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93 京から近江への峠道 白鳥越・如意越
「白鳥越(しらとりごえ)」は、「志賀越」「山中越」を近世に今道越(いまみちこえ)というのに比し、古道越(ふるみちこえ)と呼ばれていた。他に「名古地越」「青山越」とも呼ばれる。
『拾遺都名所図会』では「上古の往還にして一乗寺の東にあり、之より叡山坂本穴太に出る」とある。
戦国時代以降は次第に利用されなくなり、正確なルートは比定されていないが、京都市左京区一乗寺曼殊院裏山から、てんこ山に至る尾根道の顕著なU字状道形を辿り、懸橋に至り尾根筋を一本杉に登り、府県境から白鳥山・壺阪山・青山をへて、京阪石坂線穴太に通じる尾根道のルートを想定している。
登山口・下山口とも交通の便が良く、京から近江へ、または逆ルートを歩くのも、時間に追われることもなく古道歩きが楽しめるが、懸橋以西の京都側は京都一周トレイルを辿るのが初心者向きである。
近江側から歩く場合は、京阪石坂線穴太(あのお)駅で下車する。
短い階段を上り県道47号を横断、「湖の美が丘」の案内表示がある正面の坂道を登る。
右手に「高穴穂神社御旅所」の制札がある。道路は左にカーブするが、フエンスに沿って直進する細い舗装路の坂道を100mほど登る。
「高穴穂神社御旅所」の制札には、「白鳥越」は縄文時代から人々が通行したとの記述がある。
最後は階段となり、住宅街の上部道路に出て道路を右折し、道なりに行くと道路は左にカーブするが、一つ目の分岐は見送り、その先100m程で植え込みに標示板が建つ分岐を右折する。
分岐道奥にある自治会館建物と小さな神社の手前、左手の擁壁の上の切り開きが白鳥越の登山口である。
切り開きを入ると、U字形に踏み固められた古道が、やや左上方に向かって伸びている。
落葉が降り積もり歩きづらいが、住宅街最上部の家屋を左眼下に、U形ときにV形に深く掘れ込んだ風情のある古道が続く。
古道が稜線近くまで行くと、路傍に関電送電線巡視路の「火の用心」の赤い看板がある。右後方を見ると標高260mピークの送電鉄塔が見える。
送電線巡視路分岐からの、古道の脇にある植林後の幼木保護の囲いが異様だ。
古道は直ぐに尾根の南裾を行くようになり、道幅も細くなるが行く手を遮る段差を越えると、林道に飛び出す。四ツ谷川から延びる林道の終点のようで、「コールポイント6の標識」と「通り抜け出来ません―比叡山」の看板がある。
ここも比叡山の管轄下のようだ。
古道は林道に吸収される形となり、林道は車の通行はほとんどないようで、かなり荒れている。500m程続く。
林道は青山の南裾を辿り、壺笠山に行き当たり三差路となる。
右方は四ツ谷川に降る。(写真:⑤-1)
林道三差路の左方に、壺笠山の山裾を右上方に登る白鳥山分岐がある。
古道は壺笠山北山腹を回り込み、白鳥山との鞍部で壺笠山に向かう道が左に分岐する。
壺笠山城は浅井朝倉方が比叡山直近に築いた山城で、壺笠山までは往復20分ほどで行ける。
壺笠山城跡には古い石垣も残っている。
上部は削平地で現地案内板が建っており、段状の曲輪に繋がっている。
壺笠山から白鳥山との鞍部に戻り、岩混じりの道を白鳥山に向かう。
白鳥山頂上には小さな標識が掛かっている。
白鳥山からは北方面の展望は良く、回峰道の起点である無動寺・大乗院・明王堂やケーブル山上駅等々、比叡の景観が木の間越に望まれる。
山頂から忠実に南に尾根道を下れば、白鳥山南麓の本来ルートと合流する。
白鳥山南麓の本来ルートであるトラバース道は荒れているので通過には注意
比叡山無動寺の浄利結界跡がある。
上部が損壊、柱だけが残る無動寺の石造鳥居跡である。
南の崇福寺跡側から登って来る東海自然歩道と合流する。
(注:現在、旧志賀越え崇福寺跡からの、東海自然歩道ルートは荒廃している)
夢見ヶ丘に続く穏やかな尾根道は歩きやすい。
近江側、夢見ヶ丘広場から先の旧白鳥越古道は、ドライブウェイ建設で消滅、現在は東海自然歩道経由で急坂を降り、四ツ谷川源流迄下降する。
四ツ谷川源流から、再度、府県境稜線まで登り返しが必要。滑り易い板橋から急坂の木段を登る。
急坂を登り切ったドライブウェイ手前のピークでは、東海自然歩道標識を直進する。
ドライブウェイ料金所横歩道からホテル門前に出て、門前のドライブウェイ横断歩道を渡る。
ドライブウェイ横の歩道を一本杉に向かう。
一本杉からNHK電波塔建屋に向かい、フェンス際を通り抜ける。
京都市内への視界が開け、比叡アルプスの上部尾根を降る。スリップに注意。
地理院地図で543mのピークを下った分岐は、掛橋(懸橋、石の鳥居)方面へ向かう。
直進すると「比叡アルプス」に入ってしまうので注意。
掛橋は格好の休憩場所である。
京都一周トレイル 「瓜生山・北白川」方面への林道を行き、直ぐに右上の送電鉄塔のある尾根へ登る。
古道址の窪みに沿って登り、途中の林道切通を渡ると、てんこ山(442.2m)である。
てんこ山から平坦な尾根を約200m西に向かう。
平坦な西尾根終端の分岐は右折するが、当初西北方向への踏跡は直ぐに南西方向に変る。
尾根直下のU字の掘り込み地形を外さないように、急な道を慎重に降る。
左下の谷には早く降りないように注意。
取り付きに小さな“鳥居”が建っている林道に出る。
曼殊院裏の壁沿いに進むとゲートがある。
ゲートは谷側をすり抜けて通り抜ける。
次の十字路は右に行けば「曼殊院」
直進は「武田薬品薬草園」、左に進み橋を渡り、山裾の道を南に向かえば一乗寺で白鳥越の終点である。
読図に不安な初心者には次のコースを推奨する。
懸橋(石の鳥居)【トレイル標識67】から京都一周トレイル道(林道)を【標識66】を経て、【標識65】からの山道を【標識64】に向かい、【標識64】からの林道を降れば、てんこ山から林道への降り口にある鳥居の場所に合流する。
【標識67~64】間は整備されたコースで親切な道標が完備されている。
京と近江を隔てる府県境の比叡山系は、北部の梶山、水井山、横高山、大比叡と南下し、皇子山からは如意ヶ岳から大文字山と長等山から続く長柄山へと別れる。
京から近江へ抜ける比叡山系の古道としては、北から「仰木越」「雲母越・唐櫃越」「無動寺道」「白鳥越」「志賀越」「山中越」「如意越」「小関越」があり、長柄山南麓の旧東海道の「逢坂越」に至る。
鞍馬から大原を経る仰木越は、元三大師堂への参詣道でもあり、大原から仰木雄琴へ抜ける通商路でもあったが、現在、近江側は倒木等で通れる状態ではなく、大原側は東海自然歩道ないし京都一周トレイル道を利用して元三大師参詣道としては利用できる。
「雲母(きらら)越・唐櫃(からひつ)越」「無動寺道」は現在も比叡山回峰行者の修行道であり、「山中越」「小関越」「逢坂越」は現役の県道・国道である。
「志賀越」は現状「山中越」にとって変わられ廃道に近く、「如意越」は近世に三井寺参詣道として利用されたが、現状は「白鳥越」と同様に古道のハイキング道として利用されている。
京都一乗寺から近江国坂本・穴太に通じる白鳥越は、街道として平安時代以前から使われていたようだ。
この道が今も多くの人々に語られる由縁は、浅井・朝倉陣営と対峙した織田信長との戦いが大きいのではないだろうか。
白鳥越の尾根道は戦国時代にかけて、足利義晴・義輝・織田信長・浅井長政・朝倉義景等、名だたる武将たちの思惑が行き来した道でもある。
永禄11年(1568年)上洛した織田信長だが、他の武将との思惑や不和が重なり、越前朝倉攻めが原因で信長陣営から浅井長政が離れ、朝倉と手を組み浅井・朝倉軍と信長軍との姉川の合戦となった。
浅井・朝倉軍は敗れたものの、大阪本願寺攻めに苦しむ信長を牽制する意味で、反信長勢力(一向宗・三好三人衆・甲斐武田)と組んで近江湖西に進出。
近江と京を結ぶ道筋に山城を構え対峙したのが白鳥越で、一乗寺山城や一本松西城跡・壺笠山城などには、現在も顕著な掘割址、段状に築かれた曲輪跡が見られ歩く者の想像を膨らませる。
壺笠山は中世期の山城遺跡として、浅井朝倉軍の信長牽制の拠点、信長覇権後には比叡山焼き討ちの拠点として明智光秀の名も聞かれることでもある。
また、壺笠山は東山麓から見ると秀麗なピラミッド型の尖峰である。
したがって古代の豪族の墳墓としては格好の対象とみられ、1987年に山頂部で偶然にも里の子供達によって、3世紀後半のものと判定される特殊器台型埴輪の破片が発見された。
古代初期国家成立期に琵琶湖西岸豪族の初期形古墳が壺笠山で発見されたのは、大和政権との関連性を図る上で歴史的な意義は大きいという。「頂上の案内板より」
白鳥越の付近あるいは古道に沿っていくつかの山城跡が点在しており、この道が京、近江の連絡路として、また戦略的に重要な位置にあったことが理解できる。
山城は、西から将軍山城、一乗寺山城、一本杉西城、壺笠山城と続く。
一乗寺山城、一本杉西城は曲輪跡が残り、堀切のほか土塁を多用した構造が見られるという。
壺笠山城は、織田信長と対峙した朝倉・浅井連合軍が拠った山城で白鳥越の要所である壺笠山山頂に築造されていた。
山頂には近江最古級の前方後円墳があって、城は古墳を改造して構築されたとのことで興味深い。
城の周りには、石材が散乱し、切岸の一部には石垣も残っている。
また、白鳥越の東の起点である穴太駅から徒歩10分の場所に「穴太野添古墳群(あのうのぞえこふんぐん)」があり、説明板が設置され、整備されている。
古墳時代後期の群集墳で152基の古墳が確認され、一部を発掘調査の結果、6世紀中頃~7世紀初めの築造とされている。
大津市教育委員会の説明看板によると、野添古墳は比叡山の東山麓にある古墳時代後期の群集墳の一つで、坂本から錦織にかけて東西1,000m南北150~200mの範囲に152基の古墳が確認されている。
調査した17基の円墳はそのほとんどが横穴式石室で、6世紀中ごろから7世紀始めに作られ、渡来系の人々が葬られていたと考えられている。
小高い丘の上で琵琶湖が見渡せる。
所在地:大津市坂本一丁目
京阪電鉄琵琶湖線穴太駅下車徒歩約10分(大型霊園墓地の中)
山中の集落を通るため「山中越」と称されるが、志賀峠を越えるため「志賀越」、京都白川に向かうため「白川越」、また今道越とも呼ばれる。
平安時代には多くの人が利用していたという古い峠で、『古今和歌集』や『日本後紀』にも名が上がっている。
京、大津、坂本、琵琶湖、西近江路などの主要な地や交通路を結ぶ最短路として、多くの人や物が通行した。
また、崇福寺などへの参詣道としても利用され、織田信長をはじめ、幾多の補修や整備が行われている。
百穴古墳群、崇福寺跡などの遺跡、志賀の大仏(おぼとけ)などを訪れたい。
大比叡の東麓には近江坂本・伊香谷・仰木・穴太の里が連なっている。
それらの地域の里の寺院や山城跡の曲輪、千日回峰道の道筋には、穴太衆の石組が多く残されている。
穴太衆は、安土桃山時代から江戸時代にかけて活躍した石工の集団である。
織田信長が安土城を築く際、石工として起用されたのが、琵琶湖の西岸にいた穴太の石塔師と馬淵の臼師だった。
しかし彼らに石垣作りの技術がなかったことから、瀬戸内海沿岸出身者の手を使い、もっぱら監督に回ってらしい。
安土城の石垣を施工したことで、織田信長や豊臣秀吉らの城郭をはじめ、多くの城の石垣が穴太衆の指揮のもとで作られるようになった。
穴太は垣師の育成所・供給源となり、江戸時初期まで続いた。
現在で言うと彼らは土木工学の最高峰であったと考えられる。
いまでも自然石を積み上げる野面積み(のずらづみ)のことを、穴太衆積みということもある。
なお、穴太衆のルーツは、古代に朝鮮半島からやってきた帰化人だという説もある。
京阪穴太駅
↓(約0.7km/40分)
鉄塔(ピーク260m)
↓(約1km/50分)
壺笠山出合
↓(約0.3km/20分)
壺笠山ピストン
↓(約0.25km/20分)
白鳥山
↓(約0.3km/20分)
鳥居跡
↓(約0.5km/10分)
東海自然歩道合流
↓(約0.80km/20分)
夢見ヶ丘
↓(約0.7km/30分)
ドライブウェイ・ゲート
↓(約0.5km/15分)
一本杉
↓(約1.5km/50分)
石の鳥居
↓(約0.5km/15分)
てんこ山
↓(約1.5km/1時間)
曼珠沙院裏の林道ゲート
↓(約1.5km/30分)
北白川一乗寺
合計6時間(休憩は含まない)
①JR京都駅(湖西線)→唐崎駅下車
②京都市営地下鉄→浜大津→京阪電鉄石坂線・穴太駅下車
③JR滋賀駅→京阪電鉄石坂線・穴太駅下車
中庄谷直『関西 山越の古道 中』ナカニシヤ出版、平成7年
木村至宏『近江の峠道』サンライズ出版、2007年
田淵実夫『石垣』ものと人間の文化史、法政大学出版局、1975年
《担当》
日本山岳会京都・滋賀支部
村上正
岡田茂久
《協力》
日本山岳会MCC
(敬称略)