ヶ京からはみなかみ町営バスの法師温泉行が利用できるが、便数が少ない(午前2本、午後2本)ので注意。
関越交通(沼田営業所) 電話:0278-23-1111
みなかみ町営バス(みなかみ町役場 総務課 新治支所) 電話:0278-64-0111
新治タクシー猿ヶ京営業所 電話:0278-66-0631

参考資料

「新潟県歴史の道調査報告書 第四集」新潟県教育委員会
湯沢町史編さん室編「湯沢町史 資料編」湯沢町教育委員会、2004年
「週刊日本の街道79 三国街道」 講談社
新潟県山岳協会監修「新潟の山歩き50選」新潟日報事業社、2018年4月
「新潟ウオーキングガイド」新潟日報事業社、2000年4月
高橋正明「湯沢の昔を辿る」2022年4月 
森田敏隆「日本の名景 古道 歴史の道百選」2011年4月 
「全集写真探訪ぐんま④街道を歩く」上毛新聞社
「群馬の峠」みやま文庫
「歴史の道調査報告書 三国街道」群馬県教育委員会

協力・担当者

《新潟側担当》
日本山岳会越後支部
松井潤次
《群馬側担当》
日本山岳会群馬支部
田中規王
《「三坂峠」担当者》
日本山岳会群馬支部
根井康雄
《「三坂峠」協力》
山口通喜(中之条町歴史と民俗の博物館「ミュゼ」館長)
眞貝朋男(四万温泉協会副会長)
(敬称略)

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