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31 六十里越え

六十里越え

古道を歩く

3本の六十里越えの道

六十里越え(会津街道)は会津と越後を結ぶ道で、明治初期まで越後山脈の鬼が面山付近を越えていました。
三国街道(国道17号線)の堀之内宿から分かれ破間川(あぶるまがわ)沿いに大白川まで進み、六十里越えで沼田街道の只見までが全体の道です。
山岳古道としては、一本松沢沿いに吹峠(裸山乗越)に登り、そこから鬼が面山の南岳付近、標高1400mを越えて国道252号線に接するまでが近世までの古道。
同じく吹峠から中腹を辿り現在の六十里峠を越えて、アイヨシ橋付近までが明治時代の古道です。
いずれの古道も只見側の国道から下部は、国道工事や田子倉ダムの湖水のために通行できません。
現状では一般の登山者が通行可能な部分は、送電線巡視路や鬼が面山の登山道と重なる、わずかな区間のみとなっています。
通行可能なルートは以下の3本になります。
1 六十里越えから六十里越トンネルまで(新潟県側の明治道)
2 アイヨシ橋から雪割り街道駐車場付近まで(福島県側の明治道)
3 白沢トンネル入口から山ノ神付近まで(近世までの古道)

六十里越え明治道(新潟県側)

六十里越えは、北魚沼郡堀之内町(現魚沼市)で三国街道(国道17号線)と分かれ、破間川沿いに広神・守門・入広瀬と進み、最上流の大白川新田で浅草岳南側県境を越え、福島県南会津郡只見町に通じる峠道です。
国道17号線と県道230号線(滝之又堀之内線)下倉の分岐に「これより旧会津街道六十里越」と書かれた道標があります。
ここから大白川までは、里の街道として、文化庁選定「歴史の道百選」に選定され、魚沼市を始めとして各所で調査や紹介や歩くイベントが行われています。
県道をしばらく進むと国道252号線に入り、破間川の上流に向かって20kmほど行った只見線の大白川駅付近から破間川ダムに向かいます。
『新潟県歴史の道調査報告書 八十里越、六十里越』によると、大白川からダム端までは2ルートあったと記載されています。
六十里越えはダム中央付近で合流したあと一本松沢沿いに街道が伸びていたそうですが、ダムによって消失しています。
ここでは戦後、古道とほぼ並行して作られたというダム湖南東側の夕沢林道を進みます。
古道は一段低い一本松沢沿いにあったようです。

一本松沢沿いの夕沢林道

夕沢を越えたところに森林局の黄黒ゲートがあり、車は邪魔にならないところに止めます。
10分程手前に2ヵ所空きスペースがあります。
なお、7月下旬から8月にかけては虻が多いので注意。
(車で通行する際ゲートを開ける間だけで数十匹が車に入ってきました)
車を降り、林道を歩きます。
道は簡易舗装されていたり砂利道だったりと場所によりさまざま。
林道とはいえ、昔の人はこの付近を通っていたと思いながら歩くと、感慨深いものがあります。
沢を越え、明るい道やうっそうとした林を抜けていく道です。
人のあまりこない山の中、時にはモリアオガエルの卵胞を見つけることもありました。
赤錆びた鉄板の橋を過ぎるとまもなく吹峠(裸山乗越)に到着します。
約4km、標高差500mの道のりです。

吹峠から鬼が面山・浅草岳登山道

吹峠から横倉沢におり、県境までとなるルートがありましたが、吹峠から横倉沢の間はルートも分からなくなっています。
また、吹峠から北及び東に向かい南岳・県境・烏帽子岳と通った説もありますが、道の存在は確認できませんでした。
福島側にはルートがありますが、新潟側には全く踏み跡がありません。
そのため、吹峠から六十里越えまでの古道はその形跡を明確にできず、今回はその間を横倉沢を巻く形で存在する登山道(送電線巡視路)を歩き、記録しています。
吹峠の左手にはコンクリート2階建ての電力の巡視用避難小屋とヘリポートがあります。
ここは眺めもよく小休止には適地です。
以前はこのまますすめましたが、今は道が閉ざされています。
これは1953(昭和28) 年に黒又川電源開発関連の無線鉄塔建設のために切られたという工事用道路です。
吹峠に戻り、少し下り気味に送電線巡視路を北東に進みます。
巡視路は少しの登り下りで鉄塔に出ますが、地形図にある登山道とは異なっています。
真新しいステンレスの鎖場があり、電力作業のために設置したものだと推測されます。
沢を越えたりしながら進むと、次の鉄塔への分岐の看板があり、さらに一部切り開かれたようなところがあって、地形図の登山道に戻ります。
登山道は、以前は車が通れるほど広く歩きやすかったのですが、今は崩れてしまい巡視路としてのみ利用しているようです。
山の斜面を巻くように道は進み、わずかな上り下りがあり、小さな沢を越えます。
年によっては6月になっても硬い雪渓が残っていて、ピッケルが必要なこともあります。
吹峠から約3km、1時間半位で鬼が面山・浅草岳登山道との分岐にぶつかります。
真下を只見線の六十里越トンネルが通っています。
道は少し広く平らになり、しばらく下って行くと右に鉄塔への看板、そのまま進むと左に3基の大きな鉄塔があります。
1基の鉄塔に1本しか電線が取り付けられていません。田子倉ダムの電気を送る送電線です。
さらに行くと相対した2基の反射板の広場に出ます。
前述の電源開発の無線鉄塔を建て替えたものです。
広い道は終わり、林の中の急な登山道を下ります。
20分ほどで大きな鉄塔下を通過します。
そしてすぐに平らな峠道に出ます。
これが目的の古道、旧六十里越えの道で、左に行くと会津、右に行くと越後です。

旧六十里越えの古道

分岐から会津側へは、この先崩落部や密薮のため通行不能です。
400mほどで巡視路の国道分岐がありますが、通行禁止で国道側には扉があり設錠されています。
越後側へ、旧六十里越えの道を歩きます。
沢を巻くところやアップダウンがあります。
とても馬がすれ違うことはできないような道です。
この沢にも6月でも硬い雪渓が残ることがあります。
20分程で右側に電力の鉄塔の白い標柱があります。
鉄塔の先に横倉沢に向かう六十里越え古道がありましたが、今はわからなくなっています。
ここまで500mあまりが旧六十里越えの道です。
そしていくらも歩かずに道は下り、国道252号線にでます。
鬼が面山・浅草岳登山口でもあります。
なお、このルートを歩く場合は、出発地点と到着地点に車を用意する必要があります。
あるいは、1回目はダムから吹峠までを辿り、次は県境を福島側と合わせて辿るという方法もあります。
《諏訪》

六十里越え明治道の只見側(福島県側)

近世後期から標高1400mもの尾根を通るルートを避けて、吹峠から標高870mの六十里峠を越えるルートが計画されましたが、特に只見側の急な山腹のルートの工事が難しく、古文書でも計画のみに終わることばかりで、工事年は未定ですが明治末期の測量(付近の点の記による)で作成され、大正3年(1914)に発行された陸地測量部の1/50000地形図「須原」には、すでにこのルートが記載されているため明治後期には完成していたと考えられます。
只見側は標高500m以下が田子倉ダムによって水没し、また、国道252号線の工事に伴ってアイヨシ沢付近から湖面までは、工事残土による埋没や崩落した区間が多く、現存するのは高木が茂る尾根上の一部分のみで通ることができません。
アイヨシ沢から六十里峠までは送電線の巡視路として使われている区間のみ通行可能で、一般的には雪割り街道駐車場付近までとなります。
雪割り街道駐車場の上部にはブナの巨木林もあり、通行可能なルート上からは樹間から田子倉湖や、県境稜線にアバランチシュートで磨かれた前毛猛山(まえけもうやま)や未丈が岳(みじょうがたけ)などの田子倉湖上流部の山々が望めます。

雪割り街道駐車場からアイヨシ橋跡まで

マイカーやタクシーは、六十里雪割り街道駐車場が基点となります(国道252号沿い)。
駐車台数は40台程度ですが、写真奥(只見側)が、工事関係に使われていることがあります。
トイレ等の設備がないため、国道を只見方面に約5.5km行った田子倉無料休憩所がおすすめです。
六十里越え明治道には国道252号線を渡り、写真の人物の位置からコンクリート擁壁裏を通るのが入口になります。
擁壁裏からは高さ50mほどの急坂になります。
急坂を登りきると標高800mの台地状になり、ブナの森の緩やかな道になります。
写真の右に写っているのが幹回り3.5mほどの巨木で、六十里越えの往時の姿を思い起こさせますが、ここは巡視路で明治道は10mほど先です。
なお、左には巡視路の借地柱が見えます。

直に分岐があり、右側の人物が向う側がアイヨシ橋側で、進行方向です。
左は六十里峠になりますが100mほどで密薮になり、その先は崩落部や急なルンゼの横断などあり一般登山者は通行不能です。
この写真は春に撮影したため、山菜採りなどで道がはっきりしていますが、秋には分岐からすぐ藪道になります。
(巡視路はおおむね毎年の秋口に刈り払いがあります)
分岐をすぎると、上部の柱状節理の岩壁から落石の危険があり、足元もやや悪い区間になります。注意して進むと、斜面に切り開かれた道になります。
巡視路借地柱があり道型はやや傾いていているものの歩行には問題ありません。
(写真は六十里峠側を振り返っています)
南側は梢越しに前毛猛方向が見え、会越国境稜線(県境)にはアバランチシュートもみられます。
10月末の高木の落葉期には、低木の紅葉と共に素晴らしい展望になります。

ブナの森の尾根近くは風雨や積雪の影響も受けにくいので、明治後期に作られた道型が良く残っており、往時の姿に思いをはせることができます。
田子倉湖から奥只見方向も望め、最奥には会越の名峰未丈ヶ岳も望めます。

標高800mの緩やかな尾根を回り込む地点に、尾根の上の方に伸びる東北電力の巡視路の分岐があります。黄色い標識が分岐の表示です。
東北電力の方は刈り払いが毎年確実に行われているようで道型がきれいです。
なお、写真の人物は六十里峠方向を向き、撮影者はアイヨシ橋方向を向いています。
この付近は携帯電話の通話が一部可能です。
東向の斜面で高木がなく積雪の影響(グライド等)から道型が傾斜し歩きにくい区間です。
明治道の九十九折れはやや尾根状で高木が多く、道の保存が良く歩きやすい区間です。
東斜面で高木が少なく、夏は草藪になりやすいため、春か秋が歩きやすいようです。
この付近は全体に道型も傾いているので、注意して歩行してください。

苔むした湧水があります。
おいしい水ですが水質は未確認です。
標高735mの地点でピンクテープが付いた明治道は密薮になり、この先は国道工事による道型消失分もあり通行不能です。
巡視路として整備された九十九折れを国道まで下ります。
国道わきの最後は急な崖状で注意して下り、入り口にも東北電力の巡視路標識があります。
写真は国道上から見た巡視路入口で、現在はアイヨシ橋の表層雪崩による崩落の為に、工事用迂回路の信号があります。
(50m先が崩落したアイヨシ橋の袂)
国道を1.5kmほど引き返して雪割街道駐車場に戻りますが、途中には国道開通に尽力した田中角栄の記念碑があり、付近では携帯によっては通話が可能です。
《長谷部》

古道の只見側(福島県側)

現在の福島県側の六十里越古道は、国道252号線白沢トンネルの前から送電線巡視路を辿り、尾根に出るところから古道となります。
明治道と違い尾根の道となることから、浅草岳や田子倉湖、南に連なる奥会津の峰々の眺めの良いルートで、古道沿いには巨木も立ち並びます。
しかし現在通行可能なのは、送電線巡視路と重なる区間のみで、山ノ神まではわずかに踏み跡がある程度です。
それ以外の区間は密薮になっており、道型も断片的になり通行不可能です。

白沢トンネル入口から山ノ神付近まで

国道252号の白沢トンネル入り口が入山口になります。
駐車スペースがある国道の反対側、ガードレールが切れた部分が入口です。
駐車スペースは30台ほどありますが、駐車場として整備されたものではないので、通行の邪魔にならないように山側に駐車します。
トイレ等の設備もありませんので、国道を只見方面に1.5km行った田子倉無料休憩所を利用してください。
国道から先は夏には草藪になりますので、春か秋の通行がおすすめです。
過去の工事用の石垣や水路跡もある草地を、100mほど進むと右の山側に一段上がります(ピンクテープあり)。
初夏以降は分かりにくいので注意が必要です。
段上に上がると自然林になり道型が分かりやすく続いています。
50mほど進むと整備された道になりますが、この部分は白沢トンネル開通前の国道作業道か、初期の送電線工事の道だと考えられます。
九十九折れで振り返ると浅草岳が望めます。

コルまで上がると十字路になります。
前方から登り、右の尾根上へ行く巡視路が、おおむね古道の跡と考えられます。
左に30m程巡視路を登ると、送電搭の下に出ます。
浅草岳などの展望が素晴らしいです。
十字路から先の尾根上の、古道部分は工事でやや拡幅されていますが、往時の姿をしのばせる道です。
尾根の道は次第に北側の巻道になりますが、この付近は古道と位置がずれていたかもしれません。
やや傾斜が付いた歩きにくい道を登ると分岐がある切通しに出ます。

道は南側を巻くように下りますが、この道も現在は巡視路です。
巡視路標識を、右の尾根上に上がります。
尾根上には巨木が多く古道をしのばせます。
岩場の稜線になると南側の巻道になりますが、足元が悪いので転落に注意です。
この辺りが難所の裂石と伝えられるところのようです。
巻道を過ぎると舟久保状の地形になり、薮の古道が北側を巻くところは、巡視路は尾根上を通っています。

歩きやすい道を行くと送電搭の下をくぐるように道があり、開けたところで振り返ると横山が望めます。
斜面が急になると、右にピンクテープがあり、そこから古道が分かれていて、薮の中を九十九折れで登っています。
明治の初めにはショートカットしていた可能性があり、現状の巡視路も尾根を直登しています。
南西側の樹間からは前毛猛山(まえけもうやま)の頂や田子倉の山々が望めます。

倒木の付近には真新しいやや大きめの熊の足跡が古道に続いてました。
倒木以来毎回足跡がありますので、シロアリ等の餌が得られるのかもしれませんので十分な注意が必要です。
標高810mまで登ると、巡視路は左に折れて南側に下ります。
カーブ外側の、写真にピンクテープがあるところから山の神への踏み跡があります。
薮漕ぎの経験者向きで、古道は右の北東側を回り込むように薮の中に続きますが、通行は困難で一般的にはここで引き返します。
(山ノ神から先は当然密薮ですし、古道跡が消えている部分も多いので、薮漕ぎ熟練者でもガイドなしでは古道の踏査は不可能です)
《長谷部》

この古道を歩くにあたって

登山時期など

日本最大クラスの豪雪地帯なので、浅雪の年でも5月後半にならないと通行できません。
通常は6月初旬以降がおすすめです。
国道252号の六十里越え区間で、車が通行可能になるのが5月連休の前後になります。
それ以前は残雪の通行となり、あたりは雪崩の巣になっているので、通行できたとしても極めて危険です。
また、11月末までは国道の通行が通常は可能ですが、積雪があると、たとえ通行できそうな状態でも、4輪駆動車であっても通行は極めて危険です。
なお、アイヨシ橋の工事に伴い通行期間が短くなるようなので、事前に交通情報を南会津建設事務所等で確認してください。
古道の歩行については11月前半まで通行可能ですが、10月末からは降雪や特にみぞれの可能性があるため、完全防水の雨具も必携です。
《長谷部》

歩行難度など

記載した一般通行可能ルートについては、登山靴等で歩行には問題ありませんが、道に急な傾斜があるところがありますので、ストックやチェーンアイゼンなどがあると便利です。
(赤色の線は通行不可ですが状況等を確認したい際は、末尾の筆者メールアドレスまでご連絡ください)
《長谷部》

野生動物対策

ツキノワグマは5人以上の多人数グループですと特に問題はありませんが、少人数では十分な注意が必要です。
熊鈴を使うときは大きな音が出るものにしてください。
(大パーティで各自がクマ鈴を鳴らす必要はありません)
春から夏にかけては山菜や根曲り竹が群生するところは特に注意が必要です。
秋はブナやミズナラなどの林でよく見かけます。
唯一注意するのは、子熊の声(子供の燥ぐ声に似ている)が聞こえたときは、近くに母熊がいますので、静かに引き返す勇気も必要です。(注、古道の白沢トンネル上付近の標高750m付近に、巡視路ルート上を大きな熊の当日歩いた足跡が、複数回確認されていますので少人数の行動はお控えください。)
《長谷部》

新潟県側の雪渓など

新潟県側は一部地形図にある登山道と異なる箇所がありますが、実際の道を進むことで地形図上の道に合流しています。
また、夏場であれば全行程で安全に歩行できますが、豪雪地帯であるため、年によっては、吹峠から六十里越えまでの数カ所の沢と、反射板からおりた福島県との境界の峠の数カ所の沢には、6月になっても硬い雪渓が残ることがあります。
ピッケルが必要なときがあるので注意が必要です。
また、夕沢林道入口付近は7月下旬から8月にかけて虻が多いので虫除けネットや虫よけスプレーがあると助かります。
《諏訪》

★福島県側のルートガイドやコースタイム等は、以下にお問い合わせください。
問い合わせ先
jac-hasebe@jac1.or.jp
(なお、返答に日数をいただくときがあります)

古道を知る

六十里越えの概要

六十里越えは奥会津から魚沼へ通じ、古代から昭和48年まで使われた、鬼が面山直下の標高1400mを越える山岳古道でした。
六十里越えは中世までの一里(坂東路や坂東里)の長さで、六十里あることから呼ばれましたが、越後側では近世になると険しさから六里の道を六十里と呼ばれるようになりました。
この山岳古道は北陸道(古代)から会津に入る道として開かれ。歴史上では源義経が奥州に落ち延びる際に、六十里越えを越えたとする伝承が、大白川や田子倉の集落には伝えられています。
上杉景勝の会津移封では六十里越えが使われましたが、物資の輸送には八十里越も使われたと考えられます。
近世では巡見使街道としても使われていますが、峠越えの目的は軽量の物資輸送として、カラムシ(青苧(あおそ))の運搬が多く、『歴史の道調査報告書』や『会津の峠 下巻』などには、「グリーンロード」との記載が見られます。
なお、浅草岳を挟んだ隣の八十里越えは、絹や蚕の種を運ぶことから「シルクロード」とネーミングされているようです。
明治までの大規模な改修については計画段階で終わってしまったことが多くの古文書から読み取れますが、明治後期には、尾根の道から中腹を通る道へと変更され、牛馬が通れる道に改修されました。
昭和48(1973)年に国道252号の六十里越えが開通されるまで、一部の区間は利用されていました。
《長谷部》

六十里越えの歴史

六十里越えは少し北にある八十里越えと比べて通行量が少なく、また歴史的な逸話も少ないのは、峻険な山道であったからだと考えられます。
また半年は雪に閉ざされ、その雪により道が壊れたりと、維持も大変だったに違いありません。
しかし『新編会津風土記』によると「浅草峠一つに六十里越と言う、村端より峰をわたること二里十八町頂上に至る、其の間に程久保(ほどくぼ)、舟清水、割石などという難所あり牛馬道を通せず、ここを越え大白川新田を経て糸魚川領魚沼郡穴沢村に至る、坂東路六十里ある故六十里越のありと言う・・・ 」とあるように古くから使われていたようです。
以下、主な年代ごとの出来事です。
応永9(1403)年頃、会津山ノ内氏が只見や越後を支配し、田子倉に柵を設け守りを固め、また、越後上杉氏と同盟関係を結びました。
天文12(1543)年、会津芦名氏から攻められた山ノ内氏は越後に逃れました。その時の家臣が越後の各地に住み着き、広神地区の山ノ内姓の始まりといわれています。
天正6(1578)年、越後上杉氏は六十里越えを閉鎖(会津移封)。
慶長5(1600)年、上杉遺民一機(越後一機)の際には会津勢が六十里越えから魚沼に入り、下倉城主小倉主膳を滅ぼすなど、戦国時代には越後と会津の緊張した関係がしばしば起こり、六十里越えは軍用道路としての役割を果たしたようです。はなはだ峻嶮で牛馬はもとより人が通るのも困難でしたが、魚沼地方と会津地方を結ぶ要路だったと思われます。
元和4(1618)年、入広瀬村の穴沢留番所は、女・はだせ馬・白布・青苧(あおそ)・蝋・漆・鮭の7品目を領外に出るのを禁止するなど、物資を取り締まる番所へと変化しました。軍事用から生活用の道になったのです。
越後縮みの原料として、青苧は人肩により大白川新田に運ばれていました。
しかし、峻険なこの道、なかなか道の整備は進みませんでした。
北に位置する八十里越えが慶応4(1868)年の長岡城落城のあと、同盟軍や新政府軍の交戦や兵士達の往来が多かったのに比べ、峻険なこの六十里越えの通行は穏やかであったようです。
大正11(1922)年、田子倉から県境に向かう道を開き、昭和2(1927)年にリヤカーが通行可能な道が完成。
また、大正10(1921)年に若松〜柳津間の鉄道工事が始まり、魚沼地方でも小出〜柳津間の建設が行われ、昭和17(1942)年に小出〜大白川間の営業が始まりました。
1966(昭和41)年に六十里越トンネル開通により只見線が全線開通しました。
さらに、昭和48(1973)年に国道252号線が開通しました。
《皆川》

六十里越え山岳古道の道筋

(1)福島県側
福島県側の古道は、近世以降はほぼ同じルートだと考えられます。
只見川と只見沢を分ける尾根をたどり、鬼が面山の南岳付近を国境としていました。
『会津田子倉の歴史 上巻』の50頁には、「六十里越旧道と新道」の地図が掲載されており、いくつかの書籍で引用されていますが、新潟県側のルートについては「正保越後国絵図」や、六十里越えを改修する目的の多くの古文書などから、誤りがあると考えられます。
大白川の古文書には、浅草峠(鬼が面山南峰の可能性もある)を越えていたとの記述がみられること、「越後三山只見集成図」(藤島玄、昭和38年)には、浅草岳頂上から只見沢と餅井戸沢の中間尾根に、叶津早坂の記述がみられることです。
(この地名について、大白川と叶津には知る方がいましたが、現地の確認はできていません)
現状で福島県側の明治初期までの古道は、参考文献に説明している「岩代国若松県第一大区全図」が示す位置が、最も正確なものであると考えられます。
(2)新潟県側
新潟県側の古道は吹峠付近からが確定できておらず、「正保越後国絵図」や明治初期までの他の絵図および、六十里越えの改修ルートを示す古文書から、中世から近世後期までは吹峠から尾根伝いに鬼が面山南峰付近まで登り、県境稜線近くの西側緩斜面を辿るルートの一部が確認できているのみです。
吹峠から桑原沢の地すべり平坦地を横断し、尾根を巻きながら横倉沢流域に入り、高低差少なく緩やかに県境稜線至る道(現在は送電線等の巡視路)がありますが、これは昭和30年頃の只見川の電源開発当時に、通信設備としてマイクロウェーブ反射板を設置するために作られた工事道路と伝えられています。
近世後期に横倉沢左又付近まで工事道路の基になる道が存在し、横倉沢右又の上部から県境稜線に巻き上がるルートが存在した可能性も考えられるため現在調査中です。同様に横倉沢下流部を横断するルートの存在も、明治後期まで幾度も中止された経緯や、只見側の明治道の位置が、明治初期までは工事の困難さから、幾度も計画が中止された経緯もあって、近世後期の古道の位置は確認できていません。
なお、横倉沢右岸から横倉沢の大滝付近で左岸に移り、支尾根を登り先ほどの反射板工事道路跡を横断し、同じ支尾根を標高1300m付近の、県境稜線上に至る道が一部確認されているので、この道が近世後期から明治初期までの可能性が考えられていて、今後の調査で確認していく予定です。
《長谷部》

六十里越えの明治の道筋

(1)福島県側
明治の道は、『会津田子倉の歴史 上巻』には明治初年に開削されたと記されています(P51)。
「岩代国若松県第一大区全図」(明治9年)や、明治初期の地籍図(作成年は不明であるが、同時に作られたと考えられる地籍帳は明治15年作と記されている)から推測すると、明治15年よりは新しいと考えられます。
明治末期測量で大正3年刊行の1/50000地形図「須原」には、六十里越え明治道が後年の地形図と同じ位置に記載されることから、明治後期には開通していたものと考えられます。
なお、田子倉館に所蔵されていた『会津田子倉の歴史 上巻』の末尾に、「明治29年年開削」と記載された一紙が挟まれていました。
書籍の持ち主であった皆川文弥氏(故人)は、只見町の要職を歴任され、山岳や地域史に詳しく、生前は日本山岳会の会員でも居られたことから角度の高い情報と考えています。
(2)新潟県側
新潟県側の明治道は『新潟県歴史の道調査報告書 八十里越、六十里越』(1995年3月)でも、桑原沢及び横倉沢流域については、正確なルートが確認できていませんでしたが、令和に入ってから「みちぐさ山の会」や「魚沼歴史・民俗の会の会津街道部会」の方々により(筆者も一部協力)ルートの確認ができました。
また、「歴史の道100選」の89会津街道六十里越調査として、「会津街道六十里越 2021年」に清塚正伸氏が纏められています。
《長谷部》

深掘りスポット

只見側の山ノ神

只見側の古道に残る石造の社、倒壊している社も含めて三基の社が確認出来、峠越えの安全を祈る所であったろう。
(山ノ神の位置:北緯37.18.50 東経139.14.50。巡視路から250m程で踏跡のみ)
《長谷部》

魚沼側の大白川にある山ノ神

明治初期までの古道に残る巨岩の山ノ神、明治後期なると破間川に沿うルートに改修され、1980年代に破間川ダムの工事に伴い、現行の中腹を通る道に改修されました。
なお、現在も県道のトンネル名に山の神の名前を残しています。
(山ノ神の位置:北緯37.2058東経139.9.34。林道より50mほど、階段等が整備されています)
《長谷部》

ミニ知識

吹峠

国土地理院の地形図では、吹峠は以前「裸山乗越」と表記されていたが、地元で吹峠と呼ばれていたことから平成16(2004)年に吹峠に変更された。
その名の通り、この付近はとても風が強く、全国有数の豪雪地帯。
ここを通る送電線の県境の鉄塔は、通常1基の鉄塔に電線3本を載せる所を風雪害防止の為、鉄塔1基に1線ずつにして風雪による接触事故を防いでいる。
それでもひどい時は吹雪で鉄塔が雪で覆われ、樹氷となってしまうことがある。
でかい鉄塔の巨大なモンスターである。
また、吹峠を通る送電線の鉄塔、ちょっと見慣れない烏帽子鉄塔というものだが、上には三角の屋根がついている。
豪雪地帯の為、三角屋根をつけて雪を落下させ積もらないようにしているのだ。
それほどの豪雪地帯で、六十里越えは12月から5月まで半年は雪に閉ざされる。
冬は大白川から吹峠まででもたっぷり1日かかる。
《皆川》

まつわる話

義経六十里越え伝説

源義経が奥州平泉に逃れる際に六十里を越えたという伝承が伝えられていて、『会津田子倉の歴史』にも記載されています。
旧入広瀬村にも義経に由来する伝承が伝えられています。
田子倉の大塚家や大白川新田に義経桜といった遺跡が残っています。
《長谷部》

六十里越えの悲しき伝承

六十里越え古道を田子倉から越後へ越えようと、乳飲み子を背負った母親が道の険しさから赤子を下ろし、田子倉の集落に助けを求めて下山したところ、村人に六十里には大鷲(イヌワシ)が出るので危険だと教えられ、村人と引き返すもすでに赤子の姿は消えていたとの哀れな伝承があります。
《長谷部》

ルート

夕沢林道〜六十里越えコースタイム

一本松沢沿い夕沢林道車止め
↓ 79分 5.7km
吹峠(裸山乗越)
↓ 17分 1.1㎞
送電鉄塔
↓ 76分 3.3km
鬼が面山・浅草岳登山道分岐
↓ 22分 1.4km
マイクロ反射板
↓ 18分 1.1㎞
六十里越分岐
↓ 21分 1.5㎞
六十里越トンネル入口(鬼が面山・浅草岳登山口)

雪割り街道駐車場〜アイヨシ橋跡コースタイム

(一般登山者が通行可能部分のみ。休憩時間なし)
国道252号雪割り街道駐車場
(駐車場40台程度)
↓10分150m ↑5分
六十里峠への明治道分岐
↓25分700m ↑25分
東北電力巡視路分岐
↓20分550m ↑30分
アイヨシ橋方面への巡視路分岐
↓3分80m ↑5分
アイヨシ橋脇の巡視路入口
↓15分750m ↑10分
国道252号田中角栄開通記念碑
↓10分750m ↑10分
国道252号雪割街道駐車場

白沢トンネル入口〜山ノ神付近コースタイム

(一般登山者が通行可能部分のみ休憩時間なし)
国道252号白沢トンネル只見沢側巡視路入口
↓15分350m ↑15分
コルの巡視路との十字路分岐
↓10分200m ↑5分
峠状の巡視路との分岐
↓15分350km ↑10分
尾根の送電搭下
↓25分400m ↑15分
山ノ神への古道と巡視路分岐

アクセス

◉夕沢林道
JR只見線大白川駅から県道385号(浅草山大白川停車場線)を浅草岳方向へ向かい、浅草大橋を渡り、右折して破間川ダム湖沿いに進み、一本松沢沿いの夕沢林道へと入る。浅草大橋から6.3kmほどで車止めのゲートがあり、5台ほど駐車できる。

◉田子倉無料休憩所
国道252号線沿いに設置。
駐車台数20台程度。
水洗トイレ等あり。
白沢トンネル入口駐車スペースへは大白川方面に約1.5km。
雪割り街道駐車場へは大白川方面に約5.5km。

◉白沢トンネル入口駐車スペース
国道252号線沿いに設置。
駐車可能台数30台程度、トイレなし。
国道わきなので施設はない。
田子倉無料休憩所からは大白川方面に約1.5km。
雪割り街道駐車場へは大白川方面に約4km。

◉雪割り街道駐車場
国道252号線沿いに設置。
駐車台数40台程度、トイレなし。
田子倉無料休憩所からは大白川方面に約5.5km。
JR只見線只見駅から約18km。
JR只見線大白川駅から約15.5km。
上信越道小出インターから約43km。
JR只見線只見駅前にタクシーあり送迎可能(台数が少ないので要予約、ジャンボタクシーあり)
只見川に0.8kmほど行った田中角栄記念碑付近と、古道の東側が開けた部分では、携帯通信可能。(不安定)

◉鬼が面岳登山口駐車場(六十里越トンネル西出口)
国道252号線沿いに設置。
駐車台数30台、トイレなし。公衆電話あり。
田子倉無料休憩所からは大白川方面に約7.5km。
雪割り街道駐車場から大白川側に約2km。
JR只見線只見駅から約20km、大白川駅から約13.5km。
上信越道小出インターから約41km。
6月後半のヒメサユリ開花期の休日は、ほぼ満車となるので注意が必要。

参考資料

《参考文献》
○『会津田子倉の歴史』田子倉の歴史出版会 1981年(昭和56年) 絶版
田子倉集落の歴史については詳しいが、田子倉地内の自然や六十里越えの記述には、明らかな誤認もあるので参考程度
○会津史学会編集『会津の峠 下』歴史春秋社 1975年10月(昭和50年) 絶版
(2006年にも新版が刊行されているが、著者変更に伴い内容は別物)
○『福島県文化財調査報告書 第171集(「歴史の道」調査報告書 沼田街道 六十里越 他)』福島県教育委員会 1986年3月(昭和61年)
○『新潟県歴史の道調査報告書 八十里越、六十里越』新潟県教育委員会 1995年3月(平成7年)
(行政が刊行したのものとしては、調査作業の内容なども読み取れて興味深く読み進められるが、記載内容については、異論等も新潟県教育委員会に寄せられているそうです)
○『入広瀬村百十五年の歩み』入広瀬村教育委員会 2004年10月(平成16年)
(六十里越えの古道については、独自の考察が見られ非常に興味深い。執筆者に生前聞き取りをしたが古文書からの考察とお聞きしたのみで、一次資料の確認は取れていない
○『新編会津風土記』46項 1809年(文化6年)
(代表的な会津の地誌 新潟県文書館佐渡越後ライブラリーで閲覧できるのが最も読みやすい)
https://opac.pref-lib.niigata.niigata.jp/darc/opac/switch-detail.do?idx=47

《古地図》
○「正保越後国絵図」近世初期の正保年間 2/4部分17/48 新発田市歴史図書館所蔵
越後の諸大名が協力して作成し献上品の写し、新潟県文書館佐渡越後ライブラリーで閲覧可能
https://opac.pref-lib.niigata.niigata.jp/darc/opac/switch-detail.do?page=2
○「岩城国若松県第一大区全図」(引用文献) 1876年(明治9年) 南会津山の会復刻版
六十里越え只見側の、近世から近代初期の道筋がわかる唯一無二の地図(縮尺は1/36000)。掲載画像は六十里越え部分のみで、カラーコピーから作成した。国境には六十里の記載があり、只見沢を離れると尾根沿いに道が確認できた。田子倉集落や朝艸山(浅草岳)も記されていて、尾根や谷の形状はあくまでも概略であるが、赤線の道の九十九折れ部の位置は驚くほど正確であった。しかし方位や角度にはズレが見られ、八十里越部分の解析では山中ではありえない直線部は、仮の道など本来のルートとは別な区間に記されていた。六十里越えでも山ノ神付近の直線部は、短縮路など従来の道型から外れたところと考えると、現地とも辻褄が合うことが調査から確認できた。

協力・担当者

《担当》
日本山岳会越後支部
皆川陽一
諏訪惠一
日本山岳会福島支部
長谷部忠夫
《協力者》
魚沼歴史・民俗の会の会津街道部会
(敬称略)

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