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2 様似山道・猿留山道

保護中: 様似山道

鎖国期、ロシアが千島列島を南下し1778年(安永7年)に根室半島に到着しました。
蝦夷地周辺には外国船が海獣の狩猟や補給、交易を求めて来航するようになり、北方警備が重要であると江戸幕府が判断しました。
しかし蝦夷地を治めていた松前藩は陸路の整備や馬の飼育を行わず、海上交通に頼っていました。
そのため天候不順が続くと船の航行もままならず、交通が断絶する状況となっていました。
そこで江戸幕府は蝦夷地の探査を行い、1799年(寛政11年)、東蝦夷地を松前藩から召し上げ、幕府直轄地として函館から根室までの道路整備に乗り出しました。
シャマニ(様似)山道とサルル(猿留)山道は、1799年(寛政11年)に幕府が開削した蝦夷地最初の官設道路です。
伊能忠敬や松浦武四郎が通ったことでも知られています。
そして両山道とも2018年(平成30年)に国の史跡に、2024年(令和6年)に日高山脈襟裳十勝国立公園の歩道に指定されました。
様似山道は、日高山脈南西端の花の山「アポイ岳」の山稜が海に落ち込む断崖絶壁の難所(日高耶馬渓)を避けるべく、様似町冬島から幌満にかけてつくられた3里 (12km)の山道です。
1985年(昭和60年)に様似町文化財に指定されました。
アポイ岳ジオパークに含まれており、2008年(平成20年)に日本ジオパークに、2015年(平成27年)にはユネスコ世界ジオパークに認定されています。

古道を歩く

様似山道は東入口の様似町幌満から西入口の冬島まで約8kmで、所要時間は約6時間です。
様似町では、駐車場のある東入口から西入口にかけて歩くことを推奨しています。
東入口の標高5m、最高標高地点は185m。途中に沢や渡渉がありますが、水深は深くないので登山靴で問題ありません。
車の場合は幌満コミュニティセンターに駐車するといいでしょう。
幌満バス停を通ると、幌満橋たもとには、様似山道開削と維持に尽力された和助地蔵を祀るお堂と解説板が建っています。幌満橋を渡り、幌満トンネル東口手前を幌満川右岸へと階段を降ります。降りた地点に様似山道の解説板が設置されています。

幌満橋の下をくぐり、右岸を上流へと歩いていくと右岸斜面に注いでいるピラオンナイ(アイヌ語で崖の沢の意味)沢沿いに階段と様似山道東入口の看板があります。
階段が途切れた先は沢伝いに登っていきます。水量は多くありません。
ところどころに電信路に使っていた木の電柱や土台が残っています。

様似山道フットパスの標識どおりに進んでいくと山道の雰囲気の残る道となります。
分かりづらい箇所では史跡調査時の標識や赤布を確認しながら歩きましょう。

標高130m付近から幌満トンネル西口が河口となっている急峻なルランベツ(アイヌ語で坂にある川の意味)の沢を、ロープを伝いながらつづら折り、またはトラバースしながら沢底までおりていきます。
二股となっている部分を渡渉しますので、1本目の沢を渡渉したら、少し登って下り、2本目の沢を渡渉します。
そしてアポイ岳から伸びてくる尾根まで登り返します。

途中に様似山道の木柱があります。
この箇所が様似山道中、最も急峻で危険ですので、注意して歩行ください。
尾根に登り切ると日高耶馬溪展望地への分岐点に着きます。分岐点から展望地までは約100mです。
展望地からは、日高耶馬溪、襟裳岬へと続く海岸線、太平洋を一望できます。分岐点に戻り、アポイ岳から伸びる尾根をこの山道の最高地点(標高184m)まで登ります。途中にはミズナラの大木を見ることもできます。

最高地点からちょっと下ったところが、山中遺跡・原田宿跡です。
縄文時代の遺跡と明治時代の宿屋跡の双方が発掘調査された場所で、今でも磁器、陶器、電信線の碍子などが残存しているのを見ることができます。平坦地となっていますので休憩にも最適です。

原田宿跡から標高差10mほど下り、宿屋が飲料水として活用していたとされるコマオマナイ(アイヌ語で枯葉の多きところの意味)の沢を渡渉し、さらに50mほど下るとオホナィ(アイヌ語で深い川の意味)の沢を渡渉しますが、水量は多くありません。
60mほどつづら折りで登り返し、尾根道となります。

様似山道中間地点の標柱を過ぎるとアポイ岳の山頂を望むこともできます。
電信路の跡地を証明する電柱基礎と碍子が山道上に残存しています。

長い尾根道が終わるとつづら折りで下り、オイオイ(アイヌ語で川尻の集まるところの意味)の沢を渡渉して、耕作地跡とされている緩やかな傾斜地から急坂を下って車道に出ます。

コトニ(アイヌ語で低い台地の意味)の昆布干場で、コトニ昆布干場(東側)の看板が設置されています。
(道路の両側の砂利場は昆布干し場所なので立ち入らないでください)。
沿岸は良質な日高昆布の産地で、昆布干場の彼方に太平洋そして様似の町の砂嘴の先の陸繋島のエンルム岬(アイヌ語で尖った頭の意味)まで見渡せます。
時期によってはアポイ岳を背景にして昆布が干されている様子を見ることができます。

しばらく歩くとコトニ小休所跡です。様似山道が開削された1799年(寛政11年)から1861年(文久元年)頃まで開設されていた休憩所で、様似町郷土史研究会の発掘調査で炉の跡などが発見されています。
ここを過ぎると山道に戻ります。この地点にもコトニ昆布干場(西側)の看板と様似山道標識が設置されています。

途中、作業道から山道へは標識に従って進んでください。
崩壊地からは、テレケウシ(アイヌ語で飛び越すところの意味)の岩場の向こうに冬島の漁港、さらにはエンルム岬まで見渡すことができます。
ここから砂防工事に伴う水路沿いを歩き、様似山道中唯一の木橋で水路を渡り、植林された樹林帯を歩いていきます。

山道西入口へ降りていく手前の開けたところから眼下に様似山道西入口を見下ろすことができます。ここから国道までの区間が砂防ダム沿いに急傾斜道となっていますので、最後まで気を抜かずに歩きましょう。
山道を降り切ったところが様似山道西入口となります。
国道へ降りる階段があり、目の前は太平洋となります。冬島、押木橋の道路標識があります。

ここから西へ歩けば冬島バス停さらにはアポイ山荘、東へ国道を歩いていけば、出発地点の幌満コミュニティセンターへ戻ることもできます。

この古道を歩くにあたって

一部には標識がありますが十分ではありません。道に迷わないよう、地形図、コンパス、GPSなどを持って、地図を読みながら歩行してください。
山道の谷側が、ササなどが覆い斜面が見えにくく、足を踏み外すと滑り落ちる危険性のある場所もあります。
頭上から枯れ枝などが落ちてくる危険性があります。自己責任で歩行ください。
ヒグマ、マダニ、ツタウルシ、スズメバチ、吸血性昆虫などが生息していますので、予防対策をしっかりとお願いします。
とくに様似山道、猿留山道ともにヒグマの生息地のため、ヒグマスプレーを携行し、単独行動は控えるようにしてください。冬季の穴待たず熊の痕跡が見受けられ、また凍結個所もあるので冬季の入山は控えてください。
一般入山時期は、雪解け後の6月上旬から積雪前の10月上旬までとなります。

古道を知る

江戸幕府は1781年(安永10年)から蝦夷地や樺太を幕府の役人に調査させ、1798年(寛政10年)、180人からなる蝦夷地大探検隊を派遣します。
この一員であった幕府役人の近藤重蔵が、択捉島からの帰路、悪天候のため、現在の広尾町で数日間、足止めとなりました。
そこで重蔵は私財を通じて従者数人とアイヌ人68人とで協力して広尾町ルベシベツからビタタヌンケまでの3里(11.8km)の山道を開削しました。
これが後にルベシベツ山道と言われる蝦夷地初の山道です。
江戸幕府は、調査を元に寛政10年(1798年)年12月27日、信濃塩崎陣屋5000石松平家の第3代当主であった松平忠明 (信濃守)を蝦夷地取締御用掛に命じ、1799年(寛政11年)1月16日、松平忠明に加えて大河内政寿、三橋成方(右記2名は江戸在勤)、勘定奉行石川忠房(左近将監)、目付羽太正養(庄左衛門)にも同様の命令が出され、同日付で東蝦夷地(函館から知床岬までの太平洋側)を松前藩から召し上げ、幕府直轄地としました。さらに同年2月には寄合の村上常福(三郎右衛門)、西丸小姓組の遠山景晋(金四郎)、西丸書院番組の長坂高景(忠七郎)の3人が蝦夷地御用掛に追加されました。
そして松前から根室までの道路整備に乗り出しました。
この中に様似(シャマニ)山道と猿留(サルル)山道が含まれています。両山道の区間は、砂浜の波の引間、岩を乗り越え、カニのごとく岩を横に伝いながら進む難所でした。様似山道1里半(約7km)と猿留山道の7里半(約30km)の開削命令を1799年(寛政11年)、幕府が下しました。
蝦夷地取締御用掛の大河内政寿が様似に至り、中村小市郎や最上徳内が監督として1799年(寛政11年)5月18日に様似山道が、6月21日に猿留山道が着工され、両山道ともに年内に開通しています。
蝦夷地取締御用掛は、とにかく早く道路を開削することを目指しますが、最上徳内は後世に残るよう丁寧に仕事をしたいということで意見が対立し、松平忠明によって7月10日に罷免されています。
様似山道西側入口の様似と猿留山道西側入口の幌泉(えりも町本町)に会所、様似山道東側のホロマンベツ(幌満川河口)に止宿所、様似山道にはコトニ小休所とホロマンベツ小休所、猿留山道にはモセウシナイ小休所、アフツ小休所、カルシコタン小休所、さらに猿留(えりも町目黒)に番屋を設置しています。
会所には番人が置かれ、幕府役人や北方警備に当たる藩士の宿泊、人馬継立、早走、早馬、早船などの御用、外国船出没などの非常事態の報告を行う場所、止宿所は幕府役人や北方警備に当たる藩士の宿泊、小休所は昼間の休憩所、番屋は会所に準じた業務を行うところでした。
このように幕府直轄地となることで、蝦夷地の陸上交通網は飛躍的に改善されました。
山道開削から3年目の1802年(享和2年)に東蝦夷地の警備にあたっていた南部藩により様似山道が改修されました。
全国を測量した伊能忠敬が山道開通翌年の1800年(寛政12年)に、北海道の名付け親の松浦武四郎は1845年(弘化2年)から1858年(安政5年)にかけて3回、さらに榎本武揚は1854年(嘉永7年)と1872年(明治5年)に両山道を通過した記録が残っています。
1874年(明治7年)には植物学者の宮部金吾が様似山道でサマニカラマツを発見し、アポイ岳の高山植物群落調査へと繋がりました。
徳島藩筆頭家老であり、かつ淡路国洲本城主だった稲田邦植が1870年(明治3年)10月、新政府より北海道静内郡(現在の新ひだか町)等を賜り、開拓を命じられます。
この静内開拓は船山馨「お登勢」、池澤夏樹「静かな大地」、映画「北の零年」などに描かれています。
1873年(明治6年)、その家臣の原田安太郎は、様似山道の山中に、宿屋(原田宿)を開設し1885年(明治18年)まで営みました。
新政府となり、会所や止宿所、小休所が営まれなくなり、山道の治安が悪化したことがあり、宿屋開設を望む声が地域にあったと伝えられています。その声を受けて原田安太郎が宿屋を開設して往来する人々の世話や様似山道の倒木の撤去などを行っていました。
実際に1874年(明治7年)、原田安太郎の息子である嘉七が1人留守番をしていた夜に宿泊者に襲われ、大格闘の末に相手は逃げ、翌朝逃げていった宿泊者を捕まえるということもあったそうです。
1890年(明治23年)に様似山道下の沿岸道路が開削され、1927年(昭和2年)にトンネルや幌満川の橋が架けられるなど整備されることで、様似山道の道路交通としての価値は低下し、電信路や森林整備の作業道として1960年代ぐらいまでは活用されていましたが、その後は廃道となっていました。

深掘りスポット

幌満橋 和助地蔵

様似山道東入口手前の幌満橋のたもとに地蔵堂があります。
ここに奉られているのが、江戸時代後期に幌満に住んでいた「斉藤和助」さん。
岩手県から幌満に移り住んだ方で昆布採りを生業にしていたと伝わっています。
1799年(寛政11年)、様似山道を開削した際に尽力し、コトニ小休所を任されていたと伝わります。
1821年(文政4年)に蝦夷地が松前藩に返還された際に、和助が持っていた権利が松前藩から取り上げられ、様似から姿を消しましたが、1855年(安政2年)に蝦夷地が幕府直轄地に戻ると、和助は様似に戻ってきたと伝わります。
そして1862年(文久2年)に91歳の天寿をまっとうしたとき、その徳を偲んだ様似場所請負人・近江屋藤重郎らによって建立された白御影石の地蔵尊が「和助地蔵尊」です。
関係文書に地蔵尊建立者として幌泉場所請負人・福嶋屋善四郎と記載がありますが、建立年前後の福嶋屋は二代目杉浦嘉七(襲名1852年(嘉永7年)~1866年(慶応2年))=井原忠三郎(1811年(文化8年)~1873年(明治6年))の時代であり、記録は誤記と思われます。
和助地蔵尊にお参りして、通行の安全を祈願されてはいかがですか。なお、和助の孫で、幌満で生まれた義三郎は、後に函館大経(はこだてだいけい)と名乗った日本ジョッキー(騎手)の魁ともいえる人物です。

日高耶馬溪展望地

様似町冬島から幌満にかけて約6km続く断崖絶壁の海岸線です。波の浸食によってつくられた海食崖(かいしょくがい)で、大分県にある絶景の渓谷「耶馬渓」にちなんで名づけられました。この区間を避けるために作られたのが様似山道になります。現在の国道はほとんどの区間をトンネルで抜けていきます。様似山道の日高耶馬渓展望地からは海食崖の大きさを実感することができます。

原田宿 山中遺跡

様似町郷土史研究会や様似町教育委員会が発掘調査を行った場所で、600点以上の遺物が発掘されたと様似町教育委員会の報告書に記載されています。
縄文時代の埋蔵文化財包含地の上に明治時代の宿屋跡の遺構が残っています。
宿屋時代の陶器や陶磁器に加え、山道ぞいに設置されていた電信路の碍子も残存していますので、訪問時に探してみてはいかがでしょうか。

コトニ小休所跡

様似山道西入口から来ると最初の休憩所となります。
今でも様似の町が遠望できます。
1980年(昭和55年)に様似町郷土史研究会が発掘調査を行っており、この休憩所の炉の跡が確認されています。
様似郷土館には、1959年(昭和34年)にこの場所から採取された磁器や陶器も保管されています。
瀬戸美濃系や肥前系のお椀といった磁器、関西系の急須などの陶器が出土したと様似町教育委員会の報告書に記載されています。

ミニ知識

様似民族舞踊保存会

様似地方に伝承されているアイヌ古式舞踊を伝承・保存する目的で1983年(昭和58年)に設立されました。
1994年(平成6年)には国の重要無形民俗文化財保護団体にも指定されました。
その後もアイヌ古式舞踊をはじめとしたアイヌ文化の保存と伝承に務めており、近年は民族共生象徴空間ウポポイ(北海道白老町)で舞踊披露を定期的に行っています。

まつわる話

アぺオイヌプリ

様似山道はアポイ岳の山麓にありますが、アポイ岳命名の元となったアイヌの伝説があります。
昔、アポイ岳周辺には食料となるエゾシカが生息していませんでした。
そこで天の神様にお祈りすることとして、今のアポイ岳の山頂に祭壇を設けて、火を焚き、木幣(イナウ・・・アイヌの祭具のひとつ)を奉り、酒を献じてカムイノミ(神様に祈り)しました。
すると願いが叶いエゾシカが増えて人々の暮らしが豊かになりました。
そこで祭壇を作った山をアペ(アイヌ語で火の意味)、オイ(アイヌ語で多いの意味)、ヌプリ(アイヌ語で山の意味)と呼ぶようになったそうです。
そしてアイヌ岳のとなりにピンネシリ山があります。
この2山は夫婦山とも呼ばれ、アポイマチネシリ(アイヌ語でマチは妻)、アポイピンネシリ(アイヌ語でピンは夫)とも呼ばれていました。

ルート

幌満コミュニティセンター
↓ 20分 500m
山道東入口
↓ 40分 1000m
ビラオンナイ沢源頭
↓ 15分 800m
ルランベツ沢渡渉
↓ 30分 500m
日高耶馬渓展望地分岐
↓ 35分 1000m
山中遺跡 原田宿跡
↓ 35分 500m
オホナイ沢渡渉
↓ 45分 1000m
オイオイ沢渡渉
↓20分 400m
コトニ昆布干場
↓10分 500m
コトニ小休所跡
↓45分 1800m
山道西入口

アクセス

公共交通機関

ジェイ・アール北海道バス様似営業所(電話0146-36-3432)
日交ハイヤー株式会社 様似営業所(電話0146-36-2611)
西入口) ジェイ・アール北海道バス様似広尾線「冬島漁港」下車、徒歩15分
(東入口) ジェイ・アール北海道バス様似広尾線「幌満」下車、徒歩1分

マイカー

(西入口)駐車場所はありません。東入口を利用ください。
(東入口)国道336号線を様似町字幌満信号で曲がり、幌満コミュニティセンター前の駐車場に駐車してください。東入口までは徒歩5分。西入口下山後、「冬島漁港」バス停から「幌満」バス停までジェイ・アール北海道バスに乗車して幌満コミュニティセンター前の駐車場に戻ることができます。

参考資料

「日高のあゆみ 風雪に耐えて 日高支庁百年記念誌」北海道日高支庁発行(1973年)
「北海道 道路53話」 北海道新聞社編集・発行(1979年)
「北海道道路史Ⅰ行政・計画編」北海道道路調査会編集・発行(1990年)
「北海道道路史Ⅲ路線史編」北海道道路調査会編集・発行(1990年)
駒井千恵子・三浦忠雄「日高路やま花たび」北海道新聞社発行(1998年)
三浦宏編「道の歴史を訪ねて」(財)北海道道路管理技術センター発行(2003年)
長谷部一弘(函館市北方民族資料館学芸員)「福嶋屋杉浦嘉七四代のお話」道南ブロック博物館施設等連絡協議会ブログコラムリレー第42回(2015年6月4日付)
「新版 北海道の歴史 上 古代・中世・近世編」 北海道新聞社発行(2011年)
西條奈加「六つの村を越えて髭をなびかせる者」 PHP研究所発行(2022年)
アイヌ民族 歴史と現在―未来と共に生きるために」第15版 (公財)アイヌ民族文化財団(2024年)

様似郷土館・様似町郷土史研究会「町政施行30周年記念特集 様似山道物語」様似町郷土史研究会発行(1983年)
「アポイ岳ジオパークガイドブック」 様似町・アポイ岳ジオパーク推進協議会発行(2010年)
「様似山道-歴史の道活用整備事業報告書-」様似町教育委員会(2017年)
※文献の多くは、下記図書館でご覧いただけます。
様似町立様似図書館
http://www.samani.jp/kyouiku/library/index1.html

協力・担当者

《担当》
日本山岳会 北海道支部
高橋 健
《協力》
様似町役場 田村 裕之(令和6年度は産業課長)
様似町山岳会 中村 秀則
アポイ岳ファンクラブ 田中 正人
様似町教育委員会から「様似山道-歴史の道活用整備事業報告書-」様似町教育委員会(2017年)を寄贈いただき、日本山岳会北海道支部による現地踏査(2023年10月1日)の際に、様似町役場の田村裕之氏、様似町山岳会の中村秀則会長、アポイ岳ファンクラブの田中正人会長に、前日にご講義、また踏査にご同行、現地でご教示を賜りました。
(敬称略)

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